オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ1~16

これは近未来空想小説と言うべき作品である。©新野司郎
 

もう一つの車列


 
 分厚い壁のような警護の輪が赤絨毯を幾重にも取り囲んでいた。
 
 壁を作るのは極限まで鍛え上げたのが遠目にもはっきり分かる屈強な男達である。獲物を探す猛獣のような眼差しをサングラスが隠している。揃いのスーツの生地と仕立てはお世辞にも良いとは言えないようだ。が、あの国なら仕方ない。
 
「さあ御出でくださいませ」
 
 宮澤菜々子は心の中で独り呟くと五十倍の望遠レンズを装着したカメラのファインダーに再び眼を近付けた。身軽にする為、モニターを用意しなかったのを少し悔いた。ずっとこれを覗いているのは辛い。
 
 間もなく彼の国の最高指導者が降り立つ筈なのだが遅い。
 
 ここは日本と違う。物事がスムースに進まないのに慣れてはいるが、それにしても遅い。部屋は暖房の効き過ぎで暑かった。菜々子はペットボトルの蓋を開けた。
 
 駅を挟んで反対側のホテルの上階に陣取った岩岡宏もこれといった動きの無い状態が続くのに焦りを感じ始めていた。訪中情報は本当なのだろうか…、だが、特別列車は確かにそこにいる。
 
 駅と言っても北京駅はまさに広大である。日本の駅とはまるで比較にならない。
 
 岩岡の位置からは超望遠レンズでも精一杯な上、屋根が邪魔になって焦点のプラットホームを上手く捉えられない。隙間からわずかに動きがわかる程度だ。それでもここにカメラを据えたのは車列の出立を撮影するにはこちら側しかなかったからだ。
 
「あれー」
 
 岩岡のホテルは遠いので各階のエレベーターホールにまでは地元の公安は居ない。ロビーだけだ。遠慮なく声を上げた。
 
 岩岡は既に車列が通常よりかなり長くなりそうなのに気付いていた。御一行様を待ち受ける車両と前後を固める中国公安の車両の数が前回訪問時よりかなり多かったのだ。プラットホームや駅周辺を固める要員の数も印象では倍近くに膨れ上がっていた。
 
 しかし、良く見ると警護の輪がもう一つとぐろを巻いているのに気付いたのだ。やはり前回と違う。
 
「ダミーかな」
 
 アメリカ大統領専用機も機体が同一の物が二機存在する。大統領がどちらに乗っても、搭乗している方がエアフォース・ワンと呼ばれる。そして、大統領が搭乗した片方だけが飛ぶことは無い。もう片方は故障時の予備にもなるし、ダミーにもなるからである。ヘリコプターも同様で大統領が乗る方がマリーン・ワンと呼ばれる。岩岡はそう理解していた。
 
 この二つの警護の輪も、そして、車列も片方はダミーに違いない。そう思った。が、いずれにせよどちらも撮影する必要があると身構えた。
 
 暫くして警護陣の緊張が少し高まった様子に菜々子は気付いた。袖に仕込んであるに違いないマイクに向かって複数の男達が囁き始めた。それらしい動きが見て取れたのである。明白には判別できないが表情も一層厳しくなっているに違いない。喉が鳴った。
 
「来る…」
 
 そう思った菜々子はカメラの録画スイッチを押し、画角を少しワイドに引き、画面に列車と赤絨毯を収めて待ち構えた。
 
 岩岡も同様の気配に気付き、スイッチを入れた。
 
 間もなく警護の輪が移動し始めた。岩岡側からは全体像や足元など見えない。中心に帽子を被り、分厚いコートを着た中背の御仁が居るようにも思えたが、はっきりしない。後で画像を拡大しても明確にはならない可能性が高かった。
 
 大仰な出迎えは無かった。菜々子の位置からは死角に入っている筈だ。
 
 数分後、中国公安のバイクや車両に先導されて車列が構内をゆっくりと出ていくのが撮れた。やや短い。過半の車両はまだ残っている。乗り込みの様子は見えなかった。
 
「やっぱりダミーか…」
 
 菜々子には敢えて連絡しなかった。傍受されるに決まっているからだ。
 
 暫くして一度高まった緊張が解けたのを菜々子は訝った。もう一つの輪と幾分短い車両の動きを知る由もない彼女に理由は判然としない。
 
 およそ三十分後、再び警護陣に緊張が走った。少し前とはその度合いはだいぶ違う。
 
 やがて深緑の特別列車のドアが開き、赤絨毯に一人の人物が降り立った。表情までは映らなかったが、背格好と余裕の立ち居振る舞いから将軍様に違いないと菜々子は確信した。
 
 岩岡も二つ目の車列の出立を撮影した。残るほとんどの車両が動き、残ったのは地元公安のパトカー二台だけだった。
 
 間もなく現場の警備も解かれたのが分かった。岩岡は機材を片付け、ホテルを後にした。支払いは済ませてある。
 
 一行が立ち去ったのを受け、菜々子は撮影したばかりの画像をその場で手早く確認し、荷物を纏めると持参したサンドイッチを頬張り始めた。腹が鳴っていた。現場に近過ぎる菜々子は念の為もう少し間を置いて撤収する。
 
 映像のコピーを現場で作ることは出来なかった。デジタル機材は当時まだ業界にもそんなに普及していなかったのだ。カメラの記録媒体を新しいものに取り換え、肝心な方はしっかり隠し持った。菜々子の存在に中国公安当局が気付いていても不思議ではない。万が一にも没収されたら苦労は水の泡になる。新しい媒体は没収用のダミーである。そして、形ばかりだが、適当に映像を収録した。本社への報告は支局に戻ってからだ。
 
 北朝鮮の最高指導者・金正日総書記の訪中確認というニュースは間もなく世界を駆け巡った。宮澤菜々子と岩岡宏が撮影した映像も自局の昼ニュースのトップを飾った。
 
 総書記訪中の可能性は既に広く知られていた。中朝国境の鉄道沿線の警備強化の情報や衛星画像で特別列車の動きを逐一追っていたであろうアメリカからの未確認報道があったからだ。それが確認されたのである。飛行機嫌いで知られる総書記の移動は常に列車か車であった。
 
 岩岡がダミーと察した動きは本社には報告されなかった。他社も、気付かなかった為もあるのだろうが、報じなかった。
 
 今でも明白な証拠は無い。しかし、もう一つの輪は単なるダミーではなかった。
 
 

20XX年一月オーフ・ザ・レコード


 
 時を現在に戻す。
 
 その名を冠した小さなバーが東京のお洒落とされる小さな繁華街、麻布十番の外れにある。目立つ看板は無く、建物も普通の民家とさほど変わらず、重厚なドアの横に張り付けられた小さな真鍮板の英文字でそうと知れるだけである。
 
 玄関の灯りを受けて控え目に反射する表札にはやはり英語でメンバーズ・オンリーとも書かれていて、見知らぬ客がふらりと入る気になるような佇まいではない。実際、インターホンで客の名前と姿を確認しなければドアは開かない。
 
 店の名前を英語表記だけにしたのは、店主によれば気取ったわけではないらしい。カタカナ表記をして日本人が声を出して読み上げると原語の音とは似て非なるものになる。結果「違う名前の店になっちまう」からだという。
 
 世間はまさにそれこそ気取っている以外の何物でもないと思う筈だが、店主はそんなことは意に介さない。
 
 意味は日本語のオフレコである。そこで小耳に挟んだ話は記事にしても良いが、誰が何処で喋ったのか明らかにしてはならないという意味だ。
 
 アメリカの首都・ワシントンに行けば同じ名前の店がホワイト・ハウスの近くにある。 麻布十番のこの店がそれを模したのは想像に難くない。
 
 店内はやや薄暗く、六人掛けの樫のカウンターと四人掛けのテーブル席が二つ、奥に小さな個室が一つある。個室のドアにはディープ・バックグラウンドとこれまた英語の筆記体で小さく書かれていた。
 
 こちらは、そこで見聞きした話は一切口外無用、直接の引用は罷りならぬという意味である。そもそも満席になることなど滅多にない店なのだが、この個室に客が入る日は更に少ない。
 
 宮澤菜々子はこの店の常連客である。
 
 北京支局勤務から時を経てメトロポリタン放送の国際報道部長に就任した菜々子は、六代前の国際報道部長で、自分が北京特派員の頃の上司であった店主に頻繁に相談にやって来る。既に七十を超え少し耳の遠くなった店主は愚痴をこぼす相手としても申し分のない存在らしい。
 
「ルークさん、今日のお料理は何ですか」
 
 ルークは店主の渾名である。こちらは本当に気取ったわけではない。部下達の陰口がそのまま渾名になったのだ。スカイウォーカーを模したのではない。
 
「シェパーズ・パイとサラダがあるよ」
「うわ、奥様のシェパーズ・パイ、ほんと美味しいですよね。お願いします」
「はいよ」
 
 店に食べ物のメニューはない。日替わりで店主の奥方が作るメイン一品とサラダなどの副菜がもう一品あるだけだ。だが、料理研究家が生み出す味は天下一品、これを目当てに常連客は来ると言っても過言ではない。
 
 店主は適宜温め、盛り付け、片付けるだけだ。かつての武闘派の姿を記憶する客にとってはその方が安心できるらしい。口にこそ出さないが、内心では店主が作った妙な物を食わされたら敵わないと誰もが思っているのだ。
 
「やっぱり最高ですね。これどうやって作るんですか?」
 
 ドライ・シェリーを飲みながら待っていた料理を口にすると菜々子はいつもと同じように尋ねた。
 
「ラムの挽肉とみじん切りにした野菜やマッシュルームを炒めて味付けして、耐熱皿に入れ、マッシュド・ポテトで覆ってオーブンで焼く。それだけさ」
「でも、どうしたらこんなに深くて素晴らしい味を出せるんですか」
「そこまでは分からないな。聞いても複雑過ぎて覚えられんのさ。」
 
 この返答もいつもと同じである。実際には奥方にきちんと訊いたかどうかも怪しい。
 
 しかし、菜々子が直接尋ねようにも、奥方が客前に出てくることはない。酒と旨いものをこよなく愛する料理研究家は夜には自ら飲み歩くか上階の自宅で静かに飲んでいる。毎日ではないが孫の世話もしているらしい。それに、出て来ても店の酒には決して手を付けさせないと店主は言う。潰れない飲み屋の鉄則である。
 
 一方、店主は現役引退後、酒を飲まない。今や完全な甘党である。小さなバーの経営には持って来いと言える御仁だった。
 
「今日は一人かい」
 
 店主は菜々子に尋ねた。
 
「もうすぐ桃姐さんが来るはずです」
「そうか、三人揃うのは随分久しぶりだな」
 
 そう言って店主は向かいのテーブル席の上にあるテレビ・モニターに目を移した。BBCニュースの国際放送がそのまま流れている。
 
 その頃、木原桃子は店に向かう車中で、直前の情報源との会話を静かに反芻していた。
 
「またクラプトン?それもわざわざヨーロッパへ?そして、何故今更?放っておいても構わない筈なのに…」
 
 情報源が所属する組織・韓国の国家情報院は略して国情と呼ばれるのだが、その国情が彼の動静を急にまた気にし始めた特別な理由が何なのか桃子には見当がつかない。彼は国や党の運営には全く関わっていない。幾ら考えても分からない。

「やはりルーク先輩と菜々子に相談しよう。あの二人なら漏洩の心配もないし」
 
 そう心に決めた。
 
 桃子は店主の三代後の国際取材部長で、やはりかつて店主の部下であった。定年退職後の今は半島問題専門家としてシンク・タンクに籍を置きながらメトロポリタン放送の客員解説委員として活躍している。
 
 桃子はオーフ・ザ・レコードの呼び鈴を鳴らした。
 

クラプトン・マニア


 
 少し説明しておくのが良いだろう。
 
 スロー・ハンドの異名を持つギターの神様、エリック・クラプトンの熱烈なファンは世界に多い。そして、意外なことに、西側文化の流入を厳しく制限している平壌にも一人居た。
 
 故金正日総書記の次男・正哲である。
 
 現地読みではジョンチョル。十代の頃、スイスの国際校に長く留学していた彼は数か国語を操り、ギターを趣味にしていた。
 
 正哲はマニアと言ってもよい程の熱烈なクラプトン・ファンで、留学を終え帰国した後も留学時の偽名であったカン・チョル名義のパスポートを使って、しばしばクラプトンのコンサート会場に現れた。
 
 お付きはいつも平服姿の数人程度、アメリカのブッシュ大統領に悪の枢軸と名指しされた北朝鮮王朝の御曹司とは到底思えないお忍び姿であった。
 
 その姿をドイツのコンサート会場で捉え、世界で初めて報じたのが桃子率いる取材チームだった。
 
 当時、父・正日総書記は存命していたが、その後継が取り沙汰され始めていたこともあり、桃子達の報道は世界の注目を集めた。
 
 北朝鮮関係者はもとより北朝鮮問題に関心の高い各国の外交・情報当局者達、それにライバル社の記者達がこぞって桃子のチームがどのようにして正哲の動静情報を得たのか知りたがった。事後に知ったのでは撮影はできない。異例とも言えるスクープだった。監視カメラの映像が直ぐに出回るような時代ではなかったのだ。
 
 その後も正哲の姿はシンガポールやイギリスのコンサート会場付近などでも捉えられていた。
 
 

破片


 
 オーフ・ザ・レコードの店内を見渡すと、所々に不思議な置物や飾りがあるが、それ程雑然とした感はない。それらは定期的に入れ替わるらしい。
 
 カウンター正面の酒瓶の棚のほぼ真ん中に、この日はコンクリートの破片がごろりと置かれていた。平面部分にペンキで絵が描かれていたと思しき跡がはっきり残っていて、壁画か落書きの一部と推測できる。拳より一回り程大きい。
 
 馴染み客には周知のようだが、訊けば店主は決まってこう応える。
 
「ベルリンの壁の破片だよ。崩壊の三日後に現地で取材中に手に入れたのさ。正真正銘の本物だよ」と。
 
 学校の歴史の教科書でしか知る由もない若い客には全くピンと来ないかもしれないが、東西冷戦を知る昭和世代にとってベルリンの壁の崩壊は時代の変わり目に起きた一大事であった。
 
 ひとしきり飲食を終えると桃子が切り出した。他の客は居ない。
 
「ちょっと妙な動きがあるみたいなんです」
 
 二人は桃子のもたらす半島情報が時に絶品であることを知っている。耳を傾けた。
 
「チョルさんがまたヨーロッパのコンサートに出掛けるらしいんです」
 
 店主がすぐに訊き返した。
 
「チョル?パク・チョル名義のパスポートを誰かがまた使って動き回っているということかい?」
 
 パク・チョルはマレーシアの空港で暗殺された故金正日総書記の長男・正男、現地読みでジョンナムが使っていた偽名である。店主は、今は亡命し何処かに匿われている筈の正男の息子・ハンソルが父親と同じ偽名で水面下の活動を始めたのかと早飲み込みをしたのである。悪い癖だ。
 
「姐さん、エリック・クラプトンのコンサートですか?」
 
 菜々子が続けた。店主にはコンサートの一言が聞き取れなかったらしい。
 
「そう、クラプトンのコンサート」
 
 桃子が応えた。
 
 暫く北朝鮮関連取材から離れていた菜々子も引退して久しい店主も若き正哲の顔を直ちに思い浮かべた。半島系としては比較的珍しく大きな目が丸く見開き、鼻筋の通ったなかなかのハンサムだった。あれから何年経ったのか、今の彼の姿はどのように変わったのか、改めて興味はそそられる。
 
「そう言えば、クラプトンが最後のツアーを開始するというニュースを何処かで見たかな。彼はもう八十代じゃなかったか?」
 
同じファンとしてクラプトンが元気なのは何よりと店主は思っていた。
 
「そして、正哲はどうしても観たい、我慢できない、誰も止められないって訳か…」
 
 店主はこう続けた。
 
 北朝鮮の現在の最高指導者は故金正日総書記の三男・正恩総書記で正哲はその兄に当たる。暗殺された長男・正男とは異なり正哲と正恩は母親も同じで小さい頃は一緒に育てられた筈である。
 
 全員成人となった今、正哲だけが国や党の運営には一切関わっていないのだが、兄として弟の相談相手になっている可能性は十分にある。そして、正恩総書記も北朝鮮の事実上のナンバーツーに当たる妹の与正も、兄のコンサート行を止められなくとも不思議ではない。
 
「国情院もCIAも正哲さんの動静には関心を持っていない訳ではないでしょうけれど、今更、彼が後継者になる可能性はゼロでしょう?そうである以上、国情などもあくまでも王朝の動静を探る関連情報の一つとして参考にしている程度だと思うんです」
 
