オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その116

ウェディング・ドレス


 
「ねえ、パパ、ごっちゃは出来ないの?」
 
 もうすっかり春めいている四連休の土曜日、パリの大友雄二は久しぶりに妻と娘と共に自宅近くの公園に行った。
 
「アイちゃん、パパはまだ元気じゃないのよ。今日は我慢して頂戴ね」
 
 事情を良く理解していない娘が無邪気にねだったが、妻がやさしく制止した。
 
「ごめんね、そうだ、パパは見ていてあげるからママと鬼ごっこをしたら?」
「じゃあ、ママが鬼ね、十数えてよ」
「はい。じゃあ、いーち、にーい…」
「きゃはははー」

 娘が嬌声を上げ走り出した。大友は生きていて良かったとつくづく実感した。体調は落ち着いている。相変わらず空腹には悩まされていたが、それにも大分慣れた。今は療養に専念するしかない。
 
「もう潮時かなア…」
 
 記者の仕事は激務だ。特に海外特派員は代わりが居ないケースが殆どで、体力と気力が絶対的に不可欠なのだ。
 
「動けないデブは役に立たないからね…」
 
 大友は自堕落な食生活を心から反省していた。
 
 あれからジュネーブに行きっぱなしのロンドン支局長・山瀬孝則はレマン湖の畔をジョギングしていた。
 
 冷蔵庫のようながっしりした体型からゾウさんと呼ばれるようになって久しいが、最近はあちこちが緩んできて、若い頃と比べるとかなり膨らんでいる。大友のような目に遭わない為にも、酒量を減らし、せいぜいエクササイズに励むことにしたのだ。
 
 ADE株対策は二度の飛び火こそあったが、全体としては順調だ。だが、自分が倒れてしまっては話にならない。月曜には米朝交渉も始まる。少しでも暇な時間を見つけたら運動するよう心掛けていた。

 
 
 土曜日、昼近くまで熟睡した菜々子は、朝昼兼用の簡単な食事を済ませ、もう一休みすると、この日の夕食に手料理を太田に振る舞った。
 
 疲れもあり、手の込んだ物を用意することは出来なかったが、ホタテのソテーを添えた春野菜のサラダにシラスと春キャベツのスパゲッティーニを作った。
 
「火の通し具合と塩加減が最高だよ。これなら店でも出せるよ。素晴らしいね」
 
 キンキンに冷やした白ワインで口を潤しながら太田は褒めちぎった。ワインは手頃なチリ産だ。
 
「有難うございます。何だか上手く出来たみたいで、自分でも美味しいです」
 
「あのね…」
「はい」
「今年の夏にワシントンに異動になりそうなんだ。大使館の経済班に」
「あら、それはおめでとうございます。良かったです、あの変な話は影響しなかったんですね」
 
 外交官という職業を考えれば太田にとっては順調な異動だ。菜々子の想定に入っていなかった訳ではない。
 
「付いて来て欲しいとは言えないのは分かっている。だから、入籍したら、身内と極親しい人達を招いて簡単なお披露目みたいなことをと思うんだけれど、どうだろうか?」
 
「勿論、それで良いと思いますが…」
 菜々子はその先を口籠った。
「ん…」
 太田が一呼吸置いて言った。
「やっぱりウェディング・ドレスを着たい?」
「…はい、出来れば…お願いしたいと思っています」
 
 菜々子もかつてはお姫様を夢見る女の子だったのだ。
 
「分かった。では、そうしよう。入籍した後、何処か都内の教会で式を挙げて、身内だけにでもお披露目をしよう」
 
「有難うございます」
 
 菜々子の胸が高鳴る。
 
「早速だけれど、教会と衣装の手配は君に任せても良いかな?食事の場所は僕が手配するよ。招待客はそれぞれまあ20人程度までのリストを作って、人数を擦り合わせるとして、まず、式の日取りをどうするか…梅雨入り前の5月の週末にしようか?」
「はい、それなら私の方は日程を合わせます」
「じゃあ、近場の教会のアベイラビリティーを調べてくれるかい?もうほとんど一杯かも知れないから、日程は教会に合わせて決めよう」
 
