20XX年のゴッチャ その109

査察


 
 平壌の北方およそ八十キロメートルの地に寧辺はある。

 五メガワットの黒鉛原子炉や実験用軽水炉、放射線科学研究所などの北朝鮮の核開発関連施設が集中していて、ウランの濃縮施設もある。北朝鮮政府がIAEAに査察を認めたのは、この一帯にある施設だ。

 査察団一行は近くに用意された宿舎に到着すると資材の確認作業に当たる。出来れば現場の下見もしたいところだったが、全員、これからPCR検査を受けなければならない。派遣が決まってから治療薬の予防服用を既に開始し検査を毎日受けているが、時節柄やむを得ない。この日の検査で全員陰性であれば、隔離期間無しで翌日から特例で活動を開始することが認められていた。

 北朝鮮政府がその気になれば、なんだかんだと難癖をつけて査察団の活動を遅らせることは出来たし、過去にそうしたケースは珍しいことでは無かったが、今回に関して妨害は無かった。

「北朝鮮も査察の開始を早く世界に喧伝したいのだろうな…」

 IAEAのベテラン査察官・高橋達彦はそう感じていた。

 核開発の凍結と査察の受け入れを北朝鮮側から言い出した以上、それは不思議でも何でもなかった。最高指導部の決定で受け入れた査察を現場レベルの独断で邪魔をすることなどあり得ない。今のところ、北朝鮮の対応に欺瞞は感じられなかった。

 一般的に査察と一言で括られることが多いIAEAの活動は、正式には保障措置と呼ばれる。担当部局の正式名も査察局ではなく保障措置局だ。その活動内容は実に多岐に亘り、かつ、厳密に規定されているが、大雑把に言って、核施設の帳簿や核物質の計量検査、査察官による立ち入り検査、封印、監視がある。

 ただ、肝心なのは査察を受ける側の誠意であった。

 北朝鮮政府がこれまでの核関連活動の全てを正直に申告し、査察団の活動に全面的・徹底的に協力すれば、直ちに核の全面廃棄に繋がらなくとも脅威は大幅に減じる。しかし、北朝鮮が正直な申告をし、査察に全面的に協力したことは過去に無い。

 北朝鮮は寧辺の五メガワット原子炉や実験用軽水炉で製造したプルトニウムを放射線科学研究所で使用済み燃料棒から抽出し、既に少なくとも数十キロを隠し持っている。また、寧辺以外の、もしかすると複数個所の地下に建設したウラン濃縮施設で兵器級のウランを製造し相当量を隠匿、どちらも兵器化を済ませ、一部は配備しているのだろうと、世界の大方と同様に高橋らも疑っていた。

 故に、寧辺の活動を凍結したところで、北朝鮮にとってはもはや痛くも痒くもない。それにいざとなれば、かつてやったのと同じように査察団を追放し、活動を再開することも出来る。

 それでも査察を通じて、寧辺の凍結を維持できれば、少なくとも新たなプルトニウムの製造を阻止することは出来る。兵器級高濃縮ウランの製造と異なり、プルトニウムの製造に必要な原子炉の建設と稼働を隠れて実施することは出来ないからだ。北朝鮮で運転可能な原子炉は寧辺以外にはない。

 寧辺での査察が、他の場所での核開発の隠れ蓑に使われる恐れや、ただ単に援助を引き出す為の口実、或いは時間稼ぎの口実に使われる恐れを査察団一行は充分に認識していた。

「自分達は与えられた任務を粛々と遂行するのみだ」
 高橋らは全員そう肝に銘じていた。
「俺たちは査察官さ。それ以上でなければそれ以下でもないのさ」

 その先は米朝交渉次第ということも当然分かっていた。

 朝鮮中央放送は、IAEA査察団平壌到着の模様を正午のニュースのトップで伝えた。

「北朝鮮の核関連施設への国際査察がいよいよ始まります」

 メトロポリタン放送の午後のワイドショーも専門家を交えて、これを大々的に報じた。事実関係を簡単に伝えた後、番組は今後の問題点をテーマにトークを展開する。

「査察が開始されたからといって、これが直ちに完全な核廃棄に繋がる可能性はゼロと考えて良いと思います。ただ、始めの一歩として意味はあります。長い間、北朝鮮がほぼ自由に核開発を続けていたのに比べれば、マシな状況と言えると思います」

「すると今後の焦点は?」

「勿論、査察活動が順調に進むかどうかということもありますが、それよりも、まだ発表はありませんが、今後開始されると思われる米朝交渉がどこまで進展するかでしょうね。個人的には全く楽観していませんし、多くの方も同じだと思いますが、全ては交渉次第になると思います」

