オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その90

アドバルーン

 
 
 日本時間のその日の夜、アメリカのワシントン・ポスト紙ウェブ版が世界を幾分当惑させるオピニオン記事を掲載した。
 
「WHOと中国政府にノーベル平和賞の声」
 
 その見出しはこう報じていた。
 
 自宅での夕食後、アメリカ・メディアの報道をチェックしていて気付いた菜々子は本文に目を通す。
 
「北朝鮮におけるADE株封じ込め作戦がほぼ成功裏に終わった。世界はこれに安堵し、中国政府の無償の支援に称賛の声を惜しむことはない。勿論、ADE株が消滅した訳ではない。依然、陽性患者は極めて少数ながら存在するし、再燃の危険がゼロになったとはWHOも断言していない。しかしながら、ADE株が拡がり、再び、あの悪夢のパンデミックがやってくる危険はほぼ去ったと言って良い。
 この点で世界を危機から救ったのはWHOと中国政府の功績ということに誰も異論はない筈だ。だが、その功に報いるにはノーベル平和賞がふさわしいのではないかという声がアメリカ政府の一部に出始めているという話には筆者はかなりの驚きを禁じ得なかった。
 台湾情勢を巡って一触即発の状態に陥ったのはついこの間の事だ。今や世界最大の発火点の当事者となっている中国に平和賞は到底似つかわしくないのではないか?チベットやウイグルでの大規模人権侵害、民主派の弾圧なども続けているではないか…という筆者の問いに、あるアメリカ政府筋は匿名を条件にこう応えた。『確かにそうした懸念は妥当だ。しかし、悪夢のパンデミックを封じ込めるのに中国政府が最大の貢献をしているのは紛れもない事実だ。まさに大国にふさわしい行動だ。これこそ平和への貢献として称賛されても不思議ではない』
 それとこれとは別の問題という訳だ。ただし、『平和賞候補になるのは厳密に言えばWHOと封じ込め作戦を指揮した中国国家衛生健康委員会であって、中国政府全体ではない。ましてや習近平ではない』ともこの政府筋は明言したことを付記する。
 それでも、別の中国問題専門家は『台湾に牙を剥き続け、国内では人権抑圧を止めない中国に平和賞なぞあり得ない。そんな事をすればノーベル賞は世界の笑い物になる』と手厳しかった。これが一般的な反応だろう。それにも拘らず平和賞をという声が上がる背景には『これをきっかけに中国との対話の糸口を探り、かつ中国政府に対外姿勢の軟化を促したい』というアメリカ政府内の一部の思惑もあるらしい。
 繰り返すが、まだADE株が地上から消え去った訳ではない。このまま全てが丸く収まるという保証はまだない。また、ノーベル賞の季節はまだ半年以上先だ。次に何が起きるか、今後の展開を注視すべきだろう」
 
 一読した菜々子は、これはアドバルーンのリーク記事に違いないと確信した。
 
 相手や世論の反応を見る為に匿名の政府関係者が意図して流した情報を元に書かれた記事なのだ。菜々子は続いて直ぐに中国メディアをチェックした。
 
 すると人民日報系のタブロイド紙・環球時報のウェブ版が「当然とも言えるノーベル平和賞の声をアメリカ紙が伝える」という見出しで早くも転電していた。ネット系の声を探ると、既に「当たり前だろう」「やっと中国に対する正当な評価が出て来た」「漸く中国の世界的地位が高まる」等と総じて熱烈な歓迎ぶりだった。その巨大市場の購買力以外で西側先進国から感謝され心底から褒められることなどまず無かっただけに、中国国民が無邪気に喜ぶのは不思議ではなかった。
 
「明日以降、国民の期待が更に高まると中国政府は北朝鮮相手でも台湾相手でも変なことは出来なくなるわね…」
 
 アメリカ政府筋はそんな効果も狙ったのかもしれないと菜々子は少し感心した。
 
 ただ、ワシントン・ポスト紙の記事が西側で注目されることは無かった。ほとんど誰も本気にしなかったからだ。しかし、中国国内ではこの後、数週間にわたってネットをざわつかせ続けることになった。
 
 缶詰再び
 
「中国側の移動規制がほぼ全面解除された為、昨夜、北京支局から佐藤俊介特派員のチームが丹東にやって来た。いよいよ交代だ。我々は晴れて自由の身になる。北京にこれから戻るのだ」
 
