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20XX年のゴッチャ その66

隔離日記
 
「昨日、久しぶりにホテル一階のロビーに行く事が許された。運動不足を少しでも解消する為に階段を使って下りた。足が悲鳴を上げたが、悪いことでは無い。目的は中国当局によるPCR検査を受ける為だ。スタッフも順に検査を受けた。その結果が今朝届き、全員陰性だった。一安心である」
 
 翌金曜午前、メトロポリタン放送のオンライン・ニュースに戸山の丹東のホテルでの隔離生活日記の掲載が始まった。
 
「昨夜、丹東郊外に飛び火したのはADE株と発表され、少し慌てたが、それがひたひたと迫って来ているという恐怖感は無い。治療薬も一応持っていて、予防服用を念の為始めようかと考えぬでもなかったが、止めた。スタッフ達の意見も同じだった。しかし、ホテルの部屋での缶詰生活は辛い」
 
「窓から中朝国境の往来を確認し、電話やネットで周辺の状況に異状は無いかチェックし、偶に東京に記事を送る。それだけの生活がいつまで続くのかと思うとげんなりする。食事は毎食部屋に届けられるが、ホカホカという訳ではないし、汁物など望むべくもない。これにも閉口するしかない。部屋で湯を沸かし、持参したインスタント味噌汁を飲むのが束の間の幸せとは情けない。そのインスタント味噌汁のストックも遠からず無くなる。
 正直に言う。とんだ役回りになっちまったもんだ」
 
 愚痴のオンパレードになってきた。
 
「スタッフが収集し続けている情報でも、国境周辺住民達も今回の自粛生活には既にうんざりしているようだ。しかし、皆、諦めている。理由が理由なので仕方ないからだ。なので、不穏な動きの情報も一切無い。
 日本や世界のニュースチェックは欠かさず、体調維持の為スクワットや腕立てもしている。それでも有り余る時間はネットでゲームをして過ごしている。
 現在、嵌っているのは将棋のネット対局だ。古臭いと笑うなら笑って貰って構わない。気晴らしになるし、負けると腹立たしいが、勝てばスカッとする。そのうち初段の免状でも獲得してやるというのが今の目標だ。
 なんていう事をしたためているうちにまた弁当が届いた。食欲は全く無いが、醒めた弁当を摘み代わりにビールを飲むことにし、これにて失礼させて頂く。では、また次回」
 
「流石に可哀そうだけれど、もうちょっとユーモアを塗せないのかしらね…」
 日記を読んだ菜々子はそう思った。
 
 戸山に今の状況を笑い飛ばすような豪気を期待しても無理なのは分かっているが、これでは読者も暗い気分になるのが心配だった。
 
「はい、報道局です」
 ニュース制作部の記者の一人が雨宮富士子のすぐ隣で電話を取った。
「戸山特派員の御親戚の方ですか…」
 記者が電話口で言った。
 
「また掛けて来たのね」
 雨宮はそう思った。記者の様子を横目で観察する。
 
「あの部長」
 暫くして部下が電話を保留し雨宮に報告した。
「戸山さんの親戚という女性から電話なのですが、上司に代わってくれと…」
「どんな用件?」
「戸山さんは大丈夫なのか?いつまで丹東に置いておくのか?という問い合わせです」
「分かったわ」
 雨宮が電話を取った。
 
「お電話代わりました。御用の件を受け堪ります」
「この前の方ね。あの時も言ったと思うのですけれど、戸山の叔母です。ADE株なんていう恐ろしい物が戸山の取材している近くで出たというのに、御社はどうするつもりですか?そのまま放置ですか?」
 女性が問い詰めた。
「ご存知だと思いますが、放置しているのではなく、取材をしてもらっている訳です。仕事です」
「一体いつまで彼をあそこに留まらせるのですかと訊いているんです。ADE株ですよ、罹ったらどうするんですか?」
「ご心配なのは分かりますが、WHOの発表でも拡がる恐れは低いということですし、本人は元気にしています。取材が一段落すれば戻ることになると思いますが、それがいつかとお尋ねになられましても、これも前回申し上げましたが、取材方針にも関わることでございますので、現時点では何とも…」
「それは無責任というものです。命に係わるかもしれないのですよ。早く安心させてください」
 
 相手は懇願するような声音になっていた。余程心配なのだろう。
 
「誠に申し訳ございませんが、それも本人と上司の話し合いが最初にあるべきだと思います。彼もすぐにも帰りたいと言ってはいないようですので、ご心配なのは重々承知しておりますが、外部の方にこれ以上、申し上げることはございません。重ねてご理解ください」
 雨宮は優しい口調になったが、それでも丁重に押し返す。
 
 丹東郊外のADE株クラスターは広がっていなかったし、封じ込め作戦も異状なく進行している。それでも返せと言われてもおいそれと応じられる筈もないことは雨宮にも分かっていた。
 
「血も涙もないのですね。それが報道の仕事とは思えません。昭雄にはすぐに異動を希望するように伝えますから」
 そう言って女性は電話を切った。
 
 もしかすると親御さんかもしれない。確か戸山の父親はスポンサー系の大企業の偉いさんと聞いている…雨宮はそう考えながら、電話の内容をすぐにメモにし、再び加藤局長と菜々子にメールした。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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