 外交評論家の簗瀬衛が解説した。

「素朴な疑問なのですか、そうしますと、私達日本人が枕を高くして眠れる日は来るのでしょうか?」

「それは難しい問題ですよね。まず何をもって枕を高くして眠れると言うのかという点を考えてみますと、これまでのところ、北朝鮮の核の脅威は年々高まるばかりなのは事実ですが、現実には彼らが核を使って我が国を攻撃するような事態には至っていないわけです。アメリカによる抑止は間違いなく効いているのです。同時に制裁等による封じ込めも一定程度効果を上げていて、彼らが対外的にそれこそ好き勝手にやることも基本的には防げているのです。
 実際、北朝鮮の核攻撃が心配で夜も眠れないという日本人はまず居ないですよね。攻撃されるのが心配で眠れぬ夜を過ごすのはむしろ北朝鮮の最高指導部ではないでしょうかね…」

「しかし、考えると先行きはやはり不安になりますよね。その、何て言ったら良いのでしょうか…ある種の恐怖の均衡めいたものがいつまで続くのでしょうかね?」

「その恐怖の均衡という部分に立ち入りますと、核抑止論の専門的な話になりますので避けますけれど、アメリカで一時、主にジョージ・W・ブッシュ政権時代の事ですが、レジーム・チェンジという言葉が流行ったことがあります。
 体制変換を意味しますが、要は、北朝鮮の現政権を崩壊させて新しい政権の下で核廃棄を図るという論法なのですが、これは全面戦争を覚悟しない限り非現実的ですし、仮に、それが出来たとしても、朝鮮半島引いては東アジアが大混乱に陥り、多数の犠牲者といいますか被害者が出るのをどうやって防ぐのか、核兵器や技術の流出をどうやって防ぐのか等新たな難題が幾つも生じます。今よりも却って酷い状況に陥る恐れがある訳です。つまり、その路線を強行して軟着陸させるのは至難の業なのです。
 そこで代わって出てきたのが、ビヘイビアー・チェンジという言葉です。北朝鮮に態度を全面的に改めてもらうという意味です。対話と圧力、そして十分な抑止力を維持し、北朝鮮政府が態度を変えざるを得ない状況を作り出していくということですが、大雑把に言って、現在はこの路線を歩んでいると言っても良いでしょうね」

「それが実現するのはいつの事でしょうか?というより実現可能なんでしょうか?」

「うーん、いつになるか、実現可能なのかとなるとどちらも非常に難しいとしか申し上げようがありません。ただね、あくまでも頭の体操として申し上げますとね、例えば…、国際的な枠組みを作って北朝鮮の安全を保障する、そして、核の全面廃棄を目指すという案が無い訳ではありません。しかし、ウクライナがソヴィエト崩壊後、自国の独立の保障と引き換えに国内の核戦力の放棄に応じたのに、プーチン政権はこれを反故にして侵攻しました。北朝鮮は自分達の体制維持に核は不可欠とますます思い込んでいるはずです。ですので、これも実現は難しいでしょう。
 そこで、代わりに、と言いますか、仮に、北朝鮮が他国を攻撃する程のレベルではないけれども、自国を守る為の最低限のレベルの核を持つのを容認するということも、あくまでも理論上に過ぎませんが、あり得ると思います。
 しかし、これですと、例えば日本の世論が納得するのか、数々の人権侵害を続けて来た独裁政権の体制保証をアメリカの世論が容認するのか、更には、我々にとっても他人事ではありませんが、現在の米中対決が続く中で、このような枠組みを中国が容認するのかという別の大問題が生じます。ロシアも横槍を入れてくる可能性があります。やはり簡単ではありませんね」

「国際保証で核の脅威を無くすですか?夢物語にしか聞こえませんが…」

「現時点ではそうでしょうね。ただね、夢物語のついでにもう一つ申し上げますと、かつて、韓国のある外交官が私にこう言ったことがあります。『北朝鮮の完全核廃棄は中国の完全民主化が達成された後になると思いますよ。中国が先です』とね。つまり、中国が民主化を果たし、北朝鮮の民主化も望むようにならない限り、北の核の脅威は無くならないだろうという悲しい見通しを語っていたのです。
 これは私達が生きている間は勿論、子や孫の代になっても夢物語のままかもしれませんね。ただ、それ位長いスパンで我々日本も気を緩めずに対応し続けないといけないということなのだと思います」

「うーむ…悲しい現実を一層痛感致しました。有難うございました」
 
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これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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