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20XX年のゴッチャ その37

 移植手術
 
 本編割愛し、先を急ぐ

 ミーハー専門家

 その日の夜、夕方の放送を終えた菜々子がオーフ・ザ・レコードに赴くと先客が二人いた。やけに明るい話声が店内に響いている。一人は桃子、もう一人はウイルス学者の道明寺昭彦・東曙大学医学部名誉教授だった。
 
「あら、道明寺先生、お久しぶりです。お元気そうですね」
 ルークと桃子に黙礼した菜々子が話かけると道明寺は嬉しそうに応じた。
「こちらこそご無沙汰です。相変わらず宮澤さんはお綺麗ですね。お目に掛れて光栄至極です。嬉しくなりますよ」
 その真面目そうな見かけにも拘わらずミーハーで鳴る道明寺は臆面もなく言い放った。美人には目がないのだ。
「あら、有難うございます」
 この程度のお追従なら菜々子は慣れている。
 
「北京はどうだった?知り合いの皆さんにはお変りなかったかな?」
 ルークが尋ねた。道明寺が居るので、はっきりとネタ元達とはルークは言わなかったが、菜々子に意は通じる。
「ゆっくり話すチャンスは無かったんですけれど、大きな変化はないみたいです」
「それは何よりだね」
 機微に亘る話は出来ない。
 
「それにしても新型コロナは厄介ですね」
 桃子が話を変える。
「本当に面倒なウイルスだね。先生はどう考えているの?」
 ルークは道明寺を先生と呼び掛けたが、実際には十代の頃からの友人だ。普段は俺とお前の関係なのだ。
 
 道明寺が応える。
「甲斐君には何度か言ったと思うけれど、この新型コロナウイルスは蝙蝠コロナウイルスからヒト・コロナウイルスに進化する途上なんですよ。もっとも、それもほぼ終わっていると言って良いと思いますがね」
 道明寺は感染症学科の名誉教授だが、彼自身の専門はウイルス学、特にエイズ・ウイルスの研究である。
「別の言い方をするとね、蝙蝠と共存していたコロナウイルスが、ひょんなことからヒトに感染するようになったけれど、最初はヒトとの共存が、彼らから見れば上手く出来ずに宿主となるヒトを結構死なせてしまっていたわけです。初期の武漢株は特にそうで、ヒトへの感染もそんなに上手く出来なかったんです。それが変異の度に、感染力の強い株がより感染力の低いその他の株を駆逐して広まり、また、より感染力の強い株が出現すると、既存株を駆逐して…、というのを繰り返しているのです。つまり、ヒトとの共存が出来るようなヒト・コロナウイルスに進化しているのですよ。その方がウイルスの生存にとって断然有利だからなんです」
 
「確かにね。ヒトに普通は風邪症状しか起こさないヒト・コロナウイルスは四種類だったっけ?」
 ルークが問う。
「そう、四種類。それにアデノウイルスの仲間も風邪ウイルスとして我々と共存しているし、インフルエンザも、症状はきついけれどヒトと共存しているよね。でも、健常な人間なら死なないという点では似ているでしょ?」
「新型ウイルスもそうなるということですか?」
 菜々子が尋ねた。
「そうなんだけれど、どちらかというと、もうほぼそうなっていると言って良いんじゃないかな。だって、考えても分かると思うけれど、我々四人は、今、こうして、一緒に酒席にいるよね。アルコール消毒はするし、寒いのに窓を少し開けて換気はしているけれど、マスクはしていない。ワクチンはとうに接種済みだし治療薬もあるから安心なんだけれど、既に共存し始めているからなんですよ。実際、殆どの健常な人は無症状か風邪症状で収まるでしょう?」
 
「それでも亡くなる人はいますでしょ?」
 今度は桃子が問う。
「それはそうです、普通の風邪だって拗らせると抵抗力の弱いお年寄りや基礎疾患のある人は亡くなってしまう。それはもう他の先進国でも似たようなものです。インフルエンザでも日本では多い年で一万人が亡くなりました。そのインフルエンザにもワクチンと治療薬が出来て死者は減りましたが、それでも運が悪いと亡くなります。それに比べれば、新型コロナの死者は、今や日本では遥かに少ないです。もう共存しちゃっているという事実を人間の方も受け入れるべきでしょう。ただし、はっきりしているのは死者ゼロには決してならないという事です。SARSもコロナウイルスですが、毒性が強すぎてヒトと共存できず消え去っているけれど、今回の新型コロナはもう共存フェイズに入っているんですよ。
 現在問題のADE株も、危険であることを否定するつもりは無いけれど、それだけ危険ならば人間はやっきになって感染を防ごうとします。検査や治療をどんどんやって。だから、他の共存可能な株よりADE株が新型コロナウイルスの世界で優位に立って既存株を駆逐してしまう可能性はほとんど無いと考えて良いと思いますよ。
 油断は禁物ですが、封じ込め作戦が進めば、遠からず駆逐されると私は楽観しています。こんなこと、放送では言えませんけれどね」
 
「成る程ねぇー、道明寺がいう事は最初からずっと一貫しているね。いずれそのうち共存することになるってね」
「今のところ、その通りでしょ?ま、これを大声で言うのはADE株がどうなるか、もうちょっと先を見てからにするけれどね」
 
