ハピタとホピタの冒険譚

女王の愛 前編


あらすじ

鮫の兄弟、ハピタとホピタが七色の羽衣を纏う小天女に出会い、アミとクミ、ター小母さんも引き連れて海の冒険に乗り出す物語。第一話では怪魚・ダイアンとキヌべという女王同士の軍団の大戦争に介入する。多くの犠牲を招いた悪巧みの首謀者は…?

小天女


 初めて出会った時の衝撃をハピタは今でも鮮明に記憶していた。

 あれは去年の夏、暑さにやられて珊瑚の陰で休んでいたら鮮やかな羽衣を纏った彼女が視界を横切ったのだ。脳天に一撃を喰らうとは此の時の事を云うようだった。

 七色の羽衣を漂わせながら彼女は流れに乗って軽やかに舞っていた。その如何にも楽しそうな姿に見惚れていると二匹の大きなミノカサゴが後を追うのに気付いた彼は急に我に返り、大急ぎで彼女の下に駆け付けたのだった。ミノカサゴは大食漢なのだ。 

「おう、ちょいと待ちな!お前さん達、この子にいってえ何をしようってんだ?事と次第によっちゃあタダじゃおかねえぞ」

 ハピタは割って入り啖呵を切ったのだ。

 

「おい、急げ。もうすぐだ」
 ハピタはホピタに発破を掛けた。

「だって兄ちゃん、潮が急なんだもん。簡単じゃないよ」
 ホピタが応えた。

「四の五の言ってねえで全力を出せ!おめえの図体ならへっちゃらだろ!」    
 ホピタの大きな口の中で歯の隙間から先を覗き見ながらハピタが続けた。

「分かった、兄ちゃん、そんなにガミガミ言わないでよ。じゃ、行くよ、全速前進―」
 ホピタは口をしっかり閉じ、シャカリキになって進んだ。
 

 あの時、豆鉄砲を喰らったような顔をした二匹のミノカサゴのうち幾分赤い方がこう応えた。 

「何してるって…?追っ掛けているだけですけれど…」
「やっぱりな、そうやって彼女を一飲みにしようって魂胆だな。そんなこたぁー、この俺様が許さねえ。さっさと消え失せろ!」
「そんなことしないわよ、私達、基本、草食だもん」

 今度は幾分黒いミノカサゴが応えた。

「草食だと…?ミノカサゴが…?」
 ハピタがきょとんとしていると彼女が舞い降りて来て言った。

「どうしたの?もう止めちゃうの?」

 その姿の余りの愛くるしさにハピタは狼狽えた。

「こ、こんにちは」
「あら、こんにちはー。初めてね、お鮫さん。貴方は何を食べるの?やっぱり肉食?お魚を食べるのかしら?」
「あ、はい。いや、たった今この瞬間から、あっしもベジタリアンになりやす。そう誓いやす」

 彼に躊躇は無かった。

「良かったー。じゃあ、貴方も入ってね。私達、追いかけっこをしていたの」
「追いかけっこ…でやしたか?」

「そうよ」
 赤い方が言った。
「何だと思ったの?」
 黒い方が続いた。

「そしてね…捕まえたらこうするのよ」 

 そう言って彼女が唇をまるで接吻するかの如くハピタに近づけ、水を軽く吹きかけた。

 その甘い香りにハピタは昇天し、少し漏らした。その様子を見て取った二匹のミノカサゴが互いに頷き合ってくすっと笑った。 

「私は天ちゃん、この子達はアミちゃんとクミちゃん、貴方は?」
「へ、へい、あっしはハピタと申しやす」
「じゃあ、ハピちゃんが鬼ね。今、吹きかけられたでしょう?十までちゃんと数えてね」

「きゃー」
「行くわよー」
「それっ」

 彼女達は逃げた。 

 あの甘い水を吹きかけて貰えるなら何でもする、是が非でも彼女にまた鬼になって捕まえて貰おう…そう思ったハピタは期待に身震いしながら真面目に十まで数え追いかけ始めた。

 珊瑚の隙間を縫うように逃げる彼女達を漸く追い詰め水を吹きかけようとした瞬間、頭上に巨大な影が現れたのにハピタは気付いた。

「ま、拙い」
 ハピタはその陰を立ち塞ごうとしたが手遅れだった。あっと言う間に吸い込まれてしまった。 

「兄ちゃん」
 影の主は言った。

「馬鹿野郎、そのでっけえ口を急に開けるなって何度言ったら分かるんだ、この唐変木!」
 大きな口の中の空間でハピタが吠えた。
「だって…面白そうなんだもん…僕も仲間に入れてって言おうと思ったんだ…ごめんなさい」 

 大きな口の中でアミとクミはきょとんとしているが、急流に吸い込まれてくるくる回る彼女は明らかに喜んでいた。

「楽しいー」

 暗い筈の口の中で彼女は光り輝いていた。その姿に改めて見惚れながらハピタは命じた。

「いいか、今度はゆっくりと開けるんだぞ。奥まで吸い込まれちゃあ叶わねえ。分かったな?ゆっくりだぞ」
「分かった。ごめん、兄ちゃん」

 揃って外に出ると彼女は超メガ・サイズの鮫に話しかけた。

「こんにちはー、初めてね、大きなお鮫さん。貴方は何を食べるの?やっぱり肉食?お魚を食べるのかしら?」

 話し掛けられた超メガ鮫がもじもじしているとハピタが代わりに応えた。 

「こいつは元々菜食主義でして…魚は食べやせん。馬鹿みたいに沢山食いやすが、海藻とプランクトンしか食わねえんです」
「良かった…。私は天ちゃん、この子達はアミちゃんとクミちゃん、貴方は?」

「ホピタと申しやす。図体はどでけえですが、あっしの弟で」
 再びハピタが応えた。

「じゃあ、貴方はホピちゃんね。宜しくね」

 そう言って彼女は唇をホピタの巨大な鼻先に近づけ水を吹き掛けた。するとホピタは巨体を震わせ少し漏らした。後方の水が茶色く濁る。

「うわー臭そうだわー」
「堪らないわねー」

 アミとクミがけたけたと笑った。

「ホピちゃん、今度は貴方が鬼よ。十、数えてね。口を急に開けて吸い込むのは反則よ」

 そうやって彼女達とハピタとホピタの兄弟は日がな一日この上なく愉快に過ごしたのだった。

 

 きつい潮の流れを乗り越え、珊瑚礁の間を何とかすり抜けた兄弟は目的地の広い中海に到達した。青く、静かだ。

 弟の口から出たハピタは周りを見回し彼女の姿を探した。すると間もなくアミが近付いてきた。

「あら、お久し振り、ハピタさん、ホピタさん、お元気そうね」
「あ、どうもお久ぶりで。アミさんもお元気そうで…。あの…他の皆さんは?」
「小天女様は今お昼寝している筈よ。でも、そろそろ起きる時間だと思うわ」

 後方から近付いてきたクミが言った。

「小天女様?」
「そうよ。本人は天ちゃんって呼ばれるのを望んでいるから直接呼びかける時はそうするけれど、普段、私達は小天女様と呼んでいるの。ピッタリでしょ?」
「確かに…ピッタリでやすな」

 すると上空から軽やかな嬌声が近付いて来て、七色の輝きと大きな黒い物体が着水した。驚いたハピタとホピタはあんぐりと口を開けた。

 ホピタの大口に吸い込まれそうになった黒い物体が足をぱっと拡げてホピタの顔に張り付きそれを防ぐと後から続いた輝きはホピタの鼻先で止まった。ホピタは身を震わし後方の水を茶色く染めた。アミとクミがクスっとした。

「あ、何と羨ましい」
 ハピタは口にこそ出さなかったが、そう思った。

「あら、こんにちは。ハピちゃんとホピちゃん、お久しぶりね。お元気?」「へ、へい。あっしらは御覧の通り、何とかやっておりやす。こちらこそご無沙汰しておりやした。小天女様もお元気そうで何よりでやす」
「天ちゃん。天ちゃんよ。そう呼んでね」
「あ、はい。失礼しやした。天ちゃん」

