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20XX年のゴッチャ その40

 WHO本部
 
 スイスの西端にある都市・ジュネーブの国際空港とレマン湖のほぼ中間にWHO本部はある。
 
 第二次大戦後の一九四八年に創立された国連機関・WHOは世界の公衆衛生を指導・監督するのが主な役割だ。加盟国は194か国に上るが、台湾が中国の反対で加盟を拒否されているのが常に物議を醸していた。
 
 その最大の功績は何と言っても一般社会から天然痘を撲滅したことだろう。しかし、新型コロナの発生に当たっては中国に忖度してパンデミック宣言を出すのが遅れる等の失態を演じ、その信用に自ら傷を付ける結果にもなった。
 
 その新型コロナウイルスは、次々に出現する変異株によって感染力こそ高まっていたが、同時に弱毒化も進んでいた。そして、いたちごっこになってはいたが、変異ウイルスの出現に並行して開発されるワクチンと治療薬が普及した結果、先進国や中進国ではもはや大きな脅威と見做されなくなっていた。
 
 この為、WHOはパンデミック宣言を既に取り下げ、ワクチン接種が進まない発展途上国を中心としたエピデミック宣言に切り替えていたのだが、ADEが疑われる新たな変異株の出現はそのWHOに再びパンデミック宣言を強いる結果になる恐れがあった。それ故、この新たな脅威の封じ込めにWHOも躍起になっていた。
 
 ただ、新たな変異株が出現した場所が中国に隣接する孤立国家の領土内だった。この為、その事実上唯一の同盟国・中国に、WHOとしても頼らざるを得ないのが現実であった。
だからこそ、再び組織の中立性を疑われるようなことは決してあってはならないとWHOは固く決意していた。
 
 パンデミック発生時のテドロス・アダノムに代わり事務局長を務めているスロベニア出身のアナ・ノヴァックは、この日のウェブ会見の冒頭、声明を読み上げた。
 
「北朝鮮の首都・平壌に入ったWHOの懸念すべき新変異株調査団の先遣隊は、昨日水曜日から現地調査を開始した。
 まず、平壌総合病院を訪れ、新型コロナ感染症患者の様子をチェックした先遣隊は、その時点で、ICUで治療を受ける重症・中等症の患者の内、五人に四人程度がワクチン接種済みであるとの情報を得た。同時に、病状に特異的なものは無いとの臨床診断情報を得た。全体の感染者数、死者の数、実行再生産数などの疫学的情報は調査継続中である。
 また、平壌総合病院では、北朝鮮で発生したと観られる新しい変異株にもポリメアーゼ阻害薬、及び、プロテアーゼ阻害薬は臨床的に有効であると認識しているとのことだった。
更に同日、先遣隊は現地で分離された懸念すべき新しい変異ウイルスを入手した。WHOは関係機関の協力を得て、その遺伝情報や特性などを可及的速やかに解析する。解析結果は、初期段階から逐次公表する」
 
 この場合のポリメアーゼ及びプロテアーゼ阻害薬とは要するに新型コロナウイルスの経口治療薬の事で、新型コロナウイルスの細胞内での複製、すなわち体内での増殖に必要な酵素の働きを阻害するものだ。その治療薬が新変異株にも有効と、実際に患者に投与した病院が判断しているのは、事前に予想された事とは言え、朗報だ。
 
 医療・保健分野の専門行政官の公式発言は妙に鯱張っているのが難点だと会見をモニターしながらメトロポリタン放送のパリ支局長・大友祐人は思っていた。
「現地で患者に投与された治療薬は効いている」
 単にそう言えば良いのだ。
 
 大友はぶつぶつと頭の中で文句を言いながら会見内容をメモするべくキーボードを叩き続けた。パソコンの横には食べ掛けのチョコレート・ドーナツとコーヒーが置いてある。
 
 ノヴァック事務局長が更に発言を続けた。
「WHOの懸念すべき新変異株調査団の本隊は今週金曜日にジュネーブを発ち平壌に向かう。特別機には本隊メンバーおよそ百人が乗り込み。治療薬等の支援物資も積み込み運搬する。私の横には調査団長のラティーフ・アッフマン博士来ている。博士に発言の機会を与えたい。では、アッフマン博士」
 
