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20XX年のゴッチャ その38

 調査開始
 
 WHO先遣隊のコールター博士率いるチームが、翌朝、中国軍差し回しの車両に分乗して平壌総合病院に向かった。2021年の朝鮮労働党創建七十五周年に合わせて大規模改修された総合病院には近代的な装いの高層棟が二つある。
 
 その一棟は元から幹部専用だったが、折しも新型コロナウイルスによるパンデミックが発生していたこともあり、全体が幹部専用に変更され、そのままになっていた。コネの無い一般市民は敷地内に立ち入ることさえ出来なかった。周辺には高層アパートも立ち並んでいたが、それらのアパートも庶民には縁が無い。
 
 コールター博士が駐車場で車を降りると、既知の中国科学技術院のウイルス学者・張洋が待っていた。
「コールター博士、ようこそお見えくださいました。こういう状況でお目に掛るとは予想だにしていませんでしたが、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
 
 マスク越しだったので顔からはすぐには分からなかったが、その声を聴いて、迎えの御仁が張洋とコールター博士に知れた。握手は無い。中国語の分からないコールター博士には判別出来なかったが、彼の白い防護服の背中には簡体文字で中国政府と記されている。胸元には名前が書かれているようだった。
 
「ドクター・張洋、お久しぶりです。お出迎え有難うございます。貴兄のご協力に感謝申し上げます」
 月曜にパリを発ってから強行軍でここまでやって来たコールター博士らは、ほとんど寝ていない。時差ボケもあった。が、アドレナリンの為せる業だろう、疲れはほとんど感じなかった。
 
 コールター博士らの一行は揃いの青い完全防護服姿で、背中にはWHOとアルファベットで書かれている。また、識別番号も振られている。博士の番号は001だった。
 
「こちらは平壌総合病院の副院長・金永春先生です。我々の案内役を務めて下さいます」
 張洋が傍らの男性をコールターに紹介した。金副院長はやはり白い防護服を身に着けているが、青い線が縦に二本入っている。ハングル文字も記されている。
 
「ようこそ、コールター博士。では、早速ご案内します」
 
 金副院長を先頭に一行は順に病棟に入っていく。この模様は、朝鮮中央放送と中国軍、それにWHOの記録係がそれぞれカメラで追っていた。
 
 中に入り、計四か所のドアを抜けると、アクリル板で仕切られた壁の向こうにICUが見える。ドアを通る際の空気の流れから、この部屋が減圧されているのが分かる。このICUにはベッドが八床、全て埋まっていたが、ECMO・体外式膜型人工肺は無い。
 
「こちらの集中治療室にはご覧の様にベッドが八床あります。今、全員にボンベから酸素が送られています。治療薬と抗凝固剤も投与されています」
 金副院長が説明を始めた。
「幸い、皆さん、容態は安定しています」
 
「不幸にして悪化された場合はどうされるのですか?」
 コールター博士が尋ねた。
 
「上の階にも集中治療室はあります。体外式膜型人工肺装置も一台ありますが、現在は使われていません。中等症患者にも治療薬が効果を上げていると我々は考えています」
「重篤化したり、不幸にして亡くなる方は少ないということですか?」
「こちらの部屋での治療が手遅れになっていなければ何とか持ちこたえる患者の方が多いのが実情です」
「亡くなられた患者は?」
「正確な人数を今は申し上げられませんが、何人かはおられます。しかし、多くはありません」
「やはり新しい変異株に?」
「全員の検査結果が確定している訳ではありませんが、この部屋の患者は、多分、全員、そうだろうと我々は考えています」
 
「特異的な症状は見られますか?」
「いえ、これまでに世界各地から伝えられた症状と際立って異なるケースはありません。ただ、亡くなられた方は、急速に容態が悪化していて、こちらに来られた時にはもう手の施しようがない場合がほとんどです。パンデミック初期の頃に各国で亡くなった方と似たケースが多いと思われます」
「皆さん、ワクチンは接種済みですか?」
「全員ではありませんが、そういう患者も多いです」
「割合で言うとどうですか?」
「割合と言いますと?」
「重症化した方々の内、ワクチン接種済みの方の割合です」
「それは多いです。五人の内、四人位の割合になると思います」
 
