オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その123

 

ドレス


 
 翌週の月曜日、日本はゴールデン・ウイークの休日だったが、現地時間午後2時にジュネーブのホテルを会場に最初の米朝本格交渉が始まった。日本時間では夜の9時だ。テーマは信頼醸成措置と人道支援問題で、アメリカ側代表団は国務・国防両省の次官が率いていた。北朝鮮代表団は外務・国防両部の第一事務次官だ。
 
 会談冒頭に撮影を許されたカメラ映像が記者室に流れる。業界では頭撮りと呼ばれる映像だ。するとざわめきが起こった。テーブルを挟んで左右に着席した両国代表団の中に軍服姿が無かったからだ。
 
 交渉開始に先立つ会場入りの際、北朝鮮代表団の張勲国防第一次官ら軍の代表は全員軍服を着ていたのに会談の前に背広姿に着替えたのだ。表情は皆堅かったが、一方的な声明読み上げもない。
 
 メトロポリタン放送は直後の夜ニュースのトップで、この米朝本格交渉開始を伝えた。スタジオには客員解説委員の桃子が座っていた。休日の夜だった為か、外交評論家の簗瀬の姿は無い。
 
「木原解説委員、この軍服を平服に着替えたというのはどんな意味合いがあるのでしょうか?」
 
 事実関係を一通り伝えると神林和美キャスターが桃子に尋ねた。
 
「確かに軍服をわざわざ背広に着替えたのはとても印象的でした。そして、異例の事と言えます。
 北朝鮮軍の代表団を率いる張勲第一国防次官は金正恩総書記の所謂ご学友の一人で、極めて近い関係にあると言われているんですが、その国防次官が、会場のホテルに到着した時に軍服姿だったのは国内向けに当然だったとしても、背広姿は国際向けにソフトなイメージを打ち出そうと使い分けたんだろうと思います。軍服を脱いで、自分達が戦闘モードには無いことを示したと言えるかもしれません」
 
「そうだとしますと、少なくとも今日初日の本格交渉は順調に進むと期待して良いのでしょうか?」
 
「まだ初日の協議は続いていますし、何処に落とし穴があるか分かりませんが、北朝鮮軍の代表団はアメリカ側代表団に制服の軍人が入っていないということもあって、少なくとも服装では相手に合わせるという柔軟な姿勢を示しました。当然、総書記の了解も得ている筈です。そうでなければこんな異例の対応はしません。交渉でも同じように柔軟な姿勢を見せている可能性は高いと思われます」
 
 少なくともこの時点では細部の悪魔の心配はしなくても良いのかも知れなかった。
 
「有難うございました。明日朝までには初日の交渉の様子が判明する見通しです。次のニュースです」
 
 夕方のメイン・ニュースと異なり、メトロポリタン放送の夜ニュースは短い。桃子の出番は直ぐに終わった。
 
「やれやれ、内容は流石だが、休日に呼び出されて桃子もご苦労なこった…」
 
 放送を見たルークがこう言いながらチャンネルをCNNの国際放送に切り替えた。ワシントンはまだ午前10時台だ。丁度、国務省担当記者がレポートをしていた。
 
「国務省の担当幹部が今朝、我々・CNNに対し明らかにした情報によれば、今回の協議で、米朝両国は双方の首都に連絡事務所を年内に置く方針と、国連軍、即ち在韓アメリカ軍と北朝鮮軍の直接の連絡回線の強化で一致する見通しです。 
 また、新型コロナウイルス対策の為、アメリカの治療薬と抗原検査キットなど医療物資をWHOを介さずに直接支援すること、そして、WFP・国連食糧計画経由で穀物の支援を実施することでも基本合意する見込みということです。ただし、連絡事務所の設置とアメリカによる食料支援の実際の履行時期は、次に始まる見込みの核管理問題の協議の進捗次第になるということです。
 これは行動対行動の原則に基づくもので、そうするのであればアメリカ政府も議会の与野党双方に存在する強硬派の反対も抑えられるからです。ベン政権は国内の人権派やタカ派からの反発が噴出しないよう気を遣いながら北朝鮮との交渉を進める方針ということになります。国務省からお伝えしました」
 