「皆さん、こんにちは。WHOの新変異株調査団を率いることになったラティーフ・アッフマンです。
 事務局長からご案内があったように我々は明後日土曜日に当地を発ち平壌に向かいます。全員既に治療薬の予防服用を開始しました。PCR検査の結果は勿論陰性です。
 現地では関係機関と協力し、新変異株の解析と疫学的調査、封じ込め作業への助言を行う予定です。
 我々の行動は徹頭徹尾科学的であることが重要です。公正性・中立性に疑念を抱かれるような行動はあり得ません。
 それを肝に銘じて調査に赴き、新変異ウイルスの正体を一日も早く解明し、封じ込めに成功するよう全力で任務に当たる覚悟です。
 調査の経過や結果は逐次本部に報告され、必要に応じて、本部から発表されます。私からの発言は以上です」
 
 アッフマン博士はヨルダン生まれのパレスチナ人で、幼い頃に家族と共にアメリカに移り住み、教育を全てアメリカで受けた優秀と評判の感染症専門家だ。アメリカ政府の受けは良かったし、国籍がヨルダンのままだったこともあって、中国が彼の団長就任に異論を唱えることもなかった。また、発言は慎重で隙を見せないという評判で、今回の調査団を率いるのにうってつけの人物だった。その証左か、博士は冒頭発言を無難にこなした。
 
「これ以上はきっと何も言わないだろうな…」
 引き続きメモを打ちながら、大友は残りのドーナツを一気に口に押し込んだ。
 
 WHOの報道官が会見の進行役を務める。
「それでは記者の方、質問があれば画面左下の挙手ボタンをクリックしてください。こちらで指名した方のマイクがオンになりますので、皆さんのパソコンのマイクの状態をご確認ください。それではロイター通信のマイヤーさん、どうぞ」
 
「ありがとうございます。まず、事務局長に伺います。新しい変異株はADE株の可能性が高いとお考えですか?それと採取したウイルスをこれから解析するという事ですが、何処で解析するのですか?いつ頃結果は出ると考えていますか?」
 
 ノヴァック事務局長が応える。
「新変異株がADE株かどうか、これはまさに現在調査中です。その結果を現時点で予測することは避けなければなりません。結論が出たら報告します。
 ウイルスの解析をする施設ですが、これも詳細を公表するのは控えたいと思います。結論が出ましたら、こちらも可及的速やかに御
報告申し上げます」
 
「リヨンのパスツール研究所の施設は関わっていますか?」
 ロイター通信の記者が追加質問した。
「解析が行われるのは一か所ではありません。万全・公平を期すためにも複数個所で解析されますが、具体的な場所は申し上げられません」
 
 リヨンは隣国・フランスの都市だが、ジュネーブからは百五十キロ程しか離れていない。極めて近いのだ。また、WHOとパスツール研究所の組織同士の関係も深い。記者が名前を挙げて尋ねたのも当然だったが、事務局長が否定しなかったことから、記者達は当たりと察した。
 
「もう一か所は中国かな…」
 大友はコーヒーを飲みながら、そう思った。
 
 ウイルスをフランスの研究施設に持ち込むにも拘らず中国には渡さないというのは考えにくい。もっとも、WHOが中国の研究施設を使うのを拒否したところで、彼らは自分達でとうに入手している筈だった。
 
「アメリカはどうするんだろう?WHOが何か国かには配るのかな…感染が自国に拡がった結果入手するのは嫌なはずだし、ワクチンメーカーも必要だろうからな…ま、どのみち彼らも入手するんだろうな」
 
 大友は一人で納得するとこの日の原稿を書き始めた。会見は終わっていないが、これ以上は聞いても余り意味が無い。パリから同行して来たプロデューサーのジャンヌ・ベルナールに残りの会見のモニターは任せることにした。
 
「晩飯は何にしよう…、ラクレットとシュニッツェルかな」
 腹が減るのは致し方ないのだ。さっさと原稿を終わらせるべく大友はキーボードを叩いた。
 
***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
 
©新野司郎
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