 どう見てもタコにしか見えない生き物を口に張り付けたままホピタも嬉しそうに頷いた。ホピタは極端な恥ずかしがりで、普段、兄のハピタにしか話さないのだ。 

「ハピちゃん、少し痩せたみたいだけれど大丈夫なのかしら?」
「へ、へい。お陰様で何とか…ただ…」
「どうしたの?」
「まだ菜食に慣れねえようでして、余り力が入りやせん」
「あら、可愛そうに。でも、もうすぐおやつが届くから一緒に食べましょう。元気が出るわよ」
「有難うございやす。助かりやす」

 何が届くのか分からなかったが、ハピタの腹が鳴った。

 

拡張家族


「ウーム…、何と言いやしたか?このじわっと油の乗った白い食べ物はちょいと匂いがキツいようですが、力が出る感じがしやすね」
 ハピタが空から降って来たおやつを噛締めながら感嘆した。
「周りの筋の様な物はどうすれば良いのでやすか?ぼさぼさして食べ難いでやす」

「兄ちゃん、これ美味いね。最高だよ」
 ホピタがおやつのそれを丸ごと次々に口に入れて噛み砕きながら言った。

「茶色いぼさぼさしたのは皮よ。吐き出しても良いの。私も食べないわ」
 小天女はそう言いながら白い果肉を少しずつ摘まんだ。

「この茶色い皮の外側には大きくて硬い殻があるんだけれど椰子蟹さん達が剥いてくれたの。椰子の木に登って取ってくれたのも椰子蟹さんよ」
 アミが実を突きながらそう言うとクミが続けた。
「実の中には甘い真水があるんだけれど、それはター小母さんの好物なの。小母さんはそれを吸い取った後、身を割って私達に分けてくれるのよ。丸ごと食べているホピタさんなら中の真水の甘い味も分かるんじゃないかしら」

「あー美味いよ、兄ちゃん」
 ホピタは夢中で椰子の実をかみ砕いていた。

 すると、また殻を剝かれた椰子の実が沢山落ちて来て着水した。ぼちゃん、ぼちゃんと音を立てる。それに釣られて他の魚達も集まって来た。

「空から落ちて来たようですが、これも椰子蟹が運んでくれるのでやすか?」
 二個目の実を嚙み砕き、中の甘い水を堪能したハピタが尋ねた。
「運んでくれるのは鴎さん達よ」
 小天女が微笑んだ。

「えっ、鳥までお仲間でやすか?」

 ハピタが驚嘆するとアミとクミが相次いで応えた。

「そう、この島の動物はみーーんな天ちゃんが大好きなの」
「もう家族みたいなものよ。違う生き物だけれどねー」

「ところで、ハピちゃん達は最近、何をしていたの?楽しいことはあったの?」

 おやつを食べ終えると小天女が尋ねた。ハピタの土産話が始まった。

 

「御存知のようにあっしらはあちこちを旅して暮らしておりやす。何故かと申しやすと、大飯喰らいのこいつが一か所に留まっていると海藻やプランクトンを喰い尽くしちまうからでやして、程々のところで移動しないとこいつの喰うもんもなくなってしまうし他の皆さんの迷惑になる訳で…」
「だから、この島にもずっとは居られないということなの?」
「そうなんでやす。皆さんと一緒に遊んで暮らせたら良いんでやすが、無理なんで…ま、それで食べ物を求めてあっちこっち旅するのでやすが、この間辿り着いたところは最高でやした」

「最高って素敵ねー、どんなところなの?」

「ここからは遠いのでやすが、丁度、南から流れる暖かい潮と北から来る冷たい潮がぶつかる水深も頃合いの一帯で、プランクトンは大量に湧くわ、海藻は見渡す限りみっしりと生えてるわで、あそこならこいつが一ヶ月や二ヶ月貪り喰っても全然大丈夫そうな豊かな海でやした」
「じゃあ、そこに長く居たのね」
「ところが、そうは問屋が卸してくれなかったって寸法で…結構、嫌な目に遭いやした…」 

縄張り争い

 

「やいやい、お前さん方、いってえ誰に断って好き勝手に飯を喰らっているんでえ。事と次第に寄っちゃあただじゃ置かねえぞ!」

 ホピタががつがつと海藻を貪っているとそこに現れたダツが凄んだ。顔には大きな傷があり後方に十匹程の仲間を引き連れている。自分達より大きな鮫に突っかかってくる魚は珍しい。

 気の強いハピタはむっとして睨み返した。ホピタは意に介さず貪り続ける。 

「聞こえねえのか、おい、そこのでかいの。勝手に飯を喰らうなと言ったのがわからねえか!」

 そう言うとダツの群れは戦闘モードに入った。刀のような体系のダツの口先は鋭く尖っていて、まるで槍の穂先のようだ。鮫の堅い肌を突き刺すのは容易ではない筈だが、それでも目や比較的柔らかい下腹を攻撃されると面倒だ。 

「兄ちゃん、何だか怖いこと言っているよ、この魚達」
 口一杯の海藻を飲み込みながらホピタが言った。

「そう仰いやすが、海は自由でやすな」
 ハピタが怒りを腹に押し込みながら、仕方なく応えた。

「そうはいかねえ。この辺りはダイアン様の縄張りでえ。挨拶も無しに勝手なことをさせるわけにはいかねえんだ」

 そう言ってダツが邪悪な笑みを浮かべた。鮫のハピタが下手に出たことで調子付いたのかも知れなかった。

「こらあーおめえらこそ何をぬかす。ここはキヌべ様の縄張りでえ。勝手なことを言うんじゃねえ」

 すると怒鳴り声が聞こえカンパチの群れが猛スピードで近付いてきた。どれも顔はやはり傷だらけだ。

「まーた、てめえらか、くたばりやがれ!」

 先頭のダツがそう叫ぶとハピタとホピタをそっちのけにしてカンパチの群れに突進した。後も続く。双方入り乱れて激しいぶつかり合いが始まった。敵をぶちのめそうとする短距離ダッシュのスピードはハピタより速いかもしれない。銀鱗が舞う。

「おー、やれやれー」
 三度の飯より喧嘩が好きなハピタが喜んだ。

「怖いよ、兄ちゃん、止めてよ。あんなのにぶつかったら危ないよ」
 気弱なホピタが懇願した。

「てやんでえ、お前の図体ならへいちゃらだろう」
「そんなことないよ。目にでも当たったら怪我するよ。お願いだから止めて」
「仕方ねえな、面白えのにな…。じゃあ、おめえ、こそーと近付いて、その大口をがばっと思い切り開けてみな」
「厭だよ。怖いもん」
「でえじょうぶさ、俺が一緒に行ってやる。怖けりゃ、寸前で目を瞑れ。それで一丁上がりだ」
「分かった…ちゃんと付いて来てね」

 二匹の鮫は忍び泳ぎで戦いの中心に近づいた。 

「それっ、今だ」
 合図するとハピタはホピタの顎の下に素早く移動した。ホピタは目を瞑り大口を開ける。

 轟流と共に集団の半分以上があっという間にホピタの大口に吸い込まれた。残された連中は一瞬きょとんとするが、事態に気付くと一目散に逃げ去った。真っ暗闇の口の中では吸い込まれた魚達が萎萎だ。 

「ほーら見ろ、一丁上がりだ。いいか、今度は口を少しだけ開けるんだ、奴らが逃げねえ程度に」
「わかった、兄ちゃん」

 ホピタが言われた通りにすると何匹かは逃走を図ろうともがくが叶わない。

 「やいやいやい。てめえらジタバタするんじゃねえ」
 ハピタが啖呵を切った。
「胃袋の中にまで飲み込まれても構わねえなら別だが、大人しくしろい」「わ、わかった」
 ダツとカンパチのリーダーが揃って応えた。

「おめえら、何で直ぐに喧嘩するんでい。訳を聞かせて貰おうじゃねえか」 

 

仇敵


「まずは名乗って貰おうかい。俺はハピタ。こいつはホピタ。見ての通り鮫だ。そこの尖がった兄さんは?」
「あっしはダツ吉で」
「そっちの流線型の兄さんは?」
「カン平でさ」