 アメリカ政府部内の考え方や方針についての報道は、当たり前だが、地元のアメリカ・メディアが一歩も二歩も先を行く。それにしても、やはりアメリカ議会では人権派とタカ派が交渉には懐疑的で、悪い合意をするくらいなら合意などしない方が良いと考えているのだろうと思われた。拉致問題を抱える日本でも交渉には懐疑的で圧力を重視する国民は少なくない。
 
「最初のうちは兎も角として、この先、ハードルはどんどん高くなっていくんだろうな…」
 
 ルークはそう感じていた。
 
 その頃、菜々子はウェディング・ドレスを身体に当てがい姿見の前に立っていた。直しに出していた母親のドレスをこの日引き取って来たのだ。その様子をソファに座り見守っていた太田が菜々子の背中に回り、そして、腕を腰の括れに回す。ダイエットに励んだ御蔭で、括れは一層見事な曲線を描いている。
 
「そろそろ終わりにしたら?」
 
 太田が優しく促した。色々と準備に忙しく遅くまでバタバタしていたのだ。
「はい…」
 
 はにかみながらそう応えると菜々子はドレスをハンガーに掛けクローゼットに丁寧に吊るした。
 
 部屋の灯りが消えた…。
 
 

お披露目


 
 その週の水曜日、オーフ・ザ・レコードに明かりが灯った。ドアには貸し切りの札が掛けられている。最初の客が来ると最近はそれでもう貸し切り状態のようになる店なのだが、この日は特別なゲストも来る見込みだった。
 
 夕方六時半頃、最初の客がやって来た。
 
「ルーク先輩、大変ご無沙汰しております。お元気そうですね」
  メトロポリタン放送総務部長を務める原沢孝弘が挨拶した。矢吹が誘ったのだ。

「やあ、こちらこそ。ずいぶん久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
 ルークはそう言うと、取り敢えず生の準備をする。

「矢吹専務ももうすぐお見えになると思います」
 グラスを受け取り、原沢が言った。

「内示があったんだって?」
 ルークが確認する。メトロポリタン放送の役員・関連会社社長クラスの人事異動の内示が前日にあったのだ。

「はい、矢吹専務は横滑りで古巣に復帰します。楽しみです」
 原沢が応えた。

 原沢が楽しみだというからには彼も噂通り古巣に復帰するのだろうとルークは思った。メトロポリタン放送では、翌週の決算役員会で次の役員人事を正式決定した後、局長クラスと関連会社役員クラスの内示がある筈だ。

「もう因果は含められているのかい?」
 ルークはナッツとチーズの小皿を出しながら尋ねた。無遠慮と言えば無遠慮だが、原沢はかつてルークの直属の部下だったこともある。

「くっくっく、それは大先輩でもお応えできません」

 原沢は独特の調子で笑いながら応えた。満更でもないようだ。鍵を掛けていない入口のドアが開く音がした。
 
「お早うございます。こいつは報道局長にするつもりです。ご想像通りかも知れませんがね、あっはっは」
 店に足を踏み入れた矢吹がドアを閉めると単刀直入に応えた。相変わらずチャラいのだが、もうオープンにしても大丈夫だという確信があるのだろう。
 
「それは目出度い限りだ。俺も久しぶりにビールくらい飲むかな」

 いずれも正式発令は6月の株主総会を経てからになるが、内示が変わることは不慮の事故でもない限り無い。ルークはグラスを二つ取り出した。
 
「おめでとう、乾杯!」
 三人はグラスを合わせた。原沢は杯の残りを一気に飲み干した。
 
「相変わらず吸い込みが良いね…」
 ルークは原沢の二杯目を用意しながら更に尋ねた。
「まだ、確定していないかも知れないが、菜々子はどうするんだい?」
 
 口の堅さでは定評があるからこそ訊ける。この場限りであることは全員の暗黙の了解だ。
 
「それはまだ調整中です。良いところに出したいと思っていますが、後任やその他の関連人事とセットになりますんで…」
 矢吹が応えた。原沢も頷いた。
「そうか…それなら悪いようにはならないだろうね。安心したよ」
 ルークが応じた。
 
