20XX年のゴッチャ その110

 泣き


 
 その日夕刻、麻布十番のオーフ・ザ・レコードに元内閣情報官の袴田剛が来訪した。店主のルークに話があるらしい。生ビールを一口飲んだ袴田が単刀直入に切り出した。珍しい。
 
「泣きが入りました。相当困っているみたいですよ」
 薄々見当がつくのだが、ルークは一体何事かという顔をする。
「大友さんでしたか?大変だったみたいですね。でもご無事で良かったです。彼らもかなり焦ったみたいです」
 
「ホント、無事でよかった。縁起でもないが、万が一の事態になっていたらと思うとぞっとするよね」
 ルークは木の芽をあしらった筍の梅肉和えの小鉢を出しながら言った。
「でも、泣きが入ったとは何でしょうかね?」
 
「いや、その後、現地に行かれた宮澤さんが捩じ込んだらしいんですよ、弁護士同道で」
「へぇー、それは知りませんでしたよ」
「弁護士は先方の強圧的な対応が、心臓発作だったんですかね、それを誘発したんじゃないかと疑念を表明したらしいんです」
「ほー、それはなかなかやりよりますな」
 
 ルークは勿論大友の太り過ぎが主たる原因と分かっている。しかし、袴田はそこまでは知らないらしい。
 
「先方は、あくまでも任意で話を聴いただけで違法行為は無いと言ってはいますが、状況が状況だっただけに苦慮しているみたいなんです。でも、彼らのクリニックの医師が救ったんだしそれで何よりも無事だったんだから、勘弁して欲しいと…自分達もベストを尽くしたし、違法行為は無かったと言っているんですよ」
「成程…ただ、私はもう部外者で詳しい状況は聞いていないんで、何ともね…本人がどう思っているかもわからないしね」
「それは理解します。ただ、昔の誼で宮澤さんにこれを内々にお伝え願えませんか?」
 
「うーん、伝えることは出来ますがね…それでどう判断するかはまず本人次第ですよ。宮澤と弁護士がどう判断するかも、私には何とも言えませんよ」
「そこを内々に穏便にお願いしたいと先方は泣きを入れている訳でして…」
「了解…、では伝えるだけは伝えましょう。袴田ちゃんにも先方にも以前世話になったのを忘れた訳ではないので…」
 
 ルークは前に起きたパリでの騒ぎの事を思い起こしながら言った。袴田は話を続けた。
 
「誠に申し上げにくいのですが、泣きはもう一つありまして…」
「と言いますと?」
 
 やはり本題に入るのだとルークは思った。しかし、どこまで踏み込んでくるのか予想出来なかった。
 
「いや、何やらとても良い取材をなさっているらしいですね、詳しい内容までは私も聞かされていないんですが、非常に影響力のある話だと…」
「いやいや、まさか報道の自由に踏み込んでくるおつもりは無いですよね?」
「滅相もありません。ただ、先方の申し出を私はお伝えししようとしているだけです」
「申し出…?」
「ええ。確たる内容を存じ上げないのにこんなことを申し伝えるのは忸怩たる思いもありますが、彼らの申し出をそのままお伝えします、『放送を然るべき時が来るまで待って頂きたい。そうして頂けるのであれば我々はその後に余計な事を一切言わないと誓う』と言っておりました。そして『この誓いは日本のカウンターパートに対する約束でもある』と」
「へぇー、前代未聞ですかね…あちらの国からそんな申し出が来るのは…」
「想像致しますに、北関係の重大情報だと思いますが、今の良い流れがご破算になるような事態は何としても彼らも避けたいのだと私は理解しております。御社の皆さんも、御社の報道がきっかけで核凍結と査察が駄目になるのはお望みではないと思っております…」
 
 袴田もしっかりと釘を刺してくる。ルークは二杯目を注いで尋ねた。
 
「食事はどうしますか?」
「有難うございます。ですが、次の機会にお願いします」
 
「話を戻して恐縮ですが、事件取材等でも捜査を潰さないように報道を容疑者逮捕まで待つことは結構ありますし、誘拐事件では報道協定を結んで取材さえも控えますよね。
 釈迦に説法で申し訳ありませんが、然るべき時まで控えてもらえないかというのは、それなりの理由があるのですから、それ程無体な話ではないかと思いますが、如何でしょうか?」
 
 袴田は更に食い下がった。
 
「まあ、報道協定事件はこのケースの参考にはならないと思うけれど…、ところで、その然るべき時というのはどんな時が考えられると…?」
「そうですね、例えば、今の緊張緩和に向かいそうな流れが別の理由で潰れて、元の圧力路線に戻った時ですとか、或いは、状況が良い方向に進んで、ちょっとやそっとではびくともしなくなって、適当なきっかけがあった時とかでしょうか…、もっとも私は当事者ではないので、断言することは出来ませんが…」
「成程ね…、大分先になる可能性もあり得ますね…。それと、余計な事は言わないというのは、積極的に肯定することはないとしても否定もしないという意味に捉えて大丈夫ですかね?」
「それは阿吽の呼吸だと思います。それにタイミングが適切であれば、その時点なら我々としても僭越ながら助け舟を出すことは出来るかもしれません。もっともタイミングが悪いとそれも難しくなるかもしれませんが…」
「そうですか…分かりました。私に当事者能力はありませんが、伝えるだけは伝えましょう」
「痛み入ります、甲斐さん」
 
