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20XX年のゴッチャ その52

 逢瀬 
 
 黄は夜の十時過ぎに漸く友誼橋を渡り丹東に入った。
 
国境では中国武警のトラックにも拘わらず、北朝鮮側の国境警備員が荷台の中もチェックした。北朝鮮の人間が潜り込んでいないか確認する為のようだ。これでは北朝鮮から中国に戻る車両が渋滞するのも無理はない。
 
そこからはおよそ一時間半で目的地の補給所に到着した。WHO専用の資材倉庫にトラックを付けると黄は車を降りて用を足し、食堂に向かった。途中、隠し持っていた私用のスマホで彼女にメッセージを送る。
「二時間か三時間後にそこにちょっと寄る。待っていて欲しい」
 
 食堂では知り合いに挨拶をし、他愛も無い世間話を少しした後、豚肉と野菜炒めのぶっかけ飯をしっかり腹に詰め込む。寒村出身の黄にとっては全く文句のない食事だ。腹がくちくなると頭の中は寄り道の事で一杯になった。
 
 返信が来た。
「とても嬉しいです。待っています」
 
 荷積み作業が終わったのを確認し、受け取りに署名すると黄はすぐに補給所を出発した。資材倉庫の作業員に「仮眠しないのか?」と問われたが、「先に国境まで行って、そこで仮眠する。国境の順番待ちが嫌なんでね」と応え出て来たのだ。
 
 国道を外れ横道に入ってからは逸る気持ちを抑え、雪道を慎重に運転する。脱輪でもすると自力では戻せない。
 
 少し離れた目立たない場所にトラックを停めて残りは歩く。肩にはリュック、手には調査団用のティッシュ・ペーパーとトイレット・ペーパーを抱えている。少し鼻の奥がむずむずするが、冷気のせいに違いない。辺りはもう真っ暗だが、彼女の部屋の明かりは灯っていた。雪を踏む音が大きくなり、リズムも速まる。
 
 家の前に到着するとドアが開き、彼女が黄の胸に飛び込んできた。
 
 ウェンブリー
 
 前夜、ぎりぎりで間に合ったウェンブリー公演の初日の取材を終え、近くのホテルに泊まった大友は朝食を前にして大きな溜息をついた。げんなりした気持ちを抑えられない。
 
 上等とは言えないホテルの部屋は広く、ベッドも大きかったので居心地は悪くなかったのだが、目の前に届いた朝食はどうもいただけない。
 
 フライド・エッグは油塗れ、マッシュルームは焼き過ぎ、焼きトマトは中途半端、ハッシュド・ポテトは冷凍物だ。
 
 数少ない名物の一つとされるイングリッシュ・ブレックファストも一流ホテルなら旨いが並みのホテルで出てくるのはどうにも情けない。空腹なので口にするが、案の定、塩気も強すぎ、喉ばかりが乾く。パンはぼさぼさ、コーヒーは単なる茶色いお湯と言っても良い程風味に乏しく、美味いのはミルクだけだ。ジュネーブの朝飯の方がずっと良い。
 
 昨夜遅く、仕方なく近くのピザ・チェーンで摂った食事もどうしたらこんな味になるのか全く理解できなかった。だから、イギリスは嫌なのだ。
 
 エリック・クラプトンのウェンブリー・コンサート二日目の公演は直ぐ傍のアリーナで午後二時半に開演予定だった。
 
 二日目が昼公演になったのは隣接するウェンブリー・スタジアムで、夜にイングランド対フランスのサッカーの親善試合が予定されていたからだ。同時間帯の開催は警備や交通機関への負荷を考慮すれば避けるのが当然だった。
 
 昼には山瀬がホテルにやって来る。
 
 バタクランと比べるとウェンブリー・アリーナは遥かに大きい。収容人数は最大で一万二千人を超える。入り口も複数ある為、張り込みは簡単ではなかった。
 
 小型ヴィデオを持って、手分けして、駅からアリーナへの人波とメインの入口付近等で、年齢の近いアジア人をひたすら探し、追う。それしかなかった。
 
 念の為、ロンドン市内の西の外れにある北朝鮮大使館の出入りのチェックをする為、山瀬はスタッフを一人、近くに張り込ませていたが、そこで見つかる可能性はゼロに近い。正哲が仮にロンドンにいたとしても、大使館に泊まる可能性はまず無い。しかし、正哲が大使館の車を利用する可能性はゼロではなかったからだ。だが、それも望み薄だ。そもそも、正哲がやってくるという確証がある訳ではないのだ。
 
 大友は、また溜息をついた。
 
 同じ頃、アラン・パスカル教授も溜息をついていた。
 
 朝の患者の容態は申し分ない。各種検査結果は想定の範囲内、拒絶反応も抑えられている。PCR検査も陰性だ。自身でやった自分の抗原検査も陰性、関係者も全員同様だ。本来なら、自分はとうに帰宅して構わないはずだったが、ADE株の出現がそれを許さなかった。
 
 教授が自己隔離しているパリ・セーヌ南総合病院の宿泊施設は清潔で、食堂から毎回運ばれる食事も悪くなかったが、やはり息が詰まる。家族とヴィデオ・チャットでも出来るのなら多少は気晴らしになるが、外部との接触は当局から厳に禁じられていた。関係者は皆同様だが、少なくとも後十日はこの生活が続くのだ。
 
 教授は、また溜息をついた。
 
 全てが順調に終わっても、職務上知り得た秘密は誰にも喋ることは出来ない。独裁国家を含む外国の要人や大物ギャングの手術をした経験なら他にもあるが、自慢など以ての外だ。隔離生活に耐えながら、命を救ったという充足感と高額の謝礼金に満足するしかない…教授は自分にそう言い聞かせていた。
 
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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