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20XX年のゴッチャ その55

 新ワクチン開発 
 
 天皇誕生日の振替え休日に当たる月曜の朝、菜々子は目覚めると朝のルーティーンを済まし、シャワーを浴びた。
 
 終えるとバスローブを羽織り、居間のテレビのスイッチを入れる。この日の朝は太田が好むコーヒーの準備を始めた。
 
モーニングショーの音声を聞きながら軽くメイクをし、淹れたてのコーヒーを少し味わう。太田はまだ寝ている。その姿を見ると昨夜の乱れ様を思い出し、体の芯がまた少し熱くなる。
 
「ADE株は確かに脅威で、決して甘い考えで対処することは出来ないと思っています。
 しかしながら、必要以上に恐れるつもりもありません」
 菜々子はソファーに移動し、放送を注視する。馬淵総理の声が聞こえたからだ。この日朝早く、記者達の囲み取材に応じたようだ。
 
「しかし、ワクチンが効かないというのが心配なのは人情だと思いますが?」
 記者が尋ねた。
「それは自然なことだと思います。しかし、WHOと中国による封じ込め作戦は今のところ上手く行っています。治療薬もある訳ですから、現時点では、これまでと同様に感染対策をしながら日々過ごしていただきたいと思います」
 目新しい発言は無い。
 
「ADE株向けのワクチンの開発についてはどうお考えですか?」
 別の記者のこの問いに菜々子が少し身を乗り出した。
「それは大変良いお尋ねです。
 まず、ご確認頂きたいのですが、現在使われている既存のmRNAワクチンの主たるターゲットは新型コロナウイルスのSタンパクです。それを新しい技術を使って作り、言わば緊急避難的に使用したところ、非常に高い効果を発揮した訳です。それはそれで素晴らしいことです」
「成る程」
 記者は相槌を打つ。
「しかし、伝統的なと申しますか、一般的なワクチンは、ウイルスを不活化したものが多く、そうしたワクチンならSタンパクだけではなく、ウイルスのNタンパクと言う別のものにも多分作用しますし、ウイルスに感染した細胞をウイルスごと消滅させるTセル細胞の働きも一層強化します。そう理解しております。つまり、Sタンパクへの抗体を悪用するADE株にも効果が期待できる可能性があるわけです。
 医薬品業界は、Sタンパクを標的にするワクチンだけでなく、不活化ワクチンのような効果を上げるワクチンの開発を続けておられまして、その内の幾種類かは既に実験室レベルで治験が始まっております。完成と言えるようになるまでには、まだもう少し時間が掛るようですが、状況次第では、こうした新しいタイプのワクチンを再び緊急避難的に使用することもあり得ると思っています」
 
 この発言内容は新しい。新しいワクチンの緊急使用の可能性に総理が言及したのはニュースの見出しになるだろう。
 
「その新しいワクチンが使えるとなった暁に、入手の手筈はどうなっておりますか?表現は良くないですが、奪い合いになると思われますが…」
「既に担当大臣がメーカーと連絡を取り合っています。然るべき段階に至りますれば私自身が交渉に乗り出すつもりです」
「それは期待して良さそうですね」
「そうかも知れません。当然、我々としては最善を尽くすつもりです。しかし、その前に、封じ込めが完了して、ADE株が地上から消えることを願っております」
「総理、有難うございました」
 
 囲み取材が終わった。振替休日の朝に官邸で総理が記者の取材に応じるのは異例であった。現下の事態に休日返上で対処する政権の姿勢を国民にアピールする狙いもあるようだった。
 
「おはよう」
 背後から太田の声がした。
「あ、おはようございます。お水かコーヒーを如何ですか?」
 少し顔を赤らめながら菜々子が尋ねる。
「取り敢えずお水を下さい」
 菜々子が冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をコップに入れて渡すと太田は一気に飲み干し、こう言った。
「今、総理が言っていた新しいワクチン、結構、有望みたいだよ。取り敢えずシャワーを浴びてくる」
 
 そう言って太田が浴室に消えた。ワクチン開発の状況把握は厚生労働省がメインのはずだが、アメリカの医薬品企業の動向の確認は外務省の太田の部署の仕事の一つでもあった。いずれにせよ悪い報せではない。
 
 菜々子は朝食の支度を始めようとキッチンに行こうとしたが、スマホのチェックをまだしていないのを思い出した。確認すると大友のメッセージが吉報をもたらしていた。
 
「もう見つかったのね。おデブ・コンビ、ついているわね」
 菜々子は翌午前中に山瀬と共にパリに戻るという大友の提案を追認し、画像はパリ支局に戻ってから本社に送るよう指示した。ソウルへの確認作業依頼は自分がやると伝えた。ヨーロッパとソウルの交信は余計な注目を集める恐れもあるからだ。
 
 菜々子は目玉焼きと焼きトマト、トーストにコーヒーの朝食を手早く準備する。料理はそれ程好きではないが、不得手でもない。造りながら今後の取材の進め方を少し考えたが、直ぐに止めた。今日は少しのんびりしたい。
 
 朝食を終え、菜々子が洗い物を始めると、太田がまた背後から、そっと菜々子を抱きしめた。
「まるで若い新婚さんみたいだよ」
 太田がこう耳元で囁き、唇を寄せた…。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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