オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その115

 

99%の壁

 

 その夜、仕事を終えた菜々子は、帰路、電車の中で、夕方届いたセキュリティー会社からのメールを改めて読み返した。

「お世話になっております。早速ですが、ご依頼の件について鑑定結果をお知らせ致します。
 AIは1番の写真と4番の写真が同一人物である可能性を97%と判定いたしました。100%にならなかった理由は、目頭と目尻の位置がほんの微かながら異なっているからのようです。人間の目で見ても肉付きが大分違うようですので、AIはそれを考慮したものと思われます。ただし、鼻と耳の位置関係は同一と判断しております。
 2番の写真が同一の可能性は35%、3番の写真はゼロと判定しております。別な申し上げ方を致しますと、1番もしくは4番と比べた場合、2番と3番の人物は顔認証ゲートを通過出来ません。1番と4番は肉付きが変わっているようですが、それでも顔認証ゲートを通過するだろうというレベルの同一性と思われます。
 本日のご面談の際にも申し上げましたが、この鑑定結果はあくまでも顔の限られた部分の写真を比べたものに過ぎません。100%の決定的証拠にはなり得ません。
 頭部全体を360度撮影した立体画像があれば、更に精度の高い鑑定は可能と存じます。もしも、そのようなご用命がございましたら、改めてお申し付け下さい。なお、このご報告は発注元の原沢総務部長様にも同時に送らせて頂きました。ご了承下さいますようお願い申し上げます」

 菜々子はひょっとして100%という御託宣もあるのではないかと儚い期待をしていなかった訳ではなかったが、結果は想定の範囲内に留まっていた。これ以上先に進むには画像を全部渡す必要が生じる。しかし、それでも目頭と目尻の位置が変わる訳ではない。きっと良くて98~99%までなのだろうと観念した。もろもろの事情を考慮すれば、やはりアリバイを完全に崩すか、関係各国から否定情報が出ないような状況を待つしかないと思った。

 そして、もしも状況が変われば一番期待できるのは韓国筋であった。例えば「そのような情報には接している。それが正しい可能性もあり得るとみて、現在も真偽を確認中である」といった少し踏み込んだ情報発信を裏でしてくれる可能性があった。これまでのところ、半ば蚊帳の外に置かれている彼らには、いざとなれば「知っているぞ」と真っ先に匂わせたいプライドがある筈でもあるからだ。フランスはダンマリを決め込むだろう。アメリカや日本はせいぜい確認中であると言ってくれる程度だろうと菜々子は踏んでいた。

 こうした国々を怒らせたり、当惑させるのは、アリバイを崩せず、かつ、AI鑑定をどれ程やっても最終的に99%の壁を突破できない可能性が高い以上、得策ではないと菜々子は改めて肝に銘じた。「もうイケイケでしょ」という気持ちが全く無いという訳ではない。桃子なら賛同するかも知れない。しかし、その後の巨大なリスクは菜々子にも怖かったのだ。全てを敵に回すのは耐えられないからだ。

 太田との約束は9時、場所も菜々子の家の近所のカウンターだけの小さなすし屋に変更した。耳が大分遠い大将にも会話は筒抜けになるがどうせ仕事の話はしない。自宅に戻った菜々子はスーツを大きめの丸首セーターとジーンズに着替えた。

 昨夜、矢吹は韓国の兄貴から呼ばれたので近々会いに行く、と言った。代表も王鶴政治局委員に呼ばれている。どんな話になるのか、特に王鶴の用向きは見当が付かなかったが、菜々子はこれらの面談の結果を待つしかなかった。

 

危険


「ちょっとマズい状況かも知れません」
 
 店を臨時の休みにして出掛けた金曜日の午後のハーフ・ゴルフと帰宅後の晩飯を終え、ルークはゆっくりと湯船に浸かっていた。そして、昨夜、最後の一杯を呑みたいと残った矢吹がもたらした警報を反芻していたのだ。