「あら、二人とも早いのね。おめでとうございます」
 
 7時過ぎ、桃子がにこやかにやって来て、直ぐに二人に祝いの言葉を投げ掛けた。ルークに軽く会釈して着席すると桃子は続けた。
「この二人で大丈夫なのかと思うけれど、今までよりは絶対マシよね」
 
 客員解説委員として今も本社に時折出入りする桃子の情報はルークより早い。そして、矢吹とは同期ということもあり、遠慮はない。行政手腕では矢吹の方がずっと優れているが、記者としての取材・解説力は桃子の方が上でもある。
 
「いや、桃ちゃん、有難う。引き続き宜しくね」
 矢吹がそう言って、桃子に今の仕事を続けるよう事実上要請した。
「くっくっく、桃子先輩、引き続き、ご指導をお願いします」
 原沢も続いた。
 
 
 
 ジュネーブでは米朝本格交渉三日目の話し合いが始まっていた。初日と二日目の協議の内容に関する具体的な発表は無く、交渉は友好的な雰囲気の中、続けられたと説明されただけだった。
 
 昼時、交渉を取材する大友と山瀬は会場のホテルのカフェで簡単な食事をしていた。二人が選んだメニューは鶏笹身のローストを添えたニース風サラダと野菜入りコンソメ・スープで、大友はパンに手を出さなかった。様変わりだ。
 
「これで足りるんですか?」
 形ばかりだが、山瀬が大友に確認する。
「もう胃袋が大分小さくなったみたいなんだ。
もしかすると僕はこれでも食べ切れないかもしれないよ」
 大友が応えた。
 
 元気な山瀬には物足りなかったが、大友の分のパンも食べて紛らわす。デザートは無し。食後のコーヒーにも大友は砂糖を使わなかった。
 
「体調は大分良いみたいですね?」
「うん、心配掛けたけどお陰様でね。ダイエットも苦にならなくなったよ。やっぱ身体を壊しちゃ話になんないからね…」
 
 大友はまだ殊勝だ。
 
「今日、最初の成果みたいなもんが纏まるのかな…、山瀬はどう思う?」
「分かりませんが、…何らかの合意はできるんでしょうね。アメリカのメディアもそんな見通しですしね」
「うん、順調だと良いね…」
 
 大友は他人事のように言った。自分でももどかしかったが、大友は倒れて以来、仕事に身が入らない。早くパリに戻って家族の顔を見たかったのだ。
 
「そうだ。今夜はステーキでも食べて元気を出しませんか?」
「ステーキか…小さめのフィレと野菜なら僕も付き合うよ」
 大友が力なく応えた。
「では、そうしましょう」
 
 山瀬はそんなに心配していなかった。ダイエットは何とか続けるとしても、他の面は遠からず元に戻るだろうと思っていた。何と言われても大友は懲りないタイプなのだ。大好物のチーズ・バーガーにもそのうち手を出すだろうが、問題はせめて1個だけで我慢出来るかどうかだ…、古くから彼を知る山瀬はそう確信していた。
 
 
 
 オーフ・ザ・レコードのカウンターの奥にある小さなエレベーターのチャイムが鳴った。上のキッチンでルークの奥方が作ったばかりの食事が下ろされてきたのだ。
 
 ルークが大皿をエレベーターから取り出しカウンターの端に置いた。ブッラータとトマトとバジルの盛り合わせだ。味付けは塩とオリーブ・オイルのようだ。そして、エレベーターを再び上げた。
 
