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20XX年のゴッチャ その47

 ヨガ
 
「腕を伸ばして身体の後ろから上に上げながら、大きく息を吸ってください…。今度は息を吐きながら腕をゆっくり戻します…。
 もう一度、息を大きく吸いながら、腕を上げて伸ばしてください…。
 さあ、後二回、吸って―…吐いてー…」
 
 アメリカ人インストラクターのゆったりとした英語の指示に従いながら菜々子は朝のヨガを始めた。
 
 利用しているDVDとマットはワシントン駐在時に買い求めたもので、DVDのタイトルは「ビギナーの為のヨガ・モーニング編」、マットはルールー・レモンの天然ゴム製五ミリ厚である。
 
 テレビでニュースをモニターしながら朝のヨガをするのは、ここ数年、菜々子の日課になっていた。
 
 以前は、時折、外で軽いジョギングをしたりジムでトレーニングをしたのだが、外出せずに自分の家で出来る初心者向けヨガに切り換えたのだ。身支度も必要無いし、テレビ・ニュースを横目にしながら出来るのが有難かったからだ。
 
 もっとも初心者向けと言ってもヨガの内容は想像より濃いかもしれない。腹式呼吸とストレッチ、軽い筋トレを組み合わせたようなポーズや動きを時間にして四十分近く続けるのだ。半ば頃には汗がじんわりと滲み出してくる。運動量としてはスピーディーなウォーキング並みだろう。
 
「それでは、肘を伸ばして掌をマットに付けたまま、かかとを上げて足指の根元で体重を支え、お尻をぐーっと持ち上げましょう。
 犬のポーズの完成です。
 息を吸ってー膝を少し曲げてー、ゆっくり吐きながら膝を伸ばし、ゆっくりとお尻を更に上に持ち上げましょう…」
 
 大きめのロングTと七分丈のスウェットパンツ姿の菜々子が指示に従って尻を持ち上げる。そして、深呼吸するのに応じて、豊かな胸がゆっくりと上下する。次いで、両脚の裏を更に伸ばして尻を上げ、息を吐き始めると、傍らのコーヒー・テーブルの上のスマホから着信音が聞こえた。
 
 しかし、ヨガを続ける。テレビ・ニュースに特段気になるものはない。
 
 およそ四十分のDVDが終わると、菜々子は再生に使っていたアプリを閉じ、パソコンを畳む。ハンドタオルで汗を拭いながら、緑茶を入れた。朝は日本茶党なのだ。
 
 時刻は六時五十五分、チャンネルをBBCの国際放送に切り替えた。音声はサブチャンネルの英語を選ぶ。菜々子は同時通訳の日本語が好きではない。まどろっこしいからだ。
 
 BBC国際放送の日本時間七時、イギリス時間夜十時のメイン・ニュースは昨夜のWHO会見の内容を大々的に報じる。レポートするのは医療エディターという肩書の専門家だ。
 
 この記者は医師の資格を持っていると聞いている。実に詳しく丁寧に説明する。彼のような医学の知識を持つ専門記者は日本のマス・メディアにはいない。羨ましい限りだ。
 
 綺麗な深緑色の茶を飲みながら菜々子はスマホを手に取った。いつもより上手く淹れられた緑茶の滋味が身体に滲みる。ヨーグルトとリンゴも少し用意した。
 
「デブが動けば棒に当たる?」
 
「また…何を言いたいのかしら…」
 菜々子は、そう思いながら本文を読み進めた。
 
「昨夜、晩飯をベルンで食べようと思い立ち、行ってみたところ、レストランで…」
 大友の説明に最後まで目を通した菜々子はすぐに添付された音声ファイルを起動する。
 
「彼女の姿を最近見ないので…」
 音質が悪くすぐには全部聞き取れないが、非常に興味深い。大友が言うように当たったのかもしれなかった。しかし、現地はもう深夜だ。今、焦ってもしょうがない。出社してからじっくり聞くことにして、浴室に移動する。
 
