オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ 40~47

注;完全版と称してはいるが、元々割愛した部分は無いので、纏め読み40~47に若干手を加えたものであることを予めご承知願いたい。

WHO本部


  スイスの西端にある都市・ジュネーブの国際空港とレマン湖のほぼ中間にWHO本部はある。
 
 第二次大戦後の一九四八年に創立された国連機関・WHOは世界の公衆衛生を指導・監督するのが主な役割だ。加盟国は194か国に上るが、台湾が中国の反対で加盟を拒否されているのが常に物議を醸していた。
 
 その最大の功績は何と言っても一般社会から天然痘を撲滅したことだろう。しかし、新型コロナの発生に当たっては中国に忖度してパンデミック宣言を出すのが遅れる等の失態を演じ、その信用に自ら傷を付ける結果にもなった。
 
 その新型コロナウイルスは、次々に出現する変異株によって感染力こそ高まっていたが、同時に弱毒化も進んでいた。そして、いたちごっこになってはいたが、変異ウイルスの出現に並行して開発されるワクチンと治療薬が普及したこともあり、先進国や中進国ではもはや大きな脅威と見做されなくなっていた。
 
 この為、WHOはパンデミック宣言を既に取り下げ、ワクチン接種が進まない発展途上国を中心としたエピデミック宣言に切り替えていたのだが、ADEが疑われる新たな変異株の出現はそのWHOに再びパンデミック宣言を強いる結果になる恐れがあった。それ故、この新たな脅威の封じ込めにWHOも躍起になっていた。
 
 ただ、新たな変異株が出現した場所が中国に隣接する孤立国家の領土内だった。この為、その事実上唯一の同盟国・中国に、WHOとしても頼らざるを得ないのが現実であった。
だからこそ、再び組織の中立性を疑われるようなことは決してあってはならないとWHOは固く決意していた。
 
 パンデミック発生時のテドロス・アダノムに代わり事務局長を務めているスロベニア出身のアナ・ノヴァックは、この日のウェブ会見の冒頭、声明を読み上げた。
 
「北朝鮮の首都・平壌に入ったWHOの懸念すべき新変異株調査団の先遣隊は、昨日水曜日から現地調査を開始した。
 まず、平壌総合病院を訪れ、新型コロナ感染症患者の様子をチェックした先遣隊は、その時点で、ICUで治療を受ける重症・中等症の患者の内、五人に四人程度がワクチン接種済みであるとの情報を得た。同時に、病状に特異的なものは無いとの臨床診断情報を得た。全体の感染者数、死者の数、実行再生産数などの疫学的情報は調査継続中である。
 また、平壌総合病院では、北朝鮮で発生したと観られる新しい変異株にもポリメアーゼ阻害薬、及び、プロテアーゼ阻害薬は臨床的に有効であると認識しているとのことだった。
更に同日、先遣隊は現地で分離された懸念すべき新しい変異ウイルスを入手した。WHOは関係機関の協力を得て、その遺伝情報や特性などを可及的速やかに解析する。解析結果は、初期段階から逐次公表する」
 
 この場合のポリメアーゼ及びプロテアーゼ阻害薬とは要するに新型コロナウイルスの経口治療薬の事で、新型コロナウイルスの細胞内での複製、すなわち体内での増殖に必要な酵素の働きを阻害するものだ。その治療薬が新変異株にも有効と、実際に患者に投与した病院が判断しているのは、事前に予想された事とは言え、朗報だ。
 
 医療・保健分野の専門行政官の公式発言は妙に鯱張っているのが難点だと会見をモニターしながらメトロポリタン放送のパリ支局長・大友祐人は思っていた。

「現地で患者に投与された治療薬は効いている」
 単にそう言えば良いのだ。
 
 大友はぶつぶつと頭の中で文句を言いながら会見内容をメモするべくキーボードを叩き続けた。パソコンの横には食べ掛けのチョコレート・ドーナツとコーヒーが置いてある。
 
 ノヴァック事務局長が更に発言を続けた。
 
「WHOの懸念すべき新変異株調査団の本隊は今週金曜日にジュネーブを発ち平壌に向かう。特別機には本隊メンバーおよそ百人が乗り込み。治療薬等の支援物資も積み込み運搬する。私の横には調査団長のラティーフ・アッフマン博士来ている。博士に発言の機会を与えたい。では、アッフマン博士」
 
「皆さん、こんにちは。WHOの新変異株調査団を率いることになったラティーフ・アッフマンです。
 事務局長からご案内があったように我々は明後日土曜日に当地を発ち平壌に向かいます。全員既に治療薬の予防服用を開始しました。PCR検査の結果は勿論陰性です。
 現地では関係機関と協力し、新変異株の解析と疫学的調査、封じ込め作業への助言を行う予定です。
 我々の行動は徹頭徹尾科学的であることが重要です。公正性・中立性に疑念を抱かれるような行動はあり得ません。
 それを肝に銘じて調査に赴き、新変異ウイルスの正体を一日も早く解明し、封じ込めに成功するよう全力で任務に当たる覚悟です。
 調査の経過や結果は逐次本部に報告され、必要に応じて、本部から発表されます。私からの発言は以上です」
 
 アッフマン博士はヨルダン生まれのパレスチナ人で、幼い頃に家族と共にアメリカに移り住み、教育を全てアメリカで受けた優秀と評判の感染症専門家だ。アメリカ政府の受けは良かったし、国籍がヨルダンのままだったこともあって、中国が彼の団長就任に異論を唱えることもなかった。また、発言は慎重で隙を見せないという評判で、今回の調査団を率いるのにうってつけの人物だった。その証左か、博士は冒頭発言を無難にこなした。
 
「これ以上はきっと何も言わないだろうな…」
 引き続きメモを打ちながら、大友は残りのドーナツを一気に口に押し込んだ。
 
 WHOの報道官が会見の進行役を務める。
 
「それでは記者の方、質問があれば画面左下の挙手ボタンをクリックしてください。こちらで指名した方のマイクがオンになりますので、皆さんのパソコンのマイクの状態をご確認ください。それではロイター通信のマイヤーさん、どうぞ」
 
「ありがとうございます。まず、事務局長に伺います。新しい変異株はADE株の可能性が高いとお考えですか?それと採取したウイルスをこれから解析するという事ですが、何処で解析するのですか?いつ頃結果は出ると考えていますか?」
 
 ノヴァック事務局長が応える。
 
「新変異株がADE株かどうか、これはまさに現在調査中です。その結果を現時点で予測することは避けなければなりません。結論が出たら報告します。
 ウイルスの解析をする施設ですが、これも詳細を公表するのは控えたいと思います。結論が出ましたら、こちらも可及的速やかに御報告申し上げます」
 
「リヨンのパスツール研究所の施設は関わっていますか?」
 ロイター通信の記者が追加質問した。
 
「解析が行われるのは一か所ではありません。万全・公平を期すためにも複数個所で解析されますが、具体的な場所は申し上げられません」
 
 リヨンは隣国・フランスの都市だが、ジュネーブからは百五十キロ程しか離れていない。極めて近いのだ。また、WHOとパスツール研究所の組織同士の関係も深い。記者が名前を挙げて尋ねたのも当然だったが、事務局長が否定しなかったことから、記者達は当たりと察した。
 
「もう一か所は中国かな…」
 大友はコーヒーを飲みながら、そう思った。
 
 ウイルスをフランスの研究施設に持ち込むにも拘らず中国には渡さないというのは考えにくい。もっとも、WHOが中国の研究施設を使うのを拒否したところで、彼らは自分達でとうに入手している筈だった。
 
「アメリカはどうするんだろう?WHOが何か国かには配るのかな…感染が自国に拡がった結果入手するのは嫌なはずだし、ワクチンメーカーも必要だろうからな…ま、どのみち彼らも入手するんだろうな」
 
 大友は一人で納得するとこの日の原稿を書き始めた。会見は終わっていないが、これ以上は聞いても余り意味が無い。パリから同行して来たプロデューサーのジャンヌ・ベルナールに残りの会見のモニターは任せることにした。
 