「普通そうだろうね」
 
「でも、今回は気合の入れ方がちょっと違うんです」と桃子が訝った。
 
「どんなところが違うんですか?」
 
 菜々子が再び尋ねた。
 
「少しでも関連情報があれば、仮に塵みたいなものでも全て搔き集めようとしているかのような熱量を感じるの。私に話が流れて来たのも関連情報を網羅しようとする意欲の表れ、その一環ではないかなと思えるのよ」
 
「うーむ…、桃子の勘はきっと当たりなんだろうが、その心はさっぱり分からんな…」
 
 店主が応じた。
 
「そうだ。正哲の比較的新しい写真が、と言っても随分前のだが、あったはずだ。探してみるよ」
 
 そう言うと店主は奥に消えていった。
 
 店の窓は、感染症対策の為、全て少しずつ開けられている。冷気が入り込んで来て、暖房を効かせた店内も足元は冷える。
 
 

王府井大街

 
 
 その頃、北京一の目抜き通り、王府井大街近くの食堂にメトロポリタン放送北京支局長・岩岡宏はいた。周辺は有名店や国際チェーン店ばかりだが、此処は一昔前の風情を残す比較的良心的な店だ。
 
 岩岡は古い友人と会食していた。岩岡が操る北京語は日本人離れしていて生粋の中国人とほぼ変わりない。
 
「最近、風通しがますます悪くなって大変だぜ。経済は芳しくない、アメリカとは衝突寸前まで行くし、お前の国が時々うらやましくなるくらいだ」
 
 こうボヤいた友人が力なく笑った。
 
 習近平長期政権の締め付けに、直近の子分達以外は相当数が内心うんざりしているのは半ば公然の秘密なのだが、それでもこんな発言が誰かに聞かれたら只では済まない。
 
 しかし、大都会・北京では食堂の片隅でぼそぼそと小さな声で話し込んでいても怪しまれることはまずない。コロナ禍は過ぎ去り、再び大声でわーわー騒ぐのが普通になっていて、既に尾行でもされていたら別だが、聞き咎められることは無いからだ。
 
「いつも言っているだろ。日本では皇居の前で天皇制反対と叫んでも、白い目で見られるだけ。連行されたり職場で飛ばされることは無いってさ。お前の大親分も大変だよな。アメリカはもとよりヨーロッパ、日本ともうまくいっていないし、一体どこに行くつもりなんだろうな」
 
 白酒をかなり飲んだ友人は応じた。
 
「臥薪嘗胆さ」
 
「大親分は変わらず元気なんだろ?」
 
「あー、そう見える。が、本当のところはな…」
 
「もしかして。本人と主治医くらいしか知らないんじゃないか?」
 
「いやー分からんよ」
 
 友人はまたも力なく笑った。
 
 岩岡の口が極めて固く、公安による盗聴や行動確認にも非常に上手く対処するのを友人は承知していた。そうでなければ、たとえどんなに泥酔してもこんな程度でさえ口を滑らすことはない。
 
「ところでさ、最近は綱紀粛正と景気、対米関係ばかり話していたが、北朝鮮で何か聞いていないか?随分長いこと音無しの構えで気味が悪いんだ」
 
「信じられないことにあそこはまだコロナ絡みの締め付けを続けているからな。コロナはもう口実に過ぎないとしか思えないが、八方塞がりは変わらない。時折、ミサイルをぶっ放すのがせいぜいさ」
 
 パンデミックで世界中に甚大な被害が出ていた頃、北朝鮮は国境を閉鎖し、ひたすら殻に閉じこもった。その結果、新型コロナに他の国のように直ぐに席捲されることはなかった。しかし、国際社会の各種支援の申し出に対し長い間突っ張り続けた結果,ワクチン接種も遅れ集団免疫の獲得には至っていない可能性があった。
 
 ウイルスは毒性こそ相当弱まっていたものの、感染力が更に強い変異株が数年ごとに出現していて、パンデミック時のような大きな被害こそ出なくなっていたが、先進国でも変異とワクチン開発のいたちごっこになっていた。
 
 これに全く追いつかない北朝鮮やアフガニスタンなど最貧国では今でもクラスターが断続的に発生し続けていても不思議では無かった。正確なデータなど望むべくもなかったが、医療体制も脆弱なそうした国では高齢者を中心に死者も絶えないと推定する専門家も少なくなかった。
 
「米寄越せ、油寄越せは?」
 
「それはいつもの事さ。でも、待てよ。言われてみれば、この間、中連部の知り合いの北朝鮮担当が泡食って走り回っていたな。どうしたと訊いたら妙な気配を感じるという報告が上がってきたと小声で口走りながら、足早に去っていったよ。中身は分からないけれどな」
 
「それは面白そうだな。もう少し分かったら教えてくれないか?」
 
「あー、幾ら同盟国とは言え所詮我儘な隣の小国の内部事情だからな。そんな話ならさほど機密扱いされないさ。ちょい探ってみるよ。体制の存続にでも関わるなら別だが、ちったぁ分かるだろうからさ」
 
「よろしく頼むよ」
 
 スパイ取り締まり法が強化されたことで、中国ではこの程度の会話でも明るみに出れば摘発の対象になる恐れは否定出来なかった。
 
 しかし、重箱の隅を突く様な締め付けは自分達の首をも絞めることに習近平政権も漸く気付き始めていた。ありとあらゆるレベルでの海外とのチャンネルがどんどん細くなって孤立が深まり、自分達が欲しい情報も入らなくなってきたからだ。公開情報に頼ったり、サイバー情報を違法な手段で入手するだけでは不十分で、結果、西側に後れをとるのだ。
 
 中連部とは中国共産党対外連絡部のことで、朝鮮労働党との折衝窓口はここに置かれている。岩岡は興味津々だったのだが、騒がず追加情報を待つことにした。急いては事を仕損じる。
 
 

悪童


 
 二十世紀の終わり頃、マイケル・ジョーダンの全盛期にシカゴ・ブルズがNBAで三連覇した時、チーム・メイトにリバウンドの名手として活躍したデニス・ロッドマンという選手がいた。彼はその風貌と言動から悪童と呼ばれ、それ故かも知れなかったが、バスケットボール好きの金正恩総書記はロッドマンのファンで親交があった。総書記の招待を受けて何度も訪朝したことがある。
 
「あったぞ」
 
 店主が奥で探していたのはそのロッドマンが訪朝した際の宴席の写真である。朝鮮中央通信が配信したものだ。店主は写真をスマホに転送すると店に戻った。
 
 相変わらず他の客のいないカウンターでは菜々子と桃子が何やら話し込んでいた。桃子の半島関係人脈と同じく、菜々子の北京人脈とワシントン人脈も侮れない。桃子のもたらした正哲情報に関わる意見交換をしていた。
 
「姐さんのところまでそんな投げ掛けがあったのだから、ワシントンにも同じようなのがあっても不思議ではないですね。北京にはまだかもしれませんけれど。誰に当たれば良いのかな…」
 
 イギリス人の血を四分の一引く菜々子は色白で、目はぱっちり、誰が見ても愛くるしい顔立ちをしている。それとは裏腹にスーツの上から見てもはっきりわかる豊満な肉体は四十代に入った今も色気たっぷりだ。
 
 特に北京特派員時代は取材先に大人気で、中国政府の官僚達はなんだかんだ理由をかこつけては菜々子と飲みたがった。菜々子は酒に大変強く、乱れることなど全く無いのがオジサン達の唯一の不満だったかも知れない。
 
 アルコール度数の強烈な白酒を菜々子にいくら飲ませても徒労に終わった。自分達が先に潰れたのだ。
 
 外国人のカワイ子ちゃんに英語かフランス語で話しかけられるとたちまち相好を崩した金正男も菜々子ファンになった一人だった。
 
「これを見てくれ。平壌での宴会の写真だけれど、正哲も写っているだろ」
 
 店主が持ち出してきた写真には、黒い人民服を着た正哲が最前列に笑顔で収まっている。かなり恰幅は良くなっていて、十代の頃の細身の姿とは別人のようだったが、面影は間違いなく正哲だった。
 
「似ているだろ?」
 
 奥の席でロッドマンと並んで写る、やはり満面の笑みの弟・正恩総書記を店主は指差した。確かに似ている。髪型も同じ、黒い人民服も同じ、円形にかなり近い体形もほぼ同じで、良く見ると少し違うのは目の形ぐらいか。遠目なら区別がつかないかもしれない。
 
「きゃー、そっくり」
 
 この写真なら間違いなく記憶にある筈の桃子も改めて感嘆した。
 
「ホント、良く似ていますね」
 
 菜々子も応じた。
 
 ダイエットの成果で金正恩総書記は今ではかなり引き締まっているのだが、中肉中背と表現されるような身体つきにまでは絞っていない。正哲も同様なら他人は今も見間違える可能性がある。
 
「まさかそんなことはしないだろうが、もしもそっくりな髪型・服装のまま出歩いたら大騒ぎになるぞ」
 
 店主は断じた。
 
「確かに…」
 
 菜々子と桃子が、写真を改めて見つめながら、ほぼ同時に同じ言葉を発した。
 
「ルークさん、もう一杯お願いします。今度は生ビールが良いです」
 
 菜々子がオーダーすると桃子が続いた。
 
「私は芋焼酎の水割りをお願いします。濃いめで」
 
 桃子も酒はかなり強い。酔うと少し乱れてくるが、アルコールは大好きなのだ。
 
「オーケー」
 
 他の客はもうやって来ないだろう。
 
 六杯目の酒にゆっくり口を付けながら菜々子は考えた。
 
 桃子には引き続き半島筋で情報収集を続けてもらい、ルークにはアメリカ政府筋と日本政府筋への取材で助けてもらう。ルークの人脈も今でもかなりのものなのだ。
 
 二人にそう依頼し快諾を得ると、菜々子は最後の生ビールを飲み終え、OGの桃子の分もまとめて勘定した。それにしても割安だった。店の経営は大丈夫なのかと心配になる。
 
 帰路、菜々子は北京の岩岡とソウルの棚橋に連絡を入れた。それぞれ、じきに折り返してくるはずだ。
 

羽田空港


 
 翌昼過ぎ、昼食を摂る旅行客が大方引けた頃、菜々子の姿は空港内の大きな寿司屋のボックス席にあった。共に寿司を摘まんでいるのはメトロポリタン放送ソウル支局長の棚橋聡である。
 
 入社後、経済部系の取材に長く当たった棚橋は極めて真面目で勉強熱心、全く縁のなかったソウルにも瞬く間に馴染んだ。
 
 もともと日本語と文法や語源が似通っている韓国語を日本人が学ぶのは他の言語に比べ楽なのだが、棚橋は、日常会話レベルではあったが、これをいとも簡単にマスターした。地元支局員の信頼もすぐに勝ち得たようで、彼が上げてくる原稿は一級品だった。情報の取り扱いも心得たものだ。
 
「こんなの初めてですよ。いきなり呼び出されてとんぼ返りで日本の寿司をご馳走になるなんて。どんなご用件ですか?」
 
 棚橋は率直に尋ねた。
 
 丁度中トロの握りを口に入れた菜々子はゆっくり咀嚼しながら思い起こした。
 
 自分も何度かこうしてルークに北京から呼び出され寿司を馳走になったものだ。そのうち二度程は当時デスクだった桃子も同席していた。目的は金正日総書記の長男・金正男の動静に関する報告を上げ、更なる指示を受ける為だった。
 
 遠くを見つめるような菜々子の眼差しに痺れを切らした棚橋は再度尋ねた。単なる世間話でこんな呼び出しはあり得ない。それに帰りの便の都合もある。
 
「どうしたんです、部長?」
 
「あ、ごめんなさい」
 
 菜々子は我に返った。
 
「あのね」
 
 箸を置いて続けた。
 
「妙な情報があるのよ。正哲を知っているでしょう?」
 
 棚橋は軽く頷いた。勿論お目に掛ったことなどないが、半島を取材する者でその名を知らぬなどもぐりだ。
 
「エリック・クラプトンのファンなのも知っていると思うけど、今度、またコンサートを観に行くらしいのよ」
 
 世代の異なる棚橋はクラプトンのことは名前しか知らなかったが、ドイツ発の桃子チームのスクープ映像のことはソウル支局の後輩として当然知っていた。しかし、ピンとはこなかった。
 
 棚橋は再び率直に尋ねた。わざわざ羽田に呼び出されるような用件とは思えない。
 
「それが大きな話になるんですか?」
 
「そうなのよ。そこが分らないの。でも、国情は結構必死らしいの」
 
 菜々子はそう言って小さな溜息をついた。
 
「なるほど…、つまり必死の理由を探れということですね」
 
 棚橋は思い浮かべた。菜々子がどこまで知っているのか詳らかではないのだが、桃子以来のソウル支局長だけが引き継ぐ、現在休止中の昔のチャンネルがある。それを突っつくしかないのかな、と…。他に当ては無いのだ。
 
「だとすれば、ちょっと怖いチャンネルに当たることになると思いますが、それで良いのですか?面倒なことになるかもしれませんが…」
 
「まだ海の物とも山の物ともわからない段階で危うい事になるのは避けたいんだけれど…上手くやれる?」
 
 菜々子もその筋の存在は知っていた。前夜、ルークが写真を探している間に桃子から聞かされたのだ。
 
「それはやってみなければ分かりません。それでも良いですか?」
 
 棚橋は付け足した。
 
「正直、結構びびるんですけど」
 
「そう…でも、ちょっと当たってみてくれる?他に方法があれば別だけど」
 
 菜々子はもとよりそのつもりで棚橋を呼び出したのである。
 
「報告を宜しくね」
 
 部下の棚橋にはもはや否も応もない。
 
「他に誰が知っているのですか?」
 
「今のところ社内では私だけ。他には喋っちゃ駄目よ。特に社内にはね」
 
菜々子は釘を刺した。

「戸山も駄目ですか?」
 
 棚橋は部下の支局員の名を挙げた。
 
「彼は少し緩いところがあるからまだ早いわね」 
 
 不安の色を隠せない棚橋は道連れを欲しがった。が、菜々子はにべもなかった。この手の取材の存在を知る人間の数は必要最少限に留めなければ失敗するからだ。
 
 要件を終え、残る寿司を急いで口に入れながら日韓情勢について意見交換し、菜々子は別れ際にそっと声を掛けた。
 
「用心してね」
 
 日本やアメリカ・メディアのソウル支局長の仁川と金浦空港の出入りは必ずチェックされる、そう聞かされていた。
 
 棚橋は再びゲートに消えた。その背中にいつもの自信は看て取れなかった。尻の辺りから鳩尾に掛けて何やらむずむずとして、菜々子も落ち着かない気分になった。
 
 京急線で本社に戻る間、菜々子は上司への報告をどうするか考えていた。もしも棚橋が窮地に陥った場合、背中を守ってくれる人は必要である。しかし、直属の上司二人はまるで当てにならない。安全な国内取材しか経験のない二人に相談したところで、どう転ぶか分からぬのに費用だけは確実に嵩む取材の見通しを詳しく話せば話すほど反対されるだろう。もしくは、知らん振りをして成功した時だけしゃしゃり出てくる。それが関の山だ。
 
 国際取材はとにかく金が掛かるのだ。この日の棚橋の往復の航空費だけでも馬鹿にならない。それは部長の自分が飲み込むしかないが、今回はまさに海の物とも山の物ともつかない取材なのだ。上司への報告は見送る。そう決めた。ルークも桃姐もそうしていた筈だ。
 
 レールの繋ぎ目が作り出すリズムを聞きながら、若い頃の菜々子にも時の報道局長から何度か直電があったのを思い出した。
 
「どうなっているんだ?部長から俺には何も報告が無いんだ。これじゃちゃんとした査定が出来ねえんだ」と。
 
 強面のルークに直接質す勇気は無かったに違いないのだが、盗聴されているに決まっている北京支局の有線電話でそんなことを訊かれてもまともに応えられる筈はない。いつもはぐらかすしかなかったのだ。テレビ局員としては優秀なのだろうが、国際取材の機微については全く考えが及ばない。当時から局長職はそんな人物が務めていた。
 
「でも、矢吹さんには会いに行くしかないかな」
 
 品川駅のプラットホームに差し掛かる頃、菜々子は一人そう呟いた。
 
 

