20XX年のゴッチャ その80

警護要員 


 
 
 翌月曜日朝、メトロポリタン放送報道局のオンライン・ページに戸山の丹東缶詰取材日記がまた掲載された。特段注目すべき情報はなく、半分はまた将棋の話だった。小耳に挟んだところでは将棋ファンの間で結構同情を買い読まれているらしい。元気そうなのは何より…と菜々子は思った。
 
 部長会は特異事項もなくあっさり終わったが、来年度予算案はまた厳しいものになりそうだという見通しが業務部長から開示された。テレビ業界全体の売り上げは減少傾向が続いていた。仕方ない。もう我が世の春は来ないのだ。
 
 
 
「久しぶりの連絡に少し安堵しました。私は今、東京で働いています。明日の夜七時頃にオーフ・ザ・レコードでなら話をすることができます。店は御存じだと思います。それでは明日会いましょう。ドン」
 
 昼前、菜々子に例のアメリカ人から返信が来た。その御仁・ドンが東京在勤になっていることや、オーフ・ザ・レコード、つまり、ルークを知っていることが分かり、かなり驚いた。あれこれ詮索したくもなるが、いずれにせよ分かることなら明日分かる。
 
 ドンはドンで連絡するだろうと考えていたが、彼に了解の旨返信後、ルークに来訪予定を伝えた。
 
 
 
 パリ時間のその日朝、二台のカメラのスイッチを入れ、山瀬とアルヌーはこの日の定点観測を開始した。仮に肝臓移植手術を受けたとしたら、患者はまだ外には出て来ないだろうと山瀬は思いつつ、張り込みを続けた。
 
 以前、パリで金正日総書記の長男・正男の追跡をした記憶は山瀬にも鮮明に残っていた。
 
 ここまで来たら、東京の推測がある程度までは本当だとしても不思議ではない。しかし、そうだとしても、患者が誰なのかは判然としない。決定打に欠けるのだ。
 
 金正恩総書記は平壌に居ると誰もが見做しているからだ。患者の姿を捉えることができたとしても、その先は更に容易ではない。マイクを突き付けるチャンスなど来る筈もないのだ。
 
 それに、仮に、患者が総書記本人だったとしても、その後どうなるのか見当もつかない。半島情勢に影響があるのか、それとも、完全否定されて、自分達が馬鹿を見ることになるのか…山瀬の思考は堂々巡りを始めた。
 
 すると、バルコニーに横のドアから西洋人の男が一人出て来た。アルヌーがカメラを操作して、映像をややアップにした。山瀬はモニター越しにじっと見つめる。白衣らしきものを着ているが、バルコニーとバルコニーから見える病棟周辺の様子をチェックしている。
 
 警護要員だ…、山瀬はそう直感した。するとその男はポケットから双眼鏡らしきものを取り出した。
 
 山瀬は咄嗟にカーテンを閉めた。可能性は低いが、見咎められる恐れがあるからだ。
 
 アルヌーが文句を言いたそうだったが、山瀬は指を自分の唇に当ててアルヌーを制し、カーテンの隙間から肉眼で男の動きを見つめる。ほぼ点にしか見えないが、そこに居るのは分かる。
 
 数分後、男が建物の中に戻って行ったのを確認し、カーテンを再び開けた。
 
 もう誰もいない。
 
 もしかすると、次いで誰か出てくるかもしれない…山瀬はそう思い、唾を飲み込む。喉が鳴った。その山瀬を見て、アルヌーが再び、超望遠カメラのファインダーを覗き込み、焦点をバルコニーに合わせた。
 
 緊張の時が暫く続いた。しかし、誰も出て来なかった。
 
 
 
 昼前、オフィスから屋根裏部屋に来る途中の日本食材店で購入したカツ煮弁当を四つ持って、大友とベルナールがやって来た。
 
 山瀬が今朝の顛末を話す。
 
「ますます臭いね…」
 収録した映像を見た大友が言った。
「気合いを入れて張り込むしかないね」
「そうですね」
 山瀬が応じた。
 
 四人は交代で弁当を食べる。
「これじゃ、どんどん太っちゃうな…帰りはホテルまで歩くかな…」
 山瀬はそう思った。
 
 大友は弁当をぺろりと平らげ、腹を叩いた。しかし、ベルナールは半分程しか食べなかった。
 
 夕方、大友がおやつのドーナツを口に押し込んでいると、また横から白衣の西洋人がバルコニーに出て来た。辺りを見回し、ポケットから双眼鏡を取り出そうとしたところで、大友はカーテンを閉めた。
 
 男がバルコニーを去ると再び大友達に緊張が走る。しかし、日暮れ後、前日と同じアジア系の男が再び出て来て、同じように煙草を吸っただけだった。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
本連載の複製・蓄積・引用・転載・頒布・販売・出版・翻訳・送信・展示等一切の利用を禁じます。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?