「晩飯は何にしよう…、ラクレットとシュニッツェルかな」
 腹が減るのは致し方ないのだ。さっさと原稿を終わらせるべく大友はキーボードを叩いた。
 

デイリー・ブリーフィング


 「ウイルスは入手したのか?」

 オーバル・オフィスと呼ばれる執務室で定例のデイリー・ブリーフィングを一通り聞き終えるとマイク・ベン大統領がマキシーン・ウイラード国家情報長官に尋ねた。
 
「いえ、まだです。しかし、近日中にWHOからCDCやファイザー、モデルナ等に渡される見込みです。彼らもアメリカとイギリスの製薬会社が頼りですので」
 
「分かった。中国はもうワクチン開発に着手したと考えて良いのだな?」
「その可能性は高いと思っています。しかし、アメリカ企業程能力は高くありません。動きは速いかもしれませんが、これまでと同じように効能はそんなに期待できないでしょう。コロナウイルスのADE株ワクチンはまだ誰も開発したことがありません。勿論、一部で研究は進んでいましたが、実物の新型コロナADE株にお目に掛るのは初めてになりますので、やはり、アメリカ企業に一日の長があると思われます」
 
「オーケー。必要な資金援助は惜しみなくやるようすぐに指示するつもりだ。話は変わるが、北朝鮮最高指導部発の通信量がほとんど無いというのはどう評価する?」
「現時点では何とも言えません。そうした状況は珍しい事ではありませんので。しかし、封じ込め作戦が始まり自分の国が中国軍に事実上占拠されつつあるというのに、帰国以来ほぼ音無しというのは変です。水面下の動きに韓国の国家情報院も注目しています」
ウイラード長官が応えた。
 
「下々の事は気にも留めないという事では無いのか?」

「この非常時にそれはやはり奇妙だと思います。メモには書きませんでしたが、金正恩総書記が特別機で北京を離れる少し前に、別の車列が特別列車から北京空港に向かいました。誰が乗っていたのか確認できていませんが、その車列の一行はまた別の飛行機に乗ってパリに向かいました。車列は格納庫の中に入った為すぐには分かりませんでしたが、その後、当該格納庫から出た航空機は空飛ぶ救急車と呼ばれる医療用のチャーター機であることが分かりました。北朝鮮の要人の誰かが医療上の必要からパリに向かった可能性が高いと見ています」

「彼ら一族のメンバーや高官がパリで治療を受けた例は過去にもあったと記憶しているが…?」

「その通りです。チャーター機の一行がその後、何処に向かったか追跡調査中ですが、同様の事が起きている可能性は高いようです。国情院も、この健康問題を気にしています」

「しかし、再確認するが、金正恩は平壌に帰国したのだな?」
「その通りです。今は平壌に居るはずです」
「金正恩の音無しの構えと関係はあるのか?」
「それは十分可能性があります」
「分かった。引き続き情報収集を頼む」
 
 封じ込め作戦が順調に推移し、金正恩総書記が平壌で恐らく指揮を執っている以上、この健康問題が大勢に影響するとは考えにくかったが、タイミング的に気になる情報であることに違いない。場合によってはフランスの奴らを問い詰めるとするか…ベン大統領はそう考えていた。
 
「他には?」
「今日のところは以上です」
「では、また明日」
 
 この日のデイリー・ブリーフィングは終わった。
 
 北朝鮮での封じ込め作戦はこの日も順調に推移した。トラブルの報告は何処からも無かった。
 
 

空薬莢


 「何でそんなものを飾っているんだ?」
 
 夕刻、長身の白人がルークに尋ねウイスキーを啜った。店主のルークのほぼ真後ろの棚に置いてある真鍮製の筒を指して言ったのだ。赤い薔薇が三本差してある。ジェフが珍しく自分から店にやって来たのだ。他の客は居ない。
 
「何か分かるんだね?」
ルークが問い返した。
 
「空薬莢にしか見えないな。サイズと見た目から察するに礼砲にでも使った奴か?」
「ご名答。良く分かるね。大したもんだ」

「で、何でそんなものを飾っている?確かに花を活けるのに悪くないがね」
「オペレーション・ダーヴィッシュっていうのを聞いたことあるかい?」
「勿論さ。一時期、第二次世界大戦の歴史を勉強したからな」
「今回の北への大規模支援の様子を見て何故思い出してね。引っ張り出して来たのさ」
「確かに共通点がまるで無いということではないが、それにしてもどう関係するんだ?」
 
 話はかなり遡る。
 
 第二次世界大戦の始めの頃、ナチス・ドイツに攻め込まれたソビエトは首都・モスクワが陥落寸前になるなど窮地に追い込まれていた。そのソビエトを救ったのはアメリカとイギリスを中心とする同盟国側による大規模支援であった。
 
 支援ルートは主に三つあったのだが、オペレーション・ダーヴィッシュは北極海経由の海路でソビエトに大量の軍需物資を届けた作戦の第一号の名前である。
 
「1991年の八月の事なんだが、そのオペレーション・ダーヴィッシュの丁度五十周年を記念してイギリス海軍の旗艦・HMSロンドンがほぼ同じ海路でムルマンスクとアルハンゲリスクを訪問するというイベントがあったんだ。当時、ロンドン特派員だった私が同行取材を申し込んだら何故かオーケーになってね。その時の土産がこの空薬莢という訳さ」

「ほー、それは珍しい経験をしたな」
「そうさ、得難い経験さ。空薬莢はアルハンゲリスクの港に着いた時のイギリス側の礼砲の残り物さ。それを一緒にいた士官から頂戴したんだ。こんな物を持っている奴は他に居ないと思うよ」
 
 ムルマンスクはソビエト、今はロシア海軍の北方艦隊の本拠地で、アルハンゲリスク州の州都・セヴェロドビンスクには今もロシアの原子力潜水艦の製造工場がある。東西冷戦の時代は外国人立ち入り禁止の閉鎖都市だった。ましてやイギリス海軍の艦艇が訪問するなど考えられないことだったのだ。
 
「私にとっては束の間の平和の思い出なんだよ」
「そういうことか…」
 ジェフは漸く納得したようだった。
 
 取材時のロシアの指導者はエリツイン大統領で、ロシアと西側の関係は冷戦終了直後の平和ムードに包まれていたのだ。
 
 実際、イギリス海軍の訪問団一行は各地で大歓迎を受け、同行していたルークとカメラマンも同様に特別扱いを受けた。当時のソビエトの最新鋭戦闘機スホイ27のデモンストレーション飛行や海面に浮上したキロ級潜水艦、極めて遠かったが、巨大工場に横付けされていたシエラ級の攻撃型原潜の撮影も出来た。
 
 やはり当時最新鋭のT80戦車には、運転席だけだったが、ルークは乗ることさえ許された。一緒にいたイギリスの軍事専門記者はロシア側の開けっ広げな歓待ぶりに感嘆の声を上げていたものだ。今や昔の話だが、正に束の間の平和の時代だった。
 
「それにしても北への支援は相当な量になりそうだね。昔の対ソビエト支援程ではないだろうけれどさ」
「当然、軍需物資の支援は無いさ。あくまでも人道目的だ。食料やエネルギーは転用可能だがね。まあ、最終的に数百万トン規模に達しても驚かないね。そんなに難しい事じゃないしね」
 
 第二次世界大戦中にソビエトに提供された軍需支援物資は最終的には凄まじい量になった。
 
 記録を見ると航空機一万五千機弱、戦車七千台、トラック三十七万台、爆発物三十五万トン弱、食料およそ四百五十万トン等々…、支援は対日戦が終わるまで四年も続いた。自らも戦争を遂行しながら第三国にこれ程の支援が出来た同盟国側の国力はやはり桁違いだったのだ。
 
 当時とは全く事情が異なるが、今回、北朝鮮への全面支援に踏み切った中国の力も相当なものだ。それを「そんなに難しいことでは無い」と突き詰めれば一政府職員に過ぎない男が言い切るアメリカの今の国力も全く侮れない。
 
「ジェフ、封じ込め失敗のリスクはどの程度と見ているのかな?」
 ルークが本題に入った。
 
「あまり無いと思うな。ADE株が同時にとんでもない感染力を持っていない限り大丈夫なんじゃないか」
「とんでもない感染力とは?」
「既存株を遥かにしのぐ麻疹並みだったりすると事情は変わる。しかし、如何に新型が脅威とは言え、コロナはコロナさ。そんなことにはならない筈さ」
 
「しかし、ADE株には罹りたくないだろう?」
「それは当然さ。しかしだな、どうやらADE株はワクチン接種者なら誰でも彼でも危ないという訳ではないらしいという説があるんだ。ADE株に感染しても十分な中和抗体をまだ保持していればそんなに怖くない、怖いのは中和抗体が中途半端に減った人間だけという説だ。ま、これも確認されたわけではないが、そもそもADEのメカニズム自体、まだ良く分かっていないのだからはっきりしないのは仕方ないな。ただ、どちらにせよ、治療薬は効く。だから麻疹並みの感染力を持たない限りそんなに心配する必要は無いと思って良いんじゃないか」
 
