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20XX年のゴッチャ その58

 指紋
 
 北朝鮮での封じ込め作戦は既に二週目に入っている。特異な発表は無い。各社の特派員が伝える丹東の様子にも変化はない。
 
 週末に本隊が現地入りしたWHO調査団は火曜日から本格的に活動を始めたと朝鮮中央放送とCCTVが昼ニュースで報じたが、平壌の検査場を視察する模様などが伝えられただけだった。
 
 現地時間のその日夜、ジュネーブ時間の午後にはWHO本部で記者会見が予定されていたので、新しい情報が出るとすればそれまで待たなければならなかった。
 
「おはようございます」
 夜八時過ぎ、オーフ・ザ・レコードのドアを開けた桃子が言った。
「おはよう」
 ルークが応じた。
 
 日本のテレビ業界では、その日の最初の挨拶は何時であろうとも「おはようございます」だ。夜でも何故か「こんばんは」とは言わない。
 
 ルークが訊ねもせずに前に置いた生ビールを一口飲むと桃子は言った。
「ルークさん、かなり大きな話が入ってきました。ジュネーブ取材に行っていた大友が…」
 
 北のお姫様の情報を大友が掴んだことや山瀬がそうとは知らずにお姫様らしき若い女性の映像をバタクラン前で撮影していたことを報告した。
 
「何と!運も実力の内だ。大友も山瀬もやるな」
 ルークが感嘆する。
「それにしても桃子の情報はたいしたものだ。驚きのネタに繋がりそうだな。流石だよ」
 
 今ではOB・OGに過ぎない二人に北のお姫様の情報を伝えたことは、会社から見れば間違いなく倫理規定違反だが、元はと言えば桃子がもたらした情報が始まりだ。それに、この二人から外部に漏れる心配は無い。菜々子はそう考えている筈だ。大友や山瀬も端緒情報は桃子によるものだと踏んでいるに違いない。
 
「さて、想像力を逞しくしてちょっとまた頭の体操をしてみようか」
 ルークがこう言うと虚空を見つめ考え始めた。
 
「まずはクラプトンのコンサートに正哲が行くらしいという桃子の話が始まりだ。次に総書記の健康不安説、そして、お姫さの存在とパリ入り、これらがすべて正しく、かつ、繋がっていると仮定すると、何が出てくるんだろうな?」
「健康不安説の真偽とその程度が良くわかりません」
 桃子が応えた。
 
「確かにそうだ。ADE株の話はもう明らかになったのだから、健康不安説とは関係が無いのかな…。お姫様と関係があるとすれば、ADE株の出現で正哲がパリ行きを諦め、代わりにお姫様が観に行っただけなのかも知れん。それに、実際、総書記は習近平と会談し、今は平壌に居る筈だ。しかし、にも拘わらず、健康不安説が消えていない。
 そんな話自体は珍しいことではないが、首脳会談をあんなにきちんとやって中国の全面支援を引き出した訳だから、自明の事として、総書記にそんな健康問題があるとは考えにくい」
 
「でも、国情だけは今も健康不安説に注目しています」
「今もか…確かに、妙な健康不安説が流れる度に、或いは替え玉説が流れる度に、韓国がこれを否定するという事がこれまで何度もあったと記憶しているが、今回は、その韓国が妙にずっと気にしている。根も葉もないデマ情報と一笑に付すのは簡単だが、そうではないと仮定すると何が出てくる?そして、お姫様とどう繋がる?」
「お姫様とはすぐには繋がりませんね…やっぱり健康不安説は誤りなんですかね」
「では、最初に戻ってみよう。というより逆から考えてみよう。つまり、重病説は正しいという仮定を最初に置いて考えてみると…」
 
 桃子も最初の一口を飲んだだけで考える。
 
 ルークが再び口を開いた。
「重病説が絶対正しいと仮定すると、彼は今、どこかで臥せっているということになる。そうだとすると、北京に行ったのは別人という事になってしまう」
「それはあり得ないでしょう。替え玉が習近平とやりあってあんな合意を纏めることは出来ません」
「そうだろうな。替え玉だったら習近平と会っただけでちびっちまう…」
「そうですよね」
 桃子が漸く二口目を飲んだ。
 
「だが、待てよ…もしも、替え玉が正哲だったらどうだ?弟と妹の考えは良く分かる。相談も出来る。周りからかしずかれるのにも慣れている。習近平とサシで堂々とやり合えるかどうかは別問題だが、絶対に無理とは言い切れない。振り付けさえきちんと守れば不可能ではないかもしれんよ」
 
