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20XX年のゴッチャ その64

 枠組み合意
 
 その日午後四時過ぎ、菜々子の席に国際取材部の当番デスクがやってきて言った。
 
「WHOが緊急記者会見を予告しました。中身はまだはっきりしませんが、封じ込め作戦と丹東のクラスターに関係があるようです。本部で六時間後です。大友を派遣します。まだ間に合うでしょうから。パリに行って居る山瀬はどうしますか?」
 
「そうね…山瀬も一緒に行かせて。ジュネーブ取材は長くなるだろうから、この際、山瀬も経験させた方が良いでしょう?宜しくね」
 菜々子が応えた。
 
「了解です。すぐに叩き起こします」
 
 いつもの事だったが、報道局の人使いは荒く容赦ない。特に大友はこのところ休みを取っていなかったが、それは北京支局やソウル支局も同様だった。自由に動き回れる分、戸山よりずっとマシだ。
 
 電話を切った後、重い身体を起こした大友は支度を始めた。昨夜かみさんと一戦まみえた為もあって力が出ない。この日ばかりはゆっくり寝てからオフィスに向かう予定だったのだが、仕方ない。
 
 パリからリヨンまで高速鉄道で行き、そこからレンタカーを飛ばせば間に合う。そう考えながら、大友は、トクトクという不自然な鼓動を感じていた。
 
 リヨンまでの車中、大友はパリで大量に買い込んだサンドイッチを一つ食べただけで、ずっと眠っていた。山瀬も同様だった。
 
 そして、レンタカーの中でも…。
 
 二人の鼾が五月蠅いのは敵わなかったが、運転するベルナールは珍しく大友が心配になった。疲労に加え、食べ過ぎが良くないのは分かっていた。
 
「で、つまりは?」
 
 その頃、ワシントンのホワイト・ハウスでデイリー・ブリーフィングが進行していて、WHOの緊急会見の発表内容の概要の説明を受けたマイク・ベン大統領がマキシーン・ウイラード国家情報長官に尋ねた。
 
「つまり、丹東にいきなりADE株が飛び火して感染クラスターを発生させたものの、これも封じ込めが可能な見込み。そして、確認は必要ですが、治療薬の予防服用が効果大であるということです。
 WHOの現地活動は一時停止ですが、遠からず解禁になるでしょう。そして、北朝鮮の封じ込め作戦も上手く行くだろうという楽観的な見通しが立てられるということです」
 
「何にせよ、予防服用効果有りは良い報せだ。ADE株は入手済みということだが、ワクチン開発はどうだ?」
 
「既に着手しており、設計上は遠からず完成するでしょう。封じ込め作戦が無事完了すれば、新しいワクチンは必要なくなる可能性が大ですが、ストックをしておいて損は無いでしょうね」
 
「君はどう思う?」
 
 ベン大統領が染症対策を統括するボブ・カタオカ博士に尋ねた。
 
「同様に思います。敢えて付け加えますならば、新しいワクチンの動物実験までなら我が国のラボでも出来ますが、ヒトへの治験は北朝鮮で早めにやらなければ本当の効果は確認出来ないということでしょうか」
 
「成る程、その問題はいずれ別途考えるタイミングもあるだろう。いずれにせよ、新しいワクチン開発の支援は続けてくれ給え」
 
「承知しました」
 カタオカ博士はここで退席した。
 
「マキシーン、健康問題のその後は?」
 ベン大統領が情報長官に尋ねた。
 
「韓国政府は肝臓に問題有りとやはり見ております。ただし、それが、中朝首脳会談直後に北京から飛び立った空飛ぶ救急車と関係があるのか、依然調査中です。他の要人の治療の為の可能性もありますので」
「だが、正恩は平壌に居て彼の統治に異状は無いのだろう?」
「左様でございます。政権は変わらず盤石のようです。しかしながら、北朝鮮政府は次の一手として、我々との対話の再開を模索しているようだとも韓国政府は見ています。ドラスティックな手を打ってくる可能性もあると韓国は言っておりますし、我々もそう見ております」
「と言うと?」
「あくまでも彼らが取り得る選択肢の一つでございますが、我々の分析でも、次の局面で、大きな動きを見せてくる可能性はあると考えております。何故ならば、現在、北朝鮮は半ば中国に占領されているも同然の状態にあります。平壌の政権基盤はまだ揺らいでおりませんが、この先もそうだという保証はございません。そこで毒食えば皿までではありませんが、我々も引き込んで、中国をけん制しようとしても不思議ではありません。WHOを受け入れたのもその序章と考えることも出来ます」
 