「悪いが、各自で取り分けて欲しい。一人分を残してね」
 
 ルークが言うと少し前に到着していた菜々子が「すいません」とちょこんと頭を下げた。
 
「つまり、もう一人来るんですね?」
 矢吹が言うと、悪戯っぽくにやついた桃子が合の手を入れる。
「あら、誰かさんの良い人かしら?」
 菜々子が顔を朱くした。
 
 エレベーターのチャイムがまた鳴り、ルークがもう一つ大皿を取り出す。店内に大蒜の素晴らしい香りが漂う。ずらりと並んだ見事な大海老に小麦粉を軽く振り、ガーリック・オイルで揚げ焼きにした逸品だ。
 
「お、凄いですね。どっちも旨そうだなあー」
 
 原沢が感嘆の声を上げた。ポンという音と共にルークがスプマンテの栓を開け、グラスに注いだ。
 
「今日はお祝いだ。改めて、さ、乾杯!」
 
 ルークの音頭で唱和し、飲んで食べる。誰もが満足そうだ。奥方の料理は相変わらず絶品なのだ。ただし、ルークは最初の生ビールのままで、スプマンテと食べ物には手を付けない。4人の様子を見ながらにこにこしていた。
 
 暫くすると玄関のベルが遠慮がちに鳴った。菜々子は素早くドアに駆け寄り、新しい客を出迎えた。
 
 長身のハンサム・ダンディーが姿を見せた。
 
「おっ」
「成程ねー」
「あら」
 
 菜々子の連れの男性を認めると三人は手を止め、それぞれ反応した。桃子には見覚えがあるようだ。 
 
「あの、ご紹介します。外務省の太田博一さんです。今度結婚することになりました」
「太田です。北米二課長をしております。宜しくお願い致します」
 
 二人が頭を下げた。
 
 歓声が上がった。再びポンッという音が店内に響き、また乾杯した。
 
 
 その頃、ホワイト・ハウスの大統領執務室、オーバル・オフィスにジュディー・アマール補佐官が報告に入った。
 
「国務省からたった今、連絡がありました。
ジュネーブでの協議は予定通り合意に達したそうです。両国代表団でもう暫くすり合わせをした後、記者団に簡単に発表します」
「そうか、分かった。議会の反応は?」
「まだ最初の合意で、我が国から直ちに提供するのは新型コロナ絡みの人道支援だけですので、反発は少ないかと存じます」
「オーケー。筋書き通りだ。進めてくれ給え」
「承知しました。大統領閣下」
 
「問題は次だな…」
 
 大統領は次の核管理問題の協議に考えを巡らせていた。
 
 
「お付き合いを始めたのはいつ頃なんですか?きっかけは?」
 
 オーフ・ザ・レコードでは桃子を中心に三人が入れ替わりで菜々子と太田を質問攻めにする。三人とも普通の色恋沙汰の取材をしたことは無いのだが、その気になれば実に際どい問いを躊躇わずに発する。太田はしどろもどろだ。
 
「おいおい、それじゃあ、太田さんは食べる間も無い。太田さん、気にせずに食べて食べて。ぼちぼちメインも出来上がる筈だから」
 
 ルークが助け舟を出すと丁度またエレベーターのチャイムが鳴った。
 
「お、来たな。今日のメインはオーストラリア産ミルク・ラムのローストとポテト・グラタン、クレソンのサラダ添え。生憎、女房が嫌いなんでミント・ソースは無いけれどね」
 
 そう言ってルークがエレベーターから皿を取り出した。銀の大皿に巨大なラック・オブ・ラムが鎮座している。彩も兼ねて、周りには若いクレソンが敷き詰められていた。5人の歓声と共にエレベーターが再び昇って行った。すぐポテト・グラタンが下りてくる筈だ。
 
 ルークに促され矢吹がラムを切り分け始めた。中は見事なピンクだ。ルークはシャトー・ヌフ・ド・パップの赤の栓を抜いた。
 
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
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