成田空港


 
 岩岡から折り返しの連絡があったのはあの夜、かなり更けてからだった。
 
 電話を取ると岩岡の大きな声が耳に響いた。当然ながら外からであった。家の中だと間違いなく盗聴器に引っ掛かる。
 
「遅くなってごめん。シムが切れちゃってさ、代わりを手配するのに時間が掛かったんだ。酒も入っているし」
 
 北京に限ったことではないが、外国メディアへの監視が厳しい国では電話一本にも気を遣う。この日、岩岡は持っていた使い切りシムの残高がほぼ無くなっているのに気付き、新しいシムを手配したようだ。それに時間が掛かってしまったという訳だ。
 
「こちらこそごめんなさい。大した話じゃないんですけれど、岩岡さんが早めに一時帰国したいとおっしゃっていたと小耳に挟んだものですから、そうなのかなと思って連絡したんです」
 
 現在単身赴任中の岩岡は規定で年に一度、人事部予算で一時帰国することが出来る。しかし、その時期はまだ先で何も決めていない。しかも、菜々子はこんなことでいちいち連絡してくるようなタイプでは決してない。この手の事なら呑み込みの早い岩岡はすぐに応じた。
 
「そうなんだよ。子供の学校の事でさ、出来ればすぐにでもぱっと戻りたいんだ」
 
 完全な作り話という訳でもなかった。
 
「やっぱり。すぐにでも良いじゃないですか。丁度、ルークさんや桃姐さんとも先輩はどうしているかって話していたんですよ」
 
「えっ」
 
 岩岡はしばし言葉を飲み込んだ。彼はルークを苦手としている。
 
「ルーク・ウォーム、ルーク・ウォームって何だ、あれは。ほんとウッセーわ」
 
 オーフ・ザ・レコードの店主の渾名は昔のこの岩岡の陰口から始まったのだ。
 
 しかし、そうした事情を百も承知の菜々子の口から二人の名前が出たということは半島絡みで何かある。岩岡はそう察した。タイミングは偶然だが、こちらにも土産話が全く無い訳でもない。だが、もう少し色を付けてもらう為の時間が欲しい。
 
 冬の夜に外に出たこともあって酔いはすっかり醒めていた。
 
「へー、じゃあ、お言葉に甘えて明後日にでも帰らせてもらいますか。本当は明日にでもと言いたいところなんだが、それは流石に無理なんでね」
 
 話を合わせるのが上手い。岩岡は小芝居にも慣れているのだ。
 
「フライトが決まったら連絡しますよ。週末を自宅で過ごせるのは有難いな」
 
「よろしくお願いします」
 
 菜々子は電話を切った。
 
 羽田で棚橋と会った翌日の金曜日、菜々子は早めに本社を抜け出し、成田空港に向かった。岩岡のフライトの都合で成田になったのだ。
 
 飛行機を降りたら岩岡が連絡してくるだろう。合流の算段は敢えて詰めていなかったが、岩岡も分かっている筈だ。本当はオーフ・ザ・レコードに連れて行きたかったのだが、本来なら掻き入れ時の金曜日にも係わらずこの日は休みだった。それに岩岡の自宅は千葉にある。彼にとっては成田の方が都合は良い。
 
「どこですかね?」
 
 菜々子の携帯が鳴り、岩岡の明るい声が聞こえた。成田空港でなら普通に電話で話しても大丈夫だ。
 
「何が食べたいですか?」
 
「そりゃ寿司だな」
 
 菜々子にとっては二日連続だ。岩岡なら昼からでも酒を飲むだろう。菜々子は少しだけ躊躇いながらも空港内のやはり大き目の寿司店で落ち合うことにした。
 
 昼時を過ぎて店は伽藍堂になっていた。周りに目配りをする必要がないのは有難い。
 
 菜々子の説明を受けながら早くも二杯目のビールに口を付けた岩岡はグラスを置くと今度は仕込んだばかりの土産話を切り出した。
 
「あれから少し取材したんだが、どうやら総書記さんが訪中するらしいよ。それも近々」
 
「え、正哲ではなくて正恩総書記の方ですか?」
 
「そう。総書記の方。正哲の話は全く出てこなかったよ。久しぶりだよな。トランプと会った頃以来になるかな」
 
 岩岡は少し間を置いて続けた。
 
「それと、飛行機は使わず列車で来ようとしているらしい」
 
 父親の故金正日総書記と異なり、正恩総書記は飛行機を避けることはなかった。過去の訪中は航空機と列車がほぼ半々であった。
 
 まだ報道は全く無いが、金正恩総書記の訪中なら各国が情報収集に力を入れるのは不思議でも何でもない。主な目的は経済支援の要請だろう。かつて共にアメリカと戦った同盟国の年下の首脳から直接乞われたら、近年増々皇帝然とした振る舞いをするようになった習近平主席なら下賜の品々を相当用意してくれる筈だ。そう期待しているのだろう。
 
 しかし、正哲のコンサート行きとは全く次元の異なる話だ。混同する訳はない。
 
 そうした二つの情報が同時期に出てくる。しかも、韓国の国家情報院は正哲の動静の情報収集にも必死らしい。何かある。もしかしたら、とてつもなく大きな何かが…菜々子は久しぶりに武者震いするのを感じた。
 
 岩岡に取材の継続や秘密保持を念押しする必要は無い。中国でそのイロハを菜々子に教えたのは彼なのだ。
 
 岩岡が妻子の暮らす千葉の自宅に向かった後、菜々子は矢吹にメッセージを入れた。アポは思いの外すぐに取れた。
 

大政・小政


 
 メトロポリタン放送の本社は東京・港区の再開発地区にある。
 
 その日の夕刻、十九階にある総務担当役員室に菜々子は居た。向かいのソファには派手なジャケットとシャツを着た御仁が座っている。
 
 御仁は一言でいえばチャラい。年齢を加味すれば驚くほどチャラい。
 
「矢吹専務、お時間を頂きありがとうございます」
 
「やあ、久しぶり、久しぶり」
 
 きさくな笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。今や畑違いの総務・人事担当専務に出世した矢吹もかつてはばりばりの国際記者だった。ソウル支局長も務めたことがある。
 
 菜々子はこの矢吹がそれ程好きではなかった。かつての矢吹は宴会好き、女好きで知られたが、女性はファッション・モデルばりの細身が好みで、豊満系の菜々子を陰で丸目の博多人形さんと呼んでいたのだ。博多人形は細目で色白、ふっくらとした体形が特徴だ。
 
 いつものようにそんな事は噯にも出さず矢吹は訊いた。
 
「菜々ちゃん、今日はどういう風の吹き回し?」
 
 菜々子から正恩総書記と正哲に関する情報を一通り聞いた矢吹は腕を組み天井を見上げた。
 
 数秒後、菜々子の方に向き直り言った。
 
「それは結構なニュースになるかも知れないね。桃ちゃんや甲斐さんに助けてもらうのは良いけれど正式に取材チームに入ってもらう訳にはいかないだろうから、どうするかね。ソウルと北京は当然入るとしても東京の戦力を投入するには社内仁義が必要になるね」
 
「それは…」
 
「そう、却って邪魔になるだけだね。漏洩も心配になるし。取り敢えずバンコクとパリかな」
 
 報道を離れて久しいが、見かけとは違い矢吹は切れ者なのである
 
「そうか、今日はもう金曜か…来週、火曜なら店に行く時間が取れるけど菜々ちゃんは?」
 
 幾つになってもチャン付けするのはテレビ局員の悪い癖である。
 
「何とかなると思います」
 
 太田との約束があるのだが、変更することにした。残念だが、仕方ない。
 
「久しぶりになるな。甲斐さんに挨拶するのは」
 
 矢吹はオーフ・ザ・レコードの店主を決して渾名では呼ばない。かつて世話になった先輩を今でも慕う気持ちを残しているのだ。そして、桃子は、矢吹にとってソウル支局長の前任で、入社同期である。得意分野こそ異なるが、互いに切磋琢磨してきた。
 
 桃子支局長時代に起きたピンチを協力して最終的にやり過ごすのに成功し、あのチャンネルを潰さずに済んだのも当時の矢吹支局長の差配、と言うより名人芸とも言える酒付き合いによるところが大きかった。
 
 ルークがかつて矢吹淳也と木原桃子を大政・小政と評していたと菜々子は聞いていた。
 
 その頃、平壌郊外では特別列車の整備・編成と思われる動きが急ぎ行われているのをアメリカの衛星が捉えていた。作業は半月程前から続いていた。菜々子には知る由もないが、一部車両の大規模改修も実施されているとCIAは分析していた。
 
 北朝鮮や中国のメディアによる訪中に関わる情報の発信はまだない。
 

ディープ・バッググラウンド


 
「ジェフ、今度ヨーロッパで開かれるクラプトンのコンサートに金正恩総書記の兄・正哲が行こうとしているっていう話を小耳に挟んだのだが、聞いているかい?」
 
 この日も臨時の休みで営業はしていなかったのだが、それにも拘わらず、麻布十番のオーフ・ザ・レコードに夕刻、来客があった。それもディープ・バッググラウンドの部屋に。
 
 来客はその男一人だけ、日本人ではなかった。
 
 二メートル近い長身、白い肌、金髪がかなり薄くなっている客は店主の誘いでやってきた。オリーブの実とゴルゴンゾーラ、干し葡萄だけを摘まみにモルト・スコッチを生のまま舐めている。
 
 店主の問いに客人は「ウーフ、それがどうしたんだ?」と返した。
 
 肯定はしなかったが、否定もしない。この世界では当たりのサインである。
 
 ジェフと呼んだ古い知り合いの本当の名前を店主は知らない。だが、その名前で溜池の大使館に外交官として、店主が知る限り二度目の勤務をしていた。
 
 アメリカの現職の情報機関員は身元を明らかにしてはいけない。知っている者もそれを明かしてはならない。そういう法令がある。
 
 日本で彼らの身元を知っているのはカウンターパートの部署で働く外交・情報・防衛関係者だけである。しかも、そのカウンターパートでも本名を知るとは限らない。当然ながら、店主にも彼の正体は正確には分からない。
 
 CIA・NSA・DIAなどアメリカには情報機関が幾つもある。
 
 中国やロシアなども似たようなもので大使館や通商代表部ばかりではなく、新華社やイズベスチアなどの国営通信社にも要員が紛れ込んでいる。
 
 日本にも事実上の情報機関が幾つか存在するが、その規模や予算は比較にならない。日本政府が同盟国の情報に頼る部分は大きい。
 
「私が知っているのはそれだけなんだ。しかし、韓国系が懸命に周辺情報を探っているらしい。正哲の動静を懸命に追うって変じゃないか?」
 
 ジェフは日本語を全く使わない。
 
「なるほど、良い線を掴んだな。しかし、もっと視野を広げて見た方が良いかもしれないな」
 
「どっち方面に広げれば良いんだい?」
 
 今度は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
 
「成程ね。せいぜい頑張ってみるよ」
 
 これ以上訊いても無駄である。馬鹿な奴だと見限られるだけだ。それに彼らだって知っているのは全体像のごく一部に過ぎない。もしも彼らが全てを予見できたなら世界の歴史は全く異なるものになっている筈だ。
 
 店主は話題を変えた。総書記訪中の可能性を店主はまだ知らない。
 
「核やミサイル開発は当然、続けているんだよね?」
 
「経済があんな状態なのにな。コロナも相変わらずらしい。なのにペースが少し落ちただけさ」
 
 北朝鮮が事実上の核保有国になってから何年経つのか。アメリカ東海岸の目標に確実に到達する大陸間弾道ミサイルや十分な実用性を持つミサイル原潜はまだ完成したとは言えないようだが、その脅威は着実に増大していた。
 
 更に日本の政局談義を少しして客人は帰っていった。
 
 政治家本人達は必死だが、日本の政局は平和ボケが治らない国のコップの中の嵐に過ぎないと思えるのは店主だけではないようだ。
 
 中国やロシアの政治家が内心では羨んでいる民主主義国家の断然良いところでもあるのだが、権力闘争に敗れても西側先進国では野に下るだけで済む。命を取られたり、財産を没収され丸裸にされたり、一族郎党までが放逐されるなんてことはない。習近平主席やプーチン大統領の栄達の裏で死屍累々と横たわるかつてのライバル達から見れば、日本やアメリカの政治家はお気楽の極みにしか見えない筈だった。
 
 

2008年十月パリ第八区


 
 時はかなり遡る。
 
 メトロポリタン放送のパリ支局長・柳友治の電話が鳴った。出てみると視聴者の女性だった。
 
 有料の衛星放送だったが、メトロポリタン放送のニュース番組はヨーロッパでも視聴することが出来た。女性はその衛星放送を毎日見ている在留邦人であった。ユーチューブやネット経由の同時配信が立ち上がるのはまだ先だ。
 
 日本人が海外で暮らすと、現地に欠けるもの、すなわち日本の治安の良さや清潔さ、人々の礼儀正しさ、食材・食事の旨さ・豊富さなどを否応なく意識させられる。そして、そうした素晴らしさと懐かしさが相まって自然と愛国心を高める在外邦人は結構多いのだ。
 
 当時、業界ナンバーワンだったメトロポリタン放送は日本でも大人気だったのだが、保守色の強いメトロポリタン放送はそうした海外在留邦人の間で時に驚異的な視聴率を獲得していた。
 
 そもそも公共放送とメトロポリタン以外の日本の放送はヨーロッパでは当時見ることができなかったのも事実だが、柳に電話を掛けてきた視聴者はパリ在住のこうしたメトロ・ファンの一人だった。そして、電話の柳相手に一気にまくしたてた。
 
「お忙しいところすいません。あの、メトロのニュースで見た北朝鮮の長男さん、ジョン何とかさんでしたっけ、そっくりな人を見たんです」
 
 柳はぎょっとしてすぐに訊き返した。
 
「どこで、ですか?」
 
「さっき友達を案内してジョルジュ・サンクのヴィトンに行ったら居たんです。本当にそっくりでした。一人でジュースらしきものを飲みながら向かいのホテルに入って行きました」
 
「それは、それは…大変貴重な情報を有難うございます。あのお名前と住所・電話番号を教えていただけませんか?大したものではございませんが、御礼に記念品をお送りしたいものですから…」
 
 如才のない柳は視聴者からの電話を切るとすぐにジョルジュ・サンクのホテルの日本人従業員に連絡した。
 
 ジョルジュ・サンク、日本語にすればジョージ五世はエリザベス女王の祖父、チャールズ三世の曽祖父に当たるイギリスの国王である。その名にちなんで名付けられたジョルジュ・サンク通りにはルイ・ヴィトンの旗艦店を挟んで、日本人にも人気の同名の一流ホテルがあった。
 
 この時点で既にホテルはアメリカ資本の傘下に入りその名を変えていたが、ジョルジュ・サンクのホテルと言えば、そこのことだった。
 
「もしもし、菅沼さん、柳です。すいません。今、お手隙でしたら是非調べていただきたいことがあるのですが、大丈夫でしょうか?」
 
「あ、はい。大丈夫ですよ」
 
 カスタマー・サービス部門で働く菅沼はすぐに応じた。柳の妻のママ友なのだ。
 
「宿泊名簿にキム・ジョンナムという男性の名前がありませんか?」
 
「ちょっとお待ちくださいね」
 
 キーボードを叩く音が聞こえた。この頃、現在のような個人情報の保護という概念はまだ無かった。
 
「見当たらないですね。いらっしゃらないみたいですよ」
 
「あれ、そうですか。すいません、お手数をお掛けしました。有難うございます。またお願いするかもしれません。よろしくお願いします」
 
 菅沼に礼を言うと柳は本社に電話を入れた。今なら半島専門家の木原桃子がデスク当番でいる筈である。
 
「お疲れ様です。柳です」
 
「お疲れさまー」
 
 木原のいつものややか細い声が聞こえてきた。日本ではもう夜の十二時を回っていた。
 
 柳がパリの金正男情報を順を追って報告し終えると木原は間髪入れず応えた。声音は全く違う。強い。
 
「パク・チョルよ。柳、パク・チョルで調べなさい」
 
「え?」
 
「あなたね、金正男が金正男の名前のままそこら辺を一人でうろちょろしていると思うの?パク、チョル、パク・チョルよ。わかった?」
 
「あ、はいっ」
 
 東京・パリ間の電話が普段盗聴されている可能性はゼロに近い。もし仮にされていたとしても日本メディアの害になる可能性は余程のことがない限り無い。
 
 柳は再び菅沼に電話を入れた。
 
 一方、桃子はルークの裁可を得てソウル・チームをパリに直ちに派遣すべく動いた。ソウル支局に今、全部を話すわけにはいかないが、パリへの出張命令だけならストレートに伝えても構わない。説明は後回しだ。それに、彼らにもある程度の察しはつく。
 
