見出し画像

20XX年のゴッチャ その44

 暫定結果
 
 WHOの記者会見がヨーロッパ時間の午後二時半に設定された。日本時間午後十時半だ。
 
「これなら会見を聞いてから夜ニュースの中継に間に合うな」
 メトロポリタン放送の夜ニュースは午後十一時半からだ。大友はほっとした。
 
 英語の記者会見を聞きながら、ほぼ同時にその内容をレポートするのはベテラン放送記者でも難しい。ルークにはお手の物だったが、そんな芸当が出来る者は多くない。しかし、一時間の猶予があるなら十分だった。それに昼飯を食う時間もある。大友は記者会見取材とWHO本部ビル前からの中継レポートの準備をスタッフと共に始めた。
 
 アナログ放送時代は中継の準備自体が大変で、放送内容以前に中継の成否がライバル局との勝負の分かれ目になることもしばしばだった。が、デジタル化が進み、簡易中継装置が当たり前になった今ではもう簡単だ。後は飯を食って会見を聞いてメモし喋るだけだ。
 
 ありきたりだが、昼はハムとチーズのバゲット・サンドイッチにした。当然、二本だ。
 
 本社ではWHOの会見と大友の中継レポートを夜ニュースのトップで放送する構えだった。菜々子も本社に残り見守ることにした。
 
「北朝鮮で見つかった新たな変異株の解析結果について申し上げる。新たな変異株は中途半端な抗体が存在すると人間の細胞への感染力を増す場合があることが実験室レベルで確認された。北朝鮮からの臨床報告では、ワクチン接種者の方にこの新たな変異株に感染した患者が多く、中等症・重症患者も多いという事実も考慮すれば、この変異株は抗体依存性感染増強、すなわちADEを引き起こすと考えるべきと我々は結論付けた。よって、WHOはこの変異株を懸念すべき変異株に指定し、従来の方法に基づき、ガンマⅡ型と名付けた。その性質からADE株と呼ぶことも出来る。世界にとって、これは悪い知らせになる」
 
 真剣極まりない表情のアナ・ノヴァック事務局長が予定通り始まった会見の冒頭、声明を読み上げた。これを受けて世界中のメディアが「ADE株確認」と一斉に速報を流す。
 
 ノヴァック事務局長は続けた。
 
「しかし、少し良い知らせもある。同時に、この変異株は抗体が存在しない環境での感染力は強くない。北朝鮮からの報告ではワクチンを接種していないグループのガンマⅡ株感染者が少ないことから見ても、ワクチン非接種者、及び感染経験の無い者への感染力は既存株と大差ないかやや弱いと考えられる」
 
 ジェフが言及したような麻疹のような強い感染力はないらしいと会見を聞きながら、ルークは思った。事務局長の声明読み上げは続いた。
 
「良い知らせはまだある。このガンマⅡ型にも治療薬は有効である。実験室レベルでもそうだし、現地の医療現場でも発症から数日以内に投与すれば重症化をかなりの割合で防げるという。
  また、北朝鮮で進行中の封じ込め作戦は順調に推移している。ガンマⅡ型の新たな感染の拡大は見られていない。我々の専門家と中国の専門家は、一か月程度で、新規感染をゼロにすることは可能と期待している。よって、このガンマⅡ型ADE株が新たなパンデミック宣言を必要とするような状況を作り出す可能性は低いとWHOは現時点では考えている」
 
 「治療薬は効く」「パンデミック再来の可能性は低い」の二点も各社が一斉速報した。
 
「このガンマⅡ型ADE株の遺伝情報は間もなく公開される。詳しい研究はこれからになるが、Sタンパクの部分に多くの変異が見られる。質問を受け付ける」
 
 冒頭の声明読み上げが終わると、アクリル製の壁で一人一人の席がほぼ完全に仕切られた会見場の記者達からほぼ一斉に手が挙がった。
 
「つまり、ADE株はそれ程危険ではないということですか?」
 報道官から指名されたフランスのAFP通信の記者が尋ねた。
 
「危険ではないとは言えない。ワクチンを接種済みの貴方が感染し放置すれば重篤に陥る恐れは十分にある。また、治療薬が効くとは言え感染爆発を起こせば治療が追い付かなくなる。発展途上国ではなおさらかもしれない。だから油断は禁物で、封じ込めの成否が重要になる」
 
「北朝鮮における感染状況は?」
 二番目に指名されたアメリカのAP通信の記者が訊いた。
「正確な全体像は不明だが、北朝鮮におけるガンマⅡ型ADE株感染者と確認された数は封じ込め作戦発動以降現時点までで七百人程だ。うち、中等症・重症患者は百二十人と聞いている。既存株の感染者は他に千人余りだ」
「それは作戦発動前の過去の数字も含まれるのか?」
「過去の感染者と死者・重症者の数は調査中である。いずれにせよ検査が進めば増える可能性はある」
 