「だとしたら、パリに行けなかったのは当然という事にもなりますね。でも、中国側が気付くでしょう、いくらなんでも。首脳会談だって受けないでしょうね」
 桃子が少し笑い、ビールを飲み干した。
「そりゃ、そうだ。考え過ぎだな。むしろ、重病なのは正哲と考えた方が余程筋が通る」
「そうですね。それならあるかもしれませんね」
 桃子が応じた。
 
「やれやれ…もう一杯飲むかい?」
「頂きます」
 
 ルークが二杯目を渡した。
 
「ところで、正哲にこれまで健康不安説ってあったっけ?」
「聞いたことありませんね。でも、そんなに注目の的じゃないですからね」
「それはそうだ。家族の噂は?」
「それも耳にしたことはありません。兄と言うだけで公には何の役職にも就いていない私人ですからね。注目度は格段に劣ります」
「でも、関係は悪くないんだろうね。蟄居させられているとか、どこかに放逐されたなんて話も聞かない。実際、クラプトンのコンサートに行くなんて話があるくらい、自由に動き回れるらしいしさ」
「そうですね。そして、コンサートの話が引っ掛かる程度に国情は追っているということになります」
「正哲に子供は居るのかな?」
「今度、訊いてみます。お姫様が誰の子かというのは確かに気になりますから…」
 
「総書記には子供が何人いるんだっけ?」
「未確認ですが、雪主夫人が少なくとも三人産んだという説はありますね。四人と言う説も五人という未確認情報もあります。第二子は女の子と言う以外、性別は諸説あって不明です。年齢的にはお姫様は一番下の子かもしれませんね。与正氏にも子供は二人いると言われていますけれど、いずれも公式には確認されていません」
「お姫様が長い間学校に姿を見せていないと言うのも気になるね。パリで何をやっているか…」
「ほんとまだ謎だらけですよ。私もいろいろ訊いてみます」
「日本やアメリカの筋情報は訊いてもどうかな…正哲のことまでは追っていない可能性が高いし、子供の事も良くわからないんじゃないかな。現時点でそんなに真剣に追う意味はないからね。前の時だってそうだったからね。やはり国情が一歩も二歩も先を言っている筈だよね。まだまだ桃の出番さ」
 
 ルークがそう言ってから尋ねた。
「腹減っているでしょ?今日はキーマ・カレーに目玉焼きを乗せたのと茹でブロッコリーニのドレッシング和えさ。目玉焼きは半熟が良い?それとも良く焼き?」
「半熟でお願いします」
「オーケー。暫しお待ちを」
 
 ルークは食事の準備を始めた。そして、目玉焼きを作りながら背中越しに言った。
「そう言えば、ベルンの学校のアジア人の男の子も探った方が良いね。韓国名と言うか朝鮮名の男の子をさ。OBも含めてね。もしかしたら後継者が見つかるかもしれない。ま、もしも見つかっても、それが報道で使えるのはかなり先の事だろうけれどね」
 カレーは少し温めて盛り付けるだけだ。
「あ、それはそうですね。菜々子に伝えます」
 
 暫くして、出来上がった料理が桃子の前に置かれた。
「もうキーマ・カレーは珍しくもなんともないが、女房が作ったのはやっぱり格別だよ。ちょっと辛いかもしれないが、大丈夫だと思うよ」
「美味しそうです。頂きます」
 
 ルークが三杯目の生ビールを注いだ。自分が飲むのは焙じ茶だ。
 
 カウンターの向かいの壁に掛けられている液晶ミニターはBBCニュースの交際放送を映していた。普段は音声を出していないのだが、画面はWHOの記者会見の内容を伝え始めた。気付いたルークが音声のボリュームを上げる。綺麗なブリティッシュ・アクセントの英語が流れ始めた。
 
「ガンマⅡ型ADE変異株の感染者が北朝鮮で先週までに千三百五十四人確認され、うち十六人が死亡しました。死亡した十六人は全員ワクチン接種済みで、基礎疾患もあったと、WHOは発表しました。
 既存株も含めた陽性者は全部で二千八百六十七人で、暫定的な評価ではガンマⅡ型ADE変異株の感染力は既存株に比べて低いと見られるとの見解もWHOは明らかにしています」
 
「千三百五十四人人か…結構多いな…これで収まるかな…」
 ルークが呟いた。
 
 BBC放送は続けて「陽性者と濃厚接触者は既に全員隔離されており、陽性者全員とADE変異株の濃厚接触者には治療薬も投与されています。北朝鮮の国外への拡がりは今のところ認められないとWHOは述べています」と伝えた。
 