 柳からパク・チョル確認の報が入ると、ルークからゴー・サインが出た。桃子にも翌一番のフライトで現地へ飛び、取材を仕切るよう指示があった。
 
 その前の月の建国記念日の大々的な軍事パレードに金正日総書記は姿を見せず、健康状態に問題があるに違いないと既に広く認識されていた。
 
 そして、日本メディアの中でメトロポリタン放送国際取材部の主要メンバーだけは、金正日総書記が8月に脳疾患で倒れたらしいとの未確認情報を得ていたのだ。
 

20XX年一月白金台イタリアン


 
 時は再び現在に戻る。
 
 その週末の土曜日正午過ぎ、菜々子と桃子は白金台の小洒落たトラットリアにいた。名物は肉の炭火焼で、牛や豚の各部位始め鴨や兎もあった。それ程値の張らぬ旨いワインの品揃えも良い。
 
 そこから国道一号線をタクシーで行けばオーフ・ザ・レコードに七、八分で着く。菜々子も桃子も近所に住んでいた。
 
 岩岡がもたらした正恩総書記の訪中話も含め、ひとしきり情報交換すると桃子が言った。
 
「それは絶対何かあるわね」
 
 菜々子は頷き続けた。
 
「二人同時に国を留守にするのは大きな意味があると思うのです。単なる偶然の可能性はゼロではないかもしれませんが…」
 
 桃子は菜々子を途中で遮った。
 
「将軍様は後継争いのライバルだった母違いの弟の平日をヨーロッパの大使館に島流しにしたものだけれど、今のあの兄弟はそんな関係ではない筈だし…やっぱり探り続けるしかないわね。私もまた当たってみるわ」
 
 菜々子からしてみれば有難い限りだ。
 
 淡白で引き締まった肉感の兎の炭火焼きを堪能し、二人は店を出た。
 
 空は澄み切った清冽な青だった。
 
 風が冷たい。しかし、北京とソウルで長く暮らした経験のある二人に寒さは全く気にならない。むしろ心地良かった。
 

パリ第十六区


 
 時間的には菜々子と桃子の二人が分れた少し後になるだろうか、どんよりとして底冷えのするパリ十六区に東洋系の男女が姿を現した。女性はまだ十代か、若く華奢である。男は父親とも思える年代だ。
 
 二人は高級住宅街の一角にあるクリニックを訪れた。週末にパリの街のこのクリニックが開いているのは珍しい。
 
 少し離れた場所に停まっているシトロエンの中にはフランス人の若いカップルがいた。二人は東洋人二人の動きを目で追っていた。更に遠巻きにもう一組。こちらは周辺状況の確認をしているようだ。
 
 二人の珍客を出迎えたのはフランスでも著名な肝臓外科医であった。ここは医師のプライベート・クリニックだ。医師は普段フランスでも有数の大学病院の外科の責任者をしているのだが、自分のクリニックで診療もするのだ。
 
「先生、移植までにはどれくらい掛かるのでしょうか?」
 
 若い女性が尋ねた。男の方は挨拶しかせず後は無表情のままである。親ではなさそうだ。
 
「時間という意味ではドナー次第です。適当なドナーが見つかればすぐにでも移植できます。費用は患者がフランス国民でない場合大変高くつきますね」
 
「お金の面は大丈夫です。予後は?」
 
 このプライベート・クリニックを訪ねてくるのは金持ちばかりである。費用で揉めたことはなかった。
 
「それは何とも言えません。順調な場合は一か月か二か月程で退院できます。しかし、不幸にして上手く身体に適合せず拒絶反応を起こしてしまったり、合併症が起きた場合はかなり面倒になることだってあり得ます」
 
「やり直しになる恐れもあるのでしょうか?」
 
 女性の顔が曇った。男の表情は変わらない。
 
 医師はその質問には直接応えず「成功率という点では、特に部分生体肝移植の場合、今は比較的高いですね。死亡例がないわけではありませんが、それはどんな手術でも同じでしょう?そうお考えください。でも、まず、レシピエントにこちらに来ていただく必要があります。そして検査からですね。ドナーの検査も必要です。前回ご相談にお見えになった時、そう申し上げたと思います」
 
 それは分かっていると女性の顔が言っている。
 
「通常、フランスではドナーが見つかるまで順番もあってかなり時間が掛かります。しかし、前回のお話では、ドナー候補もお国から一緒にお見えになるということでした。その点は大丈夫ですか?」
 
「はい。念の為、二人連れてくる積りです。候補者は既に見つかっています」
 
「いつ頃お見えになられますか?」
 
「多分、来月の半ば頃になるかと思います」
 
「それともう一つ再確認です。レシピアントはアルコールを既に絶っていますか?我が国の倫理規定でお酒を止めていない患者に移植は出来ないことになっていることは既に申し上げたと思います」
 
「それは大丈夫です」
 
「わかりました。準備をしておきましょう」
 
 二人の客が帰ればフランスのDGSE・対外治安総局の係官が間なしにやってくる筈だ。既に因果を含められている医師はそう思っていた。実際、二人を見送って十五分程で再びベルが鳴った。
 
 北朝鮮指導部とフランスの縁は深い。金一族のメンバーも含め何人もの重要人物がフランスで治療を受けている。公に確認されたことはないが、故金正日総書記の妹・金敬姫女史もその一人だったという情報がある。
 
 また金正日総書記の長男・正男はスイスのフランス語圏にある国際校に、正哲もスイスのドイツ語圏にある別の国際校に長くいた経験があり、ともにフランス語とドイツ語・英語を流暢に操る。
 
 正男に至っては語学の天才と言って良い程で、加えて中国語もペラペラ、日本語もある程度理解したと言われる。ただ、正恩総書記と与正氏はスイスのドイツ語圏の公立校に短期間、それも小学校時代に在籍しただけなので外国語をどれ程使えるのかはっきりしない。
 
 

再び2008年十月パリ第八区


 
 時はまた遡る。
 
 ルークの指示を受け、翌日朝一番のパリ行きフライトに乗った桃子は現地時間の午後、支局に着いた。支局はジョルジュ・サンクから歩いても十分程度のシャンゼリゼに面したビルにある。
 
 機内では特にやることも無かったので桃子は昼食時に酒を飲んだ後ずっと寝ていた。まだ少し頭はぼーっとしていたが、疲れはほとんど感じなかった。久しぶりの本格的な海外取材だ。アドレナリンも出ているのだろう。
 
 ソウル支局のチーム四人は少し前に着いていた。事情は柳から聞かされただろう。
 
 ソウルの仁川空港は二十四時間運用で、飛行機での移動は日本からより早いケースが殆どなのだ。例えばグアムやサイパンなど太平洋地区の緊急取材は、時間帯によるが、地理的に近い東京から出るより先に現地入り可能だ。この為、日本人が絡んだ大きな事件が起きた時などソウル支局は何度も一番乗りしていた。
 
 桃子がパリ支局長の柳の出迎えを受けるとソウル特派員の山瀬孝則と韓国人スタッフがすぐに挨拶に来た。恭しい。桃子は離任後もソウル支局のドンと言っても良い存在だったのだ。
 
 当時のソウル支局長・矢吹は留守番を選んだ。北朝鮮本国と韓国政府の動きを追い、出稿し続ける必要がある。ソウルも大忙しであった。
 
 小型の業務用冷蔵庫のような分厚い体躯からゾウさんと呼ばれる山瀬が言った。
 
「僕らと同じ便に韓国の情報筋とも思われる人間が何人か乗っていて、こっちを見てにやりとしていましたよ」
 
 韓国当局もパク・チョルのパスポートを使う男の動きは逐一チェックしている筈だ。ましてやこの時期である。気合が入るのは当然だろう。そして、メトロポリタン放送の動きも既にお見通しという訳だ。
 
 正男出現情報はやっぱり当たりなのだ。父親の総書記の健康状態が危ぶまれる中、放蕩息子のイメージが強い彼とて物見遊山でパリに現れる筈はない。何か役目がある。
 
 パリ支局と前日にパリ入りしたベルリン支局のチームがジョルジュ・サンクのホテルの出入りを遠巻きに朝からずっと見張っていた。時差の関係もあるのだろう。正男は早朝に散歩に出たもののすぐ戻り、以来動きはないという。
 
「散歩は撮れたの?」
 
 桃子が尋ねた。
 
「ご覧になりますか?」
 
 柳が応じた。
 
 映像をチェックすると確かに正男だった。スポーツ刈り、無精髭、ほくろ、突き出た腹。間違いない。
 
 すると程なく現場のベルリン支局長・大友祐人から柳に連絡が入った。
 
「出たそうです。大友達が追っています」
 
 ソウル・チームは大友達が離れたジョルジュ・サンクのホテル周りに、早速、向かった。張り込みの交代である。正男のホテル戻りをチェックする必要がある。パリ支局スタッフが一人同行する。
 
 大友の身体つきや髪型は正男に似ている。ただし、背はずっと高く、でかい。
 
 相撲取りのような大友はヨーロッパでも目立ってしまうので張り込みには向いていない。だから、基本、ずっと車の中だ。そして、のべつ何かを食っている。その車で正男の乗ったタクシーを追跡していた。
 
 山瀬率いるソウル・チームが支局を出ると桃子は誰に言うともなく呟いた。
 
「おデブばかりだわ…」
 
 言った桃子は日本人にしても小柄で細い。柳とフランス人の古株のプロデューサー、ジャンヌ・ベルナールが声を出して笑った。
 
 

二0xx年一月白金台


 
 時をまた戻す。
 
 菜々子と別れてすぐに、桃子は今でもスマホ嫌いの年寄りらが使い続けているガラ系で、ルークの同じくガラ系携帯にメッセージを入れた。一通り報告する。もちろん二人とも普段はスマホを主に使用している。しかし、ガラ系も維持しているのだ。
 
 本当はもう気を使う必要は無かったのだが、使う人が少ないガラ系は混みあうことが無かったし、外国人ハッカーが侵入するのはかなり難しい。
 

2008年十月マルティン・ルイ・デュポア


 
 目まぐるしいが、また遡るのをご了承戴きたい。
 
 パリ支局スタッフが写メしてきた小さな看板にはマルティン・ルイ・デュポア・クリニックと書かれていた。ホテルを出た正男はパリ十六区にあるこの小さな近代的な建物に入って行ったのだ。
 
 ベルナールが検索するとすぐに当該の医師の名前は出てきた。
 
 マルティン・ルイ・デュポア。パリ第十三大学医学部教授にして脳神経内科の権威。
 
 フランス人医師が八月末に平壌を訪れたというパリ発の未確認情報があるにはあった。この医師に違いない。
 
「やっぱり…」
 
 桃子は総書記が脳疾患だという証拠を掴んだと確信した。
 
 ベルナールが医師の自宅を割り出した。思いの外簡単だった。直撃しても惚けるだけだろう。張り込み・行動確認対象が一人増えた。
 
 正男は小一時間の滞在でホテルに戻った。
 
 夜九時過ぎにホテルの張り込みは解除した。この日のフライトはもう無い。フランス当局や韓国筋と見られる要員の姿を取材陣は確認できなかった。
 
「明日は正男にマイクを突き付けるようかしら…」
 
 桃子は思案していた。いずれにせよ翌日も朝から張り込みだ。今度は二か所だ。
 
 正男番を務めることになったゾウさんこと山瀬はこの一年半程前、北京空港到着ロビー出口でマカオ発の便に乗ってやってきた彼を取り囲んだ時のことを思い出していた。
 
 メトロポリタン放送のカメラ四台と記者・スタッフ達総勢十人余りが中国語・韓国語・英語・日本語で矢継ぎ早に質問を浴びせたのだが、その場で彼が発したのは一言だけだった。
 
 山瀬の「日本語は分かりますか?」という日本語の問い掛けに、足元を確認しながらニヤリとすると「日本語は分かりません」と日本語で応じたのだ。そして、タクシーに乗って去っていった。正男はユーモアの分かる男だった。
 

2008年十月・シャルル・ド・ゴール空港


 
 翌朝から取材陣は二手に分かれ、ホテル周辺と医師の自宅周辺に張り込んだ。しかし、昼をとっくに過ぎても何の動きもない。平日だったのだが、医師は出勤もしない。
 
 不安にかられた柳はホテルの菅沼に問い合わせた。
 
「パク・チョルはまだいますか?」
 
「少々お待ちください」
 
 キーボードがカチャカチャ鳴った。
 
「あら、もうチェック・アウトされています。昨日の夜遅くですね」
 
「何処に向かったかは分かり…」
 
「それは分かりませんね」
 
 メトロポリタン放送のスタッフの張り込みに気付いたフランス当局から警告を受けたから正男は移動したのかも知れなかった。
 
「やられましたよ」
 
 柳が桃子に報告した。
 
「車でどこかに移動したのね。甘かったわね…」
 
 ホテルの張り込みは解除した。しかし、医師の自宅のチェックは続けた。他に当てはない。
 
 小一時間後、大友の擦れ声が柳の耳に響いた。
 
「出ました!何とスーツ・ケースを二つ持ってタクシーで多分空港に向かっています。奥さんらしき人と一緒です。追跡しています」
 
 ベルナールが調べるとシャルル・ド・ゴール空港第二ターミナルから北京行のエア・フランス便が三時間後にある。桃子とベルナール以外の全員が全速で空港に向かった。距離の関係でパリ支局発の取材陣の方が僅かに先に到着する筈だった。
 
 シャルル・ド・ゴール空港には、高速が混まなければ、パリ中心部から一時間程で着く。追跡中、大友は柳にタクシーの色とナンバーを告げた。フランス人スタッフ同士が確認すると柳チームの方が先を行っている。間に合いそうだ。
 
 柳率いるパリ支局チームとソウル支局チームが空港の出国ターミナルに着くと五分程でタクシーがやってきた。数台後ろの大友は柳に携帯でずっと状況報告をし続けていた。
 
「それです。その赤い屋根の車です」
 
「了解。タクシーも君の車も確認した。迎えに出るぞ」
 
 柳はタクシーを指差し、スタッフ全員にゴー・サインを出した。パリ支局スタッフ一人を除き全員で、ゆっくりと、しかし、堂々とタクシーを取り囲み、カメラを回し始めた。
 
 中で支払いをするデュポア医師の目が大きく見開き、一瞬たじろぐ。しかし、すぐに覚悟を決めたようだ。逃げ隠れしてももうどうにもならない。
 
「平壌に行くのですか?」
 
「総書記の診療ですか?」
 
 矢継ぎ早の質問に対して、タクシーを降り、荷物をトランクから出す間、医師は一言も応えない。妻と思しき女性が医師に顎で「さあ、早く行きましょう」と指示しただけだった。フランス人の女房殿は恐ろしく気が強いようだった。
 
 すぐ横の通路で私服警察官と思しき大柄のフランス人がじっと様子を見つめていた。制止する気配はない。山瀬が認知した韓国当局者風のアジア人数人も遠巻きにしていた。
 
 医師夫妻はターミナル・ビルに入ると北京行きのエール・フランスにチェック・インし荷物を預けた。中に残ったパリ支局員がそれを確認した。
 
 カメラを持った取材チームはターミナル・ビルの中までは追わず、医師夫妻のゲート入りを確認するスタッフ一人を残して、さっさと撤収する。やり過ぎて咎められ、録画媒体の没収なんて破目に陥ったら取材は水の泡になる。
 
 支局で報告を受けた桃子は北京支局に本社のシステム経由で連絡し、翌日の北京発平壌行きの搭乗風景を隠し撮りするよう依頼した。北京・平壌間の高麗航空便の数は限られているし、搭乗口はいつも同じだ。
 
 その搭乗口に近づくには別の国際便のチケットを買う必要があったが、実際にそれに乗ってトンボ帰りすれば問題は生じない。
 

2008年十月・北京空港


 
 翌日…、小さなカメラを隠し持った支局の現地カメラマンが、北京空港の高麗航空便搭乗ゲートに一番近い洋風カフェテリアで遅めの朝食を摂るデュポア夫妻を確認した。
 
 この頃、現在のような高性能のスマホはまだ出回っていなかった。支局員は鞄に隠し持った小型カメラで夫妻を目立たぬように三十秒程撮影した。
 
 続いて、搭乗ゲートをくぐる夫妻を今度はかなり遠くからカメラに収めた。
 
 画面に収まる夫妻の姿はかなり小さいが、東京で拡大すれば簡単に識別できる。ゲートを潜る夫妻の頭上の電光掲示板が平壌と行先を告げているのも確認できた。これが大事だ。
 
 支局員は撮影したばかりの短い映像二本をオフィスにネット回線を使って送った。ネット伝送技術は緒に就いたばかりだったが、北京支局には第一世代の装備が真っ先に配備されていた。後は予定通り、マカオ行きのフライトに乗ってトンボ帰りするだけだ。
 