 菜々子は自分が卒業したミッション・スクールの教会に当たることにした。出身校とはいえ教会での式はそう易々とは請けて貰えないと聞いているが、菜々子は子供の頃に洗礼を受けたクリスチャンだった。信心深い方とは言えなかったが、多分、大丈夫だろうと考えていた。
 

米朝協議

 
 
 週明け月曜日、菜々子は支度を終え、羽田空港に向かっていた。自宅から品川駅までタクシーに乗れば7~8分、駅から京急の直通電車に乗ればあっという間だ。ラスボスのお供をこの時期にするのは正直気が重かったが、少なくとも合流するまでは来るべき結婚式の事を考えるようにした。
 
 前日の日曜日に、菜々子は太田を急き立て、母校の教会の朝の礼拝に共に出席した。一連のお祈りや説教が讃美歌で締めくくられると菜々子は恩師の一人でもある牧師に挨拶に行ったのだ。菜々子はその師が担当しているキリスト教概論の授業にはしっかり出席したし、中学・高校時代は朝礼代わりの礼拝にずっと通っていた。
 
「先生、大変ご無沙汰しております。宮澤です」
 
 菜々子がそう挨拶すると片岡康弘師は少し驚いた様子だったが、優しい笑みを浮かべた。
 
「やあ、宮澤さん、久しぶりですね。今日はまたどんなご用向きですかな?」
 
 片岡師は菜々子の後ろに立つ太田を認めて、そう言った。中学時代から美人で有名だった菜々子の事を覚えていたのだ。菜々子がクリスチャンであることも。
 
「あの、先生、こちらは太田博一さんです。今度、結婚することになりました。それでご挨拶がてらご紹介させて頂こうと思いまして…」
「あー、そうですか。それは誠におめでとうございます。すると、こちらで神への誓いを立てたいということですね?」
「すいません、ご無沙汰してばかりなのにお願いに上がりました」
「他でもない宮澤さんの頼みとあればお断りする理由はありませんね。どうぞ事務所へ。お忙しいでしょうから、日程の調整を早速致しましょう」
 
 結局、ほぼ希望通り、5月第三週と第4週の週末にそれぞれ一枠ずつ空きがあり、両方とも仮押さえすることが出来たのだ。家族とも相談の上、一週間以内に確定させることにした。
 
 ダーク・グレーのスーツ姿で小さな旅行鞄を持った菜々子は、電車に揺られながら、片岡師の笑顔と柄にもなく緊張した面持ちの太田を思い出していた。お供の面倒臭さがそれ程気にならなくなった。
 
 空港に着くと先にチェック・インを済ませ、打ち合わせ通り、カウンターでラスボスの到着を待つ。加藤報道局長なら必ずそうするだろう車両の到着口までの出迎えには行かない。北山が同行しているからだ。
 
「お早うございます。お疲れ様です」
 
 代表の姿を認めると菜々子は少し歩み寄り挨拶した。
 
「お早う、宮澤さん、わざわざの同行、ご苦労様です」
 
 代表は笑顔を浮かべ、いつもの力強い声で言った。すぐ後ろにはスーツ・ケースを二つ持ち、リュックを背負った北山が続く。僅か一泊二日の出張にしては大荷物だ。きっと土産物類で一杯なのだろうと菜々子は想像した。
 
「宮澤さん、宮澤さんが王鶴さんに最後にお目に掛ったのはいつですかね?」
 
 二人がチェック・インを済ませ三人でセキュリティー・ゲートに向かう途中、代表が尋ねた。親しげに菜々子さんと呼ばれることの方が多かったのを菜々子は思い出した。今日はそうではない。表情はにこやかだが目は笑っていない。
 
「もう随分前に記者会見でお目に掛ったのが最後です。ほんの少しだけ個別にご挨拶したのは王政治局委員が外相をなさっていた頃の何かのレセプションの席が最後かと思います」
「そうですか…中々大変ですね。お偉くなりましたからね」
 