「成る程ねー、しかし、どのみちブースターが増々重要になって、ワクチン製造会社は更に大儲けできるな。一人勝ちじゃないか…、だが、ということは、封じ込め作戦は意外と早く終わる期待も出来るのかな?」
「良い質問だ。しかし、それは別問題さ」
「と言うと?」
「よく考えてみろ。コロナを駆逐できるのは何だ?」
「ワクチンや治療薬は重症化や死亡を防げるが、コロナそのものを人間社会から消し去ることは出来ないな」
「その通り。だが、武漢株はもう消え去った。アルファ株もデルタ株もオミクロンももう消え去った。何故だ?」
「別の感染力の強い、人体により適合したコロナ株が奴らを駆逐した」
「そうだ。コロナを退治できるのは別のコロナ株だ。我々はもはや共存するしかないんだ」
 
「しかし、ADE株との共存は無理だな」
「問題はそこだ。幸いに北朝鮮は陸の孤島だ。中国流のゼロ・コロナ作戦を徹底すれば一度消し去ることは出来るだろう。しかし、それだけでは、北朝鮮のどこかでまたぞろ息を吹き返す恐れがある」
「ではどうすれば良いのだ?」
「二段階に分けて対処するのさ。最初は中国流封じ込めで、まず北朝鮮のコロナ感染者をゼロにする。それは可能だ。一~二か月で達成できるだろう。そして、封鎖措置を緩和する。
しかし、二段階目として、その後も検査と監視を続けながら流行が再燃するのを待つ。その再流行した株がADE株ではない、例えば全てが既存株なのを確認して初めてADE株消滅が宣言できるということになる」
「だとすると半年かそれ以上掛かる。しかも、監視と検査の継続を口実に中国は北朝鮮にもっと長く居座ることもできる」
「その通り。だから封じ込め作戦が一段落したとしても、別の問題が生じる恐れがあるんだ」
 
「やれやれ…、ついでに北のWMDも中国が一掃してくれたら良いのだが…」
 
 WMDは大量破壊兵器、Weapons of Mass Destructionの略だ。基本的に核・生物・化学兵器を指す。
 
「そんなことを中国がやると思うか?中国は北の核が、彼らにではなく、我々にとって脅威で頭痛のタネなのを知っているんだぞ。そして、我々は核兵器を保有する人民解放軍と北朝鮮軍の連合軍と三十八度線で対峙する破目になるかもしれない。全く別の大きな問題が発生するんだ」
 
「その方が軍備交渉やら何やらが北もひっくるめて交渉し易くならないか?」
「そんな訳がない。台湾を巡って我々が衝突寸前になったのを忘れたか?」
 
「…」
 ルークは一瞬言葉に詰まったが、こう言った。
「しかし、何度も言ったと思うが、北朝鮮も本心では中国が嫌いだ。プライドも異様な程高い。北朝鮮は、と言うより朝鮮半島の人間はと言った方が正確だが、彼らが大人しく中国の好きなようにされて黙っている筈はないんじゃないか?」
「そう、まさにそこが大いなる懸念材料なんだ。情勢が一気に動くきっかけになる可能性があるのさ…」
 
 珍しくボルテージの上がったジェフが、ここで大きく深呼吸し、いつもの穏やかな口調に戻り、続けた。
 
「調子に乗って喋り過ぎた。何か食べる物の用意はあるかい?」
「女房が作ったラムとポテトのローストがある。それにクレソンとトマトのサラダ」
 ルークが言った。
「旨そうだな。頂くよ。だが、サラダは要らない」
「そうだったな。了解。支度するよ」
 ジェフは青物が嫌いなのをルークは思い出した。
 
 店主はオーブンの余熱で温めていたラムを切り分け、ポテトと共に更に並べて出した。中がピンク色に焼けたラム肉の素晴らしい匂いが立ち込めた。
 
「香りも見た感じも最高だ。楽しめそうだな」
 赤身の肉が大好物のジェフが嬉しそうに言った。
「走りのミルク・ラムさ。豪州産だよ。ボナ・ペティ」
 
 北朝鮮で出現した新たな変異株をジェフがADE株と断定して呼んでいたのに店主は気付いていた。ADEの『疑いのある』変異株だとまどろっこしいので略してそう呼んだだけの可能性も否定できないが、やはり、アメリカ政府も北朝鮮で出現したのはADE株と観ていると考えてよさそうだった。
 
 ジェフは食事を終えるとコーヒーを飲みながら暫し雑談して店を後にした。
 
 帰り際にジェフはこう言った。
「一番怖いのは何だか知っているか?兵器化された天然痘ウイルスがばら撒かれることさ。それに比べればADE株なんて大して怖くない。治療薬もあるからな」
 
 確かに天然痘ウイルスは自然界にもはや存在しない。しかし、幾つかの国の軍は防御目的を口実に天然痘ウイルスを隠し持っていると疑われていた。
 
 百万が一にも、そんなものが兵器として使われたら、どんな被害が出るか想像もつかない。致死率は高く、治療薬はあるものの効果は未知数だからだ。ワクチンはあるが、いつ行き渡るか見当もつかないし、兵器化されたウイルスに効くとは限らない。
 
 ルークは、身震いしながら恐怖心を振り払い、気分を変えて、中国がもしも居座る姿勢を見せた時、北朝鮮がどう出るか考えてみた。
 
 いきなり戦闘が始まる可能性はゼロだが、小競り合い位は始まるのか?いや、それも考えにくい。その頃は、丁度、春の食糧難のピークに差し掛かる。食べ物とエネルギーの支援が続く限り、住民は当分文句を言わないだろう。すると金正恩総書記はどんな手を打つのか?対抗するにはWHOに支援の拡大を要請し、彼らに監視と検査を担ってもらうのが手っ取り早い。中国もこれには反対できない。しかし、食料支援は彼らの役割ではない。WHOは中国の居座りのけん制材料にはなるだろうが、ちょっと弱い…。
 
 他にどんな手段があるのか?欧米に直接支援を求めても、核とミサイルの開発を放棄しない限り、応じる国は無い。するとロシアにも頼るか?しかし、彼らはアップアップの上、もっと信用できない。皿の上の毒饅頭が増えるだけだ。
 
「これは見物だな…」
 
 店主はそう呟くと店仕舞いを始めた。
 

苛立ち


  現地時間翌金曜日早朝、パリ十三区のパリ・セーヌ南総合病院の宿泊施設で事実上の隔離生活に入った部屋のドアベルが鳴った。
 
 肝臓外科の権威、アラン・パスカル教授が、ドアの外に置かれていた朝食を台車ごと部屋に入れるとトレ―の上に小さなメモが置かれていた。手書きで「成功を祈ります。ボナ・ペティ」と書かれている。今日の手術の事を知る由もない食堂の職員ではない。DGSE・対外治安総局の連絡員の手によるものだろうと教授は思った。
 
 朝食はクロワッサンなどのパンの盛り合わせとジャム、コーヒーに温められたミルク、それにヨーグルトというコンチネンタル・スタイルだった。普段の朝はカフェ・オレを飲み、ヨーグルトを口にするだけなのだが、教授は手術の日には固形物を摂ることにしていた。過ぎると勘が鈍るが、腹が減っては集中力が保てないからだ。
 
 食事をしながら部屋のテレビで二十四時間放送・フランス24のニュースを観ていると、北朝鮮での封じ込め作戦の四日目の様子が報じられていた。
 
 現地で続いていることは基本的に初日から同じで、四日目からは支援物資の運搬に人民解放軍だけではなく中国郵政のトラックも投入されたというのが目新しいくらいだった。感染者数や重症者数、その内訳など疫学的情報は無く、新たな変異株に関する解析結果の報道もまだ無い。ただ、トラブルの情報も無いのは良い事だった。
 
 フランスのニュース・チャンネルは早ければヨーロッパ時間の今日午後にも、新たな変異株の暫定的な解析結果を発表するだろうとの見通しを伝えていた。
 
 その頃、自分は手術の真っ最中だ。暫定結果を知るのは手術が終わって一段落してからになると教授は思った。
 
 同じ頃、ジュネーブの大友もホテルの自室でルームサービスの朝食を食べながら、フランス24の英語チャンネルのニュースを観ていた。早起きは苦手ではない。内容はフランス語チャンネルと同じだ。WHOが午後にも暫定解析結果を発表するというフランスのテレビ局の見通しを疑う理由を大友は持ち合わせていない。何と言っても地元の報道は強いのだ。
 