 袴田は当初目的を達して満足したのか、残りのビールを飲み干した。
 
「ところで、私からも聞きたい話がありましてね。顔の鑑定についてなんですがね…」
 
 ルークはそう切り出すと、袴田が好物だという芽キャベツの素揚げとスティルトン・チーズを皿に盛りつけた。
 
「芽キャベツは今日の食事の付け合わせに丁度女房が用意したんでね。これを摘みにしてください」
 
 そう言うとシャトー・ヌフ・ド・パプの赤の栓を抜きに掛かった。
 
「あ、いや、すいません。それではもう一杯だけ頂きます」
 
 ルークはボヘミアン・グラスを出して、六分目程注いだ。
 
「今日、パソコンと睨めっこしながら調べたんですが、どうもピンと来なかったもので教えて頂きたいんですが…」
 
 ルークは顔貌鑑定について質問を始めた。
 
 
 
 数時間後、菜々子の姿は既に玄関の灯りを消し閉店を装っていたオーフ・ザ・レコードにあった。
 
 帰国後、会社に直行し、加藤局長らへの報告と溜まった仕事を片付けると菜々子は帰宅前にルークの店に立ち寄ることにしたのだ。話すことは沢山ある。それにルークからも話がある旨の連絡があった。疲れてはいたが、時差呆けで眠気は全く感じなかった。
 
筍の梅肉和えと芽キャベツの素揚げ、生ビールで空腹を満たしながら、菜々子は会社での加藤のそっけない反応など帰国後のあれこれをルークに話す。本題は間もなくやってくる桃子が合流してからだ。
 
「お疲れ様です」
 
 桃子がやって来た。
 
「大変だったみたいね?今はもう大丈夫なの、あのおデブちゃん?」
 
 

アリバイ

 
 
「我々の問題は結局いつまでもアリバイを崩せないってことになるんだ」
 
 菜々子とルークの報告が一通り終わった後、ルークが切り出した。三人の間に漂う空気は重い。
 
「否認されると、顔貌鑑定だけで例えばコイン・ランドリーの窃盗犯を有罪に持ち込めるケースはそんなにないらしい。もちろん、防犯カメラ映像が主な手掛かりになって容疑者を特定することは難しくない。
 しかし、それだけでは有罪判決を得るのは簡単ではなく、やはりアリバイを崩し、その他の証拠も固めないといけないということさ」
 
「筋情報を総合すれば間違いないと断定してももう構わないと思いますが…?」
 三人の中で一番気の強い桃子が不満げに言った。
 
「そう、確かに我々はそう思っている。各国関連機関もきっとそう断定しているだろう。フランスなら指紋やDNA情報で確認していても不思議ではない。しかし…」
「全面否定されたら、我々にはアリバイは崩せない…ということですね」
 菜々子が引き取って言った。
 
「残念ながら、現時点ではそうなる。総書記は北朝鮮国内にいる、パリなどにいる筈はない、他人の空似に違いないってことに多分なるのさ」
 
「我々が独自に顔貌鑑定をしてみるのは?」
 桃子が提案した。
 
「それはやっておいた方が良いだろうね。テレビ局にはお手の物だろう。しかし、パッと見だと大分やつれているから異論を封じ込めるのは難しいかもしれんね」
 
「AIで鑑定するのは?」
 桃子が追加した。
 
「聞いたところではAI鑑定だけで100%同一と出ることはほとんどないらしいよ。セキュリティー・ゲートの顔認証とは求められるレベルが違ってくるんだそうだ。それに秘密保持の問題も生じる。どこの誰が運営しているか分からないサーバーにあの画像を晒すのは拙いぞ」
 
「画像鑑定は部内で早速やってみます。少なくとも補強材料にはなるでしょうから…」
 菜々子が応じた。
 
「うーん、他に手段はありませんか…」
 桃子はまだ不満げだ。
 
「関係各国の情報機関と政府を全て敵に回す覚悟をして、世間からは先走りの大誤報とそしりを受ける、それでもいつか真実は明らかになる…そういう信念だけで放送するかい?」
 
 桃子も菜々子も押し黙った。
 
「結局、アリバイを独自に突き崩せない以上、フランス当局や各国政府が少なくとも否定しないという状況を待つしかないんじゃないかな…。いつになるか分からないが、然るべき時が来れば否定しないという提案が…、まあ、内々とは言え、あるのだからね。仮に国情筋がそうだと認めてくれるなら別かもしれないが、下手に手の内を晒すと何が起こるか分からない。とんでもないしっぺ返しを食らう恐れもあるんじゃないか…」
 
「メトロポリタンの虚報が今の流れを潰したと非難されることになるのは絶対拙いです」
 菜々子が断じた。
「それはそうだわね…」
 桃子も同意した。
 
「食事はどうする?」
 ルークが尋ねた。
「少し時間が経っているが、筍御飯と若竹汁、銀鱈の西京焼きがあるよ」
 
「あ、頂きます。ぺこぺこです」
 菜々子が応えた。
「私は済ませました。お酒だけで…」
 桃子はそう応えた。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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