「それで、何でいがみ合ってるんだ?」
「いや、こいつらがダイアン様の縄張りででけえ面していやがるもんですから…」
 ダツ吉がそう応えると直ぐにカン平が嚙みついた。
「何をぬかす。お前らこそ好き勝手するんじゃねえぞ」
「何だと、こら!」
「おう、やるか?」

「ほー、お前さん達、よっぽど飲み込まれてえんだな」
 ホピタが軽く凄むと二匹はたちまち首を振った。
「海は自由だ。それにここはエサも豊富、いがみ合う必要はねえだろう。それぞれ好き勝手してなーんも不都合はねえ。違うか?」

 二匹は押し黙った。

「聞こえねえのか?返事をしな。不都合はねえだろ。違うか?」
「いや、確かにその通りなんでやんすが…」
「そう言われてもな…」
「じゃあ何でいがみ合う?意味ねえだろ」
「でも…」
「そんな単純な問題じゃないんで…」

「何をもごもごしてるんでい。おい、ホピタ、ちょいと飲み込んでみるか?」
「厭だよ、兄ちゃん。美味くないもん」
「けっ、四の五の言ってねえで、また、その大口をがばっと開けろ。丸呑みだ」

「ま、待ってくれ」
「勘弁してくれ」
 完全に怖気づいた二匹が懇願した。

「じゃあ、訳を言え。綺麗さっぱり全部吐き出すんだ」
「分かった」
「話すよ」

 二匹が説明を始めた。

「俺達もこいつら丸いのがビュンビュンと泳ぎ回るのは危なくてしょうがねえし、因縁もあるんで気に食わねえのだが、何よりもダイアン様がお怒りになるんで放っておけねえんでさ」
「実は、あっしらも似たようなもんでね。この尖った奴らとは餌は競合するし、こいつらが近くに居るのは気分が悪いんですが、それよりもキヌべ様が目障りなのは捕まえて来るか追い払えとおっしゃるんで…」 

「だからすぐに喧嘩になるってことか…、だが、そのダイアン様とキヌべ様がおめえらをけしかける理由は知っていやがるのか?そもそも、その二匹は何処の何様でえ?」
「何処の何様と訊かれても…とてつもなく恐ろしいお方でやす…」
「こっちも同様で。見た目はお美しいんだが、恐ろしいのは同じで…」

 そう言ってダツ吉とカン平は押し黙った。それ以上に話す気はないらしい。 

「それだけじゃあ全く要領を得ねえな。もっと詳しく聞かせて貰おうじゃねえか」
 ハピタがまた凄んだ。曖昧に終わらせるつもりは無かった。
「いや…それが…勝手なことを喋ると我が身が危なくなるんで…」
「右に同じく…」
「そうかい、分かったぜ。おい、ホピタ、ちょいと口を開けな」
「分かった、兄ちゃん」 

 ホピタが口を少し更に開けた。海水が流れ込み、ダツとカンパチのグループが奥に流されたが、ひげに引っ掛かり、何とか口中に留まった。 

「次はガバッーと行くぜ。それで良いのかい?」

 観念したダツ吉とカン平は話を続けた。

 

ダイアンとキヌべ


「何だって?お前達、それですごすごと逃げ帰って来たのかい?仲間を助けようともせずに」

 豊饒の台地のすぐ横を走る裂け目の底でドスの利いた声が響いた。日の光は余り届かず、そこは昼でも薄暗い。

「も、申し訳ございません。奴ら、馬鹿みたいに強えんで…」
「言い訳をするんじゃないんだよ。それでダツ吉達はどうしたんだい?」「いや…その…大鮫の口の中で…」
「何だって!お前達、それでも仲間かい?」
「お、お許しください…」

 ダイアンが起き上がり身体を震わせた。すると衝撃音と共に稲妻が迸る。逃げ戻ったダツ達は皆金縛りにあったかのように固まった。うち一匹は失神したようだ。それをダイアンは大口を開け、容赦なく飲み込んだ。

「やっぱりダツは旨くないね。相変わらず、骨だらけさ」
 そう言ってダイアンは残りのダツを睨んだ。

「お前達、それでどうするつもりだい?」
「へい、直ちにダツ吉の兄貴を助けに向かいます。何卒、お許し下さい」

 残されたダツ達は直ぐにもこの場を離れようとした。

「待ちな。仲間達を集めてから向かいな。ちょっとやそっとの数じゃあ歯が立たないんだろう?」
「承知しました。直ちに」

 その頃、水深の浅い表層の流れの強いエリアでは逃げ帰ったカンパチ達が伸びていた。強烈な尾鰭パンチを喰ったからだ。朦朧としているカンパチ達に向かってキヌべは冷たく言い放った。 

「それでどう落とし前を付けるつもりなんざます?」

 

食事


「け、それじゃあ埒が明かねえな。詰まるところお前達もいがみ合う本当の理由は知らねえってことだろ?」
「その通りで…」
「右に同じく…」
「これ以上は閉じ込めておいても意味はねえ。お前さん達、もう俺達をかまうんじゃねえぜ。どうせ俺たちゃ風来坊だ。長逗留するつもりはねえ。分かったか?」
「へい」
「分かりやした」
「おい、ホピタ、逃がしてやんな」
「分かった、兄ちゃん」

 ホピタが口を開けるとダツとカンパチ達は、脱兎のごとく逃げ戻った。

「仕方ねえな。腹を満たしたらさっさと所替えするか。おい、ホピタ、腹減ったろ?鱈腹喰いな」
「え、もう良いの?有難う、兄ちゃん。ペコペコなんだ」
「いつも言ってるが、根っこは残すんだぞ。そうすりゃ、また直ぐ伸びてくるからな」
「大丈夫だよ、兄ちゃん。少しぐらいなら根こそぎ食べちゃった方が良いんだ。他の海藻が生えやすくなるから」
「へ、そうなのかい。じゃあ、根こそぎは程々にな」
「有難う、兄ちゃん」

 ホピタは餌場に戻り、海藻を貪り始めた。ホピタの進路一帯が瞬く間に開けていく。ハピタも柔らかく栄養分の多そうな海藻を啄ばみ始めた。

「腹の足しにはなるっちゃあなるんだが…これだけじゃどうも力が入んねえな…困ったもんだぜ」

 ハピタはぼやき続けた。

 

「あ、ダツ吉兄い、ご無事だったんですね」
「あ、あたぼうよ。俺様がそう簡単にやられる筈はねえだろ」

 帰路、仲間の大群に出会ったダツ吉は強がった。

「でも、あのどでかいのに飲み込まれて良く逃げ出しやしたね」
「逃げ出しただと?けっ、上手いこと丸め込んで、堂々と戻って来たんだぜ。そう言いやがれ」
「へ、へい」
「しかし、どうやって…」
「どうやらな、奴ら、魚は喰わねえみてえだな。旨くねえから飲み込むのは嫌だとでけえのが言っていたぜ」
「ということは、単に喰いたくねえから吐き出したっつうことですかい?」「馬鹿野郎!元も子もねえことを言うんじゃねえ。俺様が上手くナシを付けたんだ」

「もともと俺達は美味くねえのは承知していやすが…」
「良いか、余計な事を喋るんじゃねえぞ。分かったな?」

 ダツ吉が皆を睨んで凄んだ。

「へ、へい」
「ところで、お前達は?雁首揃えて何をしようってんだ?」
「ダイアン様が兄い達を助けてこいとおっしゃるもんですから」
「ほー、ならばその必要はねえな。こうやってぴんぴんしてらあ。それに奴らは強えぞ。束になって掛かっても掠り傷を負わすのが精一杯でい。怒らせちまったらひとたまりもねえ」
「そんなに強えんですかい」
「おうよ。俺様に考えがある。ダイアン様にまず報告するとしようか」
「へい」
「戻るぞ」

 ダツ吉が肩で風を切って泳ぎ始めた。ダツ吉には密かな狙いがあった。仲間も後を追った。

 

「何ざます。それですごすごとお戻り遊ばしたんざあますか?」
「も、申し訳ございません」
「お得意のぶちかましの一つも差し上げずに…少し無様じゃございませんこと?」
「お、お許しください。あっしらの身体では到底敵いません。何しろ鮫ですので…」

