オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その69

 

生温いスープ


 
「丹東のホテルの部屋の窓から見える中朝国境の往来に特に変化は感じられない。新華社などの報道でも封じ込め作戦は開始以来順調ということで何よりだ。
 この町の郊外で発生したADE株の小規模クラスター接触者に新たな陽性者は見つかっていないという。
 昨夜、CCTV・中国中央放送は封じ込め作戦に従事する中国側要員のインタビューを報じたが、誰もが『特に不安は無く、任務に集中していて、作戦の成功を確信している』と一様に自信を深めていた。
 もしも、その通りになるとすれば、長くとも後一か月程度で記者の取材も終わり、缶詰生活から解放され、自由の身になれると期待している」
 
 翌日曜日の朝、戸山特派員の日誌第二弾がメトロポリタン放送のニュース・ウェブに掲載された。
 
「話は逸れるが、前回の記事で、缶詰生活で有り余る時間を潰す為、時折、将棋のネット対局をやっていると書いた。すると有難いことに、暇潰しのお相手をして下さるという申し出を数人の方から頂いた。御礼申し上げたい。
 暖かいお申し出には心より感謝する他ないが、生憎、記者の腕前は初級者レベルに毛の生えた程度で、いつまで経っても初段の壁を越えられない。また、最後まで対局を続けられるという保証もないので、ご迷惑をお掛けしない為にも対局は遠慮申し上げている。ご容赦頂きたい。
 では、誰と対局しているのだと問われれば、会社の先輩にアマ三段レベルの有段者が居て、昨日もちょっとお相手をして頂いた。結果は御想像の通り完敗であった…」
 
 その後も対局の話が暫く続いた。
 
「何だか、缶詰取材日記だか丹東将棋日記だか分からなくなって来たわね。でも、仕事を疎かにしているわけではないし、気晴らしになるなら、まあ良いかしら…」
 
 記事を読んだ菜々子は思った。
 
 菜々子には将棋のルールさえ良く分からない。なので、将棋ファンが全国に推定五百万から六百万人もいることも知らない。しかし、愛棋家の間で戸山の記事が少しでも注目を集めるのならば、それは悪いことでは無い。愚痴のオンパレードになるより遥かにマシだ。
 
 自分でゆっくりと時間をかけて淹れた遅い朝の緑茶を飲みながら、菜々子は、既に一度読んだ大友からの報告に再び目を通した。休診中の肝臓外科医の存在がやはり気になる。
 
 肝臓病の事は詳しく分からないが、外科医と内科医では役回りがかなり異なるであろうことは想像がつく。
 
 友人の専門医に詳しく話を訊いてくれるというルークからの連絡次第ではマークする対象を更に絞り込めるかも知れない。そう期待しながら、菜々子は大友への返信をスマホに打ち始めた。
 
「お疲れ様です。四人まで絞り込めたのは良かったです。ご苦労様。取り敢えず、明日は提案通りロケハンして貰いたいと思いますが、休息時間も出来るだけ確保して下さい。
 月曜には封じ込め作戦開始から二週間になる筈です。会見があるかもしれないので、そちらの方のカバーも抜かりなくお願いします。山瀬とカメラマンだけをまた派遣するのも有りだと思います。よろしくお願いします」
 
 メッセージを発信すると菜々子はヨガの支度を始めた。誰に見せるわけでもないが、専用ウエアに着替える。見事な曲線美が顕になる。
 
 本当は太田と会いたいのだが、彼は生憎出張中だ。小一時間程、ゆっくりとヨガをして、浴槽に浸かり、朝昼兼用の食事を自炊するつもりだった。
 
 
 日本時間その日の夕方、現地時間の朝、大友はいつもよりややゆっくり、しかし、週末としては早く起きてダイエット食を食べ、自宅近くの公園で娘と少し遊んでから、山瀬をホテルに迎えに行った。
 
 マーク対象の自宅住所が割れていれば早朝から張り込むのだが、それは判明していなかった。個人クリニックと一部の職場を見に行くだけなら、そんなに早くから動く必要を感じなかったのである。どのみち日曜だったからでもある。
 