「安易に乗る訳にはいかないな…」
 
「それはその通りでございます。朝鮮半島で、米中双方の利害が真正面からぶつかるような事態は当然望ましくありません。ADE株問題に関してはこのまま中国とWHOに責任を背負ってもらうのが適当かと存じます」
 
 同席していたジュディー・アマール安全問題担当補佐官が応えた。
 
「すると、どんな手が考えられる?」
「核・ミサイル問題をまたぞろ使ってくるかと。これなら我々が黙殺出来ないような提案をすることは可能です」
 ウイラード長官が再び応えた。
「しかし、ちょっとやそっとでは乗れないぞ。直ぐに元の木阿弥になるのが関の山だ」
「仰せの通りでございます。ですので、ドラスティックな手を打ってくる可能性もあるかと存じます」
「具体的には?」
「例えば…枠組み合意への復帰とIAEA査察団の条件付き受け入れを一方的に宣言し、我々に非核化交渉を求めてきたら、どうなるでしょうか?」
「そんな古い物を持ち出されても話にならんぞ。もう開発は当時より遥か先に進んでいる」
「ごもっともでございます。しかし、IAEAは組織の性格上、否とは決して申せません。彼らは査察団を喜んで送るでしょう。それでも、我々が交渉さえ拒否したら、関係各国は大いに落胆し非難の眼差しを我々に向けて来るでしょう」
「うーむ…、無視はできなくなるか…」
「左様にございます」
 
 枠組み合意とは1994年十月にアメリカのクリントン政権と北朝鮮の金正日政権が結んだもので、北朝鮮が核開発を凍結する見返りにアメリカなどが兵器級のプルトニウムを取り出しにくいとされる軽水炉の建設とエネルギー支援、関係正常化に向けた話し合いを約束したものだ。
 
 しかし、合意は北朝鮮の核開発を一時的に遅らせる効果こそもたらしたが、クリントン政権を継いだブッシュ政権の時代に御破算になった。米朝双方とも合意を最後まで守る気など無かったからだ。
 
 この枠組み合意の成立の少し前には、北朝鮮の核開発を巡り、米朝は衝突寸前の状態になっていて、北朝鮮の核施設への先制攻撃の計画が時のクリントン大統領に提示され、裁可を待つばかりだったと言われている。実際、韓国から在留アメリカ人らが続々と脱出し始めるという事態にもなっていた。
 
 だが、先制攻撃は実行されなかった。
 
 クリントン大統領が最終的に攻撃を見送ったのは、実行した場合には全面戦争が不可避で、北朝鮮の反撃により、韓国側だけで最大八十万人の死者が出る恐れがあると想定された為だ。
 
 その後、北朝鮮は核とミサイルの開発を続け、少なくとも数十個の核爆弾とその運搬手段となり得る様々なミサイルを保有するに至っていた。
 
 当時の様な先制攻撃などもはや全く考えられない状況になっていたのである。殊この点に関する限り、北朝鮮の狙い通りになっていた。
 
「では諸君、もしも、そのようなドラスティックな行動に北朝鮮が出るに至った場合の対応策について、早急に検討して欲しい。当然だが、複数のオプションが欲しい。頼むぞ」
 
「承知しました、大統領閣下」
 ウイラード国家情報長官はそう言って退出した。
 
「ジュディー、本当にそんなことになると思うか?」
 ベン大統領は執務室に残ったアマール安全問題担当補佐官に訊いた。
「現時点では何とも…、その可能性はゼロとも確実とも考えるべきではないかと…」
 
 ベン大統領は頷いた。アマール補佐官が続けた。
 
「ただ、はっきりしておりますのは、当たり前のことですが、彼らは生存第一で行動しているということです。封じ込め作戦と中国による全面介入、半占領状態を受け入れたのもその為です。ですので、より良い生存の為に次の手を遠からず打って来ると予想するのは極めて自然なことです。このままでは中国に完全に首根っこを押さえられたままになってしまう恐れがあるからです。
 金正恩総書記個人に関しましても、彼がダイエットに励んだのはまだ死にたくないと考えているからですし、誰だかはっきりしませんが、一族の人間が、自国がこんな状況にあっても、わざわざパリに治療に出掛けた可能性があるのも、まだ死にたくないからです」
「確かにな…」
「ですので、彼らの次の出方次第ではありますが、場合によっては交渉によって彼らに働きかけ、我々や同盟国にとってもより良い環境を生み出すチャンスが訪れるかもしれません」
「わかった。マキシーンと連携して、作業を進めてくれ。頼むぞ」
「承知しました、大統領閣下」
 
「しかし、それでも悪行に報酬を与えるわけにはいかないぞ…」
 アマール補佐官が退出するとベン大統領は代々のアメリカ政府の基本姿勢を改めて肝に銘じていた。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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