「おほほほほ」

 カン平の頬にキヌべの尾鰭パンチがさく裂し、すっ飛んだ。

「これより手強いとでもおっしゃりたいのかしら?」
「め、滅相もございません。しかしながら、片方はとにかくでかい鮫でして、あっしらの手に余ります。ご容赦ください」

 朦朧としながらもカン平は懸命に許しを請うた。

「お待ちください、キヌべ様」
 すると傍らに控えていたブリが間に入った。

「おや、何ざます?」
「話を聴く限り、カンパチ共にはちと荷が重いかと存じますが…」
「ブリオン殿、では、良き考えでもお持ちざますか?」
「はい、我らの軍団は今、ちょいと北方でイワシの群れを追っている筈でございますが、もう暫くすれば戻るものと思われます。その暁に、総掛かりで波状攻撃を繰り出すのです。カンパチ組は小さい方の鮫、我らは大きな方に」
「成算はお持ちざあます?」
「それで奴らを斃せるかどうかはやってみなければ分かりませんが、休む間もなく波状攻撃を繰りだせば追い出すことは可能かと思います」

「おほほほほ」
 キヌべは高笑いし続けた。
「では、お好きに遊ばせ」

 キヌべはとにかく鮫が嫌いだった。

 

 ホピタは休む間もなくがつがつと食事を続けていた。腹部はかなり膨れていたが、止む気配はない。凄まじい食欲だ。ハピタも文句を言いながら若芽を啄ばみ続けた。

 

勧誘


そうなの、そのお魚さん達、追いかけっこが好きなのね。楽しそうだわ」

 能天気としか思えない小天女の反応にハピタの力が抜けた。 

「あ、いや、小天女様…」 
「天ちゃん」
「そうでやした。あの、天ちゃん、追いかけっこだけでは済みそうにねえのが物騒なんでやす」
「あら…そうなの。でも、それきりなら平気だったでしょ?」

 小天女はにこっとハピタに笑いかけた。

「いや、そうは行かなくて…奴ら、しつこくて困りやした」
 邪気の全くない赤子の様な笑みに赤面しながらハピタは応じた。

「どんな風に?」

 小天女は先を促した。物語を明らかに楽しんでいた。ハピタは土産話を続けた。

「それで、まあ、あっしらも腹一杯になって、ゆっくりしていたんでやすが、翌朝、ダツの奴らがまたやって来やしてね…それもとんでもねえ大群で」
「あら…また嫌がらせ?」
「いや、あっしもそうかと思って身構えたんでやすが、それがそうじゃなかったんで…」

 

「鮫の兄い達、ハピタの兄さんとホピタの兄さん、ご機嫌は如何でござんしょうか?」
 ダツ吉がへりくだって挨拶した。
「気分は悪くねえ。お前さん達が放っておいてくれたらだがな。これ以上かまってくれるなと言ったのを忘れたかい?」
「それは重々承知しておりやんすが、今日は折り入ってお願いがありまして…それで一同揃って参上致しやんした」
 ダツ吉が猫撫で声を出した。 

「お願えだと…俺達ぁ、もともと風来坊だ。お前さん達の争いに関わる気はねえぜ」
「そう、おっしゃらずに聴くだけ聴いて下さりやせんか?お願げえ致しやす」

「ぶおん!」
 大きな炸裂音と共にホピタが脱糞した。大量だ。周辺が茶色く濁る。

「兄ちゃん、話を聴くだけなら聴いてあげたら?」
 目覚めたホピタが欠伸と伸びをしながら言った。

「けっ、仕方ねえか…良いか、聴くのは話だけだ。願いを聞き入れるとは言ってねえぜ」
「お有難うございやす」

 ダツ吉が長口上を始めた。

「既に御存知の通り、キヌべの一党と我らがいがみ合っているのは事実でござんす。しかし、元はと言えば、俺達が日の差し込む表層の海に出て行きやすと奴らが直ぐに突っかかって来るからでやして…御覧の通り数では負けていやせんが、カンパチだけではなくブリも加わる奴らには身体の大きさと体力で結局敵いやせん。いつも薄暗い下の海に追いやられてしまうんで、ほとほと困っているんでやす」

「そいつはおかしいぜ。海は自由な筈だ」

「おっしゃる通りで。しかし、我らが水面近くに気儘に上がって行けるのは月夜の晩だけ。骨だらけで美味くねえせえか食われることはそんなにねえんでございやすが、小さな子供がうかうかと浮上するとパクっとやられやす」

「そいつあ、ちょい気の毒だな…だが、弱肉強食は海の掟でもあらぁ、ある意味、仕方ねえことじゃねえのかい?」
「へい、確かに偶に喰われるだけならその通りかもしれやせんが、奴らは兎に角、俺達を目の敵しやがるんで。見掛けのせいかもしれやせん」

「ちっ、見掛けかい」
 ホピタが舌打ちした。見掛けなら自分達も芳しいとは言えないからだ。「だが、カンパチの奴らも結構傷だらけだったぜ。あれはお前さん達がやったんだろう。お互い様じゃねえか」
「そ、それは正当防衛って奴でやして…虐げられているのはいつも我等なんで」

「兄ちゃん、何だか可哀そうな気がするよ」
 ホピタがほだされ始めた。

「しかしだな、その話にダイアン様とやらがどう関わってくるんでい。ダイアン様の命令とやらで対立しているんじゃなかったのかい?腑に落ちねえな」
 ハピタは冷静だ。

「確かにダイアン様は恐ろしいお方で、俺達の仲間もごく偶にでやんすが、飲み込まれやす」
「つまりおめえさん達は餌ということだろ?」
「そうと言えばそうなんでやんすが…そんなにいつも喰われている訳ではありやせん。俺達は旨くないと言っておられて…それよりもダイアン様がいるからこそ奴らも底の方までは追って来やせん。ダイアン様の恐ろしさを奴らも知ってやすし、カンパチはダイアン様の好物でして…」
「なんでい、守って貰っているのか。上に行けば追い立てられ、下ではそのダイアンに怯えて暮らしているようなのは気の毒っちゃあ気の毒だが、それがお前さん達の境遇なら仕方ねえな。俺達に関係ねえ」

「そんなことをおっしゃらずに何とか助けて頂きてえんで。お頼み申しやす」
「お前さん達に加勢しろってか…」
「有態に言えばその通りで…」
「厭なこった。俺達には係わりのねえことだぜ。それに今の境遇が嫌なら何処へでも行きゃあ良いんじゃねえのか?違うか?」

「そうおっしゃっても、大海原に出ればシャチや鮫、鮪の奴らにいつ襲われるか分かりやせん。この辺りの豊かな海でなきゃあ餌の小魚にもなかなかありつけやせん。俺達も自由にのんびりと暮らしたいだけなんでやんすが、それなのに奴らが直ぐに邪魔だてしやす。加えてあのキヌべはどういう訳か俺達を好んで食いやす。是非ともお助け下さりやせ」

 ダツ吉が頭を垂れた。

「兄ちゃん、腹減ったよ」
 話を聴いていたホピタが言った。
「そうか、そろそろ飯の時間だな。ダツ吉さんよ、そういう訳で、話は終わりだ。けえってくんな」

「そ、そんなことをおっしゃらずに惨めな俺達を何とかお助け頂けやせんか?」
「厭だな。俺達に構うなと言っただろ。もう終わりだ。けえりな」 

 ダツの大群が戦闘モードに入った。場は殺気立つ。しかし、ダツ吉は自分の事をハピタが最後にさん付けで呼んだのを聞き逃さなかった。

「分かりやした。今日のところはこれにて引き下がりやす。どうか、俺達を助けると思ってお考え下さいやせ。お願い致しやんす」

 ダツ吉はそう言ってまた頭を下げると踵を返した。

「おい、戻るぞ」
 そう号令を掛けた。ダツの大群も一斉に身を翻す。無数の銀鱗を光らせ一行は戻って行った。

 

