オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ その112

北京


 その日、夕方のニュースが終わると菜々子のデスク上の有線電話が鳴った。

「良かった、まだ居たね」
 
 声の主は北京支局長の岩岡宏だった。
 
「あ、お疲れ様です。色々ご苦労様です。体調は皆さん如何ですか?」
 自身も疲労困憊だったが、菜々子は岩岡を気遣う。
「次から次へと、もうヘロヘロだよ」
「それはそうですよね。皆、てんてこ舞いですものね」
「そうさ、でも言ってもしょうがないさ。小耳に挟んだんだが、パリのおデブはどんな様子なんだい?」
「もう大丈夫だとお医者様は言っていました。今は自宅でダイエットに励んでいる筈です」
「自宅でか…強制的に入院させて徹底的なダイエットをさせた方が良いんじゃないか?」
「それはそうかも知れませんが、パリではね…」
「やれやれ、大友と内田が抜けたのはホント痛いよな…東京も大変だろう?」
 前部長の岩岡も菜々子を気遣った。
「そうなんですが、ぎりぎり耐えています」
 
「そうか…そのギリギリのところ、余り有難い話ではないんだが、また案件が増えたよ」
「え、何でしょう?」
「それがさ、ワンさんが来週の火曜か水曜に久しぶりにお茶にでもご招待したいのですが、ご都合は如何ですか?だと」
「うわっ、代表にですか?」
「そう…北山にはもう伝えたよ」
 
 北山和明は代表の秘書役だ。会社では菜々子の一年後輩に当たる。
 
「向こうも忙しい筈なのに一体どういう用件でしょう?」
「それは分からないが、今まで何度もこちらからお願いしていたんだから、今更ノーと言われても困るよな…」
 
 実際、人伝ながら、元駐日大使で今は中国外交を統括する王鶴政治局委員に何度も面会を申し入れたのは事実だ。
 
「でも、インタビューでも主席に会えるでもなく、お茶を飲みながら面会だけですか?」
「それは何とも言えないが、今のところはそんな感じさ。先に繋がることを願うしかないさ」
「北山の反応は?」
「すぐに報告して準備に入るってさ。代表はこういうのが好きだからな…菜々子も同行しろと言われると思っていた方が良いよ」
 
 メトロポリタン放送のラスボスは世界の要人と面会し、一緒に写真に納まるのが実際、大好きだった。
 
 日本の歴代総理とはほぼ全員と昵懇だし、アメリカやフランスの大統領、有力閣僚と何度も会っている。王鶴政治局委員とは彼が駐日大使時代に定期的に食事をする仲だった。そうした時の代表の振る舞いは、時に、ご意見番気取りと陰口を叩かれることもある程だった。
 
 そのラスボスがまだ面会さえしたこともないのが、中国のトップだ。代表は既に齢九十を超しているが、矍鑠としていて、習近平主席との面会に執念を燃やしていても不思議ではない。
 
「そうですか…」
 今、この時期にまた外国に行くのは菜々子には憚られるが、そう指示されたら誰も逆らえない。
「局長には?」
「いや、まだ言っていない。菜々子から伝えて貰った方が良いと思ってね」
 
 加藤は内心小躍りして喜ぶに違いない。報道局の得点になるからだ。自分の忠誠心の大きな証にもなる。
 
「分かりました。直ぐ伝えます」
「宜しく。詳細は明日以降に、また」
「了解です。お疲れ様です」
「じゃあ」
 
 加藤樹報道局長は既に社を出ていた。菜々子は電話を入れ、報告した。
 
「来週、それも面会だけか…」
 
 ポーズに決まっているが、それ程嬉しそうな反応ではない。菜々子を問い詰めたばかりでもある。
 
「しかし、否も応もない。代表が行くと決めたらそれで決まりさ。秘書室には?」
「北山には北京から連絡したそうです」
「分かった。では詳しくは明日だな」
「宜しくお願いします」
 