 映像を受け取った北京支局はすぐに東京に転送した。全く同じソフトとデコーダーが無い限り、誰かが通信自体を傍受したとしても画像を盗み見るのは非常に難しい時代だった。
 
 パリから東京へは既に正男と医師の映像と原稿案・映像キャプションが送られていた。
 
「脳疾患で倒れたとの情報がある北朝鮮の金正日総書記の長男・正男氏が、先週、パリに現れ、フラン人の脳外科医の下を訪問していたことが分かりました。脳外科医はその翌日、平壌に向かいました…」
 
 キャスターがスタジオでその日のトップニュースを紹介し始めた。
 
 フランス人医師が平壌訪問というスクープはメトロポリタン放送のニュース番組で大々的に報じられたのだ。
 
 ロイターやAFPといった外国通信社も東京発で直ぐに転電した。映像も情報もない日本の同業他社は追随さえ出来ない。歯軋りするしかなかった。メトロポリタン放送国際取材部は北朝鮮関連報道でまたもやホームランを放ったのである。
 
 ただし、デュポア医師の平壌入りは、シャルル・ド・ゴール空港での独自取材映像と共に情報として報じただけで、医師が北京空港で平壌行きの搭乗ゲートを潜る映像は最初の報道では使われなかった。
 
 ルークの勘で、北京空港の隠し撮り映像は温存したのである。
 
 事はこれで目出度し目出度しとはならなかった。この報道の後、様々なハレーションがあったのだ。中には不気味な動きも…。
 

20XX年一月・ラングレー


 
 時をまた現在に戻す。  
 
 アメリカの首都・ワシントン郊外のヴァージニア州にラングレーと呼ばれる地区がある。そこにCIA本部はある。正門は公道に面していて誰でも前を通ることはできる。しかし、ゲートの先は街路樹が見えるだけで、肉眼では中の様子は窺えない。長官を務めるのは外交官上がりのジョン・トルキンだ。
 
 本部建物内の古めかしいホールの写真が有名で、その床の中央には色着きの石を組み合わせてCIAの紋章が描かれている。中には土産物を売る売店もあり、やはり紋章入りのアドレス帳など文具が置かれているという。ただし、そこで買い物が出来るのはごく限られた人間だけだ。
 
 その本部に併設されたCIAコリアミッション・センターのファン・ジアン所長は平壌郊外の鉄道車両センターの出入りを収めた衛星画像をアナリストらと共に一枚一枚チェックしながら議論していた。ファン・ジアンは韓国系のアメリカ人で、移民二世にあたる。
 
「すると車両センターに運ばれた大き目の梱包品はほぼ全てヨーロッパから密かに輸入された可能性が高いということかしらね?」
 
「そうですね。この屋根の隙間に写る箱の印刷を解析するとジーメンスと書いてあることがわかります。最近、密輸されたことが分かっているジーメンス製品は、簡単な手術くらいはできる照明付き医療用電動ベッドと酸素吸入器なのですが、サイズから推測するとこの梱包の中身はベッドでしょうね」
 
「つまり特別列車に医療設備を積み込んでいるということ?」
 
「その可能性は高いですね。キッチン・カーに改造しているのではないと思います」
 
「目的は何かしら?」
 
「高度な医療施設を必要とする人物が乗車する可能性が高いという以上はわかりませんね」
 
「完全なダミーという可能性はどう?」
 
「それは無いでしょうね。そうだとしたら、何の為にここまでやるのか、意味を為さないですから」
 
 金正恩総書記に健康不安説は常に付き纏っている。飲み過ぎ・食べ過ぎのせいだろうが、二十代後半から三十代初めにかけて、見事としか表現しようのない巨漢になった挙句、以降、急激なダイエットとリバウンドを繰り返していると見られていた。足を引き摺るように歩く姿が朝鮮中央テレビのニュースに映しだされたこともある。しかし、総書記の健康状態に関わる具体的情報は最近全くない。
 
「仕方がないですね。国情院に訊いてみるしかないかしら」
 
 ファンは溜息をついた。
 
 尋ねる以上、こちらも知っていることを相当程度開示しなければならない。そして、彼らも根掘り葉掘り訊ねてきて最後に必ずこう付け加えるのだ。
 
「日本には言わないで下さい」と。
 
 勿論そうはいかない。
 
 ある時点で、必要にして十分な情報共有をしないと拙いのは韓国政府も分かっているのだが、それでも、敢えて、こう釘を刺すのだ。この韓国側の変わらぬ態度にファンはもうかなりウンザリしていたのだ。
 

部長会


 
 毎週月曜日の午前十時にメトロポリタン放送報道局の部長会は始まる。
 
 大手新聞社の定例部長会は編集会議を兼ねて平日は毎日開かれるようだが、メトロポリタン放送報道局の場合は週に一度だけ。予算執行状況や系列地方局報道部門の状況報告、制作局や事業局など社内他部局との連携問題などが主な議題になる。その実態は業務・連絡会議に近く、日々のニュースの取材・報道方針やニュース番組の編集方針について議論されることはあまりない。取材・編集方針を議論する会議は編集長・デスクレベルで三百六十五日休みなく一日三回、朝と昼過ぎ、夕方に開かれる。テレビ・ニュースに休刊日は無い。
 
 この日、菜々子がその部長会に出席する為、少し早めに上階の会議室に向かうと、報道局長室から出てきたばかりのニュース制作部長・雨宮富士子が後ろから声を掛けてきた。
 
「宮澤さん、最近随分忙しいみたいね。本社であなたの姿を見るのは久しぶりなような気さえするわ」
 
 シャネルやグッチなどの超高級ブランドのスーツをいつも着ているお嬢様、雨宮は菜々子の二年先輩で、やはり特派員経験者だ。関東でなら誰もが知る企業グループの創業者一族の娘である。
 
「また、何かやっているのかしらと思っちゃうわよ」と、探りを入れてくる。
 
「いえ、特に何もありません。たまたま雑用が重なっただけです」
 
「あら、そんな風には見えないわよ」
 
 そう言って雨宮は菜々子を追い抜き会議室に入っていった。
 
 菜々子のデスクと雨宮のデスクは比較的近く互いの様子が手に取るように分かる。前の週から普段とは異なる動きを続ける菜々子の様子から、何やら隠密取材を進めている気配を既に雨宮は感じていたのである。政治部経験が長い雨宮はこうした点には敏感だった。
 
「だから面倒臭いのよね…」
 
 菜々子は心の中で呟き、会議室の自席に座った。
 
 部長会の席順・発言順は決まっている。国際取材部長の方がニュース制作部長より席次は上である。
 
 会議は粛々と進行し小一時間で終わった。しかし、菜々子が自分のデスクに戻ると暫くして机上の電話が鳴った。局長からの呼び出しだった。
 
 

パリ・第二十区

 
 
 DGSE・対外治安総局の本部はパリ・第二十区のモルティエ大通りにある。北朝鮮の要人が主にお忍びで来訪した場合、これを遠巻きに警護し、かつ監視するのはこのフランスの情報機関の役割の一つである。
 
 フランスと北朝鮮は国交が無い。それにも係わらず、金王朝の王子始め要人が休暇や治療目的などで度々フランスを訪れるなど不思議な関係を維持している。北朝鮮の要人達が入国する際に使うパスポートは北朝鮮政府が発行した本物だが、通常、偽名が記されている。しかし、フランス政府がこれを咎めたことはない。
 
 この時、金正恩総書記夫妻と妹・与正夫妻の子供のうち三人がスイスの首都・ベルン郊外にある国際学校に留学していた。北朝鮮と永世中立国・スイスには国交があり、ベルンには北朝鮮大使館もある。三人はいずれも大使館勤務の北朝鮮外交官の子弟という体裁で学校に通っていた。報じられたことはまだなかったが、DGSEや韓国・国情院はこれを把握していた。
 
 すでに何度かパリの外科医の下を訪れた十代の女性はその三人のうちの高校生であった。
 
 肝臓移植が必要なのは、故金総書記の三人の子供の一人であることは間違いないとDGSEは見ていた。そうでなければ、王朝のプリンセスであるこの女子高生がわざわざ隣国からやってくる理由はない。そして、これまでの経緯から正恩総書記本人である可能性は高いともDGSEは踏んでいたが、確証はなかった。かつて叔母の金敬姫氏も肝臓の治療でパリに来たことがあったからだ。女子高生に同行していた男はベルンの大使館勤務の警備担当責任者であった。
 
 正式な国交が無くフランスに大使館を持たない北朝鮮政府の対仏窓口はパリに本部を置く国連機関・ユネスコの北朝鮮代表部が担っていた。しかし、この件ではユネスコ代表部はまだ何も知らされていないのだろうとDGSEは見ていた。
 

報道局長室


 
「またやっているんだって?」
 
 局長用の大きなデスクの前に置かれた応接セットに菜々子が腰を下ろすと加藤昌樹局長が挨拶もなしにいきなり尋ねた。直前の部長会で顔を合わせたばかりだったせいもあるが、加藤はいつもいきなり本題に入る。せっかちなことで知られる報道局員の中でも極端なせっかちなのだ。
 
 菜々子が何の話か理解しかねるというような訝しげな表情を浮かべると追い打ちをかけた。
 
「それも、また隠れてこそこそとさ」
 
 わずか数年の政治部記者経験しかない人間はこれだから困る。すぐにカマをかけてくるのだ。若手なら局長からいきなりこんな風に突っ込まれるとすぐにぼろを出すかもしれないが、菜々子はもう慣れている。そもそも独自取材を、たとえ社内とはいえ、開けっ広げにして進める記者にスクープなど獲れない。そんな記者は駄目に決まっているのだ。
 
「何をおっしゃりますのやら…ちょっと」
 
「じゃあ、何をしている?最近陰で何やら随分忙しそうだというじゃないか?」
 
 やはり雨宮がチクったようだ。
 
「あの…実はですね」
 
 菜々子は渋々の体で切り出す。加藤が身を乗り出した。
 
「今、特派員の現地待遇についていろいろ意見を訊いているんです。最近随分不満が募っているらしくて」
 
 嘘ではない。むしろ丁度良いタイミングになった。
 
「どんな不満だ?」
 
「現地の家賃や教育費の水準は国によってバラバラじゃないですか?ニューヨークやロンドン、北京は、もうかなり前から我々には目が飛び出る程なのはご存知ですよね?」
 
 想定外の、具合の悪い話になってきたせいか加藤は押し黙ったまま聞いている。
 
「とは言っても、日本の給与や物価水準を全く無視して現地手当を決める訳にもいかないので、格差が広がるばかりなんです」
 
 菜々子はここぞとばかり捲し立てる。
 
「私立の学費は高過ぎて負担できるのは子供一人がやっと。良い公立校がある地域は家賃が高くてゆとりのある家には到底住めない。何人かの奥さんは現地で職探しをようかって考えるくらいなんです」
 
 これは紛れもない事実で、国際取材部の長年の懸案事項であった。
 
 日本ではデフレが余りにも長く続いた為、先進主要都市の物価水準を数字の上では知っていても、そこで暮らさざるを得ない者の苦しみにまでは理解がまるで及ばない。日本の水準だけから考えれば十分以上と思える手当を出しているからだ。事情を全く知らない者には特派員達の我儘にしか聞こえないだろう。
 
 しかし、これはテレビ業界に限った問題ではなかった。
 
 金融業界やメーカーで海外勤務希望者が十分に集まらなかったり現地の仕事と生活に慣れた途端に若い駐在員の少なからぬ人数がさっさと転職してしまうのは、この問題も大きな原因になっていた。
 
「せめて高校までの私立校の入学金・学費に掛かる費用をもう少し助けていただきたいというのが現場の切実な願いなんです。そうでなければ帰国後の教育が皆、心配で仕方ないんです。何とか善処していただけませんでしょうか?」
 
 狙いが外れた加藤は腕組みしながら応えた。
 
「うーむ、分かった。時間をくれ給え。考えてみる」
 
 加藤が約束したのは「考えてみる」だけだった。どうせそんな程度だろうと思ったが、菜々子は構わなかった。この問題は先週、矢吹にも訴え、リマインドしてあった。
 
 局長室を出ると遠くから雨宮がこちらを見ているのに気付いた。すぐに顔を背け、一瞬だが、にやりとしたような気がした。雨宮は自身が国際取材部長になれなかったのが気に食わないのだが、それ以上に、非公式だったが厳然と存在したルーク・チームに迎え入れてもらえなかったことを根に持っていた。
 
 お嬢様育ちで目立ちたがりの雨宮は、何事も自分が中心に居ないと気が済まなかった。そして、関わった仕事の成果をひけらかすのが常だった。そういう自慢話をするタイプの人間をルークは好まず、チームに決して招き入れなかったのだ。
 
 ライバル達が特に知りたがる情報入手ルート・手法などをぺらぺらと喋られたらとんでもないことになるからだ。自分がどんな仕事に関わったかさえ自らは決して言い出さないタイプの人間が望ましかったのだ。加えて、お嬢様は泥水をすするような取材を受け付けなかった。
 

内閣情報調査室


 
 その月曜の夕刻、麻布十番のオーフ・ザ・レコードに一人の紳士の姿があった。ばりっとしたスーツに流行りのシックなネクタイ、七三に綺麗に分けられ撫でつけられた白髪、誰が見てもどこかの偉いさんである。
 
 袴田剛は元内閣情報官であった。
 
 国家公務員上級試験を経てキャリア官僚として警察庁に入庁、主に外事畑を歩み、官僚人生の最後に内閣情報官を務め退官した。
 
 ルークの奥方が作った豚バラ肉と白隠元豆のポット・ロースト、それに芽キャベツの素揚げを添えたのをコート・ドゥ・ローヌのロゼのワインと共に楽しんでいる。
 
「パンとチーズとワインがあれば何処にでも行きます」が口癖の袴田は欧州家庭料理とワインに目が無い。そして、詳しい。
 
「うーむ。甲斐さん、奥様は聞きしに勝る腕前ですね」
 
 三分の一程を口にした後、袴田は唸った。
 
「俺もそう思うよ」
 
 冷たいウーロン茶を飲み干し、ルークは応じた。ルークの方がだいぶ年上だ。普段、奥方を誉めること等無いルークだが、料理だけは別だった。
 
 袴田がこの店を訪れるのは初めてだった。
 
「何度かお声を掛けていただいて、気にはなっていたのですが、もっと早く来れば良かったと思いますわ」
 
「時々、寄ってくれたらせいぜいサービスするよ。袴田ちゃんには世話になったしね」
 
 テレビ屋の悪い癖は引退後久しいルークも抜けない。
 
 実際、生情報の交換こそしなかったが、既に明らかになった事象の意味合いやその先の見通し、考え方などについて、ルークは袴田から多くを学ばせて貰った。少しは逆もまた真なりだったはずだ。パリで面倒が起きた後には、余り具体的なことまでは分からないが、彼に助けてもらった…。
 
 

2008年十月・パリ支局


 
 また時を遡るのをお許しいただきたい。
 
 正男のパリ訪問とフランス人外科医のデュポアの訪朝を報じた後、メトロポリタン放送パリ支局はちょっとした騒ぎになっていた。世界的な通信社や地元メディア、韓国メディアの問い合わせが殺到したのだ。
 
 報道した以上の事は何も話せないと支局員が丁重に、しかし、断固として突っぱねると、ほとんどの相手は引き下がったが、ある韓国新聞社の記者だけは執拗だった。
 
「メディアが助け合うのは当然だろう。背景を開示せよ!どうやってあんな情報を得たのだ?公開するのが君らの義務だ」などと何度も電話を掛けてきて迫ったのだ。
 
 それでも突っぱねると、最後は激高し、捨て台詞に酷い罵り言葉を投げ掛けてきた。その執拗さの背後に別の組織の意向があったのではないかと勘繰りたくなる程だった。
 
 しかし、パリ支局が見舞われたトラブルはこれだけではなかった。メディアの問い合わせが一段落した後、見知らぬ来訪客があったのだ。
 
 ユネスコ職員の名刺を差し出した後、応対した柳に、体格の良いアジア人はこう言った。
「次に何か報じる時は、その前に、私に必ず相談してください」と。
 
 柳が適当に受け流すと、その日、男はあっさり帰って行ったのだが、翌朝、柳が出勤の為、自宅最寄りの地下鉄の駅で電車を待っていると、肩をポンと叩く者がいた。
 
「柳さん、お近くにお住まいですか?」
 
 前日に支局を訪れた男であった。
 
 だが、これだけでは済まなかった。
 
 デュポア医師がフランスのAFP通信の電話インタビューを受けて「私は仕事で北京にずっと居ます。平壌には行っていません」とメトロポリタン放送の報道を全面否定したのだ。煮え湯を飲まされたライバル社は、ここぞとばかりに「医師が平壌入りとの報道を否定」と一斉に報じた。
 