「何だか可哀そうな気もするけど…」
 海藻を貪りながらホピタが呟いた。
「馬鹿言うんじゃねえ。一方の話だけを鵜呑みにする訳にゃぁいかねえぜ」「そうかも知れないけど…」
「それに、そもそも、ダイアンとキヌべとやらがどうしていがみ合うのか、その根本も分からねえ。聞いてみりゃあダイアンとキヌべは棲むところも餌の好みも違うようだ。なのに何故戦うんだかさっぱり要領を得ねえ。迂闊に関わるとひでえ目に遭ってもおかしくねえぜ」

「そうか…そうだね、兄ちゃん。やっぱり頭良いね」
「けっ、おだてても何も出ねえぜ。それ、さっさと腹を満たして脂を貯め込みな。いつでもこの面倒臭い場所におさらば出来るようにな。どうせ奴らはまた戻ってくる。カンパチの奴らもいつまたちょっかい出しにくるか分からねえ。早めにずらかるのが一番さ」
「分かったよ、兄ちゃん」

 その頃、ダツ吉は、何とか煽ててあの鮫達、特に頭の弱そうなでかい方に加勢して貰い、キヌべの一党を蹴散らかし、ついでに、ダイアンも懲らしめて追い出して貰いたいと考えていた。

獲らぬ狸の皮算用をしていたのである。

 

襲撃

 

 翌朝、波状攻撃は日の出と共にいきなり始まった。

「いてて、何だ、おい、どうしたんだ」

 身体に受けた数発の衝撃で目覚めたハピタが驚きの声を上げた。寝ぼけ眼を開けると小型の魚達がぶちかましの波状攻撃を仕掛けて来ているのが分かった。カンパチだ。

 幸い豊かな海藻の森の底で寝ていた為、奴らも狙いを定めてトップ・スピードで突撃するのは簡単ではないらしく、狙いを外して岩に激突するのも多い。身体を捻りながら躱すハピタにアドレナリンが満ちてきた。

「兄ちゃん、何だかごつごつと痛いんだけれど…何、こいつら」

 すぐ傍で寝ていたホピタが困惑の声を上げた。見るとホピタには大きな魚が同じような攻撃を仕掛けている。ブリだ。

「へ、早速来やがったか…それもいきなりとはな」

 数々の突撃を上手くいなしながら、目の前に来た見覚えのあるカンパチをハピタは咥え込んだ。カンパチ・サイズならその気になればハピタにも一飲みに出来る。

「咬みちぎって欲しいのか、おい」
「くそ、た、助けてくれ!」

 ハピタの口から半分顔を出したカン平が叫んだ。更に攻撃してくる他のカンパチ達をハピタは次々に弾き返した。 

「おい、口をちょいと開けてくれ、緊急避難だ」

 幾分怯んだカンパチ達が態勢を整え直す隙にハピタはホピタの口の中に逃げ込んだ。カン平を咥えたままだ。ブリの波状攻撃は続いている。

「久しぶりにタンパク質を頂くとするかな」

 ホピタの口中でハピタがそう呟くとカン平は逃げ出そうともがくが叶わない。やがて、死んだ振りでもしているのか動かなくなった。

 かん平を自分の牙から開放するとホピタに命じた。

「随分、しつけえな。お前の尾鰭の一撃を思い切り喰らわしてやれ」
「駄目だよ、兄ちゃん、そんなことしたら死んじゃうよ」
「相変わらずだな…なら、ずっと我慢するか?」

 巨大な鮫のホピタにとって、大きいとはいえブリの肉弾戦は数匹程度が当たるならさほど響かない。ピンポン玉が当たるようなものだった。しかし、何十匹もが一斉に当たってくると我慢し続けることは出来ない。当たり所が悪いとダメージは小さくない。ただ、海藻が密生する森ではそうはならなかった。 

「奴らが草臥れるのをじっと待っても良いが、あんなに沢山居やがるといつになるか分からねえ。それより死なねえ程度に一発二発かましてみるのはどうだ。ちょいと吹き飛ばすんだ」
「うーん、気が進まないんだけど…」
「それじゃあいつまで経っても埒があかねえ。それでも良いのか?うざいんだろ?」
「分かったよ、兄ちゃん。それじゃ、やってみるよ。そーっとね」

 ホピタは少し身体を曲げて、また突撃してきた十数匹の一団目掛けて尾鰭を振った。巻き起こった剛流が彼らを吹き飛ばした。しかし、また別の一団が突進してくる。二振り目を喰らわす。それでもブリは怯まない。三振り目を喰らわす。

「吹き飛ばすだけじゃ駄目みたい。しつこいよ、兄ちゃん」
「馬鹿の一つ覚えだな。次はちょいと強めに振ってみな」
「分かった。試してみるよ。死なない程度に」

 次に突進してきた一団に向かってホピタは少し強めに尾鰭を振った。凄まじい衝撃を喰らったブリの大半が失神した。これには彼らも驚き、揃って引き下がり態勢を整え、二匹の鮫を遠巻きにする。

 その様子を歯の隙間から垣間見たハピタは言った。

「すげえ数だな…このまま森を出て一斉攻撃を喰らったら面倒だな。暫く睨めっこと決め込むのが得策だな」
「腹減ったんだけど、兄ちゃん」
「ちょいと我慢しな。今動くと面倒だ」
「分かった、兄ちゃん」 

 素直なホピタの腹が鳴った。

尋問

「おい、カン平、いつまで死んだ振りしてやがるんだ。返事をしやがれ!」「へ、へい」
「けっ、やっぱり死んだ振りか。さあ、まざぁきっちり説明して貰おうかい。何でまたいきなり突撃してきやがったんだ?それも大勢で。まさか俺達を喰おうとしたんじゃあるめえな」
「め、滅相も無い」 

 カン平は震えながら何度も首を振った。

「なら何だ?言ってみな」
「いや、あっしらは言われたことをやっただけでして…」
「何処のどいつに何を言われたんだ?」
「その、次々にぶちかましを喰らわせて追い出せと…キヌべ様のご意向で」
「何故だ?俺たちゃあ草しか食わねえ大人しい鮫だ。関係ねえじゃねえか」「そうなんですが…」

「じゃあ何故だ?おめえの考えを言ってみな?」
「縄張りん中ででかいのに我が物顔に好き勝手やられると沽券に係わるのではないかと…」
「縄張り?沽券?そんなものどうでも良いじゃねえか?別に喰うに困る訳じゃねえだろう?」
「おっしゃる通りかもしれませんが、キヌべ様は舐められるとブリ達まで好き勝手をやり始め、挙句に縄張りを維持できなくなるのをご心配なのかと…」
「それのどこが悪いんだ。キヌべが大人しくなればみんな自由に暮らせるだろう」
「それはそうはいかねえんで。キヌべ様が居なくなるとダイアンの奴にあっしらはどんどん喰われちまいやす。おちおち寝てもいられなくなるんで」

「けっ、何だか何処かで聞いたような話だな。それでお前達とダツの連中は子分同士でしょっちゅうぶつかるっつうことかい」
「そうでやんす。元々、あっしらとダツは餌にする小魚が同じなんで折り合いは悪いんですが、それに加えてダイアンから身を守って頂く為にも言うことを聞かなきゃならないんで」

「それで時にはダツを追い込んで弱らせてキヌべに献上するのかい?」
「御想像の通りで…ダツの連中も同じようにあっしらの仲間をダイアンの下へ連れて行こうとしやす」
「体の良い勢子代わりだな」

「兄ちゃん、勢子って何?」
「こいつらみたいに大勢で寄ってたかって獲物を追い込む係のことでい。そして、仕留めて美味しい思いをするのはダイアンとキヌべっつうことよ。結局、てえした苦労もせずに得するのは親玉二匹だけだな。違うか?カン平さんよ」
「…」
「いつまでもそれで良いのかい?」
「…」

 カン平は押し黙った。キヌべとダイアンが余程恐ろしいらしい。それにカンパチも単に逃げ出せば済むとはいかないようだ。この辺りに勝る豊饒の海はそんなに無い。

「ついでにもう一つ聞かせて貰おうかい。そもそもキヌべとダイアンってえのは何様なんでい?」

 尋問は続いた。

 その頃、海藻生い茂る森の上層でハピタとホピタの兄弟を遠巻きにしながら待ち構えていたブリとカンパチの軍団の背後に巨大な影が現れた。キヌべだ。ハピタより一回り大きい。自分よりはかなり小さい同族を引き連れている。