 加藤への報告を終えると菜々子は大友に様子を尋ねるメッセージを入れた。返信は数分後に来た。
 
「体調に問題はありません。腹が減りました…」
 
 大友の恨めしそうな姿が目に浮かび、菜々子はクスリと笑った。
 
「変な情報が出回っているようなんですが、聞いていますか?」
 
 次いで菜々子は太田博一に電話で尋ねた。
 
「そうそう。僕も君に訊こうと思っていたんだ」
 
「やっぱり…何処の誰が書いたのだが見当も付かないのですが、何かご存じですか?」
「いや、僕にも分からないけれど、昨日だったかな、偉いさんに訊かれたよ」
「そうですか…ホント失礼ですよね、情報漏洩だなんて」
「僕もその点だけを問い質されたよ。勿論、そんなことは無いとストレートに応えたけれどね。君は?」
「私も訊かれました。嫌な感じでしたよ」
「ま、でも疚しいところは無いのだから、堂々としているしかないと思うよ。少し気になったんだけれど、菜々子の部下が二人相次いで倒れたというのは本当なのかな?」
「それは本当です。一人は普通のコロナで、もう一人は心臓発作で」
「でも、大丈夫なんだろう?」
「はい、コロナの方は特に症状もなく回復しましたし、心臓発作の方も既に退院して自宅療養に入っています」
「それは良かった…不満は出ているのかな?」
「いえ、本人達からは全くありません。ただ、コロナに罹った特派員の親御さんがどうしてそんなにリスクのある所に取材に行かせたのかと苦情を寄せているらしいというのは聞きました。もっともそれはちょっと前の事です。
 それより、心臓発作の事はごく最近の出来事なんです。まだそんなに知っている人間は多くない筈なので、社内から漏れた可能性が…」
 
「でも、僕達の関係を知っている人間はいない筈でしょ?」
「それはそうだと思います」
「こっちでは省内の関係者が流したんじゃないかとみているよ」
 
 太田は元妻の顔を思い浮かべていた。
 
「霞が関では珍しいことじゃないから…だから気にしないのが一番さ」
「太田さんは大丈夫ですか?ご迷惑になってしまったようで、ごめんなさい」
「謝ることなんかないさ。僕の方は問題にならないと思うよ。むしろ、苦情を言っているという親御さんの方が気になるよ。きっとどこかの偉いさんなんだろうけれど…」
「そうらしいです」
「子供が幾つになっても親は親だから心配するのは分かるけれど、今時、普通のコロナに罹っただけで騒ぐタイプはきっと面倒臭いよ…と言ってもどうしようもないだろうけれどね。だから、気にせず、堂々としているしかないさ」
「そうですね。分かりました」
 
「金曜日は大丈夫そう?」
「はい」
「じゃあ、何か旨いものでも食べよう。また連絡するよ」
「宜しくお願いします。とても楽しみにしています」
「OK。愛しているよ、菜々子」
「私もです。有難うございます、博一さん」「じゃあね」
「はい」 
 
 電話を切ると菜々子はオーフ・ザ・レコードに向かった。ルークから新しい話があるとつい先ほど連絡があったからだ。菜々子にもまた意見交換が必要だった。
 
 まさにへとへとだったが、太田と話をするとやはり落ち着く。食欲も湧いてきた。睡眠が必要なのはわかっていたが、その前に奥方の料理も有難い。


交渉開始へ


 
「アメリカ合衆国政府は、DPRK・朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮半島の非核化と緊張緩和を目指し、DPRK政府代表団と事務レベルの折衝を来週開始する。
 アメリカ政府の代表団は国務省のDPRK担当特別大使のバリー・ハンが率い、週末にジュネーブ入りする。詳細は追ってアナウンスされる」
 
 日本時間翌木曜日早朝、ホワイト・ハウスがウェブに声明を発表した。
 
「米朝交渉いよいよ開始へ」というニュースは世界を駆け巡る。アメリカのメディアもこれをトップで大々的に報じた。
 
 日本の有識者の中には「朝鮮半島の非核化」という表現に懸念を表明する向きもあったが、一方的な核開発の凍結を先に宣言した北朝鮮に対する配慮だろうと大方は受け止めた。
 
 アメリカと同盟国が目指すのは北朝鮮が保有する核の脅威の除去で、時にCVID・完全で検証可能で不可逆的な非核化と表されるが、「朝鮮半島の非核化」という言葉は北朝鮮に対するアメリカの核の脅威も除去されるべきという北朝鮮の主張も含まれると考えられているからだ。ただ、いずれにせよ先行きが棘の道であることに変わりはない。それでも話し合いが正式に始まるのは朝鮮半島と東アジアの安定にとって歓迎すべきことであった。
 