 しかし、ここでルークの勘が役に立った。
 
 平壌には行っていないと証言したデュポア医師が平壌行きの高麗航空の搭乗ゲートを潜る映像を、医師の平壌入りの「証拠」として放送したのだ。否定証言を報じた各社はひっくり返った。
 
 パリに戻った医師も、搭乗映像が報じられたことを知ると困惑した表情でこう言った。
 
「これでは私が嘘をついたことになってしまいますね。でも…総書記の診察はしていませんよ」
 
 メトロポリタン放送も直接診察に当たったとは断じていなかった。ただ、どちらが正直かは誰の目にも明らかだった。
 
 しかし、その翌々日の朝、念の為、自転車通勤に代えていた柳が支局近くで信号待ちをしているとあの男が歩み寄ってきた。そして、恐ろしい目付きで柳を睨みつけるとこう言った。

「今度報道する時は私に相談してくださいとお願いしましたよね。お忘れですか?」
 
 報告を受けたルークは、柳一家にホテルに移り、移動にはハイヤーを使うよう指示した。怪しげな気配を感じたら支局員も同様にするようにと付け加えた。
 
 記者に取材相手の周辺やそのグループと対立する人間が付き纏うことは、頻繁ではないが、稀にある。ほとんどの場合、その後の取材や報道に圧力を掛ける為だ。金目当ての事もある。しかし、このケースは不気味だった。ましてや外国での出来事である。家族も心配だ。
 
 困り果てたルークは袴田に泣き付いたのだ。
 
 柳一家にホテル暮らしを強い続ける訳にはいかなかった。場合によっては任期途中で帰国させなければならない。事情を聞き取った袴田は知り合いに連絡してみると応えた。袴田はフランス駐在経験があった。
 
 数日後、袴田から連絡があった。
 
「大丈夫ですよ。ちゃんと両方見ているそうですから。安心してもらって良いと思います」と。
 
 袴田は、誰が見ているのかまで言及しなかったが、DGSEはパリ支局の動きも相手側の動きもやはりしっかり監視していたのだ。
 
 もしかしたら相手側に何らかの形で釘を刺したのかもしれなかった。これならもう大丈夫だろうとルークは確信し、柳に警戒を続けつつも通常の生活に戻るよう指示したのだった。
 
 

健康状態


 
 また時を現在に戻す。
 
「そういえば北朝鮮は最近大人しいですよね」
 
 食事を終えた袴田が三杯目のグラスを傾けながら投げ掛けた。
 
「そうだよね。でも、水面下で動きがあるらしいって小耳に挟んだよ」
 
 袴田は先を促すようにルークの顔を見つめた。
 
「いや、良く分からないんだが、訪中の準備をしているという情報があるんだ。他にも妙な噂があるし…」
 
「それは、それは…流石ですね」
 
 水面下の訪中の動きは袴田も把握していたようだ。
 
「それにコンサートもあるらしいし…」
 
「コンサートですか?」
 
「兄貴の方だと思うけどね」
 
「なるほど…」
 
「私は詳しいことは知らないんだが、後輩達がギアを上げているよ。何かあったら宜しく頼みますよ」
 
 ルークには何がどう転ぶか全くわからない。袴田も似たようなものだろう。しかし、何かトラブルになったら助けてくれる可能性があるのは日本の当局である。多少の仁義は切っておいた方が無難だ。それに彼らから情報が外に漏れることは無い。
 
 ここまで話したところで店のベルが鳴った。桃子だった。桃子も袴田とは旧知の間柄である。
 
 三人でひとしきり意見交換すると袴田が尋ねた。
 
「桃子さんのお知り合いはどんな感じですか?」
 
 韓国の国情院筋の動きを知りたがっているのだ。
 
「タイミングの一致を気にしていますね。結構真剣です」
 
「うーむ、そうですか。何かありそうですね…」
 
 深いところでの日韓の私服組のコミュニケーションは十分とは言えない。アメリカが間に入らないとパズルのピースが集まらないのは大差無いのだが、自衛隊と韓国軍の制服組同士のコミュニケーションの方がずっとスムースなのだ。事前に全てのピースが集まり、パズルが完成することはどのみち滅多にないのだが、日韓の意思疎通はこの辺りでも相変わらず良くないようだ。それに、袴田も片足はまだ残しているようだっだが、正式には既に第一線を退いている。
 
 またベルが鳴った。袴田と桃子には見知らぬ二人組が入ってきた。胸に弁護士バッジが光っている。これを潮時と袴田は帰って行った。
 
 テーブル席に座った二人組とのやり取りが一段落するとカウンターに戻ったルークに桃子は囁いた。そして、袴田には披露しなかった情報を伝えた。
 
「どうも健康状態に問題があるらしいです。それもかなり悪いみたいです」
 
 これは本当に大きな動きになるかもしれない。ルークはかつてのパリ取材を思い起こした。
 
「やれやれ、大変な事になるかもな」
 
 もう若くない。アドレナリンは出なかった。
 
 その頃、菜々子は北京時代の知り合いにメッセージを送っていた。物理的に対面取材が出来ないのがもどかしい。相手が反応してくるかどうか自信はなかったが、誰のとも言わず「訪中の時期はいつ頃でしょうか?」とだけ尋ねた。質問の意味するところはこれだけで伝わるはずだ。クラプトンのコンサートの日程はとうに公になっていた。
 
 

ソウル


 
 その翌日の火曜午前、支局長の棚橋聡は最も古株の支局スタッフ、通称・アンおばさんから報告を受けていた。
 
「今、会っても話すことは何も無いとおっしゃっているそうです。ちょっと面会は難しそうです」
 
 やっぱりそうかと棚橋は、少し安堵しつつも、失望を感じた。
 
「でも、矢吹さんは元気かとしきりと気にしていたそうです。また酌み交わしたいともおっしゃったそうですよ」
 
 つまり、矢吹が相手なら話をしても良いということか…その機会を作るにはどうすれば良いのか…、もう少し事態が進展して、その必要があるとなればまた考えるかと棚橋は思った。先送りと言われるかもしれないが、今すぐ矢吹まで引っ張り出す程の材料は持ち合わせていない。菜々子には「やはり難色を示しています」とだけメッセージを送った。
 
 その頃,韓国の情報機関・KCIAの後継組織である大韓民国国家情報院、略称、国情院の担当部局では新たに入手した情報の真偽と意味合いを検討していた。国情院の本部はソウル市瑞草区にあり、北朝鮮情報は第三次長率いる部局が担当していた。
 
「ご覧ください。アメリカの衛星が最近捉えた画像五枚です。建物は平壌総合病院の特別病棟で、駐車場にいる高級セダンの数が普段よりだいぶ多いのです。警護車両は含まれていません。党や軍幹部が使用している車両ばかりと思われます」
 
「新型コロナの被害でも拡大しているということか?」
 
「これだけでは何とも言えません」
 
「ただ、最近、幹部間の物理的往来が激減しているという情報もあります。新型コロナを警戒してのことかもしれません」
 
「しかし、幹部間ではワクチン接種が相当進んでいるはずではないか。一般庶民ならともかく、この病院に来られるような幹部達の間で、特別病棟にわざわざ来なければならないような病気が広まっているとしたら変ではないのか?」
 
「もしかしたら、幹部達が一斉にブースター接種を受けているのかもしれません。しかし、その為に特別病棟を使っているとしたら、出入りはもっと多くなっても不思議ではありません。若干違和感があります」
 
「すると重病人が増えている可能性は捨てきれないということになるな」
 
「そうかもしれません。どこかの大幹部の見舞いとしたら数が多過ぎますし、正恩総書記や一族がここに入院する可能性は限りなくゼロに近いです。確かに正恩総書記に重病説があるのは事実ですが、彼らには専用病棟があります。そして、その専用病棟の動きに特段の変化はありません。もっとも地下で動いていたら衛星ではわかりませんが…」
 
「とすると、この特別病棟に来なければならない病人がやはり増えていると考えるのが一番自然ということになるのか?それともアメリカの衛星監視をはぐらかす為のダミーの動きという可能性は?」
 
「どちらも現時点では否定できません。しかし、仮にダミーだとしても目的は不明です」
 
「訪中準備で忙しい時にそんな工作をやらねばならぬ理由はやはり考えにくいか…それも重病説もある中で…何かちぐはぐだ。正哲の欧州行き計画との関連は?」
 
「それもわかりません。が、全てのタイミングが重なり過ぎています。何かの前兆と考えるべきだと現時点では思われます」
 
「付け加えることは?」
 
「ありません」
 
「分かった。更に探ってくれ。変数が増えて大変だが、総動員でやってくれ」
 
 平壌総合病院特別病棟のいつにない動きは中国当局も掴んでいた。そして、防疫・公衆衛生担当者が重大な関心を寄せていた。
 
 中国のスパイ衛星網は既にアメリカと肩を並べる規模に達していた。彼らも特別病棟の
衛星画像をチェックしながら、大使館から上がってきた情報を吟味していた。
 
 同盟国の首都・平壌には中国大使館がある。平壌にある外国の大使館の中では最大規模だ。そして、館員達が足で集めた現地情報は質も量も他国を遥かに凌駕していた。
 
 
 

フラスコ


 
 その日夜、菜々子がオーフ・ザ・レコードに入ると矢吹の明るい声が店内に響いていた。
 
「そうなんですよ、甲斐さん。もうやってられないっすよ」
 
 明らかに社内の噂話に興じている。
 
「で、昨日もね、人材バンクの担当幹部が派遣のお局さん達に吊し上げを食らったらしいんですよ」
 
 人材バンクとはメトロポリタン人材バンクという名前の派遣会社で、メトロポリタン放送の主に事務系部門への派遣をほぼ一手に引き受けているところだ。
 
「何があったんだい?」
 
「いやあ、人材バンクの担当社員の女の子が今度寿退社することになりましてね。どうやらおめでたらしくて」
 
「ふーむ」
 
「相手はうちの社員なんですが、それでお局さん達が一斉に鶏冠に来ちゃって」
 
「なんでだい?おめでたい話じゃないか」
 
「確かに、それはそうなんですけどね。でもね、その担当の女性は普段、派遣の若い女の子達に、男女関係には気をつけろ、騒ぎを起こすなってずっと内々に指導する係でもあったらしいんです。そんなことは男には間違っても口に出来ませんからね。でも、その担当自身が真っ先に社員と出来て妊娠して寿退社するっていうのはどういう了見なのだと女の子達が一斉に反発して、お局さん達が抗議の狼煙を上げたっつう訳なんですわ。いやー大変だったらしいですよ」
 
「成る程。面倒臭いね」
 
「そんな話ばっかですよー」
 
 社員とスタッフ合わせて万単位の人間が働く企業では男女の揉め事は日常茶飯事である。それで辞めるだの部署を変えろだのといった話は引きも切らないのだ。加えて、法に引っ掛かっても不思議ではないトラブルも後を絶たない。
 
 だが、どの業界かに拘わらず大きな組織では大同小異の状況だろう。そして、ほとんど全てのケースで総務のお仕事になるのだ。これでは生産性など上がらぬはずだ。
 
 話が一段落したのを見計らって、菜々子はクラフト・ビールで改めて喉を潤すとルークに尋ねた。
 
「その液体は何ですか?」
 
 ベルリンの壁の破片が置いてあった場所にある液体を指差し尋ねた。
 
 カウンター後ろの酒棚の真ん中に何やら妖しげなトロリとした液体の入った小さなフラスコが置いてある。底には時折きらりと光る下り物があり、コルクでしっかり栓もされている。
 
「ちょっと舐めてみるかい?」
 
 店主がフラスコを取り出し、栓を抜いた。矢吹は先刻ご承知のようだ。
 
「えー」
 
 ルークは変な悪戯を仕掛けてくるタイプではない。しかし、矢吹が横でニヤニヤしている。この為、菜々子が珍しく躊躇いを見せるとルークはフラスコを少し傾けて言った。
 
「大丈夫さ。死にはしないよ。小指の先に少し付けて舐めてごらん」
 
 菜々子が恐る恐る小指を近付けるとルークは言った。
 
「ほんの少しだけだよ。それ以上は知らんから」
 
 言われるがまま、ほんの少し、小指の先に付けた液体を舐めると舌を強烈な刺激が襲った。菜々子は小さな悲鳴を上げて、水を口にする。吐き出すわけにはいかない。期待通りの展開に矢吹が大笑いした。
 
「何ですか、これ?」
 
「死海の水さ。凄いだろ。だが、毒ではない。塩分がとんでもなくきついだけさ」
 
 イスラエルとヨルダンの国境にある死海は海抜マイナス四百メートル超という世界で最も低い土地にある湖だ。周辺から流れ込む川の水が湖から更に流れ出る低い土地は存在せず、中東の強烈な日差しに照らされて水分だけが蒸発していく。
 
 それが何千年も続けば、塩分・主に塩化マグネシウムなのだが、その濃度はおよそ30パーセントと強烈を極めるのだ。
 
 菜々子は後で気付いたのだが、テーブル席の後ろの壁に、両手足を水面から出して死海に浮かび、新聞を読む若い頃のルークの写真が飾られていた。ルークと矢吹は中東取材経験も豊富だったが、菜々子には無い。
 
「さて、今日のお口直しは、ホロホロ鳥のロースト・トリュフ風味ソース、ローストポテトとサラダ添えでございます。お召し上がりになられますか?」
 
 ルークがおどけて言った上で付け加えた。
 
「本物のトリュフは足が出るから使っていないよ。ソースにトリュフ・オイルを少しだけ。だからトリュフ風味さ」
 
 食事中、矢吹はシェリーをテーブル・ワイン代わりにがぶがぶと飲んだ。色の濃いシェリーは食前酒というイメージがあるが、必ずしもそうではない。こちらもワインの一種で地元のスペイン南西部やポルトガルでは普通のワインと同じように嗜まれる。菜々子もご相伴に預かった。
 
 食後、菜々子が口火を切った。
 
「桃姐さんが仕込んできた重病説と岩岡さんの訪中計画は明らかに矛盾しますよね。どちらかはガセということになると思うのですけれど…」
 
「どうせまた誰かのディスインフォメーションじゃないの?」
 
 矢吹が応じた。
 
 間違った情報を意図的に流すディスインフォメーションと呼ばれる工作は珍しいものではない。そうやって相手や世論の反応を見たり、漏洩ルートを洗い出したりするのだ。
 
 日本の捜査機関も裏でそういうことをする場合が稀にある。特定の人物だけに特定の偽情報を掴ませ、それが誰にどう漏れるのか確認する。そうやってお喋りが誰か炙り出し対処するのだ。
 
 実際、金正恩総書記の重病説はこれまでに何度も流れたが、本物と見なされたものは無い。いずれも根拠のない憶測か嘘っぱちだった。
 
 菜々子が続けた。
 
「でも、その情報の確認の為、国情筋が現在進行形で動いているという話は聞いたことが無いような気もするんです。既に他で流れた重病説に関連して、そういう説があるのは知っているという韓国当局の説明は何度かあったように思うんです。そして、暫くして否定するというのがお定まりでした。でも、今回のように重病説が国情筋から最初に流れてきた記憶は少なくとも私には無いんです。そこが引っ掛かるのですけれど…どう思われます?」
 
「そう言われてみればそうか…甲斐さんはどう思います?」
 
「うーん、確かに気にはなるね。でも、その両方が同時に正しいとすると、それはどんな状況で起こり得るんだろうね?総書記が確かに病気で、一刻も争う程ではないものの外国で最先端治療を受ける必要があるので北京で例えば手術を受けるというならシナリオとしては成立する。でも、昔、正日総書記が死にかけても中国には頼らず、頼ったのはフランスだった。でも、今回はそうではない、中国にすがるんだという格段の理由はあり得るのかな?」
 