 翌朝、丹東の戸山特派員の缶詰取材日記がメトロポリタン放送報道局のウェブ・ページに掲載された。記事は最終回とも銘打たれている。
 
「思えばこの一か月半というもの、毎日、昼間の大半の時間をホテルの部屋の窓から中朝国境の橋と対岸の新義州を見て過ごした。その時間は合計すると二百時間を優に超えるだろう。もうウンザリなのだが、窓からの景色は今や頭の中に完全に焼き付いてしまっている。有難くもなんともないが、きっと生涯忘れることは出来ないだろう。しかし、自由に取材が出来なかったのは心残りだが、何とか役目は果たせたと思っている。
 それでも空いた時間は家族とオンラインで会話したり、ウェブ将棋をやって過ごした。相手をして下さった方々にはこの場を借りて御礼申し上げたい。
 昨夜は到着したばかりの佐藤特派員とホテルの外で本当に久しぶりに食事をし、ビールを飲んだ。ごくありきたりの地元料理と青島ビールだったが、その美味かったこと。玉蜀黍由来なのか高粱由来なのか分からないが、その粉臭さ故に私は青島ビールが得意ではなかったのだが、そんなことなど全く気にならなかった…」
 
 もう少しジャーナリスティックな視点で示唆に富んだ原稿は書けないものかと菜々子は思うのだが、ウェブ編集部の担当者によれば堅苦しい記事は他で読めば良いので、日記風に現地の四方山話や将棋の話を写真付きで掲載した方が読者の受けは良いのだそうだ。
 
 戸山のぼやき話、特に缶詰生活中に支給されていた弁当への不満と彼が言うところのへぼ将棋関連の記事にはそれなりにファンがいたらしい。
 
 その戸山班は、この頃、実際には丹東の浪頭空港に到着している筈であった。搭乗前の検査を受け、離陸すれば北京空港まで二時間弱だ。戸山の家族もこれで安心だろう…そう菜々子は思っていた。
 
 ところが、そうは行かなかった。
 
「搭乗前の抗原検査で私だけ陽性と出ました。我々三人は空港近くのホテルの部屋に隔離されます。追加のPCR検査の結果をそこで待ちます。また連絡します」
 
 戸山から菜々子と北京支局の岩岡、丹東に交代で入った佐藤、ソウル支局の棚橋にメッセージが入ったのだ。
 
「え、どういう事…?」
 もう滅多なことには動じなくなっている菜々子も慌てた。
 
「驚きました。大したことにならないよう祈ります。続報を待ちます。佐藤班は取材中なら直ぐ切り上げて、部屋に戻ってください」
 
 菜々子はこう一斉返信すると加藤報道局長と会社の産業医、それに原沢総務部長に報告のメッセージを入れた。そして、直ぐに加藤局長の部屋に向かった。
 
「何だ、これは?」
 
 加藤が直ぐに菜々子に言った。動揺を必死で隠そうとしているのは明らかだった。
 
「続報を待つしかありません」
 菜々子が応えた。
 
「まさかADE株じゃないだろうな?」
 加藤は明らかに狼狽えている。
 
「これまでの流れからすると既存株の可能性の方がずっと高いと思いますが、検査の結果を待つしかありません」
 加藤の様子を見て却って冷静さを取り戻した菜々子が言った。
 
「戸山達はどこに居るんだ?どうなっているんだ?すぐに調べてくれ」
 加藤が要求した。
 
「お言葉ですが、戸山に今、色々報告を求めても可哀そうなだけです。とりあえず検査の結果を待ちましょう。数時間程度だと思います」
 
 顔を怒りで真っ赤に染めた加藤が暫し深呼吸を続けた。何とか冷静さを取り戻そうとしているようだ。すると佐藤から連絡が入った。
 
「了解です。戻ります。また連絡します」
 菜々子は加藤にこれも報告した。
 
「分かった。仕方ないな。続報はすぐ連絡してくれ」
 
 落ち着きを取り戻し始めた加藤はそう言って内線電話を取った。上に報告するのだろう。菜々子は部屋を出た。
 
 自席に戻った菜々子はデスク達にも事態を伝え、取り敢えず丹東の最新報告を佐藤から原稿だけ受け取り、東京でオンエア処理するよう指示した。続いて戸山に電話を入れた。
 
「はい、戸山です」
「お疲れ様。大変だけれど、どうなの体調は?」
「普通です。熱もありません。陽性とは驚きましたが、今のところ、全く大丈夫です」
 
 戸山はそう言ったが、やはりかなりしょげている。
 
「もうホテルの部屋に入ったのかしら?」
 菜々子はできるだけ平静を装いながらまた尋ねた。
 
「ええ、今しがた。とりあえず、PCRの結果を待っているしかありません。それと、佐藤班も多分、ホテルの部屋で自主隔離させられると思います。佐藤には私から連絡しました」
「そう、有難う。スタッフ達の様子は?」
「体調には全く問題ありません。搭乗前検査では彼らは陰性でしたが、彼らも同じホテルの別の階の部屋に隔離されました。動揺の色は隠せませんでしたけど」
 