 日本とは時差のない北朝鮮でも、午前八時に朝鮮中央通信が交渉の開始を報じた。北朝鮮の代表団は外務省のアメリカ局長が率いるという。来るべきジュネーブ交渉はまさに事務レベルの折衝になるのだが、その先の本格交渉の議題や問題点が議論される見通しだった。
 
 日本政府も午前の定例会見で官房長官がこれを歓迎する声明を発表した。日本政府内には、これを機に、何とか拉致問題の解決に繋げたいという機運が再び高まっていた。
 
 日本のニュースや朝のワイドショーも米朝交渉開始とADE株の続報で持ち切りになった。メトロポリタン放送では、十時半過ぎ、加藤局長が足早に自室に戻ると直ぐに菜々子を呼び出した。今朝、ラスボスと面会したのだろうと菜々子は察しながら加藤の部屋に入る。
 
「おう、お疲れさん」

 加藤はすこぶる機嫌が良い。代表も上機嫌で、きっと労いの言葉でも掛けられたのだろうと菜々子は思った。
 
「悪いが、君も北京に同行して欲しい。先の事もあるだろうから、よろしく頼む」
 
 加藤はこれを主席との面会に繋げたくてしょうがないのだ。
 
「分かりました。詳細は北京支局と秘書室で連絡しながら詰めて宜しいですか?」
「それで頼む。取材も大変だろうが、こっちも重要だ。抜かりなく進めてくれ」
「了解です」
 
 加藤は本心ではこっちの面会の方が重要と思っているのだろうが、社命とあれば北京行はやむを得なかった。菜々子は国際取材部のシマに戻ると再びデスク応援に入った。
 
 テレビ局のニュース番組は秒単位で予定が組まれる。
 
 この日の昼ニュースであれば、トップのワシントン特派員のレポートがスタジオの振り込みで1分30秒、朝鮮中央通発表の原稿が40秒、日本政府の反応が40秒、ソウルからの生中継解説レポートが1分10秒、日本政府の狙いについての生中継解説レポートが1分といった具合だ。この原稿は3秒長いので削れ、5秒短いので足せといった指示は日常茶飯事だ。
 
 もちろん1秒も違わず予定通りに進行することなど無いが、確定CMと呼ばれる広告だけは予め決められた通りに入る。何時何分何秒開始と決まっていて、その前のニュースを途中でぶち切ることになろうとも、その時になればコンピューターが容赦なくCMを入れる。逆に、例え1秒でも予定より早く入ることは無い。報道局の都合でタイミングを決められるCMもあるが、それとて、内容や長さ、順番と回数は決められていて、厳守されなければならない。公共放送には無い苦労である。
 
 だから、大規模な発生事案が放送開始直前に起きたり、予定のニュース項目が間に合わなかったりすると大変だ。全ての予定項目を組み直しながら同時進行で放送を続けることも珍しくない。関係のないスーパーが入ったり、違う映像が流れてしまったりするミスはこんな時に起きがちだ。
 
 この日の昼ニュースでも、朝鮮中央通信の原稿が5秒短い、ソウルの解説原稿が10秒長いのと直前の調整作業をさせられた挙句、ソウルの中継回線がすんなり繋がらず、すったもんだした。まさに当番デスクの腕と反射神経の見せ所でもあるのだが、放送が終わると応援に入った菜々子も当番デスクもへとへとになった。ADE株発生以来、ほぼ連日、似たような状況が続いている。

 スタッフ達の疲弊ぶりも考慮すれば、今はまだパリの案件を放送すべき時ではないことを菜々子は十分理解していた。パリの件に対応する余裕など全くないのだ。ましてや誤報の誹りを受ければマンパワー的にも国際取材部は間違いなくパンクする。