「そうなると良いんですけれど、暫くは心配ですね」
 桃子が言うと、道明寺はこう応じた。
「ま、大丈夫でしょ。治療薬は効くんだし。製薬会社も新しい金儲けのタネが出来た訳でしゃかりきになってADE株対応のワクチンを作るはずです。何とかなりますよ」
 道明寺はここでも明るい。
「ADE株は兎も角として、既存の新型コロナに罹っても普通は風邪程度で快癒して、弱毒性の生ワクチンを打ったのと同じになるんですよ。それでもお年寄り始め免疫機能の弱い人はワクチンを打った方が良いと思いますが、健常な人にはどうってこと無い風邪ウイルスにもうほとんどなっていると考えて差し支えないと思いますよ」
 
「それで皆が安心できると良いのですが…」
 菜々子が言うと、道明寺は菜々子の肩を軽く叩き、こう言った。
「もうすぐまたそうなりますよ。ADE株次第という条件付きですがね」
 
「さて、飯にするでしょ?今夜のメニューはトマトとモッツアレーラとバジルのサラダ、鶏と蕪のクリーム・シチュー、ガーリック・トーストさ。少し準備するから先にサラダを食べていて」
「頂きます」
 
 女性二人が声を揃えるとルークは冷蔵庫から取り出したサラダを盛り付ける。一口大に切り揃えたトマトとモッツアレーラ、多めの刻んだバジルがドレッシングで満遍なく和えてある。三人はキンキンに冷やした白ワインと共に食す。
 
「最高ですね。本当に美味しい」
 菜々子が嘆息した。北京ではなかなかお目に掛れない味だ。ドレッシングはヴァージン・オリーブオイルと酢、塩だけなのだが、ルークの奥方の塩梅はいつも抜群なのだ。
 
「味の決め手は訊かれても応えられないよ。ドレッシングと和えるだけなんだが、特に女房の塩加減はセンスとしか言いようがないからさ」
 シチューとガーリック・トーストを準備しながらルークが背中越しに言った。
 
 三人は中国の科学研究の話題で盛り上がる。道明寺は北京で暮らしたことは無いが、かの国の研究者達と交流があった。ウイルス学の世界でも中国に睨まれると面倒だと、大分前の事だが、ルークにボヤいたことがある。資金力が違うのだ。
 
「それにしても新型コロナの起源ははっきりしないままですよね。先生はどうお考えですか?」
 桃子が尋ねた。
「中国の何処かで、ま、多分、武漢で、蝙蝠コロナウイルスがヒトに感染するようになったのは間違いないと思いますがね。それが、何処から来た蝙蝠ウイルスで、中間宿主は居たのか、直接だったのか、など詳しいことは永遠に謎のままかもしれませんね。ただ、今となっては、余り意味のあることでは無いかもしれませんね。もうこんなに広まってしまっていますから。学術研究として起源を探る人はいるでしょうが、仮に分かったところで、新型コロナウイルス対策に役に立つとは思えませんね」
「でも、次にまた出てくるのを防ぐという意味では役立ちませんか?」
 菜々子が尋ねた。
「それはそうかも知れませんね。どの蝙蝠がより危険か分かれば、どんな蛇がどんな毒を持っているか知っておくと役立つのと同じようにね。でも、蝙蝠に関わる研究をする時は須らく厳重警戒すべしというだけでも十分かもしれませんね。まさか、ありとあらゆる蝙蝠を駆逐する訳にはいきませんし、仮に中間宿主が判明したところで同じですね。それより、mRNAワクチンならかなり早く作れて役に立つ、三密を避けたり、マスクをして手指消毒を徹底すれば、そんなに移ることは無い、という教訓の方が現実社会では有効でしょう」
「それはそうですね」
 菜々子が頷く。
「でも、いつまでもマスク、消毒徹底なんてやり続けると、そんな環境しか知らない人間の抵抗力は強くなりませんよ。例えば、風邪引いて、治って、お腹を壊して、治って、というのを小さい時から繰り返すから、ヒトの身体は少しずつ抵抗力を身に着けていく訳で、それを忘れてしまったら人類は弱くなってしまいますよ。免疫機能を鍛えるのも必要なんです」
「成る程」
 桃子が相槌を打つ。
「だから、いつまでも必要以上に神経質でいるのは考えものなんです。僕なんか、ADE株は嫌ですが、最近のヒトに慣れた株なら罹っても良い、むしろ歓迎したいと思っているくらいですよ」
 
「はい、お待ち」
 ルークがシチューとガーリック・トーストを並べながら言った。
「反ワクチン派と似たようなことを言っているね」
「そんなことはありませんよー。僕だって武漢株に罹る危険があるならワクチンの方が良いし、今の変異株だって、お年寄りなどはワクチンを打った方が良いと思っていますから」
 
「蕪が柔らかくて、味が染みて美味しいです。この蕪なら大歓迎ですー」
 先に一口食べた菜々子がおどけながら言った。
「それは、その通り。僕も頂きます」
「頂きます」
 三人は熱々のシチューとガーリック・トーストに集中し始めた。
 
 食事を終え、道明寺が手洗いに立った隙に桃子が囁いた。
「国情は正恩の体調は相当悪い可能性があると見ています。取材をしっかり続けた方が良さそうですよ」
 
 ルークと菜々子が顔を見合わせた。
 
「分かりました。姐さん、有難うございます」
 菜々子が謝意を示す。
「封じ込めが順調なら、そっちの話の方が大きくなるかもな。アンテナを思い切り伸ばすんだね。俺もそうするよ」
 ルークが重ねた。
 
 道明寺が戻ってきた。もうこの話を続ける訳にはいかない。ルークは新しいボトルを開け三人に注いだ。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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