 大友は特製アメリカン・ブレックファストをもりもり食べながら、WHOの発表見通しを本社にメッセージで伝えた。日本の夜ニュースに間に合うかどうか微妙な時間帯になるが、本社は中継レポートを求めてくるだろう。ライブ・レポートが嫌いな大友はそれが鬱陶しかったが、四の五の言っている場合ではないのは承知していた。
 
「仕方ない。エネルギーをしっかりチャージしようっと」
 大友は食事を続けた。
 
 テーブル代わりの台車の上には、フライド・エッグ二個、ブリティッシュ・ソーセージ二本、厚いベーコン二枚、ソテーしたマッシュルームとトマト、ハッシュド・ポテト、それにベイクト・ビーンズが乗った大皿とロールパンが二個、更に、バターとメイプル・シロップが添えられた大きなパンケーキ二枚の皿、加えてコーヒーのポット、温められたミルクのポットが並んでいた。
 
 食材も調理法もイギリス・スタイルのフル・イングリッシュ・ブレックファストにアメリカン・サイズのパンケーキが付いたのが特製アメリカン・ブレックファストという訳だ。これだと二千カロリー位はあるだろう。
 
 出張先に妻の監視の目は届かない。匂いで疑われる心配もない。
「だから好きなのさ」
 大友はテレビ・ニュースのモニターをしながらひたすら食べ続けた。
 
 暫くして、パリ・セーヌ南総合病院では一ヶ月以上前から準備されていた生体肝移植手術が始まった。レシピエントにもドナーにも異常は無い。
 
 二人への手術はほぼ同時に着手される。
 
 レシピエントには全身麻酔が、ドナーには硬膜外麻酔という部分麻酔が掛けられ、それが十分に効いてから、レシピアントの腹部には漢字で人の形に、ドナーにはカタカナのノの形でメスが入れられる。
 
 長丁場の始まりだ。
 
 その頃、メトロポリタン放送の夕方のメイン・ニュースは封じ込め作戦の進捗状況とADEが疑われる変異株について、あーでもないこうでもないと延々と議論を展開していた。WHOが早ければ日本時間のその日の夜にでも解析の暫定結果を発表する見込みという以外新味はないのだが、触れないわけにはいかないのだ。
 
 日本の国会でも、やはり似たような論戦が続いていた。治療薬の積み増しや水際対策の強化、病床の確保などについて野党が政府を質すが、そんなに早く状況に変化が起きる筈もない。公式にはADE株出現とまだ確定した訳でもないし、それが漏れ拡がっている訳でもない。それにも拘らず、あれやこれやで、一般市民の不安は増すばかりだった。
 
 道明寺の苛立ちが募るのも無理はない。専門家程そんなに心配していないからだ。騒げば騒ぐ程世間は委縮し、製薬会社の飯のタネが増えるだけだと心ある専門家なら、こちらの方を憂慮するのだ。しかし、得体のしれない物ほど人は恐れ慄く。それを地で行くような状況が生じ始めていた。
 
「ちょっと騒ぎ過ぎだわ。もうすぐ正体が見えてくるのに…」
 自局の報道を見ながら菜々子も少しげんなりしていた。言っても無駄なのは分かっている。番組編集サイドは放送時間を埋め、少しでも視聴者を引き付けるのに躍起なのだ。
 
「ニュースをワイド化なんてするからそうなるんだよ」
 ルークならきっと堂々と公言して憚らないだろう。
「いっそのことラーメンで空いた時間を埋める方がずっとマシだぜ」

 ルークならこうも言うだろう。こんな考えはニュースを売り物としかみないテレビマンには通じない。
 
「縷々説明しても意味は無い。そんなことをすれば、それを材料にもっと騒ぐのが目に見えているからだ」

こんなことを平気で言うからルークは嫌われた。だから、彼は報道局長になれなかったのだろうと菜々子は思っていた。
 
「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまった方が良い奴がいつの世ものさばるのさ」
 ルークの声が聞こえたような気がした。

暫定結果


  WHOの記者会見がヨーロッパ時間の午後二時半に設定された。日本時間午後十時半だ。
 
「これなら会見を聞いてから夜ニュースの中継に間に合うな」
 メトロポリタン放送の夜ニュースは午後十一時半からだ。大友はほっとした。
 
 英語の記者会見を聞きながら、ほぼ同時にその内容をレポートするのはベテラン放送記者でも難しい。ルークにはお手の物だったが、そんな芸当が出来る者は多くない。しかし、一時間の猶予があるなら十分だった。それに昼飯を食う時間もある。大友は記者会見取材とWHO本部ビル前からの中継レポートの準備をスタッフと共に始めた。
 
 アナログ放送時代は中継の準備自体が大変で、放送内容以前に中継の成否がライバル局との勝負の分かれ目になることもしばしばだった。が、デジタル化が進み、簡易中継装置が当たり前になった今ではもう簡単だ。後は飯を食って会見を聞いてメモし喋るだけだ。
 
 ありきたりだが、昼はハムとチーズのバゲット・サンドイッチにした。当然、二本だ。
 
 本社ではWHOの会見と大友の中継レポートを夜ニュースのトップで放送する構えだった。菜々子も本社に残り見守ることにした。
 
「北朝鮮で見つかった新たな変異株の解析結果について申し上げる。新たな変異株は中途半端な抗体が存在すると人間の細胞への感染力を増す場合があることが実験室レベルで確認された。北朝鮮からの臨床報告では、ワクチン接種者の方にこの新たな変異株に感染した患者が多く、中等症・重症患者も多いという事実も考慮すれば、この変異株は抗体依存性感染増強、すなわちADEを引き起こすと考えるべきと我々は結論付けた。よって、WHOはこの変異株を懸念すべき変異株に指定し、従来の方法に基づき、γ・ガンマⅡ型と名付けた。その性質からADE株と呼ぶことも出来る。世界にとって、これは悪い知らせになる」
 
 真剣極まりない表情のアナ・ノヴァック事務局長が予定通り始まった会見の冒頭に声明を読み上げ始めた。これを受けて世界中のメディアが「ADE株確認」と一斉に速報を流す。
 
 ノヴァック事務局長は続けた。
 
「しかし、少し良い知らせもある。同時に、この変異株は抗体が存在しない環境での感染力は強くない。北朝鮮からの報告ではワクチンを接種していないグループのガンマⅡ株感染者が少ないことから見ても、ワクチン非接種者、及び感染経験の無い者への感染力は既存株と大差ないかやや弱いと考えられる」
 
 ジェフが言及したような麻疹のような強い感染力はないらしいと会見を聞きながら、ルークは思った。事務局長の声明読み上げは続いた。
 
「良い知らせはまだある。このガンマⅡ型にも治療薬は有効である。実験室レベルでもそうだし、現地の医療現場でも発症から数日以内に投与すれば重症化をかなりの割合で防げるという」
 
「また、北朝鮮で進行中の封じ込め作戦は順調に推移している。ガンマⅡ型の感染の拡大は見られていない。我々の専門家と中国の専門家は、一か月程度で新規感染をゼロにすることは可能と期待している。よって、このガンマⅡ型ADE株が新たなパンデミック宣言を必要とするような状況を作り出す可能性は低いとWHOは現時点では考えている」
 
 「治療薬は効く」「パンデミック再来の可能性は低い」の二点も各社が一斉速報した。
 
「このガンマⅡ型ADE株の遺伝情報は間もなく公開される。詳しい研究はこれからになるが、Sタンパクの部分に多くの変異が見られる。質問を受け付ける」
 
 冒頭の声明読み上げが終わると、アクリル製の壁で一人一人の席がほぼ完全に仕切られた会見場の記者達からほぼ一斉に手が挙がった。
 
「つまり、ADE株はそれ程危険ではないということですか?」
 報道官から指名されたフランスのAFP通信の記者が尋ねた。
 
「危険ではないとは言えない。ワクチンを接種済みの貴方が感染し放置すれば重篤に陥る恐れは十分にある。また、治療薬が効くとは言え感染爆発を起こせば治療が追い付かなくなる。だから油断は禁物で、封じ込めの成否が重要になる」
 
「北朝鮮における感染状況は?」
 二番目に指名されたアメリカのAP通信の記者が訊いた。
 
「正確な全体像は不明だが、北朝鮮におけるガンマⅡ型ADE株感染者と確認された数は
封じ込め作戦発動以降現時点までで七百人程だ。うち、中等症・重症患者は百二十人と聞いている。既存株の感染者は他に千人余りだ」
「それは作戦発動前の過去の数字も含まれるのか?」
「過去の感染者と死者・重症者の数は調査中である。いずれにせよ検査が進めば増える可能性はある」
 