 矢吹が引き取って応えた。

「甲斐さんも菜々ちゃんもご存知のように、そういう問題で彼らが中国にすがるのは考えにくいでしょ。もしかすると死んでもそれはやらないくらいですよ」
 
 朝鮮半島の人々の多くは心の底では中国が嫌いである。地続きの隣の大国に千年以上に亘って虐げられてきた歴史があるからだ。
 
 今も、かつての朝鮮民族国家の版図だった土地を自国の領土とし、そこで暮らす相当数の朝鮮民族を少数民族として支配しているのは、他でもない中国なのだ。
 
 しかし、それでも全面的に逆らうことはできない。力が違い過ぎる。それに、同時に、他の国、かつての日本やアメリカとの戦いで北朝鮮を助けたのも中国なのだ。
 
 血で結ばれた同盟・中朝関係も一皮剥けば内実は複雑だ。その根底に激しい愛憎が入り混じるからだ。
 
 菜々子が付け加えた。
 
「それに正哲のコンサート観賞計画も矛盾しますよね。総書記が重病ならのこのこ出掛ける訳が無いし、そもそも訪中と時期が被るのも奇妙と言えば奇妙だし…」
 
「その三つが全部当たりってどんな状況があり得るの?考えられないよね。そうでしょ、甲斐さん?」
 
 矢吹が問うた。
 
「そうだよな…遠からず一つ、もしくは二つが消えると考えるのが妥当じゃないか?」
 
 菜々子が応えた。
 
「そうですよね。そうなるのを視野に入れつつ情報収集を続けます」
 
 だが、ルークは付け足した。
 
「ただし、予断を持たないように。万が一、全部当たりだったらとんでもないことになる可能性がある訳だから、決してルーク・ウォームにならないように、な」
 
 口調は随分穏やかになったが、生温い取材はするな!という意味の店主の口癖を菜々子と矢吹は久しぶりに聞いたのだった。
 
 菜々子の腕が鳴った。
 

中南海


 
「間違いありません。少なくとも二度のワクチン接種を終えている朝鮮の上級幹部達とその家族の間で、重症患者が増え始めているのです」
 
 中南海は中華人民共和国政府の中枢組織が置かれている場所の地名である。そこから派生して中国政府中枢を指すようにもなった。
 
 この日、その中南海では習近平主席も出席した外交・公安合同委員会が開催されていて、対外連絡部の郭燿部長がこう報告した。会議を取り仕切っていたのは習主席の最側近で王岐山の跡を継いだ劉正副主席である。
 
「ワクチン接種を何度受けていても高齢者中心に重症患者が一定割合出てしまうのは何処の国でも避けられないのではないか?」
 
「それはその通りです。我が国でもアメリカでもヨーロッパやイスラエルでも似たようなものです。しかし、どうやら北朝鮮ではその割合が多いと考えられます。母数になるブレイクスルー感染の発生数自体がはっきりしない為断言できませんが、おおよそ三十万から四十万、多くても百万人に満たないと推定される二回以上接種完了者の数から考えるとブレイクスルー重症者は最大でも数百人から数千人規模に留まることが本来であれば期待されます。死者数は更に少なくなる筈です。しかも、仮に、同じような割合でブレイクスルー重症者が出るとしても、数週間掛けて緩やかに増えていくはずなのです。しかし、その発生ペースが速いのです。他のどの国のケースよりも速いと考えるのが妥当であることを衛星画像と現地情報は示しています」
 
「問題はそれが何を意味するのかだ。これまでのワクチンが全く効かない新たな変異株が北朝鮮で発生した可能性は?」
 
 劉正が尋ねると、参考人として出席した防疫・公衆衛生問題を統括する趙龍雲国務委員が引き取り応えた。
 
「そこまで断言するだけのデータは現時点で揃ったとは言えません。彼らも今やっきになって検証作業に当たっているはずです。しかし、新たな変異株の出現の可能性を否定することもできません。彼らの警戒レベルは間違いなく上がっています。状況は芳しいとはとても言えません」
 
 コロナやインフルエンザ、デング等のRNAをゲノムとするウイルスは人間の細胞内で増殖する時、すなわち自らのRNAを複製する時、コピーエラーを頻繁に起こす。ウイルスの性質に影響を及ぼすようなエラーは人間の感覚で言えば確率的に0%に近い頻度でしか起きないのだが、複製作業が体内でまさに数え切れないほど繰り返され、それが億単位の人々の体内で延々と続くと結果的に変異株も数え切れない程発生する。その殆どは大きな問題にならず消えていくのだが、中にはより高い感染能力を得た変異株が出てくる。そして、既存株に取って代るのだ。感染力が高い程生存に有利になるからだ。
 
2019年秋にヒト・ヒト感染をするようになりパンデミックを引き起こした新型コロナウイルスも例外ではなく、変異株の脅威も、一時期だが、大問題だった。
 
 WHO・世界保健機構が警戒を要するとみなした変異株にはギリシャ文字が当てられα・アルファ株やβ・ベータ株と呼ばれるようになって久しかったが、この時、二十四のギリシャ文字は既に最後まで使い果たして一巡し、最新の注目変異株はローマ数字と組み合わされ、アルファⅡ株と呼ばれていた。毒性こそ強まることはもう無かったが、感染力が高まることで被害が急拡大したこともあったからだ。
 
 ただし、十三番目のギリシャ文字、ν・ニューは、アルファベットの小文字のvや英語のNEWと紛らわしかったし、十四番目のξ・クサイは英語表記をするとXi、習近平主席の習の英語表記・Xiとスペルが同じになる為、そして、十六番目のπ・パイは円周率と混同される為使用を避けられていた。最後のΩ・オメガも有名時計ブランドと重なる為使われなかった。
 
 余談になるが、パンデミック宣言直後に、日本では三密、すなわち、密集・密接・密閉を避けるように盛んに言われた。これを捩って、集・近・閉を避けようというジョークが一時、流行った。ξ・クサイの使用が避けられた後は、ここから、クサイさんを避けようというジョークも発生した。触らぬ神に祟りなしと同じような意味で使われた。
 
 およそ一時間の議論を経て、劉正がまとめ始めた。
 
「嫌な予感がする。訪中ももうすぐだ。最大限の警戒を続けて欲しい。万が一、これまでのワクチンが全く、或いは殆ど効かない変異株が出現したとなると感染が急拡大し非常にまずいことにもなり得る。情報収集を続けるとともに国境の警戒を更に厳重にするべきだろう」
 
 公安部代表が即座に応じた。
 
「抜かりなく」
 
 軍代表も続いた。
 
「既に十万人を追加で増強してあります」
 
 そこに、それまで黙って議論を聞いていた習近平主席が割って入り、こう言った。
 
「危険な変異株出現が本当だった場合の対策を並行して策定して欲しい。国内対策と対外策の両方を、早急に」
 
 習主席はそれ以上具体的なことは口にしなかった。が、出席者の誰もがこの場で対外策にも言及した主席の意を即座に汲み取った。
 
「北朝鮮から地続きの中国に知らぬ間に変異株が拡がり、中国が再び震源地と看做されるようなことになるのは拙い。加えて情報を隠蔽したとまた非難されるのは何としても避けなければならない」と。
 
 これくらいの事を読み取るのは朝飯前でなければ中国で出世は出来なかった。生き残りには正しい忖度と素早い対応、そして、適切なタイミングで密かに行う責任回避が必須であった。
 
 武漢で流行が始まり、パンデミックを引き起こした新型コロナウイルスの起源は依然として明らかになっていなかった。蝙蝠から中間宿主を経てヒトに感染するようになったのだろうという推測が有力ではあったが、何処の蝙蝠が元々の宿主で、中間宿主は何だったのか、第一号患者は誰だったのかなど多くが謎のままだ。
 
 しかし、中国政府が徹底的な国際調査を拒否した事実と中国最高峰のウイルス研究所が置かれている武漢で流行が始まったという事実は誤魔化しようがなく、中国政府はやはり何かを隠しているのではないかという疑いを晴らせなかった。その上、新たな変異株への対応で中国が更に糾弾されるような事態は何としても避けなければならないのだった。
 
 会議は散会した。
 

二0xx年二月一日・環球時報


 
 月が替わったが、金正恩総書記訪中に関わる具体的な発表や報道は無く、菜々子達の取材でも新たな情報は暫く無かった。ただ、菜々子が質問を投げ掛けた北京の公安筋の知り合いから「感染状況が不透明だ」という連絡があっただけだ。
 
 その情報自体に新味はない。北朝鮮の内部事情が不透明なのはいつものことだったし、大規模クラスターの発生はいわゆる筋情報として何度か流れていた。確認されたことこそ殆ど無かったが、専門家の誰もがさもありなんと考えていた。
 
 中朝国境地帯の往来の警戒は何年も続いていた。しかし、この情報が訪中計画に絡んで出てきたということは、感染状況が改善しなければ訪中計画自体が一旦延期になる可能性もある、そういう示唆なのかもしれないと菜々子達も考えるしかなかった。しかし、放送で取り上げる程の価値は見出せない。
 
 この金曜日の夜、菜々子は久しぶりに太田博一と濃密な時間を過ごしていた。外務省のキャリア外交官の太田も忙しく、逢瀬の時間は滅多に取れない。
 
 前年の春、十か月程前に、外務省が主催したある会合で菜々子は所謂バツイチになっていた太田に再び出会った。菜々子に結婚歴は無い。二人は以前、同時期にワシントンに駐在していたことがあり、その頃から顔見知りではあった。
 
 長身で爽やかな太田に菜々子も好意を持ったものだが、当時、太田には妻女がいた。この為、彼は時折顔を合わせる知り合いの外交官という域を出なかったのだ。しかし、帰国して数年経って事情は変わっていた。再び出会い、名刺交換した菜々子に太田は仕事の合間を縫って、猛烈なアタックを開始したのだ。
 
 太田の優しい指の動きがもたらす快感に浸りながら、菜々子はその時の驚きと喜びを思い起こしていた…。
 
 十代の頃から菜々子に近付いてくる男は多かった。そのうち数人と深い関係になったこともあった。が、長続きしなかった。付き合ってみると、底の浅い、自信過剰なタイプばかりだったからだ。
 
 賢そうなしっかりした男達が菜々子に興味を示さなかった訳ではなかったが、良い男には大概パートナーがいた。或いは菜々子を高嶺の花と端から諦めていたのかもしれない。そういう男達に本気で口説かれた経験は何故か無かった。
 
 それに社会人になってからは菜々子も忙しかった。記者の仕事と生活のサイクルは一般の人達とは相当異なる。テレビ・ニュースの締め切りは朝・昼・夕・夜と一日四回もある。加えていわゆる夜討ち朝駆けを真面目にやっていれば異性と新たに良い関係を築くような時間を確保するのは至難の業であった。それ故か、この業界では就職前の学生時代から付き合いのある相手か仕事のサイクルを理解できる同業者と結ばれるケースが多かった。それ以外は長持ちしないのが珍しくなかったのだ。
 
 繰り返す心地良い小波が徐々に大きくなってきた。そして、間もなく、菜々子の瞼の裏に白閃が走った。
 
 我を忘れ声を上げた。
 
 直後、再び太田が入ってきたのだ。
 
 腕枕を解くと太田がお茶の入ったペットボトルの蓋を開け、一つを菜々子に渡し、もう一つを自ら飲んだ。そして、囁いた。
 
「久しぶりだね。やっぱり忙しかったみたいだね」
 
「前回はごめんなさい。急に大事な取材が入ってしまって」
 
 菜々子も甘えるように囁いた。
 
 付き合い始めた当初こそ、二人の共通の専門分野である国際問題を話題にすることも多かったが、今では仕事の中身の話は原則避けている。意見がぶつかるようなことは共に望まなかったし、情報漏洩と疑われるような事態を招くのはあってはならないことだったからだ。
 
「お腹は空きませんか?」
 
 菜々子が尋ねた。
 
「大丈夫だよ。それよりもう一度…」
 
 耳元で囁くと太田は再び身体を寄せた。
 
 菜々子の吐息と抑えきれない喜びの声が部屋にまた微かに流れ始め、それが途切れることなく続いた…。
 
 深夜の一時を過ぎた頃、菜々子のスマホに着信音がなった。速報の音だ。緩慢な動きながら画面を確認するとロイター通信がこう伝えていた。
 
「北朝鮮の金正恩総書記が近く北京訪問か?環球時報が伝える」
 
 環球時報は中国共産党機関紙・人民日報傘下のタブロイド紙である。国際問題を主に取り上げる。アメリカ政府はこの環球時報を中国共産党の宣伝機関と断じ報道機関とは認めていない。西側メディアの基準からすれば、その論評は過激で極めて政治的、掲載される情報は玉石混交である。しかし、時折、大当たりを流すのだ。中国政府のリークの一環だからであろうと看做されていた。
 
 菜々子は重い身体を居間に移し、環球時報のウェブページをチェックする。するとトップでは無かったが、次のような短い記事があった。
 
「中朝国境地帯から北京に繋がる鉄道網の点検が強化され、どうやら近く外国要人が利用するとの噂が沿線住民の間で拡がっている。かつて北朝鮮の故金正日総書記や現在の金正恩総書記が列車で北京を訪れた時と同じだと囁く住民もいるという。
厳重なかん口令が敷かれているらしく明確な証言は得られていないが、中国外交部筋は本紙の取材に対し、『その為の準備と考えても良い、しかし、総書記の訪中はまだ確定したものとは言えない』と語った。公式の発表の予定はまだなさそうだ」
 
 数日前、北京支局の岩岡はスタッフを中朝国境の町・丹東に派遣し、国境警備の様子や鉄道沿線の様子をそれとなく探らせていた。だが、その時点で特にこれといった変化は見られなかったという報告が上がっていた。また、北京の北朝鮮大使館で特に慌ただしい動きも見られなかったという。しかし、環球時報がこう伝えたということは中国共産党宣伝部承認の上で流したと考えるのが妥当である。
 
 菜々子は国際取材部の泊り当番に連絡し、翌朝のニュースでこれを短く放送するよう指示した。きっと各社も同様に扱うだろう。まだ遠い間接的な未確認情報とは言え、金正恩総書記の動静に関わるニュースは久しぶりなのだ。岩岡ともやりとりし、翌日か遅くとも翌々日に再び支局スタッフを国境地帯に派遣することを確認した。
 
 菜々子が寝室に戻ると太田は既に寝息を立てていた。
 

コリアミッション・センター


 
「いよいよ出発したということかしらね」
 
 CIA本部のコリアミッション・センターでは数枚の画像をモニターに映し出し検討会が開かれていた。ファン・ジアン所長は続けて尋ねた。
 
「列車への乗り込みは確認できたの?」
 
「いえ。多分彼らは衛星が上空に居ない隙に乗り込んだか地下通路を使ったのでしょう。乗り込みの動きを捉えた画像はありませんでした」
 
 CIAは既に車両の改造を思われる作業や食料・水等の物資の積み込みが完了しているのは確認していた。
 
「列車は少し長いみたいね」
 
「はい。三十両編成です。過去の例より長いですね。ディーゼル機関車も二両入っています」
 
「どの方面に向かっているのかしら?丹東?」
 
「どうやら違うようです。断言できませんが、もっと北の満浦方向に向かっているようです」
 
「集安から入るのね。すると結構遠回りをすることになるわね」
 
 中朝国境には、西の端に近い中国側の町・遼寧省丹東と向かいの北朝鮮新義州を繋ぐ路線の他に、もっと北東の中国吉林省集安と向かいの北朝鮮慈江道満浦を結ぶ鉄道路線がある。こちらの鉄橋は日本が朝鮮半島を占領していた大昔に建設されたものだ。特別列車は北の鴨緑江を渡って吉林省に入るようだ。
 
「でも、こちらの写真もご覧ください。平壌空港の写真です。ここでも特別機の整備が本格的に行われています。まだ空路で北京入りする可能性も否定できませんし、帰国の際だけこちらを使う可能性もあります。もしくは、そのどちらでもなく、緊急時の移動用としてスタンバイするだけなのかもしれません。本人がもう特別列車に乗っているのか、或いはいずれ航空機に乗るのか、未だはっきりしません」
 
「正恩総書記が平壌に残っていることを示唆する動きはあるの?」
 
「それもはっきりしません。彼らも衛星で見られていることは良く分かっています」
 
「そう。いずれにせよ次回のブリーフィングには入れないとね。準備をお願いします。急ぎでね」
 
「わかりました、所長」
 
 アメリカの情報機関は、毎朝の定例ブリーフィングで、大統領に世界情勢に関わる特記事項を報告し説明する。紙に記されるのはA4一枚か二枚程度と言われているが、時に詳細な説明を求められる。翌朝のブリーフィングの主なテーマは、金正恩総書記の訪中の動きになる可能性が高い。ファン・ジアン所長は部下に入念な準備を求めたのだった。
 
 

空飛ぶ救急車


 
「レーダーに従ってそのまま降下を続けてください」
 
「了解」
 
 AAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのパイロット、トニー・ジョンソンは管制官との無線交信を続けながら最終着陸態勢に入っていた。機体はプライベート・ジェットとして名高いガルフ・ストリーム。双発のエンジンを積み、航続距離の長い機種は一万キロ以上を優に飛ぶことができる。ミニ手術室兼ICUとも言える医療設備を搭載したジェットの後部空間にはアラブの大富豪一族の一人が横たわっていた。医師・看護師のチームや親族も同乗している。
 