 ベルナールとアルヌーにはこの日は完全に休んでもらうことにしていた。現地スタッフにこれ以上超過勤務が続くとフランスの法令上、非常に大きな問題になり得るので、それへの配慮もあった。
 
 こういう時は、本社から派遣された特派員が動くしかない。どうしても人手が必要ならばフリーランスを雇うのが通常であったが、今回のロケハンでその必要は無い。スマホのナビ・アプリを使えば案内役も不要だ。
 
 天候はこの時期としては悪くない。温かくなり始めるのはもう少し先だが、底冷えはもうしない。大友は山瀬と昼食を摂ってから、地下鉄を使い、残りは脚でロケハンをするつもりだった。
 
「やっぱり天麩羅カレー饂飩にしよう」
「大盛で?」
「いや、今日は普通で」
 大友のオーダーを聞いて、店員が珍しそうな顔をした。次いで山瀬を見る。
「私も同じものをお願いします」
 
 ここはルーブル美術館近くの路地裏に店を構える饂飩屋だった。
 
「並みで足りるんですか?」
 山瀬が尋ねた。
 
「うん、まあね。いつもなら大盛を頼むんだけど、今日はカフェでおやつの時間もあるだろうから。それに、ここの饂飩はフランス人向けにもなっているから結構量は多いんだ。ま、取り敢えず大丈夫さ」
「そうですか…。ロンドンにも饂飩屋は何軒かあるんですが、日本人が調理している専門店を私は知らないですね。ここの調理場は見る限り日本人が三人もいますよね。楽しみです」
 山瀬が言った。
 
 欧州のフランスやイギリスで日本の饂飩のプチ・ブームがやってきて久しいが、日本人の日本人による日本人の為の饂飩専門店は大友も他に知らなかった。
 
 一般的な日本料理店で饂飩も置いてある店なら昔からあるが、そういう店の麺は出来合いだ。腰の強い自家製麺と熱々の出汁の両方を売りにしている店は此処だけだと大友は思っている。
 
 大きな丼が運ばれてきた。
 
 カレー味のたっぷりとした出汁の中に、確かに多めのつやつやの麺、その上に中ぶりの海老天を四個乗せ、青葱を散らしてある。
 
 山瀬がスープをレンゲで一口飲み、言った。
 
「いいですねー、この熱々、ロンドンの店ではこうは行きません」
 そう言って麺を豪快に啜る。
 
「そうだよね。日本人が作っていないとこうはいかないもんね」
 大友が応え、啜った。
 
 実は、欧州の饂飩屋やラーメン屋では出汁やスープの温度をわざわざ下げて提供する店が殆どなのだ。何故ならば、日本のように熱々の汁物を摂る習慣が欧米には基本的に無いからだ。スープやシチューはあくまでも温かい食べ物であって熱々で食すものではない。
 
 饂飩やラーメンを日本流に熱々にして出すと、欧米人は、ほぼ例外なく、十分に冷めるまで食べようとしない。結果的に時間が掛かって麺は伸びるし、回転が悪くなって困るのだ。それに中には火傷をするだろうと文句を言う客も出て来る。だから現地に馴染もうとする店はわざわざ生温い出汁やスープで麺を提供するようになるのだ。
 
一般の日本料理店でも欧米人客には味噌汁を生温いまま出したり、それさえも子供の前には置かないというところは多い。欧米あるあるの一つだ。
 
「ほんと、生温いのには閉口します。味わいが半減しますよね。ここのはありがたいっすよ」
 山瀬がそう言って、また豪快に麺を啜った。
 
「ルーク・ウォームは嫌だよね…」
 
 大友がそうぽつりと同意すると山瀬がニヤとした。大友は「ルークな仕事をするんじゃねえぞ」というかつての鬼上司の叱咤を思い出していた。
 
急いで残りを食べ終えると大友は席を立ち、山瀬に言った。
 
「さあ、出掛けようか。仕事にさ」
 
 やはり元の鬼上司の事を思い出した山瀬が黙って後を追った。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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