 ロイター通信の記者が続いた。
「感染者七百に対して中等・重症患者百二十というのは多いのでは?」
 
「その通りだ。無症状の感染者数まで完全に把握したとは言えないので慎重に評価すべきかもしれないが、明らかに中等・重症患者の割合は多い。この点は新たな変異株をADE株と断じるべき根拠でもある」
 
「一か月程で北朝鮮のゼロ・コロナが可能と言う根拠は?」
 次の記者が尋ねた。
 
「それはあくまでも過去の経験からで、全住民に対する検査と隔離が上手く行けば、通常、半月から遅くとも一か月程度で新規感染者はほぼ出なくなると期待できる。既に感染した者の治療もその前後には終わり、ウイルスは検出されなくなるだろうと期待している。ただし、無症状感染者も把握することが大事だ」
 
「上手の手から水が漏れる恐れは?」
 
「それは無いとは断言できないが、現地で作業に当たる者は全員治療薬の予防服用をしている。今は検査も毎日している。彼らも検査と隔離の対象だ。厳重な防護もしているので、そんなに心配していない」
 
 大友は、この辺りで会見のモニターを切り上げ、本部ビル外の夜ニュース用の中継場所に向かった。そして、内容をベルナールの助けを借りながら再確認する。
 
 大友が中継ポイントに着いて、ピン・マイクとイヤ・フォンを装着し、ニュース・スタジオのコントロール・ルームと映像・音声共に繋がっているのを確認すると、夜ニュースの開始時刻を迎えた。
 
 大友のイヤ・フォンにニュースのオープニングタイトルの音声に続いてアナ・ノヴァック事務局長の冒頭声明の音声が入ってきた。スタジオからの送り返しの音声だ。これが聞こえないと中継で掛け合いと呼ばれるやりとりが出来ない。
 
 続いて、スタジオのキャスターの声が入る。キャスターは公共放送出身の才媛・神林和美だ。
 
「ご覧頂きましたように、WHOは、先程の記者会見で、北朝鮮で見つかった新たな変異株が抗体依存性感染増強を引き起こすADE株であると正式に認めました。
 同時に、治療薬が有効な事、北朝鮮でのADE株封じ込め作戦が順調なら一か月程度で成果を挙げる可能性があるとの見通しも明らかにしました。
 それではスイス・ジュネーブのWHO本部で取材をしている大友記者に伝えてもらいます。大友さん!」
 
「はい。北朝鮮で見つかった新しい変異株をWHOのアナ・ノヴァック事務局長はガンマⅡ型ADE株と呼びました。
 そして、ADE株と公式に認定した根拠としてノヴァック事務局長は…」
 
 大友が会見の内容を説明し始めた。
 
 大友の語り口は見掛けとは大きく異なり、やさしく、可愛らしいとさえ評する人も居る。ぶりっ子デブ・レポートと陰で揶揄される所以だ。
 
 自席で見守っていた菜々子は、大友の呼吸が相変わらず少し荒いのが気になったが、内容的には立派なのに安堵していた。
 
 若手だとデスクから校正済みの原稿を送り返して貰い、それを読み上げるのでないときちんと喋れない記者が少なくないのだが、そこはベテランである。時間的にきちんと原稿を書き上げる余裕は無かったはずだが、メモ・ベースで正確にレポートしている。
 
「…明日土曜日には、WHOの調査団本隊のおよそ百人が、支援物資を満載した特別機でここジュネーブを発ち、平壌に向かう予定です。こちらからは以上です」
 
 キャスターとの掛け合いもしっかりこなして、大友がレポートを〆た。
 
 中等・重症患者の割合が多いという評価に大方の不安が募らないではなかったが、治療薬が効くという判定と封じ込めは可能という見通しの御蔭でそれ程騒ぎになりそうな気配はない。
 
 ニュースは丹東からの戸山昭雄レポートに切り替わった。こちらは目新しい情報は無い。続いて北京から支局長・岩岡宏がレポートする。
 
「北朝鮮で出現したのはADE株とWHOが公式に認定し発表したことに、中国政府は想定通りと評価、基本的に納得しているものと思われます。
 と言いますのも、誰よりも早く現地に人員を投入した中国政府は、当然、今回の新しいウイルスを入手し、それがADE株の恐れが高いといち早く認識していた筈です。しかし、WHOが公式にそれを認定して最初に発表し、かつ、封じ込め作戦が一か月程度で成果を挙げるだろうとの見通しを公表したことで、万が一、あくまでも万が一ですが、作戦に失敗しても中国だけが責任を負わされる可能性は少なくなったと言えるからです」
 
「それは中国一国では封じ込めは難しいという事でしょうか?」
 神林キャスターが尋ねた。
 
「物理的或いは技術的にはADE株封じ込めは中国一国だけでも可能と思われます。しかし、政治的・道義的には単独では荷が重いと、こちら北京では数日前から囁かれていました。しかし、今回の発表で、WHOは事実上、中国と一蓮托生になったというのが中国政府の受け止めと思われます。
 実際、封じ込めにWHOの関与を求め、北朝鮮の金正恩総書記にその受け入れを認めさせたのは習近平主席だと北京の消息筋は我々の取材に対し語っていました。これが中国政府は納得していると申し上げた理由です」
 
 岩岡の喋りは変わらず朴訥だが、原稿はある程度用意してあったのだろうと菜々子は感じた。彼の取材力は流石だ。
 
「封じ込め作戦について新しい情報はありますか?」
 神林キャスターが再び岩岡に振った。
 
「中国外交部は、今日午後の定例記者会見で、これまでに延べおよそトラック六万台、船舶二百隻、列車六千両分の支援物資が北朝鮮に運ばれ、北朝鮮側の受け入れ能力は既に限界に達した、また、十万人を超える人員も北朝鮮入りし、住民六百万人の検査を既に行ったと発表しています。それにより発見された陽性者数やウイルスのタイプは、中国側の発表がWHOの会見前だった為か言及されませんでした。
 この規模とスピードで、封じ込め作戦と大規模支援が順調に進めば、一か月程で北朝鮮のゼロ・コロナが達成できるというWHOの見通しは、あながち楽観に過ぎるとは言えないかもしれません。北京からは以上です」
 
 スタジオでは神林キャスターの仕切りで専門家らによるトークが始まった。
 
 ここまで見届けると菜々子は、テレビ画面を横目で見ながら、大友に手が空いたら電話をするようメッセージを送った。
 
 岩岡には慰労と共に彼のレポート内容を褒めちぎるメッセージを送る。きっと喜ぶ。誰だって幾つになっても褒められるのは嬉しいのだ。
 
 放送終了後、大友から電話が入った。
 
「お疲れ様です」
「お疲れ様。中継、良かったわよ。しっかりしていたわ」
「有難うございます」
「明日の予定なんだけれど、本隊の出発を取材したらイギリスに向かうんでしょ?ウェンブリーに」
「いや、あのー」
 大友が口籠る。
「行きたくないの?」
「いや、そうではなくて、イギリスに行く前にベルンにちょこっと寄りたいなと思って…
すぐ近くですし…」
 
 そう聞いて、確かに様子を見に行くのは悪くないかもしれないと菜々子は思ったが、大友に確認する。目的は訊かずとも分かる。
 
「大して時間が取れないでしょう?日を改めて考えるのはどうなの?ウェンブリーは広いからロンドン・チームだけだと足りないでしょ?」
「そうなんですけれど、すぐにベルンに向かってウェンブリーに直行すれば半日ちょいは取材時間があるかなと思っているんですけれど、どうですか?」
「仕方ないわね。ベルンでぐずぐずしないで、ウェンブリーにはきちんと行って頂戴ね」
「勿論です」
「では、よろしくね」
 
 一度腰を据えると大友の尻は重くなる。それが菜々子は少し気になったが、ベルン行を認め電話を切った。
 
 すると岩岡からメッセージが届いていた。安全なルートだ。

「何だか変だ。やけに口が堅い。裏話が全然出て来ない。気にした方が良いかも」
 
 ADE株に関わる裏話ならもうある。岩岡が先程レポートしたばかりだ。とすると、これは中朝首脳会談に関わる話だ。桃姐さんがもたらした最新情報とも平仄は会う。菜々子はそう察した。
 