「そうか…やはりADEが疑われるな…」
 コールター博士は心の中でそう思った。
 
「何か必要なものはありますか?」
「幸いに中国政府の支援を受けましたので、今は大丈夫です。しかし、西側で開発された治療薬を大量支援して頂けると有難いと思っています」
「やはり効果がありますか?」
「そう考えています」
「それとECMOはもっと必要です。医療チームの訓練も必要になりますが、これには時間もかかりますので、中国政府が熟練した医療チームも派遣してくれる手筈になっています」
「WHOも派遣できると思いますが、如何ですか?」
「それは上の方で決めて頂くことと思います」
「分かりました。WHOの調査団本隊が到着しましたら、今後の支援についても、また改めて相談させて頂きましょう」
 
 金副委員長の口調からは、これ以上根掘り葉掘り聞いてくれるなと言わんばかりの思いが滲み出始めていた。最高指導部の命令とは言え、西側の外国人と関わると後でどんな禍が降って来るか分からないのだ。感染症の専門家ではなかった為でもあるが、副院長より上位の院長が出て来なかったのも、これが理由だった。そうした事情を見て取った張洋は博士に先を促した。
 
 コールター博士一行は、部屋を後にした。
 
 年齢別の感染者数や重症者数、死亡率、実行再生産数、ワクチン接種歴など詳細なデータを病院側がこの日出してくるとは到底思えなかった。実際には中国政府に対しても詳細な疫学的データは明らかにされていなかった。
 
 その頃、地下の隔離室では、病院側と中国、WHOの技師達が、患者達から分離した新型コロナウイルスを運び出す準備を進めていた。ウイルスは十人の患者から分離され、一人分二本ずつ計二十本の容器に凍結され、万が一にも漏れ出さないよう更に特殊容器に厳重に封印された。
 
 ウイルスは中国軍によって、まず北京まで運び出され、次いで、半分は武漢ウイルス研究所に、残りの半分はフランスのリヨンにあるパスツール研究所のBSL4施設に持ち込まれ解析される。これら一連の作業は全てWHOの研究者の監督の下、実施される。因みに一度でも北朝鮮に入国した者は例外なく二週間隔離される。
 
 病院内で暫く待機してからウイルスの搬出を見届けると、コールター博士一行は拠点の養鶏場予定地に戻った。そして、昼食もそこそこに活動初日の報告をジュネーブの本部に送る。ワイファイは既に繋がっていた。後は、翌日の活動予定を確認し休息だ。
 
 コールター博士はオンドルとやらが実に温かく、居心地が良いのを大変気に入っていた。仮設だったが、シャワーも使えるのが有難かった。
 
 封じ込め作戦は三日目も順調だった。支援物資の搬入も延々と続いている。各地の一斉検査で陽性が確認された住民は直ちに隔離され、順次、ウイルスが採取され、中国軍が運び込んだ移動研究室で簡単な解析もされる。
 
 事実上の鎖国と都市封鎖が効いているのか一般住民の感染者は少ないようだと、WHOの先遣隊は中国政府の連絡員から聞かされていた。しかし、その人数等はまだ明らかではなかった。集計中ということだった。
 
 封じ込め作戦三日目の模様は、朝鮮中央放送が、まず正午のニュースで報じた。WHOの先遣隊が平壌総合病院を訪れたことも簡単に紹介された。しかし、ウイルスの搬出には触れられていなかった。搬出先の住民の不安を惹起するのを避ける為だった。
 
 日本のメディアはこれらを引用して、午後から夕方のニュースなどで報じた。
 
 こうした報道をオフィスで見ていた道明寺は、ADE株の脅威ばかりを煽るような論調が多いことに苦虫を噛み潰したような思いだった。苦情めいたメールをルークに送ったが、
現役を退いて久しいルークとしては如何ともし難い。
 
「言わんとするところは分かるが、まだ仕方ないよな…ADEが蔓延したら怖いのは事実なんだしさ。朗報が入るまでじっと見ているしかないよ」
 ルークはこう返信した。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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