「どんなふうに?」
「あのですね、しんどい取材で特派員が二人、相次いで倒れたことを上が気にしている気配なんですよ。状況を調べて報告せよと人事部長、すなわち私の部下のところに指示がありましてね…」
「そうか…戸山の身内の誰かが色々言って来ているというのは小耳に挟んだが、関係があるんだな?」
「そうみたいです。代表が個人的に気にしているのは間違いなさそうでして…」
「ほう、すると戸山は代表の引きで入社したということかい?」
「はっきりとは分かりませんが、戸山の母親は代表の姻戚筋に当たるらしいと噂されています。大友の後見人も別の偉いさんですしね」

「あーあ、相変わらず面倒臭い会社だな…オーナー一族が居るわけじゃないのにな…結構やばそうなのかい?」
「勘だけですが、ギリギリかも知れません。菜々子に関しては変な怪文書も出回りましたしね」
「怪文書?初耳だ」
「名指しはされていませんが、どう考えても菜々子と外務省の課長が親密で、情報漏洩の疑いがあるという、何と言いますか、言い掛かりとしか思えない内容でしてね、もう一つ何かやらかすと菜々子は飛ばされても不思議ではありませんよ。そんな気がします」
「困ったもんだな…」
「先輩、非常に申し上げにくいのですが、先輩が飛ばされた時にムードが似ているような気がしてならないんです。菜々子は暫く大人しくしていた方が良いかもしれません」
「そうか…」

 ルークは少しばかり昔を思い出して言った。

「菜々子には伝えたのかい?」
「いえいえ、これは職務上知り得た秘密って奴でして、先輩だからこそ申し上げております」
「やれやれ、そんなケースばかりだな。入社して現場に配属された後はもう黙って見ていりゃあ良いのにな…もう子供じゃないんだしさ…だからやる気と能力に満ち溢れた奴が減るばかりなんだぜ」
「そうおっしゃられても、私にはどうにも…ご存じのように時代はすっかり変わっていまして、優越的地位にある人間は余程慎重にやらないと直ぐに問題になるんです。もうそこら中、地雷だらけですよ」
「やれやれ…そんなに気になるなら特派員にしなきゃ良いのにな…誰も本来の重責を分かっちゃいないんだ」
「おっしゃる通り、でも悲しいかな、時代は完全に…」

 ルークはすっかり気が滅入ってきた。ゴルフのスコアがメタメタだったせいもあって最悪の気分だった。

「あの時のロシアの世論の反応を見て、お前が言うメディアの役割って奴を理解したよ」

 次いで、ルークは日本のメディアの報道振りに極めて批判的だった別の友人の言葉を思い起こした。

「いいか、報道機関が政治権力の横暴を監視し、不正や失敗を暴いて告発するのは民主主義にとって非常に重要なんだ。中国やロシアを見てみろ。御用機関だらけになって大本営発表ばかり伝えるようになったらとんでもないことになるんだ。右も左も無い。相手が誰だろうと監視をし、批判的に報じるのはメディアの本来の役割なんだ」

 ルークがこう力説すると、彼は不満そうに言ったものだ。

「だからと言って揚げ足取りみたいなイチャモンばかりじゃフェアじゃないだろう?それでは信頼なんて出来ないな」

 だが、友人は宗旨替えした。あの極悪非道のウクライナ侵攻後のロシア国内の反応を目の当たりにして大本営発表の恐ろしさを痛感したからだ。

 メディアの重責は政治権力者の監視だけではない。官僚組織や大企業、犯罪組織は勿論、社会の隅々で不正や失策の隠ぺいがあったならば、それを白日の下に晒すのは健全な民主社会・国家を維持する為に必要不可欠なのだ。世の中、楽しい報せばかりではない。

 勿論、簡単ではない。真実だけを伝え続け、一度たりとも、少しも間違えないのは不可能だ。それに力を持つ者は、メディアを宥めたり、賺したり、時には脅したりして懐柔しようとする。甚だしきは記者個人や会社を丸ごと抹殺さえしようとする。世界レベルで見れば、その為に投獄されたり、暗殺されるジャーナリストも少なくない。その一方で、権力に擦り寄り、提灯持ちを厭わない輩も居る。