 熱めのシャワーを浴びながら菜々子は考えた。
「北のお姫様が本物なら追う価値はある。姐さんがもたらした正恩総書記の健康問題の真相にぶち当たるかもしれないわ…でも、まずは音声を聞き取ってからね。それから考えましょう…」
 そう自分に言い聞かせた。
 
 シャワーを手早く終えると菜々子は全身に保湿液を塗る。髪の毛を乾かしてセットし、控え目なメイクをして、スーツに身を固めれば出社だ。この業界に長くいる女性の身支度は実に早い。菜々子も例外ではなかった。
 
 ガラパゴス現象
 
 菜々子が自分のデスクに着き、社内の自動販売機で買ったコーヒーを紙コップから一口啜ると週末は九時開始の定例編集会議が間もなく始まった。本来なら休みの土曜だったが、前夜のADE株確認の方を受けて菜々子は出社したのだ。
 
 デスク・トップを立ち上げ、メールされてきた国際取材部デスクの最新の引継ぎメモを読みながら、会議の様子を聞く。
 
 最初に発言するよう指名された国際取材部の当番デスクが、前夜のWHOの発表を受けた主要各国政府の反応を説明している。どの国も。ADE株への警戒を顕にしながらも、国民に平静を呼びかけている。
 
 何度も聞いたような発言だったが、アメリカのベン大統領は、少し前に「懸念は正当だが、パニックは不要だ」という声明を出していた。
 
 次いで政治部の当番デスクが発言する。
 
「官邸筋も警戒を強めると共に冷静な対応を呼び掛ける方針を明らかにしています。間もなく官邸入りする馬淵総理がぶら下がりに応じる予定で、同様の声明を発表し、治療薬が効くこと、封じ込め作戦が今のところ順調であることを強調し、国民に平静を呼びかける見通しです…」
 
 叩き上げで苦労人の馬淵典夫総理は、機を見るのに敏で所謂寝技にも強い党人派だが、それでいて勉強熱心で政策に明るく、言語は明瞭、国民の評価は高い。
 
 政治資金集めに苦労していて自身が率いるグループの議員が少ないのが弱点だったが、国民の支持を背景に安定した政権運営を今のところ続けていた。他に頼れる者が多くなかったせいもあろうが、身内贔屓も官僚の選り好みもほとんどせず、政権運営・政策遂行を上手にコントロールしていた。
 
 かつての民主党の流れを汲む寄せ集めの与党連合内のやっかみが足を引っ張ることにいずれなるだろうとルークが心配していたのを菜々子は思い出した。
 
 編集会議の途中だったが、馬淵総理のぶら下がりのライブ映像が報道局フロアーに流れる。土曜日だったが総理も予定を変更したのだ。
 
「日本時間で昨夜、WHOの発表で、北朝鮮で新型コロナウイルスのADE株が出現したことが確認されました。
 ADE株はワクチンが効かないばかりではなく、ワクチンで出来る抗体を悪用して感染する力を強める恐れのある厄介な変異株です。
 万が一、我が国でこれが蔓延することになりますと、新たな感染爆発を引き起こし、大きな被害をもたらす可能性を否定できません。
 しかしながら、WHOも認めたように治療薬は有効です。また、WHOと中国が既に北朝鮮で実施しております封じ込め作戦は順調に推移しているところであります。
 政府としては既に治療薬の積み増し、検査・診療体制の増強、水際対策の強化に着手し警戒を続けております。
 国民の皆様におかれましては、これを必要以上に恐れることなく、感染予防策を講じながら、今まで通り、日々の仕事、学業に励み、生活を続けていただきたいと思っております。
油断は禁物ですが、パニックになる必要はございません。正しい理解と行動をお願いする次第です」
 