「どうしたんざあます?手こずっているざますか?」
 キヌべがブリオンに尋ねた。

「申し訳ございません、キヌべ様。奴ら、深い森の底に籠って出てこないのでございます。何度か波状攻撃を繰り出したのですが、あれでは私共も思うようには…」
「怖気づいたわけではありませんこと?」
「とんでもございません。森から出てきさえすれば飛んで火に入る夏の虫…我らはそれをじっと待っております」

「おほほほほ、その通りになると良いざますね」
「暫し、お待ちください」
「では、その時は存分に力を発揮遊ばせ。私も見物させてもらうざますよ」

 キヌべは冷たく言い放った。

 その様子をかなり離れた森の海藻の陰で、ダツの偵察部隊がじっと見つめていた。見つかったらただでは済まない。息を殺して潜んでいた。

「何だか妙ちくりんなのが居やがるもんだな。それにしても、その親玉二匹が何でいがみ合うのか腑に落ちねえが、お前さんも知らねえんじゃ仕方ねえ。おい、ホピタ。奴らはまだいるのか?」
「うん、凄い沢山居るよ」
「あー、ダツの奴らは助太刀しろだのなんだのとぬかしやがるし、お前さん達は闇雲に突っかかってくるし、ほんとめんどくせえな。さっさとお暇するか。俺達にゃあ関係ねえことだからな」

 助太刀の一言にカン平がぴくっと反応した。

「おい、ハピタ。こいつを逃がしてやれ。俺たちゃあ、森の底を伝って退散するぜ。飯を食いながらな」
「はいよ、兄ちゃん。待ってました」

 ホピタが口を開くとカン平は正に仲間の方向へ逃げ帰った。ハピタとホピタはゆっくりと動き出した。

 

深緑鮫


「とまあ、こんな訳であっしらは舞い戻って参りやした」
「あら、大変だったわね。でも無事でよかった。また会えて嬉しいわ」
 小天女にそう言われて頬を赤らめたハピタは応えた。
「有難うございやす。あっしらも光栄至極で」
「でも、不思議だわー、何でその二匹がいがみ合っているのか」
「それはあっしらにも分かりやせん」
「でも、知りたくない?」

「うーん、全く興味が無いというわけではござんせんが、奴らに係るのはお勧めできやせん。危ないでやす」
「そうねー、考えてみるわ」 

「兄ちゃん、腹減ったよ」
「あら、もうそんな時間かしら。じゃあ、みんなお食事をしてね」

 その言葉を合図にアミとクミは何処かに去って行った。ホピタも方向転換し外海に向かい始めた。

「おい、根絶やしにするんじゃねえぞ。程々にな」
「分かった、兄ちゃん。食べ過ぎないようにするよ」

 ホピタはあくまでも素直だった。

「あら、ハピちゃんは?」
 なおそこに留まるハピタに小天女が尋ねた。
「いや…この辺りにあっしの口に合いそうな海藻は見当たらないんで…」「あら、ちょっと向こうに行くと水雲が沢山生えているの。柔らかくて栄養あって丁度良いかもしれないわ。試してみて」
「有難うございやす。では、早速、そうさせて頂きやすが、天ちゃんは?」「今日はもう大丈夫なの。お日様をたっぷり浴びたし、椰子の実も食べたから…。ター小母さんも同じよ」

「そ、そうでやすか…」
「私はター小母さんのお部屋で休むわ。明日、また一緒に遊びましょ」
「へい、喜んで」
「じゃねー」

 そう言って小天女とター小母さんも去って行った。後姿を見詰めながらハピタは思った。

「日の光を浴びると腹が膨れるのか…不思議だ…、でも、羨ましいぜ…」


 翌朝、小腹を再び満たしたハピタとホピタの兄弟は環礁の中海の真ん中に泳ぎ出て小天女達を探した。アミとクミは直ぐに見つかったのだが、小天女とター小母さんは居ない。

「アミさんにクミさん、おはようごぜえやす。小天女様は?」
「おはようございます。ハピタさん、ホピタさん」
「きっともうすぐ戻って来ると思うわ」

 アミとクミが相次いで応えた。

「戻って来る?何処かにお出かけになったんでやすか?」
「すぐそこよ」
「そんなに遠くないわ。私達には行けない陸の上だけれどね」 

すると、上空からまた軽やかな嬌声が近付いて来て、七色の輝きとター小母さんが着水した。

「ありがとうねー、鴎さん。蜂さんも。ご馳走様でした。美味しかったわー」
 小天女が上空に向かって言った。横ではター小母さんがにこにこしている。

「あ、天ちゃん、おはようございやす」
「おはようございます。ハピちゃん、ホピちゃん、良く眠れた?」
「へい、お陰様で…それより、今、蜂さんとおっしゃいやしたが、蜂って何のことでござんすか?鴎ならわかりやすが…」
「空を飛ぶ虫の仲間よ。お花の蜜と花粉を集めて暮らしているの。その蜜が甘くて美味しくて栄養満点なの。少し分けて貰ったわ。ね、ター小母さん」

 ター小母さんは何も言わず、相変わらずにこにこしている。

「虫…虫までお友達なんでやすか?」

「そうよ。この島の生き物はみんな天ちゃんが大好きなの。蜂もね」
 アミが代わりに応えた。
「家族みたいなものよ」
 クミが続いた。

「それで、また鴎に運んでもらったんでやすね」
「鴎さんに運んで貰ったのはター小母さんよ。私は飛べるの」
「え、飛べる?空まで飛べるんでやすか?」
「そうよ。羽衣で風に乗って。そんなに長くは無理だけれど、楽しいわよ」「そ、そうでやしたか…何とまあ凄いでやす」
「褒めてくれてありがと」

 小天女がハピタに向かって微笑んだ。蕩けそうだ。

「ねえ、今日はかくれんぼをしましょうよ」
「かくれんぼでやすか?弟が隠れる場所はありやせんが…」
「それはそうねー、じゃ、ホピちゃんは審判をするのはどう?」
「審判でやすか?」
「そう、鬼が誰かを見つけるでしょ?そしたら水を吹き掛けるの、逃げられる前に。追いかけても良いわ。それで、ちゃんと吹き掛けられたかどうか、ホピちゃんが判定するの。どうかしら?」

「分かりやした。おい、ホピタ、それで良いか?」
「分かった、兄ちゃん」
「じゃあ、決まりね。ホピちゃん、宜しくね」

 ホピタの鼻先に近寄った小天女がそう言って水を吹き掛けた。ホピタが身を震わせ、また少し漏らした。アミとクミが笑う。

「ちくしょー、あれなら俺が審判になりたかったぜ」

 ハピタがそう思っていると小天女はハピタにも水を吹き掛けた。陶然とする。

「じゃ、ハピちゃんが鬼ね。かくれんぼだから、目を瞑って三十まで数えてね。さあ、逃げましょう。中海からは出ちゃ駄目よ。見つけるのが大変だからー」

 小天女の可愛らしい嬌声が響いた。ハピタは言われた通り目を閉じて数え始めた。

「いーち、にーい、さーん、しーい…」

 その間にター小母さんは珊瑚の陰に隠れ、擬態の技で身体の色を周辺と同じように変えた。アミとクミは一目散にやや深場に向かう。小天女はホピタの口の中にするりと入り込んだ。

「よろしくね、ホピちゃん」
「あーい」 

 小天女が囁くとホピタが初めて直接返事をした。

 

 その頃、豊饒の台地周辺の海では不穏な情勢が続いていた。

 曖昧だったが、厳然と存在する境界を越えて奥深くまで偵察部隊が侵入し始め、これに伴いダツとカンパチの小競り合いの頻度が増していた。やや遠くの海に居る仲間を呼び集める伝令も飛び交い、ダツとカンパチの群れは大きく膨れ上がっていた。極めて広いエリアを回遊するブリも徐々に増え始めていて、このままだと餌の小魚が絶対的に足りなくなる。衝突は必至であった。