 然るべき時を待つべき理由が此処にもあった。加えて、菜々子はまたも本社を留守にしなければならない。自らの画策の結果でもあるとは言え、タイミングが悪過ぎた。
 
 コンビニのサンドイッチとサラダで昼食を済ませ、菜々子が一息入れていると今度はIT班の川村仁がやって来て告げた。

「何とか仕上がりました。ご覧になりますか?」

 菜々子はまだ疲れの抜けない身体を起こし、IT班のブースに向かう。すると川村がコンピューター処理した三次元画像をリプレイした。
 
 コンピューターは朝鮮中央放送が配信した金正恩総書記の画像とパリの患者の画像をそれぞれ完全ではないが、三次元化し、ゆっくりと回転させて同調させ、重ね合わせる。
 
 その間、およそ30秒。
 
 菜々子は息を吞んだ。彼女の目には同一としか思えない。
 
「凄いじゃないの!大変だったでしょう?」
「ほぼ徹夜しました。我々が見る限り同じですよね…でも…」
「でも、何?」
「冷静になって確認してみると、鼻のピークの高さが微妙に違うんですよ。よく見てください。此処を」
 
 川村が拡大画像を出して指差す。確かにほんの少し、微かにピークの高さは違う。
 
「それと目尻の位置も、その差は鼻より更に小さいのですが、違うんです」
 川村はそう言って続けた。
「個人的には肉付きが相当変わっているせいだと思うのですが、同一と言えば同一、他人の空似と言えば空似のどちらにも成り得るのかと…」
「でも、目と鼻、耳の位置関係は一致しているわ。そうじゃない?」
「我々の目にはそう見えます。しかし、この先はやはりAIに頼らないとまずいでしょうね…」
「うーん」
 
 やはりそうか…菜々子は糠喜びを少し後悔した。
 
「でも、今、外部のAI鑑定に、この画像を出すのはね…放送直前なら兎も角…」
「それにAIに鑑定させても100%同一とは出ないかもしれません。98%とか99%なら出るかもしれませんが…逆にもう少し低くなっても不思議ではありませんよね。専門家ではありませんので何とも言えませんが…」
 川村がかなり残念そうに言った。
 
「それはやはりもう少し後で考えましょう。今、慌ててもね…」
 菜々子は嘆息しながら応えた。
「有難う。放送の暁にはきっと使えるわ」
 
「あの…」
 川村が更に何か言いたげだ。
「なあに?」
 菜々子が優しく問いかける。
「いや、僕もちょっと考えてみたんですが…」
「言ってみて」
「写真…つまり二次元画像で目と鼻と耳の部分だけを画像処理で切り出してAIの鑑定に回してみるのはどうかと…?」
 
「どういうこと?」
「それも総書記と患者、更に正哲氏、可能ならそっくりさんの写真の、その部分だけを切り出して、更に白黒にして、AI鑑定に回してみるのはどうですか?」
 川村が続けた。
「それなら、何処で撮られた誰の写真が基になっているのか、知らない人間には全く分からないし、ましてやパリの画像は誰も持っていないのですから、ばれる心配もないと思うのですが…そして、その四つの写真の同一性をAIに鑑定してもらうんです。どうでしょう?」
 
 菜々子が感心して言った。
 
「それはナイス・アイディアかも…仮に一人は総書記とAIには見破られてしまうとしても、他は同一かそうでないかだけで、何処で撮られたものか誰かまでは絶対分からない…そういうことね?」
「そうだと思います」
「当てはあるの?フリーの鑑定サイトにアップする訳にはいかないし…」
「費用は掛かると思いますが、ちょっと訊いてみます。知り合いが居ない訳ではありませんので…」
「素晴らしいわ。取り敢えず探ってみて結果を教えて頂戴。あ、今日でなくても良いわ。まず、少し休んでください」
「有難うございます。明日で良いですか?」
「勿論よ」
「分かりました。二次元の方が多分位置関係だけに注目して鑑定することになる筈ですから、鼻の高さのほんの微妙な違いに関係なく鑑定結果が出るかもしれませんね。それでも100にはならないかもしれませんが、こっちの方が同一性は高いという結果になるかもしれません」
「分かったわ。よろしくお願いします」
 
 仮に100%同一とAIが鑑定してもアリバイを崩せていないという状況に変わりはない。しかし、全面否定さえされなければ、決定的な証拠と見做される期待はできる。特に世間からは…菜々子は希望を少し膨らませた。
 
 菜々子は今夜もオーフ・ザ・レコードに行くことにした。週明けは自分が出張予定だからだ。桃子にも例によって声を掛けた。
 
 すると矢吹淳也から連絡があった。彼も可能なら今夜オーフ・ザ・レコードで会いたいと言う。総務・人事担当専務として多忙な矢吹に話をする時間は中々取ってもらえない。渡りに船だった。
 