 AAI社の臨時フライトはほぼ予定時刻にロンドン南方のガトウィック空港に着陸した。
既に救急車が待ち構えている。患者に異状は無い様だ。患者は早ければ明日にも市内の病院で腎臓の緊急移植手術を受ける予定と聞いていた。
 
 患者らが下りた後、トニーは機体を空港内の整備場に移し、全てのスイッチをオフにした。副操縦士、エンジニアと共に機体を降りるとAAI社の運航担当者が待っていた。
 
「次は北京からパリまで肝臓病患者を運ぶオーダーが入りました」
 
「何日だい?」
 
「二月十四日頃に北京空港でスタンバイ、患者が搭乗次第可及的速やかに、オルリーに向かいます」
 
「その後は?」
 
「患者はパリ市内の病院に入ります」
 
「了解」
 
 患者はパリで肝臓の移植手術でも受けるのだろう。それなら移送中に亡くなるリスクは低い。それまでに緊急輸送の依頼が無い限り、暫くは自宅でゆっくりできそうだ…トニーは一息ついた。
 
 簡単な手術も可能な医療設備を積んだ『空飛ぶ救急車』とも言える航空機が世界には存在する。先進国の軍は必ずと言って良い程保持しているが、民間にも存在する。国土が狭く、医療の発達した日本国内なら緊急時でもドクター・ヘリで十分で、航続距離の長いこうした民間航空機が使われることはなかったが、欧米にはこの空飛ぶ救急車を運航する民間企業が幾つかあった。ただ、北京・パリ間を途中給油無しで一気に飛べる航続距離の長い機材はトニーが操縦するガルフ・ストリームしか無い。
 
 もっとも救急車と呼ばれていてもすぐに使えるとは限らない。そもそも数に限りがあるし、臨時便運航には様々な手続きが必要だ。比較的短距離の移送の場合を除き、実際には時間的な余裕をもって予約しなければならなかった。価格はケース・バイ・ケースとしか言いようがなかったが、北京・パリ間の移送なら確実に二億円以上になるはずだった。
 

丹東


 
 遼寧省丹東は周辺地区も含めると人口およそ二百四十万人、漢族、満州族、朝鮮族などが住む中朝貿易の拠点となっている町だ。北朝鮮との国境の鴨緑江沿いのホテルの部屋からは対岸の北朝鮮の新義州市の様子や中朝友誼橋の往来の様子が見える。橋は鉄道用と車両用の二本ある。
 
 岩岡が派遣したメトロポリタン放送北京支局の取材チームは、ホテルに陣取り、窓から橋や周辺の様子をチェックした。もちろんカメラを据える。相変わらず国境の警備は厳重で、中朝の往来は滅多にない。岩岡の部下で北京二番旗特派員の佐藤俊介はスタッフを周辺の聞き込みに当たらせた。時と場合に依りけりなのだが、明らかに外国人と分かる佐藤が自らあれこれ嗅ぎまわるのはここでは余り好ましくない。
 
 北京からのフライトには同業者の姿もあったが、間違いなく同じようにやっているはずだ。中華人民共和国政府発行の正式な記者証を持っていれば、警備陣を刺激するようなあからさまな行動をとらない限り、地元スタッフによる取材を咎められることは通常無い。時折、誰何される程度だ。
 
「特に目立った動きは無いみたいですね。話をした地元住民は皆、変わったことは無い、何にも気付かなかったと言っています」
 
 朝鮮族出身のスタッフの一人、カン・ユハが聞き込みから戻り佐藤に報告した。カンは中国語・朝鮮語・日本語ができる。
 
「まだなのかな…待つしかありませんが、念の為、延吉や集安の様子も調べて貰えますか?」
 
 佐藤は年長のカンに依頼した。丹東のある遼寧省に隣接する吉林省の国境地帯には朝鮮族が多く暮らしている。カンの出身地でもあった。彼女には知り合いが沢山居る。
 
 中国の地方取材では、稀に、身元の確認をすると称して地元公安のオフィスに案内されて長々とお茶を飲まされる破目に陥ることがあった。或いは、そのまま空港まで送り届けられ、明確な指示がある訳ではないが、すぐに北京に戻るよう暗に命じられることもあった。そして、そのような時こそ外国メディアに取材などされたくない何かが進行中である可能性が高かった。そんな状況をメトロポリタン国際取材部では「お茶に呼ばれた」などと表現していた。アラブ圏の国でも「お茶に呼ばれる」ことが偶にあった。この丹東取材では誰何されることもお茶に呼ばれそうな雰囲気もまるで感じられなかった。
 
「オー…」
 
 カン・ユハの電話口の声が高くなった。佐藤には朝鮮語の会話の内容はチンプンカンプンだったが、何か収穫があったらしいことは想像できた。
 
「今朝早くに特別列車が通過したという目撃情報が噂になっているそうです。今、どこを走っているか不明ですが、当然、北京方向に下って来るはずです」
 
「え、もう入国した?本当に特別列車なのですか?」
 
「知り合いから聞いたのはあくまでも噂です。目撃者から直接聞いたわけではありません。知り合いには、目撃者を探し当て、どんな列車だったか詳しく尋ねて欲しいと依頼しました」
 
「流石ですね、カンさん。一応、支局長には私から途中経過を報告しておきます」
 
 そう言うと佐藤は使い捨てシムの携帯で岩岡に連絡をした。佐藤チームが丹東に居るのはすでにバレバレなはずだが、報告の中身まで同時に聞かれてしまうのは可能ならば避けたい。
 
 現地の郷土料理は東北菜と呼ばれる。佐藤チームがその東北菜の玉蜀黍の粉で作った麺の焼きそばと豚肉入りの酸っぱいスープで簡単な昼食を摂っているとカンに連絡が入った。
 
「目撃者によれば緑色の綺麗な列車が三十両位も連なっていたそうです。機関車は少なくとも二両ありました。それに列車の通過時には線路脇のそこかしこで兵士達が立っていたと言っているそうです」
 
「では、間違いないでしょうね」
 
「そう思います」
 
 佐藤が岩岡に報告すると直ちに撤収するよう指示があった。
 
 海外特派員を希望する記者は基本的にあちらこちらに出張するのが好きな人種である。取材が非常にきつく時には相当な危険を伴っても本社に居るより遥かに良いと感じるのが普通だった。それ故、佐藤は今回の取材が日帰りになってしまったことが不満であった。
 
 だが、仕方ない。列車が既に入境したということならば、自分達で追うより中国の鉄ちゃん情報を探った方が速いし正確だ。それに撮り鉄達が発見すれば写真がアップされる筈だ。割り切るしかなかった。
 
 新しい映像は無かったが、「北朝鮮から特別列車が中国入りの情報。金正恩総書記が訪中か」というニュースをメトロポリタン放送はその日、日曜の夕方に放送した。共同通信や時事通信も同じ情報を少し前に配信していたし、他のテレビ局数社も同様に報じた。韓国やアメリカのメディアも続いた。
 
 公式発表はまだ無い。北朝鮮や中国のメディアはこの件では沈黙していた。珍しいことではなかった。
 
 岩岡の報告を受け、菜々子はソウル支局の二番旗・戸山昭雄と取材スタッフ一人、カメラマン二人を北京に投入することにした。矢吹が示唆したようにバンコク班も入れようかとも考えたが止めにした。中国の記者証を持たない取材班を闇雲に入れても身動きが不自由になる。取材ヴィザは絶対間に合わなかった。それに中国語が出来ない人間が増え過ぎると地元スタッフの負担が過大になり、本来の取材に支障をきたす。
 
 何とか理由を付けて自分が北京入りしようと菜々子は考えていた。
 

編集会議


 
「金正恩総書記の訪中に関する続報はありませんか?」
 
「いえ、まだ…発表もありません」
 
「現在はどの辺りにいるかも?」
 
「鋭意取材中ですが、分かっていません。過去の例からも北京に直行するとは限りませんので」
 
「取材態勢は?」
 
「ソウルから戸山班がもう北京入りしました」
 
「それで足りますか?」
 
「足りないとなれば追加投入することになると思います」
 
 月曜の朝の編集会議で坂口淳編集長が国際取材部デスクに質問を矢継ぎ早に浴びせていた。それを聞きながら菜々子は思案していた。自分自身の北京出張名目をどう説明するかまだ決めかねていたのだ。
 
 月曜の午前中はこれといったニュースが国内で少ないことが多かった。世の中が平穏な証でもあるので悪いことでは無かったが、ニュースの放送枠は決まっている。報道するに値するネタが少ないからと言って放送時間が短くなることはない。この為、番組編集サイドの月曜朝のネタ探しはしつこくなる傾向にあった。
 
「何か出せませんか?」
 
「単なる焼き直しなら可能ですが、それ以上は今のところ…」
 
 続報が無いというデスクの報告に編集長は明らかに不満顔であった。
 
 戸山班の北京入りの目的が正恩総書記訪中の応援取材の為ということはわざわざ報告するまでもなく明らかだった。
 
 メトロポリタン放送の特派員の出張の可否の決定は国際取材部長の専権事項で、上司に事後報告さえしないこともあった。もっとも、ほとんどの場合は編集会議でデスクが報告していたし、出張経費精算は業務担当部門を通さねばならなかった。が、いずれにせよ事前にお伺いを立てる必要は無かった。そうでなければ時差のある諸外国で迅速な取材など出来ないからだ。しかし、国際取材部長本人の出張となれば国内外を問わず話は別で、報道局長の事前許諾が必要だった。菜々子が北京に行くには局長にイエスと言わせなければならない。
 
 金正恩総書記に訪中計画があり、特別列車が既に中国入りした模様という以外の関連情報はソウルの戸山班や北京の佐藤達にも知らせていなかった。菜々子が知る情報を社内である程度共有しているのは岩岡だけだ。矢吹や棚橋にもまだ全てを伝えている訳ではなかった。当然、菜々子の上司や他の部の部長達は何も知らない。しかし、総書記訪中だけでは菜々子が応援出張に行く理由としては弱い。彼女は少し困っていたのである。
 
「どうしようかな…。やっぱりあの手を使わないと駄目かしらね…」
 
 菜々子はそう思った。嘘をいう訳にはいかない。しかし、本当の理由を喋るのも避けるべきだった。
 
 どの時点でどんな情報をどこまで把握していたのかが外部に知られるとたとえ入手ルートそのものは隠し通せても、ルートの本数や深さを類推されてしまう恐れがある。そうなるとメトロポリタン放送の取材への警戒が一層強まる恐れがあった。最悪の場合、ネタ元探しを重点的にやられて割り出され、潰される恐れもあった。
 
 同業他社が知った場合、彼らが密告してネタ元が潰されてしまうのは日本の国内取材でも珍しいことではなかった。それ程、競争は激しかった。駟も舌に及ばずという中国の諺もある。局長に説明するといずれ広く知られるようになる恐れ大であった。
 
「うまく躱して現場に口を出してこないようにもしないと…」
 
 特派員の中でも棚橋や戸山、それに佐藤は自分達が知らされていない情報がまだあるはずということを薄々感じているだろう。そして、自分を信用しないのかと不満に思っている可能性もあった。かつての菜々子もそうだった。
 
 しかし、水面下の未確認情報は相手を選ぶのだ。然るべき地位にいるからといって自動的に伝わるものではない。然るべき地位に居る者が、もしも、それにふさわしい自覚と識見・経験を持っていなければ伝えてもらえない。ましてや、入手ルートに関する情報が共有されることはない。情報管理が甘いと疑念を抱かれたらネタ元達からも相手にされなくなるからだ。
 
 この点、ルークは極めて厳格であった。結果、上司達の不興を買って、彼が報道局内で孤立する原因にもなった程だ。ルークは上がってきた情報そのものの吟味はきつかった。ガセネタを掴まされては困るからだ。しかし、それが明らかに怪しいと思わない限り、菜々子のネタ元そのものの詮索は原則やろうとしなかった。
 
「人間の口は牡蠣のように固く、牡蠣のように滑る。だから、滑っても知らなきゃ喋れないだろ?」
 
 これも彼の口癖であった。
 
 定刻の十時に始まった部長会で菜々子の発言順が回ってきた。
 
「特別列車が真っ直ぐ北京に向かったとすると今日にも到着しても不思議ではありません。でも、公式の発表はまだで、列車の居所も漏れ伝わってきません。最短距離の丹東を経由せず、遠回りして国境を越えたことから考えても、まずどこかに立ち寄って視察でもしてから北京に入るとみた方が良いのかもしれません。いずれにせよ本当に久しぶりの中国訪問です。既にソウル支局の戸山班が応援に入りましたが、状況次第では追加投入も検討します。言葉の問題もあるので、場合によっては、私も北京入りを考えようかと思っています。以上です」
 
 自身の北京入りも考えるという発言で加藤局長始め数人が顔を上げて菜々子の方を見たが、司会の業務部長が実直に手順通り「次に経済部長、お願いします」と進行した為、この場では質疑は無かった。このまま何もリアクションが無ければ北京行きをシレっと実行できる。しかし、案の定、そうはいかなかった。
 
 部長会に続き、昼ニュースのオンエアが終わると菜々子は加藤に呼ばれた。部屋に入ると開口一番、加藤は質問をぶつけてきた。
 
「国際取材部長自ら北京入りする必要はあるのか?訪中だけなら要らないだろ?」
 
 菜々子は思案するそぶりを見せてから応えた。
 
「訪中を追うだけなら、確かにそうかもしれません。でも、二十階が要人との面会をお望みなのは局長もご存知ですよね?」
 
 これには加藤も黙って頷き先を促した。
 
 これ自体は嘘では無かった。メトロポリタン放送は九十代に入っても矍鑠としている最高顧問が会長以下の幹部人事も経営方針の決定も事実上取り仕切っていた。七十代の会長も六十代の社長も相談役の小僧上がりだった。つまり、依然、会社を完全に牛耳っていたのだ。二十階はその彼らのオフィスがあるフロアの事で、中国政府の中枢を中南海と呼ぶように二十階はメトロポリタン放送の経営中枢を指す。そして、詰まるところ、最高顧問の意向を指すのだ。
 
 実現可能性はゼロに近かったが、もしも、習近平主席との面会アレンジに成功したら最高顧問自身が、それよりも少しは実現可能性のある首相や外務担当政治局委員との面会の場合は会長か社長が上機嫌に乗り出してくる筈であった。そうなれば彼らの箔付けになるし、報道局長の得点にもなる。加藤には否も応もなかった。
 
「もちろん簡単ではありません。しかし、丁度良い口実にもなりますので、このタイミングで私が行って、下拵えの続きをしようかと思っています」
 
 菜々子がわざわざ口実と言ったのは総書記訪中取材という立派な名目で出張精算が出来るからだ。本当の目的に一切触れずに済む。
 
「脈はあるのかい?」
 
「それは何とも言えません」
 
「そうか…わかった。後でしっかり報告してくれ」
 
「わかりました」
 
 世間一般ではこのような時「承知いたしました」とか「畏まりました」と言うのだろうが、報道局でそんなもったいぶった言い方をする人間は少数派だった。俗に言うところの切った張ったの中でも厳しい取材を続け、オンエアで秒を争うテレビ報道の現場は端的な物言いを好んだ。大きな突発事案があれば、上下に全く関係なく、単語だけの会話が飛び交うのも普通であった。
 
「どんな魂胆なのか分からないけれど、局長も甘いわよね」
 
 暫くして局長室から出てきた雨宮が菜々子に向かって呟いた。北京入りに疑問を呈したのだろうが同意は得られず、詳細も聞き出せなかったに違いない。菜々子はにこりとしただけで口を開かなかった。
 
 加藤に下拵えの話を吹聴されるのは困るのだが、その心配は無用であった。そんなことをすれば局長自身が浅ましい奴と思われるからだ。それに下拵えは支局長以外の現場スタッフが詳しく知らなくとも不思議ではない特命事項に当たるので、彼が支局に直接手を突っ込んでくる可能性も低かった。細工は上々であった。要人との面会は成功しなくとも言い訳ならなんとでもなるのだ。
 
 その頃、中国・吉林省西部の畑が散在する広大な原野で、引き込み線上の特別列車がゆっくりと動き始めていた。半日近くそこに留まっていて時折本国と通信しているのをCIAは確認していたが、ぐずぐずしている理由は未だ分からなかった。次の目的地もはっきりしない。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
本連載の複製・蓄積・引用・転載・頒布・販売・出版・翻訳・送信・展示等一切の利用を禁じます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?