「そうだ!晩飯はベルンで食べよう」

 一方、大友は電話を終えるとすぐに思い付き、我ながらこのアイディアは素晴らしいと感心していた。車を飛ばせば二時間程度だ。陽もまだ沈んでいない。
 
「フックスで飯が食えるぞ」
 
 朝ニュース向けの原稿をそそくさと仕上げ、デスクに送ると、大友はプロデューサーのジャンヌ・ベルナールと共にレンタカーに飛び乗った。ベルナールは気乗りしないのか少々うんざりした顔だったが、大友は気にしない。
 
 美味い物を食えば彼女も機嫌が良くなるのを知っているからだ。彼女はフランス人なのだ。
 
 その暫く後、パリ十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院では、アラン・パスカル教授がメスを置き、手術室を後にした。生体肝移植手術は無事成功したのだ。
 
 直後、ベルンのとある家に居るアジア系の中年女性の携帯が二回鳴った。そして、切れる。続いて、もう一度鳴り、六回鳴ってまた切れた。
 
 女性にその意味は全く分からないが、二度目の電話が六回なった時は、平壌のとある番号に白紙のファックスを一枚送るように予め指示されていた。女性は指示通りにファックスを送った。

Sタンパク


 「ご存知のようにコロナウイルスの表面にはスパイク・タンパクというものがございます。略してSタンパクとも呼ばれますが、これがヒトの細胞の表面にあるACE2というタンパクと結合して細胞に侵入を果たします。しばしばSタンパクは鍵、ACE2は鍵穴のようなものと言われますが、その相性で感染力が決まります」
 
 WHOの発表を受け開催された緊急ブリーフィングで、ホワイト・ハウスの感染症対策を統括するボブ・カタオカ博士が説明を始めた。
 
「最初の武漢株以降出現し優勢になった変異株はこのSタンパクが変異し、ACE2との相性がより良くなったものばかりでございます。もう少し詳しく申し上げますと、Sタンパクは二つの部位、S1とS2で構成され、普段はその二つの部位が結合した状態で存在しておりますが、攻撃対象となる細胞が出すフーリンという酵素に新型コロナウイルスのSタンパクが出会うと、フーリンの働きで、Sタンパクは二つの部位に分かれ、S1部位が標的細胞と結合し、S2部位が細胞への侵入を司るのでございます。S2部位が別の酵素・TMPRSS2で更に切断されますと、細胞への侵入能力が更に高まると見られております。
 ワクチンが作り出す中和抗体は、こうしたSタンパクの働きを阻害するのです。ただし、ワクチンの効果はこれだけではございません。ウイルスに感染した細胞を壊すTセルなどの免疫細胞も活性化いたします。
 ワクチン接種後、時間の経過に伴い中和抗体の量は減ってまいりますが、Tセルの働きは長く保たれます。中和抗体が減っても重症化がある程度抑制できるのは、このTセル等の働きの御蔭と見られております」
 
「で、ADEはどうして起きるのだ?」
 マイク・ベン大統領が尋ねた。
 
「結論から申し上げますと、実はまだ良く分かっておりません。
 ADEを起こすことが分かっているウイルスとして、デングウイルスがございますが、デングウイルスの場合は、中和抗体が十分に存在するうちは大丈夫ですが、これが減ってくるとADEを引き起こすという説もありますが、はっきりしておりません」
 
 デングウイルスはネッタイシマカやヒトスジシマカによって媒介され、デング熱もしくはデング出血熱と呼ばれる感染症を引き起こすウイルスである。熱帯・亜熱帯地域で多い。
 
 デングウイルスにはⅠ型からⅣ型まで四タイプがあり、例えばⅠ型に罹るとそれに対する免疫は一生保持されるが、他の型に罹ると重症化し、デング出血熱と呼ばれる症状を引き起こすことがある。その重症化のメカニズムにはADEが関わっていると言われている。
 
 カタオカ博士が続ける。
 
「留意して頂きたいのは、ワクチンが作り出す抗体は中和抗体ばかりではないということでございます。何の役に立たない抗体や却って悪さをする悪玉抗体も作り出すことがございます。
 例えば、これまで試験されたエイズのワクチン候補も抗体を作り出しますが、それが感染防止に役立たない抗体ばかりでございまして、エイズワクチンが実用化されないのはこれが大きな障害になっております。
 ADEに話を戻しますが、中和抗体が十分にあると大丈夫だが減って来るとADEが起きると言う説が本当だと仮定いたしますと、役に立たない抗体や悪玉抗体を利用してADEは感染力を増すが中和抗体が十分にあるうちはそれも阻害できる。しかし、減って来ると、他の抗体を悪用した感染と侵入が増えるという仮説を立てることも理論上は可能になるかもしれません。しかし、新型コロナウイルスのADE株は出現したばかりでございます。真相の解明はこれからの研究次第だろうと考えております」
 
「では、ブースターを打ち続ければ、ワクチンも効果がある可能性は?」
 
「現時点でそのように予想するのは時期尚早かと。ブースターが作り出すのは中和抗体ばかりではございませんので、慎重に見極める必要があると存じます」
 
「何度も確認することになるが、治療薬は効くのだな?」
 
「そのように考えております。治療薬が阻害するのはSタンパクの働きではございません。全く異なるメカニズムで、ウイルスの細胞内での複製を阻害いたしますので、ADEとはほぼ無関係と存じます。この点は心配しておりません」
 
「封じ込めは成功すると博士は考えるか?」

「何と申しましても治療薬の存在が大きいと考えております。それに中国流のゼロ・コロナ作戦も効果を発揮すると期待しております」
 
「ウイラード長官の見立ては?」
「同様に考えております」
 
「万が一の事態は?」
 
 ウイラード長官が応えた。
「悪意を持った人間が拡散しようとしない限り心配はご無用かと。これまでのところ、北朝鮮と中国という専制国家は実に真剣かつ真摯に対処しているようですので、そちらの恐れも極めて低いかと存じます」
 
「では、現時点で、対策をこれ以上強化する必要は無いと?」
 
「既定方針通り、治療薬等の積み増しと各地への事前配布を急ぐのが肝要と存じます。勿論、現地支援も出来る限り。そして、万が一、漏れ出した場合の国境管理強化は直ちに実施すべきかと存じます」
 
 カタオカ博士が応じた。ウイラード長官や同席したジュディー・アマール安全問題担当補佐官達も頷く。
 
「分かった。では、諸君、引き続き、情報収集と分析を続けてくれ給え」
 
 散会後、ベン大統領はアマール安全問題担当補佐官をオーバル・オフィスに呼び入れ、次のように指示した。
 
「万が一、ADE株が拡散した場合の対応策も取り纏めているか?」

「鋭意作業中でございます」
 アマール補佐官が応えた。
 
「可能性は低いようだが、君は大丈夫だと思うか?万が一の為にも、螺子を巻いて欲しい」

「承知致しました。大統領閣下。彼らの見立てを疑う理由はございませんが、その恐れをゼロと楽観するのは御明察の通り危険かも知れません。少し鞭を入れます」
 そう応えると補佐官は直ぐに部屋を後にした。 

ノードリヒ・プリンツェッスィン


  車を飛ばしておよそ二時間、大友とベルナールはベルンの旧市街にある有名レストラン・フックスに到着した。通りに面したクリーム色の小洒落た三階建ての建物全てがレストランで、木々で囲まれた裏庭にはテラス席も多数ある。ミシュランのビブ・グルマンにも選ばれた大店で、店の入り口のドアにはピーター・パンの敵役、キャプテン・フックを模したと思われるシンボル・マークが描かれている。
 
 移動中に携帯で予約を入れた大友とベルナールが店に入るとテラス席に案内された。外はまだ寒いが、プロパンガスのパラソル・ヒーターがそこかしこに置かれていて、足元以外寒さはほとんど気にならない。元々、寒さに強い大友はへいちゃらだ。
 
 ガス入りのミネラルウォーターを飲みながら大友はメニューを吟味する。車の運転があるのでワインはメインと一緒に一杯だけ飲むつもりだ。その程度であれば欧州では違反とされない国が多い。
 
「よし、これとこれにしよう!」
 
 嬉しそうに呟くと大友は鱒のバター・ソテー温野菜添えと子牛肉とマッシュルームのクリーム煮を頼んだ。クリーム煮にはロースト・ポテトとビーツが添えられてくる。ベルナールはスモーク・サーモンとヒレ・ステーキを頼んだ。
 
 ヨーロッパやアメリカでは労働者の権利保護が発達しており、上司の指示で参加するこうした夕食の時間も時間外手当の対象になるが、ベルナールは勤務時間に付けない。フランスではそうした行為自体が法令違反と看做される恐れがあるのだが、長く日本企業に勤めるベルナールは自らの意思で参加したという体裁にするのだ。彼女が重宝される理由の一つだ。
 