 ハピタとホピタを誑し込んで仲間に引き込んで敵を追い払い、あわよくばダイアンにも一泡吹かせようとしたダツ吉の目論見が実現する可能性は正に泡の如く消え去っていた。それだけにダツ吉は仲間集めに躍起になっていた。もはや数で敵を圧倒し、せめて餌も競合するカンパチの群れだけでも追い出す決意でいた。 

 一方、ハピタとホピタを用心棒として引き入れ戦おうとするダイアン側の狙いをカン平から聞かされたキヌべ側も激怒していた。そこまでして自分達を追い払おうとするなら、そうなる前に決戦を挑むしかない。鮫達が舞い戻る前に奴らを追い払ってしまえば何も問題は起きない。キヌべは鮫の姿は見るのも嫌なのだが、魚を喰おうとしない草食のあの風来坊達なら放っておけば済むことはもう分かっていた。

 均衡は既にもう破れたという点だけは双方の考えが一致していたのであった。

 遠く離れた南の中海でハピタは右往左往していた。簡単に見つけられるだろうと考えていたが甘かった。血の匂いや不自然な泳ぎの波動ならかなり遠くても見つけられるのだが、じっと隠れられるとそう簡単に捕捉出来ないのだ。 

 疲れを感じ始めたせいもあって仕方なく珊瑚の海底でじっと周辺を観察する。すると赤や濃褐色の枝珊瑚の向こうに珊瑚とは微かに異なる揺れに気付いた。じっと見つめる。

 気配を察した優雅な鰭が急に方向を変え、何も言わず、脱兎のごとく逃げ出した。アミとクミだ。

「見っけ!」

 そう叫ぶとハピタは猛然と追う。上層に追い出すか珊瑚の隅に追い込めば確保だ。泳ぐ速さなら絶対に負けない。片目で近くのテーブル珊瑚の裏にアミが逃げ込んだのを確認すると、更に遠くに逃げようとするクミの後ろから水を吹き掛けた。

「兄ちゃんの勝ち」 

 少し離れたところにいたホピタが判定した。クミはがっかりした様子だ。ハピタは直ちに取って返し、テーブル珊瑚の裏のアミを追う。アミは数周逃げ回るが、やがて諦めて動きを止めた。ハピタが水を吹き掛けた。

「兄ちゃんの勝ち」
「あーあ、見つかっちゃったわ。残念」
 アミがボヤくとクミが尋ねた。
「私達が最初かしら?」「そうでやす」

 ハピタが肩で息をしながら応えた。

「あら、元気ないわね」
「もう疲れちゃったの?」
「そ、そんなことはありゃあせん。ちょいと息が切れただけで」

 ハピタは強がった。しかし、アミとクミが妙に鰭を拡げ、ある方向の珊瑚をハピタの視界から遮ろうとしているのに気付いた。その先でタコの足が少し動いた。

「居た!」

 ハピタはアミとクミの間を抜けて突進した。ター小母さんは体色を変えながら逃げる。しかし、速さでは敵ではない。あっさりと水を吹き掛けた。

「兄ちゃんの勝ち」

 ホピタが宣言した。ター小母さんは優雅に脚を拡げ、動きを止めた。

「さて、残るは…。あんなに艶やかなお姿なんでやすから直ぐに見つかると思ったんでやすが…居ませんぜ。何処に隠れたんでやすかね、小天女様は…」

「天ちゃん」

 すると小天女の声が聞こえた。くすりと笑ったようでもある。しかし、声の方を見ても見当たらない。目に入るのはホピタの巨大な姿だけだ。 

「さては…」

 ピンときたハピタは弟の正面に行き、じっと見つめる。正直なホピタは目を逸らした。

「おい、ホピタ。そのでけえ口をそっと少しだけ開けてみな。間違っても飲み込まねえようにな」
「何故?」
 いつもは素直なホピタが抗った。
「四の五の言わねえで言われた通りにしな。そっと少しだけだぞ」
「分かったよ、兄ちゃん」

 七色の羽衣がハピタの目に入った。そして、華奢な壊れ物を扱うようにそっと水を吹き掛けた。

「兄ちゃんの勝ち。残念だけれど…」
「何でえ残念とは。いつまでもかくれんぼをしている訳にゃあいかねえだろ。お前なら、もう腹が減る頃だろうに」
「そうなんだけど…嬉しかったから」
「け、てやんでえ」

「あーあ、見つかっちゃった。素敵でしょ?この隠れ場所?」
「そ、そうでやしたか?」

 ハピタはまたも嫉妬した。

「お昼寝したくなるくらい居心地は良いし、隙間からハピちゃんの動きは全部見えたし、最高だったわー」
「確かにこいつの口の中なら安心でやす」 

 楽して移動したい時や危ない状況になると自分もハピタの口の中に入るのを思い起こした。この辺りには敵などいない小天女だが、いざという時にはホピタの口の中に避難して貰うのは手だ。何より安全だとハピタは思った。

「ハピちゃんやっぱりお疲れみたいね。どうしたの?」
「いや、やっぱり海藻しか喰ってねえと力が続かねえんで…」
 ハピタは正直に告白した。
「可哀そうね…じゃあ、これをあげるわ、食べてみて」
 小天女は緑の羽衣を少し切り取ってハピタに差し出した。

「え、これは羽衣でやすよね。大丈夫でやすか?切り取っちゃって」
「大丈夫よ。直ぐに元に戻るから。さあ、どうぞ」

 渡された緑の一片をハピタが飲み込むと直ぐに身体を温かく柔らかなさざ波が駆け巡った。

「あれ、兄ちゃん、色が変わったよ」
「ん、色が変わった?」
「そう、上半分だけだけれど濃い緑色に変わった」
「へ、どういうことで?」

 ハピタがきょとんとすると小天女が説明した。

「これでもう大丈夫よ。昼間、水面近くに浮上してお日様を浴びてみて。元気が出て来るわよ」
「え、お日様を浴びるだけ、でやすか?」
「そう、お腹もそんなに減らなくなるわ。美味しい海藻を少し食べるだけで満足出来るの。私やター小母さんと同じになったのよ」

小天女と同じになったという一言にハピタはこの上ない喜びを感じた。

深緑鮫の誕生であった。


パンの実

 

「兄ちゃん、お腹空いたんだけれど…」
「もう我慢できなくなったか?」
「だって、食べ過ぎるなって言われるから…」
「そうかい、それじゃ仕方ねえか…では、皆さんが宜しければ少しお時間を頂いて、奴を飯に行かせてえんでやすが、如何でやすか?」
「もちろんよ。どうぞ」

「やったー」
 アミとクミが揃って声を上げ深場に向かった。
「ありがとう。じゃ、兄ちゃん、行ってくるね」
 ホピタも身を翻した。

「じゃあ、私達は日向ぼっこしながら少しお昼寝しましょ。その間に椰子蟹さん達にパンの実を沢山集めて貰うわ」
「パンの実?初めて聞きやすが…」
「パンの木という植物の実よ。島には幾らでもあるの。美味しくて栄養もあるのよ。椰子蟹さん達は食べないけれどお願いすれば集めてくれるわ」
「そうなんでやんすか…」
「日向ぼっこの後ならハピちゃんとター小母さんは半分も食べれば十分よ。私は一欠けら。残りはホピちゃんかしらね。じゃ、行きましょう。ハピちゃん、連れて行ってね」

 そう言うと小天女はハピタの背鰭に掴まって背中に乗った。その感触にハピタはどぎまぎする。艶めかしいのだ。ター小母さんもしがみついた。

「さあ出発よ。今の位置からだと大体十時の方向ね。その先の波打ち際までお願いね」
「合点承知の助でやす」

 ハピタはワクワクしながら岸辺に向かった。

 

「つまり奴らも仲間を集めているんだね?」
「へい、そのようで」
「いよいよ決戦の秋か…お前達の数は?」
「数でなら我々は三倍以上、十分対抗できると思いやす」
「そうかい。だが、もう少し集めた方が良いね。ブリとは身体の大きさが違うんだからもっと居た方が良い」
「へい、では更に募りやす。暫しお時間を頂きてえんで」
「急ぐんだよ。のんびりとはしてられないからね」
「承知しやした」