 代表はそう言うとファースト・クラス専用レーンに入って行った。
 
「では後程」
 
 北山がそう言ってそそくさと後に続いた。
 
 菜々子は自分もセキュリティー・ゲートと出国審査を抜けると何とか二人に追いつく。ラウンジは同じだ。
 
 ソファに座ると北山が三人分のコーヒーとクロワッサンなどを取り揃え、テーブルに置いた。代表はコーヒーをブラックのまま一口飲むと尋ねた。
 
「王鶴さんのご用向きは何か見当は付きますか?」
「すいません。それが良く…岩岡さんもはっきりしないとおっしゃっていました」
「そうですか…」
「ただ…」
 代表がコーヒーをもう一口啜り菜々子を見る。
「上手くその先に繋がればと…」
「そうですね。その先が大事です。その先がね」
 
 代表が強調した。菜々子は軽く一礼する。
 
「さあ、クロワッサンでも如何ですか?」
 
 菜々子と北山に勧めるが自分は手を付けない。食事には大変気を遣っているのだ。
 
「頂きます」
 
 菜々子と北山はそう言うと手を伸ばした。少し胸騒ぎがし始めた菜々子には余り味が感じられなかった。
 
 その暫く後、ソウル便のラウンジにピンクのシャツにライト・ブルーに金とグレーの縞模様のネクタイを締めた矢吹の姿があった。朝、会社に顔を出し、事務処理をテキパキと済ませた後、やって来たのだ。
 
 ソウルは更に近い。その気になれば日帰りも不可能ではなかった。矢吹は翌朝には帰国し、会社に向かう予定だった。問題は呑み過ぎだけだったが、今の時代になってもソウルでそれを避けるのは不可能に近かった。それ故、週末は酒を断っていた。
 
 
 代表ら三人と矢吹がそれぞれ機中にある頃、ジュネーブでは山瀬とアルヌー、ロンドンから呼び寄せたプロデューサーのケイト・ハーシュの三人組が米朝交渉の会場になるホテルでアメリカ政府が設置した記者室に席を確保した後、正面玄関で両国代表団の到着を待ち構えていた。パリ支局のベルナールは記者室で留守番だ。この到着取材にフランス語は必要ない。
 
 両国の代表団は現地時間の9時過ぎに相次いでホテルに到着した。各国の取材陣が英語と韓国語で質問を浴びせ掛けたが、北朝鮮代表団は終始無言、アメリカの代表団もカメラの放列に向かって軽く手を上げただけだった。
 
 事務方の協議は予定通り10時に始まった。冒頭1分間、カメラの撮影が許された。
 
 その間に北朝鮮側が不規則発言を始めて相手側を一方的に非難し、交渉を最初からぶち壊しに出ることも、特に韓国相手の場合に珍しくなかったが、この場でそのようなことは起きなかった。話し合いが極めて実務的に行われることを示唆していた。
 
 
 ソウルのホテルにチェック・インした矢吹は近くのコンビニで酒対策にゼリー状の栄養剤を購入し、一気に胃袋に注入すると足早に指定された待ち合わせ場所に向かった。特派員経験の豊富な矢吹も英語と韓国語ならほぼ不自由しない。タクシーを拾うと運転手に行き先を告げた。
 
 待ち合わせ場所は明洞近くの韓国レストランだった。先に到着した矢吹が玉蜀黍茶を飲んで待っていると間もなく兄貴が来た。
 
「兄様、大変ご無沙汰しております。再会出来て光栄です。お元気ですか?」
 
 矢吹は立ち上がって一礼し挨拶した。
 
「弟よ、元気そうだな。俺もまあ元気にやっている。会えて嬉しいぞ」
 
 今や韓国政界の影の実力者の一人になっているソウルの兄貴が応えた。
 
 キムチや様々なナムルの盛り合わせに加え、牡蠣と葱入りのチヂミ、牛ロースの焼肉をサンチュ等と食しながら酒を酌み交わす。酒は最初に日本のビール、次いでマッコリだ。双方とも良い齢だ。矢吹には有難いことに爆弾酒は出て来なかった。
 