 最初の料理を待つ間、二人はパンを食べながら翌日の取材予定などについて話をする。二人の会話は日本語と英語のちゃんぽんだ。たまにフランス語も入る。
 
 すると、隣の席に東洋系の三人の女性がやってきた。母親と思しき世代が一人、まだ十代と思える若い女性が二人だ。
 
 ドイツ語でウェイターに飲み物を注文すると、三人はメニューを見ながら中国語で会話を始めた。大友は中国語が全く分からないが、時折、ドイツ語と英語が混じる。彼らの装いや持ち物は高価なブランド品ばかりだ。
 
 大友は鱒と子牛料理を堪能した。相当な出来栄えだったし量も多かったのに満足したのだ。
 
 やがて大友に食後のコーヒーとデザートのザッハ・トルテが運ばれてきた。ベルナールはコーヒーだけだ。しかし、大友がトルテをフォークで口に入れようとすると皿の外に思わずそれを落とした。
 
「ノードリヒ・プリンツェッスィン」というドイツ語が隣から聞こえて来たからだ。
 
「ノードリヒ・プリンツェッスィン!」
 
 心の中で大声で反芻した。ドイツ語ならお手の物の大友は驚愕したのだ。日本語なら「北のお姫様」を意味するからだ。
 
 平静を必死で装い大友は耳を澄ます。その様子をベルナールが訝ったが、大友は黙ってトルテを口に入れながらテーブルの上のスマホの録音スイッチをオンにした。収音マイクを隣に向ける。
 
 すると「レーラー・フリードリヒ」という単語と「パリ」という言葉も聞こえて来た。「レーラー」は男の先生を指すドイツ語だ。中国語がちんぷんかんぷんなのがもどかしい。
 
「音が上手く録れていますように…」

 大友は祈るような気持ちでいた。
 
 同時に、大友はタイミングを見計らって三人に話し掛けることに決めた。最近の中国人は見知らぬ相手が日本人と分かると警戒することも多いらしいが、少なくとも若い二人とは少しは会話が可能だろうと期待した。
 
「全く観光客とは思えませんね。ドイツ語が大変お上手です」
 
 三人がメイン・ディッシュを終え、皿を下げに来たウェイターと若い二人がドイツ語で会話し、デザートを依頼し終えたタイミングで大友が声を掛けた。勿論、ドイツ語だ。鎌を掛けている。大きなドラえもんのような体形で優しい口調の大友が笑顔で話し掛けると警戒する人は殆どいない。
 
「有難うございます。でも、私達は観光客ではありません。留学生なんです」
 二人の若い女性の内、やや年嵩に見える方がドイツ語で応えた。
 
「ベルンの学校ですか?」
「そうです」
「それにしても素晴らしい発音ですよ。先程の『北のお姫様』なんて地元の人と区別できませんよ。もっともそんな人が実在するとは思えませんがね。北欧の人の事ですか?」
「同級生の綽名なんです。同じアジア人なんですが、何にも知らないものだから、お姫様って…」
 
 ここで、母親と思しき女性が中国語で何か言った。明らかに警戒し始めている。
 
「いや、お食事中お邪魔しました。明日は少し暖かくなると良いですね」
 
 大友はそう言ってすぐ引き下がるとウェイターが持ってきた勘定書きを受け取った。
 
 支払いを済ませ、隣の三人に軽く会釈すると大友とベルナールは店を出た。しかし、直ぐに帰るつもりはない。大友はドイツ語が余り分からないベルナールに事情を説明しながら、尾行するのに都合の良い場所に車を移動しエンジンを切った。
 
 レストランの客用の出入り口は正面にしかなく、駐車場の出入り口はテラス席を取り囲む木々の横に一か所しかない。自分達の車で来たのか、タクシーだったのか、徒歩なのか分からないが、いずれにせよ三人が出てくれば追跡可能な、やや離れた位置に付けた。
 
 三人を尾行し、居宅と思われる場所を突き止め、明日朝以降にそこに張り込んで通学先を割り出せば学校が分かる。その後は、お姫様探しだ。
 
 ベルンの学校で学ぶアジア人、何も知らないので『お姫様』という綽名がついた…。『北の』由来までは聞き出せなかったが、北朝鮮の王朝の若者である可能性がある。
 
 暫くして三人が店を出て来て駐車場に入った。特に警戒する様子はなく尾行は簡単だった。居宅と思われる場所は車で十分程の高級アパートだ。大友はスマホの地図アプリと車のナビ両方でGPS情報を記録するとジュネーブへの帰路に就く。身の回りの物やパソコンなどをジュネーブに置きっ放しなのだ。
 
 翌日は土曜日だったが、五時半にジュネーブの宿をチェックアウトし、ベルンに向かうとベルナールに告げた。WHO調査団本隊の出発取材はカメラマンのジャン・ルカ・アルヌーに任せるつもりだ。その旨伝えるようベルナールに依頼した。
 
 ジュネーブのホテルの自室に戻るとベルンのレストランで録音した音声と事情を説明するメッセージを菜々子に送った。
 
 メッセージの最後にタイトルを打ち込んだ。
 
「デブが動けば棒に当たる?」
 
 音声の解読は北京支局に依頼した方が簡単なのは分かっていたが、菜々子も中国語は非常に良く出来る。ジュネーブは夜の十時半、日本は朝の六時半だ。大友が翌朝目覚めた頃には内容が分かっているだろうと期待していた。 

ヨガ


 「腕を伸ばして身体の後ろから上に上げながら、大きく息を吸ってください…。
 今度は息を吐きながら腕をゆっくり戻します…。
もう一度、息を大きく吸いながら、腕を上げて伸ばしてください…。
さあ、後二回、吸って―…吐いてー…」
 
 アメリカ人インストラクターのゆったりとした英語の指示に従いながら菜々子は朝のヨガを始めた。
 
 利用しているDVDとマットはワシントン駐在時に買い求めたもので、DVDのタイトルは「ビギナーの為のヨガ・モーニング編」、マットはルールー・レモンの天然ゴム製五ミリ厚である。
 
 テレビでニュースをモニターしながら朝のヨガをするのは、ここ数年、菜々子の日課になっていた。
 
 以前は、時折、外で軽いジョギングをしたりジムでトレーニングをしたのだが、外出せずに自分の家で出来る初心者向けヨガに切り換えたのだ。身支度も必要無いし、テレビ・ニュースを横目にしながら出来るのが有難かったからだ。
 
 もっとも初心者向けと言ってもヨガの内容は想像より濃いかもしれない。腹式呼吸とストレッチ、軽い筋トレを組み合わせたようなポーズや動きを時間にして四十分近く続けるのだ。半ば頃には汗がじんわりと滲み出してくる。運動量としてはスピーディーなウォーキング並みだろう。
 
「それでは、肘を伸ばして掌をマットに付けたまま、かかとを上げて足指の根元で体重を支え、お尻をぐーっと持ち上げましょう。
 犬のポーズの完成です。
 息を吸ってー膝を少し曲げてー、ゆっくり吐きながら膝を伸ばし、ゆっくりとお尻を更に上に持ち上げましょう…」
 
 大きめのロングTと七分丈のスウェットパンツ姿の菜々子が指示に従って尻を持ち上げる。そして、深呼吸するのに応じて、豊かな胸がゆっくりと上下する。次いで、両脚の裏を更に伸ばして尻を上げ、息を吐き始めると、傍らのコーヒー・テーブルの上のスマホから着信音が聞こえた。
 
 しかし、ヨガを続ける。テレビ・ニュースに特段気になるものはない。
 
 およそ四十分のDVDが終わると、菜々子は再生に使っていたアプリを閉じ、パソコンを畳む。ハンドタオルで汗を拭いながら、緑茶を入れた。朝は日本茶党なのだ。
 
 時刻は六時五十五分、チャンネルをBBCの国際放送に切り替えた。音声はサブチャンネルの英語を選ぶ。菜々子は同時通訳の日本語が好きではない。まどろっこしいからだ。
 
 BBC国際放送の日本時間七時、イギリス時間夜十時のメイン・ニュースは昨夜のWHO会見の内容を大々的に報じる。レポートするのは医療エディターという肩書の専門家だ。
 
 この記者は医師の資格を持っていると聞いている。実に詳しく丁寧に説明する。彼のような医学の知識を持つ専門記者は日本のマス・メディアにはいない。羨ましい限りだ。
 
 綺麗な深緑色の茶を飲みながら菜々子はスマホを手に取った。いつもより上手く淹れられた緑茶の滋味が身体に滲みる。ヨーグルトとリンゴも少し用意した。
 
「デブが動けば棒に当たる?」
 
「また…何を言いたいのかしら…」
 菜々子は、そう思いながら本文を読み進めた。
 
「昨夜、晩飯をベルンで食べようと思い立ち、行ってみたところ、レストランで…」
 
 大友の説明に最後まで目を通した菜々子はすぐに添付された音声ファイルを起動する。
 
「彼女の姿を最近見ないので…」
 
 音質が悪くすぐには全部聞き取れないが、非常に興味深い。大友が言うように当たったのかもしれなかった。しかし、現地はもう深夜だ。今、焦ってもしょうがない。出社してからじっくり聞くことにして、浴室に移動する。
 