 ロイター通信の記者が続いた。
「感染者七百に対して中等・重症患者百二十というのは多いのでは?」
「その通りだ。無症状の感染者数まで完全に把握したとは言えないので慎重に評価すべきかもしれないが、明らかに中等・重症患者の割合は多い。この点は新たな変異株をADE株と断じるべき根拠でもある」
 
「一か月程で北朝鮮のゼロ・コロナが可能と言う根拠は?」
 次の記者が尋ねた。
「それはあくまでも過去の経験からで、全住民に対する検査と隔離が上手く行けば、通常、半月から遅くとも一か月程度で新規感染者はほぼ出なくなると期待できる。既に感染した者の治療もその前後には終わり、ウイルスは検出されなくなるだろうと期待している。ただし、無症状感染者も把握することが大事だ」
 
「上手の手から水が漏れる恐れは?」
「それは無いとは断言できないが、現地で作業に当たる者は全員治療薬の予防服用をしている。今は検査も毎日している。彼らも検査と隔離の対象だ。厳重な防護もしているので、そんなに心配していない」
 
 大友は、この辺りで会見のモニターを切り上げ、本部ビル外の夜ニュース用の中継場所に向かった。そして、内容をベルナールの助けを借りながら再確認する。
 
 大友が中継ポイントに着いて、ピン・マイクとイヤ・フォンを装着し、ニュース・スタジオのコントロール・ルームと映像・音声共に繋がっているのを確認すると、夜ニュースの開始時刻を迎えた。
 
 大友のイヤ・フォンにニュースのオープニングタイトルの音声に続いてアナ・ノヴァック事務局長の冒頭声明の音声が入ってきた。スタジオからの送り返しの音声だ。これが聞こえないと中継で掛け合いと呼ばれるやりとりが出来ない。
 
 続いて、スタジオのキャスターの声が入る。キャスターは公共放送出身の才媛・神林和美だ。
 
「ご覧頂きましたように、WHOは、先程の記者会見で、北朝鮮で見つかった新たな変異株が抗体依存性感染増強を引き起こすADE株であると正式に認めました。同時に、治療薬が有効な事、北朝鮮でのADE株封じ込め作戦が順調なら一か月程度で成果を挙げる可能性があるとの見通しも明らかにしました。
 それではスイス・ジュネーブのWHO本部で取材をしている大友記者に伝えてもらいます。大友さん!」
 
「はい。北朝鮮で見つかった新しい変異株をWHOのアナ・ノヴァック事務局長はガンマⅡ型ADE株と呼びました。
 そして、ADE株と公式に認定した根拠としてノヴァック事務局長は…」
 大友が会見の内容を説明し始めた。
 
 大友の語り口は見掛けとは大きく異なり、やさしく、可愛らしいとさえ評する人も居る。ぶりっ子デブ・レポートと陰で揶揄される所以だ。
 
 自席で見守っていた菜々子は、大友の呼吸が相変わらず少し荒いのが気になったが、内容的には立派なのに安堵していた。
 
 若手だとデスクから校正済みの原稿を送り返して貰い、それを読み上げるのでないときちんと喋れない記者が少なくないのだが、そこはベテランである。時間的にきちんと原稿を書き上げる余裕は無かったはずだが、メモ・ベースで正確にレポートしている。
 
「…明日土曜日には、WHOの調査団本隊のおよそ百人が、支援物資を満載した特別機でここジュネーブを発ち、平壌に向かう予定です。こちらからは以上です」
 
 キャスターとの掛け合いもしっかりこなして、大友がレポートを〆た。
 
 中等・重症患者の割合が多いという評価に大方の不安が募らないではなかったが、治療薬が効くという判定と封じ込めは可能という見通しの御蔭でそれ程騒ぎになりそうな気配はない。
 
 ニュースは丹東からの戸山昭雄レポートに切り替わった。こちらは目新しい情報は無い。続いて北京から支局長・岩岡宏がレポートする。
 
「北朝鮮で出現したのはADE株とWHOが公式に認定し発表したことに、中国政府は想定通りと評価、基本的に納得しているものと思われます。
 と言いますのも、誰よりも早く現地に人員を投入した中国政府は、当然、今回の新しいウイルスを入手し、それがADE株の恐れが高いといち早く認識していた筈です。しかし、WHOが公式にそれを認定して最初に発表し、かつ、封じ込め作戦が一か月程度で成果を挙げるだろうとの見通しを公表したことで、万が一、あくまでも万が一ですが、作戦に失敗しても中国だけが責任を負わされる可能性は少なくなったと言えるからです」
 