「覚悟が足りないのが日本には多過ぎるんだ。俺もその一人だったと言われちゃあそれまでだけどな…誰も潰されたくないのは一緒だからな…」

 この年寄りの悪い癖で考え過ぎた結果、話が飛躍してしまっている面は否めないのだが、ルークは嘆息し、重い身体を持ち上げた…。

 八人も座れば一杯になる小さな店のカウンターで菜々子と太田は久しぶりに寿司を摘まんでいた。店は最近までずっと女将さんと二人で切り盛りしていた。しかし、女将が身体を壊し、今は娘さんが手伝いに来ている。

 1990年代のバブル期に銀座の一流店を切り盛りしていた大将は同業者の栄枯盛衰を目の当たりにし、一時は自身も辛酸を舐めたという。そのせいか、立ち直ってこの店を始めて以降はお馴染みを相手に一流のネタを良心的な値段で提供する方針を貫いていた。今では知る人ぞ知る隠れた名店だ。

 しめ鯖を口に入れた太田は唸った。脂の乗り具合といい、〆加減といい、絶品だった。菜々子は平目の昆布締めを摘まむ。こちらも口にねっとりと旨味が広がる。

「いやぁー初めてお邪魔したけれど最高ですね。旨いとしか表現のしようがないですよ」
 太田が誉めちぎる。
「有難うございます。松輪の鯖です」
 かなり耳の遠い大将が大きな声で言った。

「ウクライナの戦争でロシア産が入りにくくなったせいで値段が上がり、その後全く下がりませんし、外国人観光客が戻ったし温暖化もあるしで、特にイクラや雲丹が高止まりしたままでしてね。欧米が買わなくなった分、タラバとか安く出回る物も無くはないみたいなんですが、高くて高くて困ったものなんです。ただ、日本の鯖や平目、鯛は比較的落ち着いてるんで助かっていますよ」

 大将が説明した。

「そうですよね。ロシア産は魚介類もエネルギーも以前のようにすんなり入って来ませんからね。裏ルートは復活したみたいですが、ロシアと大規模に真剣な商売をしようという人間はもう基本的に居ませんから…」

 太田がビールを飲んで言った。論点は変わっている。

「イクラも雲丹も大好きなんですけれど…」
 菜々子はそう言いながらお猪口を口につけた。

「物価高はウクライナ戦争だけが原因ではないのだけれど…、ロシア人が力の信奉者ばかりで無神経で厚かましくて付き合い難いのは昔からとは言え、ウクライナ侵攻で、卑怯で残虐で、約束とか契約とか屁とも思っていないということが知れ渡ってしまったからね…当分、色々、我慢するしかないよ」

 太田が慰めにもならない事を言った。

「それはそうかも知れませんけれど、何とかならないんでしょうか?」

「繊細なのはバレエとアーティスティック・スポーツだけだという人もいる位だからね。全員が全員駄目とは言わないが、彼らの国民性が変わらない限り、付き合い切れないと感じている人間がこんなにも多くなってしまった以上、甘い顔は出来ないよね。こっちも我慢さ」

 対ロシア関係が暫くどうにもならないことは菜々子も重々承知していたが、大好物の新鮮な北の海の幸が遠い存在になっているのは残念で仕方なかったのだ。

「そろそろ握りますか?」
 大将が促した。閉店時間が近いのだった。
「お願いします」
 二人は声を揃えた。
「はいー畏まりましたー」

 大将の大声が小さな店にまた響いた…。

 甘美で強烈な太田の波状攻撃に菜々子は翻弄され完全に我を忘れた。

 店を出てから一時間も経っていない。その後も暫く続いた太田の動きが止まると菜々子はまるで失神したかのように、そのまま深い眠りに落ちた。

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
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