 馬淵総理は、こう述べると、質問に応じることなく、執務室に向かった。これを受けて、編集会議では政治部の当番デスクが発言を続けた。
 
「総理の発言は今、お聞きになった通りです。政府は警戒を強めつつも、現時点では、それ程先行きを不安視していないということです。その根拠は総理の発言にあるように治療薬が効くことと封じ込め作戦がこれまでのところ上手く行っていることです。
 次に、WHOの発表を受けて、政治部は、メディア取材部IT班と共同で、SNSを利用した緊急世論調査を今朝六時から実施しています。
 極めて簡易的な調査ですが、現時点では、ADE株を脅威と感じ心配だと思うものの、
暫くは様子を注視したいという、比較的冷静な反応が多数となっております。また、政府の対応を信頼しているという声も多くなっています。調査は十時に締め切り、まとめを昼ニュースで紹介したいと思っています」
 
 次いで、社会部の当番デスクが発言する。
 
「ADE株について、社会部はウイルス学の専門家に電話インタビューをしました。それによりますと、治療薬が効くのが大きく、やはりそれほど心配していないというお話でした。
 また、ADE株が出現した理由について、専門家は、例えばデングウイルスというADEを起こす別のウイルスと新型コロナウイルスに、ある個人もしくは中間宿主が同時に感染して、その体内でウイルスの遺伝子が混ざり合って、このADE株が出来てしまった可能性や、例えばエイズの患者など免疫の弱い人の体内で、新型コロナウイルスがいつまでも消滅せず、何千・何万もの世代に亘って増殖・複製を続けた結果、幾種類もの変異が積み重なりADE株が出来てしまった可能性、そして、最後に、北朝鮮という陸の孤島で、まるでガラパゴス諸島のように独自の特異な変異をウイルスが続けた結果、ADE株が出現した可能性、この三つのシナリオが理論上は考えられるということでした。
 しかしながら、デングウイルスは熱帯・亜熱帯に多いウイルスです。北朝鮮の気候・風土を考慮すれば、これと混ざった可能性は低い。また、北朝鮮にエイズ患者はほとんど存在しないだろうと言う推測、そして、陸の孤島状態が長年続いているという特異性を考えれば、北朝鮮で所謂ガラパゴス現象が起きた可能性が最も高いのではないかと専門家は推測しています。
 勿論、全て憶測の域を出ませんが、検査体制が不十分で、感染者のウイルスのゲノム解析もほとんどなされてこなかったのであろう北朝鮮という孤立地域では、何年にも亘って出現し続けていた目立たない変異株の存在を全く検知できず、とうとうADE株の出現に至った。そうなって初めて気づいたので、突然出現したように見えるだけで、実際には変異が積み重なって出来たと考えるのが、最も理に適うというお話でした。
 因みに、この専門家は、オミクロン株も南アフリカの何処かの孤立スポットで、似たようなガラパゴス現象の結果出現した可能性が高いと推測しています。
 電話インタビューの音声は収録済みで、昼ニュースで使用可能です。夕方ニュース向けに、現在、記者とカメラがこの専門家の元に向かっています。都内で市民の反応も取材します」
 
 続いて、経済部デスクが発言する。
 
「ADE株出現確認を受けて、現地金曜のニューヨーク市場のダウ平均はやや下げました。飲食・旅行・運輸関連株がかなり値を下げた一方、医薬・医療品メーカーの株は上がっています。その他は余り動いていません。マーケットも様子見状態と言えるかもしれません。
 昼ニュースでは市場関係者のインタビューとニューヨーク市場から中継レポートを準備しています」
 
「ADE株について、その他発言はありますか?」
 週末担当の編集長が尋ねた。
「無いようですので、その他のニュースを紹介してください。それではネット連絡部から…」
 
 メトロポリタン放送とネットワークを形成する日本各地の放送局のニュースを取りまとめる連絡部デスクは北海道などの大雪と関西で起きた大きな交通事故のニュースを紹介する。
 
 昼ニュースは、当然だが、ADE株関連ニュースを大々的に扱うことになる。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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