「ご家族は?」
「女房はちょっとパニック気味です。可能性はほとんど無いと思っていますが、ADE株だったら大変ですから。何とか宥めましたが、自分の事より彼女の方が心配です」
「奥様には心配を掛けて申し訳ないです。棚橋は奥様の連絡先は知っているのかしら?彼にフォローをお願いしても大丈夫かしら?」
「大丈夫だと思います。よろしくお願いします」
「分かりました。何でこんなことになったのか…今、いろいろ言ってもしょうがないけれど、兎に角、お大事に。産業医の先生にはメッセージを入れたから、何かアドヴァイスがあるかどうか、直接聞いて貰った方が良いと思うわ。苦労ばかり掛けてしまって申し訳ないけれど、しっかりお願いしますね。結果が出たら、また報告してください」
「ほんと、ついてないです。また報告します」
「ご苦労様。頑張ってね」
 
 次いで、菜々子は棚橋に電話を入れて戸山の家族のフォローを頼み、佐藤に電話した。
 
「お疲れ様。体調はどう?」
「我々は全く大丈夫です。驚きましたが…」
 佐藤が応えた。声の様子は問題ない。
「隔離指示は受けたの?」
「いえ、まだです。でも、すぐに来るでしょう。我々も戸山さん達の詳細な検査結果を待つしかないですね」
「そうね。行っていきなり想定外の状況で大変だけれど宜しくお願いします。適宜、報告をお願いしますね」
「了解です。昨日、戸山さんと二人で晩飯を食べたので、ちょっと心配ですが、ADE株でなければ、大丈夫だと思っています」
「そうね。きっと大丈夫よ。治療薬はもっているわね?」
「はい。ワクチンもばっちり受けています」
「了解です。では、また」
 
 岩岡は話し中だった。丹東組スタッフ達への連絡等で忙しいのだろう。終わったら電話をして欲しい旨メッセージを入れ、菜々子は、現場とのこれらのやりとりを手早く纏め、加藤達に送った。
 
 戸山がADE株に感染した可能性はほぼゼロの筈だ。まず間違いなく既存株だろう…菜々子はそう考えていたが、気が気ではなかった。万が一、ADE株だったら戸山達は窮地に陥り、封じ込め作戦は振出しに戻る。世界的な大問題になってしまう。
 
 岩岡から電話が入り、菜々子は善後策を協議した。ウイルスの遺伝情報解析の結果を待つ間、岩岡に丹東組の最近の行動を主にスタッフ達から聞き取って貰うことで取り敢えず一致した。菜々子はその旨も加藤達に報告した。
 
「お疲れ様です。坂上です」
 
 すると産業医の坂上真理子から菜々子に電話が入った。多くの医師に共通するが、声音はいつも優しげだ。
 
「お疲れ様です。お手数お掛けして申し訳ありません」
 菜々子がそう応えると坂上は言った。
 
「ううん、気にしないで。きっと大丈夫よ。さっき戸山さんにも総務部長にも伝えたんだけれど、冷静に考えればADE株の筈は無いもの。今日、陽性が分かったという事は多分封鎖中の感染ですからね。あれだけ厳重に封鎖していたんだから、いきなり戸山さんの所にADE株が来る筈は無いですから」
「心強いお言葉、有難いです」
「それに既存株なら全然心配要らないわ。戸山さんに基礎疾患は無いですから、大丈夫。クリニックから配布した治療薬は持っているんでしょ?安心して。直ぐに服用するよう本人にも伝えたわ」
「有難うございます。助かります」
「既存株なら会社でももう半分以上の人が罹患しています。死者はゼロ、若い人の大半は軽症か無症状のままでした。隔離は致し方ないけれど、治療薬を服用して水を沢山飲んで療養していれば、一週間もすれば解放されますよ。訊いたら戸山さんは解熱剤や抗凝固剤も持っているようだから…適宜、電話で連絡を取り合いますから安心して下さいね」
「本当に有難うございます。引き続き、宜しくお願い致します」
「はい、では、またね」
 
 菜々子は電話を切ると、この内容もメモにし、戸山始め関係者全員に送った。戸山の家族にもすぐ伝わるだろう。
 
 そうこうしている内に、詳細検査の結果が戸山に伝えられた。戸山一人だけがやはり陽性だったが、遺伝情報の暫定解析結果は既存株ということだった。
 
 菜々子はそれも関係各所に一斉に連絡した。疲れがどっと出た。
 
 翌日分かったことだが、戸山と一緒に行動している北京支局の助手の取材によれば、戸山達が滞在していたホテルの従業員の家族が先週、無症状ながら既存株の陽性となり、その従業員も陽性になっていたことが判明したという。いずれも既存株で、その無症状の当該従業員から戸山に移ったものと中国当局も推定しているということだった。
 
 戸山班は丹東の地で缶詰生活に再び入ることになった。
 

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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