 昔話に花を咲かせた後、最近の日韓関係や北朝鮮情勢、ADE株封じ込め作戦等について矢吹は兄貴の見解を聴く。彼の見解は現政権の見解とほぼ同一と言ってよい。桃子なら大喜びしそうな話も多かった。自分を呼び出した用件は二軒目で出てくるのだろうと矢吹は理解した。やはり今夜は深くなりそうだった。
 
 
 
「中国政府の目下の懸案はやはりADE株と北朝鮮問題ですか?」
 
代表が北京支局長の今岡に尋ねた。北京入りした三人は岩岡を交え、ホテル近くの日本レストランで夕食を共にしていた。
 
「おっしゃる通り、その二つが喫緊の課題であることは間違いございません。ただ、幸いに、両方とも制御できない状況には至っていませんので、安心は出来ませんが、中国政府も少し胸を撫で下ろしているかも知れません」
「そうですか…すると他に?」
「むしろ、この二つの課題を契機として、外交的には何とか対米関係打開の糸口を掴みたいのではないでしょうか?対米関係の改善無しには西側から新規投資を呼び込むのは難しいですし、最新技術の導入も出来ません。もっとも関係が多少良くなった程度では、中国の利になるだけの投資や技術支援にアメリカが簡単にオーケーを出すとは思えませんけれど…」
 
 岩岡が応えた。
 
「それはそうかも知れませんね。国内はかなり苦しいということですか?」
「政権基盤は締め付けの効果で相変わらず盤石と言って良いと思いますが、経済的には大分厳しい状況が続いていると思います。これを何とかするにはやはり西側との関係改善は必須でございます。ロシアやイラン、アフリカ諸国といくら上手くやっても限界がありますので…」
 
「成程…今年ですか、党大会は?」
「そうです。もう多方面がそわそわし始めています。政権内の二番手、三番手争いと言いますか、来るべき後継レースを睨んで、次の党人事がどうなるか、気になって仕方ないようです。派閥のボスが外されたり、粛清の対象になれば、その下も普通は一蓮托生ですので…」
 
 程度の差こそあれ、何処の国・組織でも人事は大事なのだ。特に中国においては敗者とその一党の運命は過酷だ。人事権を行使して、組織を操ることにかけては魔術師とも言われる代表にこの点は大変良く理解できた。人事の失敗は時の政権をも左右するのだ。特に誰もが面子を極めて重視する中国においては人事が絡む季節になると何事も特に難しくなる。明日の面会では、知らぬ間に虎の尾を踏まぬよう最大限の注意を払う必要があると代表は思っていた。
 
「国際取材部としてはどうお考えですか?」
 
 代表が菜々子を見つめた。
 
「やはりADE株対策と北朝鮮問題の行方が気になります。それと…積年の願いである主席との単独インタビューが出来たらばと我々としては思います。もっとも非常に難しいでしょうけれど…」
 
 菜々子はその先について改めて予防線を張るのを忘れなかった。しかし、同じ話を二度繰り返したことで、代表に対して、先に繋がるよう明日の面会は上手くやって欲しいと求めたのも同然だったのに菜々子は気付かない。
 
「はっはっは。宮澤さんの仰せの通り、明日は頑張らせて頂きます」
 
 代表が道化て言った。
 
「すいません。宜しくお願い申し上げます」
 
 北山がコップの水を一気に飲み干した。
 
 
 二軒目のナイト・クラブに移動したソウルの兄貴と矢吹はこの夜初めての爆弾酒入りジョッキを掲げ乾杯した。二人とも一気飲みまではしない。三分の一程の量を飲んだだけだった。
 
「弟よ、折り入って頼みがある」
 
 本題が始まった。
 
 
 ジュネーブでは昼食を挟んで、午後3時過ぎに初日の協議が終わり、両国代表団がホテルを後にした。カメラの前で、両国の代表が協議は翌日も続くと簡単に喋っただけで、初日の協議の内容について言及は無かった。宿舎に戻れば、それぞれ、本国に報告し、二日目の協議に向けて指示を受ける筈だ。アメリカ側の広報担当者によれば、再開は現地時間の翌午前十時との事だった。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

本連載の複製・蓄積・引用・転載・頒布・販売・出版・翻訳・送信・展示等一切の利用を禁じます。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?