 ダイアンがダツ吉にそう指示すると偵察に行っていたダツの群れが近付いてきた。カンパチを一匹追い込んで来る。射程内に入ったカンパチに電撃を喰らわせ失神させるとダイアンは素早く飲み込んだ。美味い。が、足りない。せめてもう一匹欲しい。

 

 ダイアンは鬼達磨虎魚の女王だ。普通と違うのは巨大な事だ。全長は既に並みの虎魚の十倍はあり、なお、成長し続けていた。自分でも何故か分からぬが、普段寝床にしている辺りの海底から湧き出る温水のせいかも知れなかった。成長が今も止まらないのだ。

 浮袋を持たない虎魚は泳ぎが苦手だ。海底で岩に擬態しじっとしているのが常で、極稀に胸鰭の根元の棘を使ってのそのそと歩くように移動する程度であった。そして、そこに虎魚がいるとは気付かない小魚や蝦などを捕食する。捕食の際の飲み込む速度は驚異的だったが、移動できる距離はせいぜい身体の半分位しかない。

 そんな生活でダイアンも若い頃は何不自由なかった。背鰭の棘の強力な毒の御蔭で眠り鮫やウツボに襲われることも無かった。じっとしている時間が余りに長い為、背中に海藻や珊瑚が生えてしまうのは多少気になったが、擬態には都合が良かった。どのみち泳がないので邪魔にはならない。

 困ったのは身体が大きくなり過ぎて、近寄って来る小魚や蝦では幾ら食べても満たされなくなったことだった。大きな伊勢海老を数匹胃袋に収めたところで焼け石に水だった。夜陰に乗じて岩陰で休む大きな魚を狙って忍び寄ることもしたが、ダイアンの巨体が近付くと気配で逃げられた。泳ぎで追いつくのは不可能だ。ダイアンはいつも飢えていたのだ。

 そんな時だった。

 岩の陰で休む手頃な大きさのハタを見つけ、そろりそろりと数メートルの位置まで忍び寄った。ここでじっとして奴の方から近寄って来るのを待つしかない。飢えでもう意識を失いそうだったが、我慢するしかない。これ以上近付くと気取られる。

「寄って来い、寄って来い…」

 ダイアンは全身全霊で念じ続けた。すると身体に不思議な力が充満し、眠るハタを目がけてそれを一気に放出した。閃光が走りハタは悶絶したようだった。傍目にはのそのそと、しかし、虎魚にしては必至にハタに近付き、丸呑みにした。

 これで暫くは空腹を凌げる。ダイアンは幸せだった。しかし、そんな状態も長くは続かなかった。彼女はますます巨大化し、彼女の縄張りに入ろうとする地魚は居なくなったからだ。事情を知らぬ回遊魚や深海魚が偶に迷い込んで来るのを待つだけの飢えとの戦いがまた始まったのだ。

「一体、私はどこまで大きくなってしまうんだろう」

 それが彼女の切実な悩みだった。その巨体に恐れをなした同族の仲間もかなり前から遠ざかっていた。言い寄る雄も居ない。彼女は海底の孤独な女王だった。

 

 波打ち際で日向ぼっこしながら転寝をしていた小天女とター小母さん、ハピタが目覚めたのは小一時間程経ってからであった。

「あー気持ちよかった…」
 大きく広げた緑の羽衣を畳むと小天女が海水で口を漱いだ。
「どう、ハピちゃん、元気になったかしら?」

 ほぼ同時に目覚めたハピタは半信半疑だった。

「何となく力が漲って来たようでやす。何よりも腹が減っていやせん」

 ター小母さんは小天女の傍らに寄り添ったままだ。全身緑色だ。近くにはパンの実が山のように積まれている。

「椰子蟹さん、ありがとねー、ほんと助かるわー」
 椰子の木陰に戻っていた椰子蟹の群れに小天女は礼を言った。
「鴎さん達の姿は今日は見えないから私達で運ばないと。どうしようかしら?」
 小天女が問うた。
「あの、ホピタなら一度に全部運べやす。奴の口の中に入れたら簡単に」
「それは妙案だわ。ハピちゃん、じゃあ、ホピちゃんを呼んできてくれる?その間にター小母さんにパンの実を海に浮かべて貰うから」
「合点で。少々お待ちを」 

 暫くすると、ター小母さんが長い脚を器用に使って波打ち際から運んで海に浮かべたパンの実をホピタが次々に吸い込み始めた。

「ホピちゃん、ありがとね。食べるのはもう少し我慢して、皆のところに運んでね」
「あーい」
 ホピタがまた直接返事をした。 

 中海の真ん中辺りに出るとアミとクミ、それにその他の魚達が集まってパンの実を待っていた。

「お待たせー、じゃあ、ホピちゃん、半分位お口から出してくれる?残りはホピちゃん、食べてみて。美味しいわよ」
「あーい」
「それでハピちゃん、申し訳ないけれど、皆の分のパンの実を割ってくれるかしら?そうしたら食べやすいから。後は仲良く分け合って食べましょう」「喜んで」

 ハピタがその鋭い歯と強力な顎で実をを割り始めるのとほぼ同時にホピタはパンの実を一つずつ擂り潰すようにして食べ始めた。

「あー、これも上手いよ、兄ちゃん」
「どれどれ、ではあっしもちょいと」

 ハピタも半分に割った実を口にする。

「中々乙な味でやすね」
「そうでしょ?椰子の実も美味しいけれどパンの実も素敵よね。あ、そうそう、皮はごわごわしているから吐き出しても良いのよ。皆さんもどうぞー」

 夕暮れ近付く珊瑚礁の青い澄み切った中海で魚達の愉快な宴が始まった。

 

 太陽が西の水平線にタッチダウンし徐々に沈み始めた。パンの実を一個食べただけで満腹になり眠気を覚え始めたハピタに小天女は告げた。

「あのね、私もその豊饒の台地の海に行きたいの。連れて行ってくれるかしら?」
「え、あそこまでわざわざお出掛けになりたいんでやすか?」
「そうなの」
「でも遠いでやすが…」
「さっきね、ホピちゃんの口の中に隠れていて思い付いたの。私達もホピちゃんに運んで貰えば遠くても行けるわって」
「それはそうでやすが…」

「その辺りは寒いのかしら?」
「いや、ここよりはだいぶ涼しいんでやすが、寒いっつうことはないと思いやす…」
「なら大丈夫。凍えるようだと困るけれど涼しい位なら平気だわ。辛くなったらホピちゃんのお口の中に避難すれば良いしね」

「それにしても何故なんでやす?わざわざ遠くの物騒な所にお出ましになりたいのは…?」
「好奇心よ」
「え、好奇心でやすか?」
「そう、だってそのダイアンさんとキヌべさんが何でいがみ合うのか、本当の理由を知りたくない?」
「いや、あっしはそんなでも…」
「きっと深い訳があるような気がするの…ちょっと変だもの…」
「そ、そうでやすか…そこまでおっしゃるなら是非もございやせんが、危ねえ目に遭うかもしれません」

「それは心配していないわ。ハピちゃんとホピちゃんが一緒なら安心よ」「そ、それは勿論、我が身に代えてもお守りいたしやす」「ありがと。ター小母さんやアミちゃんとクミちゃんも守ってくれるわ。私は心配していないの。ホピちゃんも宜しくね」

「あーい」

「それにね、追いかけっこの正しいやり方も教えてあげたいの…ぶつかったり噛みついたりするんじゃなくて、こうするのよってね」

 そう言うと小天女はハピタの鼻に水を吹き掛けた。甘美にハピタの全身が打ち震えた。

「よ、喜んでお供させて頂きやす」

 気を取り戻したハピタが誓った。

「出立はいつにしやす?」
「もう少し遊んで栄養を付けてからにしましょう。明後日の昼過ぎ頃にお出掛けしましょうよ」
「承知しやした」

 傍に控えていたター小母さん、アミとクミも一斉に頷いた。


ハピタとホピタの冒険譚2|新野司郎 (note.com) 後編

©新野司郎

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