「それは中国一国では封じ込めは難しいという事でしょうか?」
 神林キャスターが尋ねた。
「物理的或いは技術的にはADE株封じ込めは中国一国だけでも可能と思われます。しかし、政治的・道義的には単独では荷が重いと、こちら北京では数日前から囁かれていました。しかし、今回の発表で、WHOは事実上、中国と一蓮托生になったというのが中国政府の受け止めと思われます。
 実際、封じ込めにWHOの関与を求め、北朝鮮の金正恩総書記にその受け入れを認めさせたのは習近平主席だと北京の消息筋は我々の取材に対し語っていました。これが中国政府は納得していると申し上げた理由です」
 
 岩岡の喋りは変わらず朴訥だが、原稿はある程度用意してあったのだろうと菜々子は感じた。彼の取材力は流石だ。
 
「封じ込め作戦について新しい情報はありますか?」
 神林キャスターが再び岩岡に振った。
「中国外交部は、今日午後の定例記者会見で、これまでに延べおよそトラック六万台、船舶二百隻、列車六千両分の支援物資が北朝鮮に運ばれ、北朝鮮側の受け入れ能力は既に限界に達した、また、十万人を超える人員も北朝鮮入りし、住民六百万人の検査を既に行ったと発表しています。それにより発見された陽性者数やウイルスのタイプは、中国側の発表がWHOの会見前だった為か言及されませんでした。
 この規模とスピードで、封じ込め作戦と大規模支援が順調に進めば、一か月程で北朝鮮のゼロ・コロナが達成できるというWHOの見通しは、あながち楽観に過ぎるとは言えないかもしれません。北京からは以上です」
 
 スタジオでは神林キャスターの仕切りで専門家らによるトークが始まった。
 
 ここまで見届けると菜々子は、テレビ画面を横目で見ながら、大友に手が空いたら電話をするようメッセージを送った。岩岡には慰労と共に彼のレポート内容を褒めちぎるメッセージを送る。きっと喜ぶ。誰だって幾つになっても褒められるのは嬉しいのだ。
 
 放送終了後、大友から電話が入った。
 
「お疲れ様です」
「お疲れ様。中継、良かったわよ。しっかりしていたわ」
「有難うございます」
「明日の予定なんだけれど、本隊の出発を取材したらイギリスに向かうんでしょ?ウェンブリーに」
「いや、あのー」
 大友が口籠る。
「行きたくないの?」
「いや、そうではなくて、イギリスに行く前にベルンにちょこっと寄りたいなと思って…すぐ近くですし…」
 そう聞いて、確かに様子を見に行くのは悪くないかもしれないと菜々子は思ったが、大友に確認する。目的は訊かずとも分かる。
 
「大して時間が取れないでしょう?日を改めて考えるのはどうなの?ウェンブリーは広いからロンドン・チームだけだと足りないでしょ?」
「そうなんですけれど、すぐにベルンに向かってウェンブリーに直行すれば半日ちょいは取材時間があるかなと思っているんですけれど、どうですか?」
「仕方ないわね。ベルンでぐずぐずしないで、ウェンブリーにはきちんと行って頂戴ね」
「勿論です」
「では、よろしくね」
 
 一度腰を据えると大友の尻は重くなる。それが菜々子は少し気になったが、ベルン行を認め電話を切った。
 
 すると岩岡からメッセージが届いていた。安全なルートだ。
「何だか変だ。やけに口が堅い。裏話が全然出て来ない。気にした方が良いかも」
 
 ADE株に関わる裏話ならもうある。岩岡が先程レポートしたばかりだ。とすると、これは中朝首脳会談に関わる話だ。桃姐さんがもたらした最新情報とも平仄は会う。菜々子はそう察した。
 
「そうだ!晩飯はベルンで食べよう」
 一方、大友は電話を終えるとすぐに思い付き、我ながらこのアイディアは素晴らしいと感心していた。車を飛ばせば二時間程度だ。陽もまだ沈んでいない。
「フックスで飯が食えるぞ」
 朝ニュース向けの原稿をそそくさと仕上げ、デスクに送ると、大友はプロデューサーのジャンヌ・ベルナールと共にレンタカーに飛び乗った。ベルナールは気乗りしないのか少々うんざりした顔だったが、大友は気にしない。
 
 美味い物を食えば彼女も機嫌が良くなるのを知っているからだ。彼女はフランス人なのだ。
 
 その暫く後、パリ十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院では、アラン・パスカル教授がメスを置き、手術室を後にした。生体肝移植手術は無事成功した。
 
 直後、ベルンのとある家に居るアジア系の中年女性の携帯が二回鳴った。そして、切れる。続いて、もう一度鳴り、六回鳴ってまた切れた。
 
 女性にその意味は全く分からないが、二度目の電話が六回なった時は、平壌のとある番号に白紙のファックスを一枚送るように予め指示されていた。女性は指示通りにファックスを送った。
 
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
本連載の複製・蓄積・引用・転載・頒布・販売・出版・翻訳・送信・展示等一切の利用を禁じます。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?