 熱めのシャワーを浴びながら菜々子は考えた。
 
「北のお姫様が本物なら追う価値はある。姐さんがもたらした正恩総書記の健康問題の真相にぶち当たるかもしれないわ…でも、まずは音声を聞き取ってからね。それから考えましょう…」
 
 そう自分に言い聞かせた。
 
 シャワーを手早く終えると菜々子は全身に保湿液を塗る。髪の毛を乾かしてセットし、控え目なメイクをして、スーツに身を固めれば出社だ。この業界に長くいる女性の身支度は実に早い。菜々子も例外ではなかった。

ガラパゴス現象


  菜々子が自分のデスクに着き、社内の自動販売機で買ったコーヒーを紙コップから一口啜ると週末は九時開始の定例編集会議が間もなく始まった。本来なら休みの土曜だったが、前夜のADE株確認の方を受けて菜々子は出社したのだ。
 
 デスク・トップを立ち上げ、メールされてきた国際取材部デスクの最新の引継ぎメモを読みながら、会議の様子を聞く。
 
 最初に発言するよう指名された国際取材部の当番デスクが、前夜のWHOの発表を受けた主要各国政府の反応を説明している。どの国も。ADE株への警戒を顕にしながらも、国民に平静を呼びかけている。
 
 何度も聞いたような発言だったが、アメリカのベン大統領は、少し前に「懸念は正当だが、パニックは不要だ」という声明を出していた。
 
 次いで政治部の当番デスクが発言する。
 
「官邸筋も警戒を強めると共に冷静な対応を呼び掛ける方針を明らかにしています。間もなく官邸入りする馬淵総理がぶら下がりに応じる予定で、同様の声明を発表し、治療薬が効くこと、封じ込め作戦が今のところ順調であることを強調し、国民に平静を呼びかける見通しです…」
 
 叩き上げで苦労人の馬淵典夫総理は、機を見るのに敏で所謂寝技にも強い党人派だが、それでいて勉強熱心で政策に明るく、言語は明瞭、国民の評価は高い。
 
 政治資金集めに苦労していて自身が率いるグループの議員が少ないのが弱点だったが、国民の支持を背景に安定した政権運営を今のところ続けていた。他に頼れる者が多くなかったせいもあろうが、身内贔屓も官僚の選り好みもほとんどせず、政権運営・政策遂行を上手にコントロールしていた。
 
 かつての民主党の流れを汲む寄せ集めの与党連合内のやっかみが足を引っ張ることにいずれなるだろうとルークが心配していたのを菜々子は思い出した。
 
 編集会議の途中だったが、馬淵総理のぶら下がりのライブ映像が報道局フロアーに流れる。土曜日だったが総理も予定を変更したのだ。
 
「日本時間で昨夜、WHOの発表で、北朝鮮で新型コロナウイルスのADE株が出現したことが確認されました。
 ADE株はワクチンが効かないばかりではなく、ワクチンで出来る抗体を悪用して感染する力を強める恐れのある厄介な変異株です。万が一、我が国でこれが蔓延することになりますと、新たな感染爆発を引き起こし、大きな被害をもたらす可能性を否定できません。
 しかしながら、WHOも認めたように治療薬は有効です。また、WHOと中国が既に北朝鮮で実施しております封じ込め作戦は順調に推移しているところであります。
 政府としては既に治療薬の積み増し、検査・診療体制の増強、水際対策の強化に着手し警戒を続けております。
 国民の皆様におかれましては、これを必要以上に恐れることなく、感染予防策を講じながら、今まで通り、日々の仕事、学業に励み、生活を続けていただきたいと思っております。油断は禁物ですが、パニックになる必要はございません。正しい理解と行動をお願いする次第です」
 
 馬淵総理は、こう述べると、質問に応じることなく、執務室に向かった。これを受けて、編集会議では政治部の当番デスクが発言を続けた。
 
「総理の発言は今、お聞きになった通りです。政府は警戒を強めつつも、現時点では、それ程先行きを不安視していないということです。その根拠は総理の発言にあるように治療薬が効くことと封じ込め作戦がこれまでのところ上手く行っていることです。
 次に、WHOの発表を受けて、政治部は、メディア取材部IT班と共同で、SNSを利用した緊急世論調査を今朝六時から実施しています。
 極めて簡易的な調査ですが、現時点では、ADE株を脅威と感じ心配だと思うものの、暫くは様子を注視したいという、比較的冷静な反応が多数となっております。また、政府の対応を信頼しているという声も多くなっています。調査は十時に締め切り、まとめを昼ニュースで紹介したいと思っています」
 
 次いで、社会部の当番デスクが発言する。
 
「ADE株について、社会部はウイルス学の専門家に電話インタビューをしました。それによりますと、治療薬が効くのが大きく、やはりそれほど心配していないというお話でした。
 また、ADE株が出現した理由について、専門家は、例えばデングウイルスというADEを起こす別のウイルスと新型コロナウイルスに、ある個人もしくは中間宿主が同時に感染して、その体内でウイルスの遺伝子が混ざり合って、このADE株が出来てしまった可能性や、例えばエイズの患者など免疫の弱い人の体内で、新型コロナウイルスがいつまでも消滅せず、何千・何万もの世代に亘って増殖・複製を続けた結果、幾種類もの変異が積み重なりADE株が出来てしまった可能性、そして、最後に、北朝鮮という陸の孤島で、まるでガラパゴス諸島のように独自の特異な変異をウイルスが続けた結果、ADE株が出現した可能性、この三つのシナリオが理論上は考えられるということでした。
 しかしながら、デングウイルスは熱帯・亜熱帯に多いウイルスです。北朝鮮の気候・風土を考慮すれば、これと混ざった可能性は低い。また、北朝鮮にエイズ患者はほとんど存在しないだろうと言う推測、そして、陸の孤島状態が長年続いているという特異性を考えれば、北朝鮮で所謂ガラパゴス現象が起きた可能性が最も高いのではないかと専門家は推測しています。
 勿論、全て憶測の域を出ませんが、検査体制が不十分で、感染者のウイルスのゲノム解析もほとんどなされてこなかったのであろう北朝鮮という孤立地域では、何年にも亘って出現し続けていた目立たない変異株の存在を全く検知できず、とうとうADE株の出現に至った。そうなって初めて気づいたので、突然出現したように見えるだけで、実際には変異が積み重なって出来たと考えるのが、最も理に適うというお話でした。
 因みに、この専門家は、オミクロン株も南アフリカの何処かの孤立スポットで、似たようなガラパゴス現象の結果出現した可能性が高いと推測しています。
 電話インタビューの音声は収録済みで、昼ニュースで使用可能です。夕方ニュース向けに、現在、記者とカメラがこの専門家の元に向かっています。都内で市民の反応も取材します」
 
 続いて、経済部デスクが発言する。
 
「ADE株出現確認を受けて、現地金曜のニューヨーク市場のダウ平均はやや下げました。飲食・旅行・運輸関連株がかなり値を下げた一方、医薬・医療品メーカーの株は上がっています。その他は余り動いていません。マーケットも様子見状態と言えるかもしれません。
 昼ニュースでは市場関係者のインタビューとニューヨーク市場から中継レポートを準備しています」
 
「ADE株について、その他発言はありますか?」
 週末担当の編集長が尋ねた。
「無いようですので、その他のニュースを紹介してください。それではネット連絡部から…」
 
 メトロポリタン放送とネットワークを形成する日本各地の放送局のニュースを取りまとめる連絡部デスクは北海道などの大雪と関西で起きた大きな交通事故のニュースを紹介する。
 
 昼ニュースは、当然だが、ADE株関連ニュースを大々的に扱うことになる。
 

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
本連載の複製・蓄積・引用・転載・頒布・販売・出版・翻訳・送信・展示等一切の利用を禁じます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?