「で、封じ込めは…」とルークが言い掛けるとBBC放送は更に続けた。
「予断は出来ないものの、WHOはADE変異株の封じ込めは十分可能との見解も明らかにしています。その根拠として、WHOは治療薬が有効なことに加え、ADE変異株は既存株に比べ感染力がやや弱い可能性が高いことを挙げています」
 
「成る程ね…感染者は思ったより多いような気がするが、まあ、先の見通しは悪くないということだな?」
「少し安心かもしれませんね。実際はほぼ全部、中国がやっているんでしょうけれど…」 
 食事の手を休めて桃子が言った。
「そうだね。現実には全部中国頼みとしても、これで疫学的なデータや見解の発表はWHOが責任を負うということになるね」
「中国の思う壺かも知れませんね。上手いですよね。文句を言う人もいないでしょうけれど」
「中国さまさまか…何か腑に落ちないが、ま、そうなるのは仕方ない」
 
 BBC放送は専門家のインタビューを報じ始めた。
 
 封じ込めの失敗を望む人間など一人もいないのだ。誰も明確に認識していなかったかもしれないが、世界が中国頼りの状態になっていた。
 
 桃子のスマホが着信音を鳴らした。見ると菜々子から画像が八枚届いていた。
 
 山瀬がこっそり撮影したアジア人の女の子と二人の男の三人組が写ったものが一枚、それぞれのアップが二枚ずつ、それにベルナールがSNSで見つけた同じ女の子と思われる別の画像が一枚の計八枚だった。画像の出所の詳しい説明と人定の割り出しを桃子に依頼するメモが添えられていた。ソウル支局長の棚橋聡にも同じものが送られたという。
 
 桃子が写真をルークに見せ、説明した。
 
「ほー、この子がお姫様か…確かにバタクラン前の画像とSNSで見つけたのと同じ子に見えるね。確認は必要だが、そうだとすると金王朝のお姫様の可能性は高いね。祖母に当たる高英姫の若い頃に似ていると言われれば似ているような気もするしね」
「そうですね。そんな気もします」
 桃子が同意した。ルークが続ける。
「しかし、どうやって確認するかは良く考えた方が良いかもね」
「と、言いますと?」
「いや、この写真を然るべき筋に直に当てると、こちらの手の内も全部晒すことになる。それで明確な答えが得られれば良いのかもしれないが、仮に当りでもマークがきつくなって、その先、もの凄くやりにくくなるかもしれないということさ」
「でも、他に方法は…?」
「それはそうなんだが…、どうだろう、二段階でやってみるのは?」
「二段階ですか?」
「そう、まず、手始めに男二人の人定を探る。この二人の男が北の何処かの大使館の職員であることが確認できれば、一緒に写っている女の子も北の誰かということになる。無関係ということはあるまい。そして、ベルンの国際学校に留学しているのに学校を休んでバタクランに現れたということは特別扱いされているということになる。パリで一緒に居た二人の男の年長の方の子の可能性はゼロではないけれどね。
 しかし、とりあえず、そこまで確認できるかどうかやってみるのはどうだろう?男達の人定だけなら、取材相手がはぐらかす可能性はより低いんじゃないか?外交官なら調べる方法は他にもあるだろうしさ。こちらの手の内を全部晒すことにもならない。女の子の方はその後考えるというのはどうだろう?」
「何だかまどろっこしい気もしますが…」
「ま、当てる相手次第だよね。でも、取り敢えず、男二人の人定だけ桃子と山瀬が探る。
その方が正解に辿り着く可能性は絶対高い。急がば回れだよ」
「うーーん…でも、確かにそうかも知れませんね。先ずそれが確認できれば私の方もその後に当てる材料が増えますから」
 
 そう、ネタ元に情報を当て、真偽を確認したり更なる情報を引き出したい時、こちらが持っている材料が多い方が良いのは一人前の記者の常識でもある。桃子が同意した。
「菜々子にすぐ連絡します」
 桃子はそう言うと、スマホにメッセージを打ち始めた。
 
 その頃、パリ・二十区のモルティエ大通りにあるDGSE・対外治安総局の本部では、アジア担当次長のジャン・ルック・モローの元に北朝鮮担当チームのルイ・ラファエル・シモンが報告に来ていた。
「スイスから指紋データが届きました。今、照合をしています。間もなく判明するでしょう」
「分かった。とにかく間違いの無いように」
「了解です。やはりスイスの奴ら最初は渋りましたが、御指示のあった銀行の話が効きました」
「そうだろうな。分かったらすぐ報告して欲しい」
「了解です」
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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