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20XX年のゴッチャ その46

 ノードリヒ・プリンツェッスィン
 
 車を飛ばしておよそ二時間、大友とベルナールはベルンの旧市街にある有名レストラン・フックスに到着した。通りに面したクリーム色の小洒落た三階建ての建物全てがレストランで、木々で囲まれた裏庭にはテラス席も多数ある。ミシュランのビブ・グルマンにも選ばれた大店で、店の入り口のドアにはピーター・パンの敵役、キャプテン・フックを模したと思われるシンボル・マークが描かれている。
 
 移動中に携帯で予約を入れた大友とベルナールが店に入るとテラス席に案内された。外はまだ寒いが、プロパンガスのパラソル・ヒーターがそこかしこに置かれていて、足元以外寒さはほとんど気にならない。元々、寒さに強い大友はへいちゃらだ。
 
 ガス入りのミネラルウォーターを飲みながら大友はメニューを吟味する。車の運転があるのでワインはメインと一緒に一杯だけ飲むつもりだ。その程度であれば欧州では違反とされない国が多い。
 
「よし、これとこれにしよう!」
 嬉しそうに呟くと大友は鱒のバター・ソテー温野菜添えと子牛肉とマッシュルームのクリーム煮を頼んだ。クリーム煮にはロースト・ポテトとビーツが添えられてくる。ベルナールはスモーク・サーモンとヒレ・ステーキを頼んだ。
 
 ヨーロッパやアメリカでは労働者の権利保護が発達しており、上司の指示で参加するこうした夕食の時間も時間外手当の対象になるが、ベルナールは勤務時間に付けない。フランスではそうした行為自体が法令違反と看做される恐れがあるのだが、長く日本企業に勤めるベルナールは自らの意思で参加したという体裁にするのだ。彼女が重宝される理由の一つだ。
 
 最初の料理を待つ間、二人はパンを食べながら翌日の取材予定などについて話をする。二人の会話は日本語と英語のちゃんぽんだ。たまにフランス語も入る。
 
 すると、隣の席に東洋系の三人の女性がやってきた。母親と思しき世代が一人、まだ十代と思える若い女性が二人だ。
 
 ドイツ語でウェイターに飲み物を注文すると、三人はメニューを見ながら中国語で会話を始めた。大友は中国語が全く分からないが、時折、ドイツ語と英語が混じる。彼らの装いや持ち物は高価なブランド品ばかりだ。
 
 大友は鱒と子牛料理を堪能した。相当な出来栄えだったし量も多かったのに満足したのだ。
 
 やがて大友に食後のコーヒーとデザートのザッハ・トルテが運ばれてきた。ベルナールはコーヒーだけだ。しかし、大友がトルテをフォークで口に入れようとすると皿の外に思わずそれを落とした。
 
「ノードリヒ・プリンツェッスィン」というドイツ語が隣から聞こえて来たからだ。
 
「ノードリヒ・プリンツェッスィン!」
 心の中で大声で反芻した。ドイツ語ならお手の物の大友は驚愕したのだ。日本語なら「北のお姫様」を意味するからだ。
 
 平静を必死で装い大友は耳を澄ます。その様子をベルナールが訝ったが、大友は黙ってトルテを口に入れながらテーブルの上のスマホの録音スイッチをオンにした。収音マイクを隣に向ける。
 
 すると「レーラー・フリードリヒ」という単語と「パリ」という言葉も聞こえて来た。「レーラー」は男の先生を指すドイツ語だ。中国語がちんぷんかんぷんなのがもどかしい。
「音が上手く録れていますように…」
 大友は祈るような気持ちでいた。
 
 同時に、大友はタイミングを見計らって三人に話し掛けることに決めた。最近の中国人は見知らぬ相手が日本人と分かると警戒することも多いらしいが、少なくとも若い二人とは少しは会話が可能だろうと期待した。
 
「全く観光客とは思えませんね。ドイツ語が大変お上手です」
 三人がメイン・ディッシュを終え、皿を下げに来たウェイターと若い二人がドイツ語で会話し、デザートを依頼し終えたタイミングで大友が声を掛けた。勿論、ドイツ語だ。鎌を掛けている。大きなドラえもんのような体形で優しい口調の大友が笑顔で話し掛けると警戒する人は殆どいない。
 
「有難うございます。でも、私達は観光客ではありません。留学生なんです」
 二人の若い女性の内、やや年嵩に見える方がドイツ語で応えた。
「ベルンの学校ですか?」
「そうです」
「それにしても素晴らしい発音ですよ。先程の『北のお姫様』なんて地元の人と区別できませんよ。もっともそんな人が実在するとは思えませんがね。北欧の人の事ですか?」
「同級生の綽名なんです。同じアジア人なんですが、何にも知らないものだから、お姫様って…」
 
 ここで、母親と思しき女性が中国語で何か言った。明らかに警戒し始めている。
 
「いや、お食事中お邪魔しました。明日は少し暖かくなると良いですね」
 大友はそう言ってすぐ引き下がるとウェイターが持ってきた勘定書きを受け取った。
 
 支払いを済ませ、隣の三人に軽く会釈すると大友とベルナールは店を出た。しかし、直ぐに帰るつもりはない。大友はドイツ語が余り分からないベルナールに事情を説明しながら、尾行するのに都合の良い場所に車を移動しエンジンを切った。
 
 レストランの客用の出入り口は正面にしかなく、駐車場の出入り口はテラス席を取り囲む木々の横に一か所しかない。自分達の車で来たのか、タクシーだったのか、徒歩なのか分からないが、いずれにせよ三人が出てくれば追跡可能な、やや離れた位置に付けた。
 
 三人を尾行し、居宅と思われる場所を突き止め、明日朝以降にそこに張り込んで通学先を割り出せば学校が分かる。その後は、お姫様探しだ。
 
 ベルンの学校で学ぶアジア人、何も知らないので『お姫様』という綽名がついた…。『北の』の由来までは聞き出せなかったが、北朝鮮の王朝の若者である可能性がある。
 
 暫くして三人が店を出て来て駐車場に入った。特に警戒する様子はなく尾行は簡単だった。居宅と思われる場所は車で十分程の高級アパートだ。大友はスマホの地図アプリと車のナビ両方でGPS情報を記録するとジュネーブへの帰路に就く。身の回りの物やパソコンなどをジュネーブに置きっ放しなのだ。
 
 翌日は土曜日だったが、五時半にジュネーブの宿をチェックアウトし、ベルンに向かうとベルナールに告げた。WHO調査団本隊の出発取材はカメラマンのジャン・ルカ・アルヌーに任せるつもりだ。その旨伝えるようベルナールに依頼した。
 
 ジュネーブのホテルの自室に戻るとベルンのレストランで録音した音声と事情を説明するメッセージを菜々子に送った。
 
 メッセージの最後にタイトルを打ち込んだ。
「デブが動けば棒に当たる?」
 
 音声の解読は北京支局に依頼した方が簡単なのは分かっていたが、菜々子も中国語は非常に良く出来る。ジュネーブは夜の十時半、日本は朝の六時半だ。大友が翌朝目覚めた頃には内容が分かっているだろうと期待していた。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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