 
「うーむ、もう提出して来たとは…余程成算があるのか、それとも、切羽詰まっているのか…」
 
 IAEA現地査察チームのリーダー、ジョナサン・フィッツパトリックは、この日午後、北朝鮮チームの核開発活動に関する申告を受け取り、改めて驚愕した。

 今回の一連の動きでアメリカが合意したのは二国間の事務レベル協議の開始だけだ。それなのに、一方的な核凍結宣言とIAEA査察団の受け入れに続き、北朝鮮は申告書まで提出してきたのだ。過去の経緯からは考えられない姿勢だった。

 今回の申告は、基本的には5メガワットの黒鉛原子炉が本格稼働を始めた1986年以降の寧辺の核関係施設の膨大な作業データだ。

 5メガワットの黒鉛原子炉は年間に5・5キロ~8・5キログラムのプルトニウムを生産できるとされる。加えて、実験用軽水炉が本格稼働すれば年に15キロから20キロの生産が可能とも見られていたが、稼働率100%でずっと運転していたわけではない。1994年の枠組み合意後や2007年の六者協議合意後に計十数年に亘って黒鉛原子炉は停止されていたし、2019年に当時のトランプ大統領と金正恩総書記による米朝首脳会談の時期にも停まっていた。また、メインテナンスの為に停める必要もある。どの時期に稼働していたのか、IAEAはある程度把握しているが、それが絶対に正確と言い切れる人間は居ない。

 黒鉛原子炉で燃料棒は凡そ八千本使用するが、放射線科学研究所で、累計で何本が再処理され、プルトニウムがどれくらい抽出されたのか、確かなことはやはりはっきりしない。再処理活動も断続的に行われていて、あくまでも大まかな推定があるに過ぎない。軽水炉の活動実態は更に不透明であった。

 プルトニウム型原子爆弾は一個当たり5キロ程度のプルトニウムを使用するとされる。なので、黒鉛原子炉の運転と再処理を続けていれば年間一~二発程度の核爆弾を製造することが可能とされている。そして、これまで少なくとも数十発の爆弾が製造可能なプルトニウムを北朝鮮は製造・抽出したと見られているが、これも数十発という極めて大まかな推定に過ぎない。実験用軽水炉の分も加えれば、爆弾の製造数は優に三桁の単位に達するという疑いさえIAEAは抱いていた。

 北朝鮮が過去の核実験で何キロのプルトニウムを使ったのかも推定があるに過ぎず、残るプルトニウムの量の正確なところは北朝鮮政府にしか分からない。

 また核爆弾には広く知られているようにHEU・濃縮ウランを使用するタイプもある。北朝鮮は寧辺始め国内の何ヶ所かに濃縮プラントを持っていると見られ、寧辺のウラン濃縮計画については北朝鮮政府自身がその存在を認めている。しかし、濃縮ウランの存在を検証した外部の機関や人間は居ない。

 IAEAは保障措置活動として、各国が申告する核物質の計量データや原子力関連活動に関する情報について、申告された核物質の平和的利用からの転用や未申告の核物質、または未申告の活動が無いかを査察により確認し、その評価を取り纏めて公表する。こうした査察は日本の核関連施設でも実施され、核物質の目的外転用が無いことが確認されている。しかし、北朝鮮の核開発の全貌は藪の中だ。明白なのは数々の国連安保理決議に違反して核爆弾やミサイルを製造・実験し、周辺各国は元より世界の脅威になっているということだ。

 それが、この日の申告によって、実態を解明する為の本格作業をIAEAは曲りなりにも始められるのだ。言わば、本当の始めの一歩になり得るのだ。

「最終的な狙いは定かではないが、いずれにせよ、本気ということか…」

 オーストラリア出身のフィッツパトリックは査察の先行きは更に難題山積なのも、政治交渉次第で直ぐにも査察が駄目になる可能性があるのも分かっていた。しかし、希望を少し膨らませた。

 北朝鮮の核活動に関する申告は日・米・韓・中・露・朝によって続けられた六者会合合意等に基づき、2008年8月にも提出されている。そして、申告が正直になされているか否か等を検証する国際査察も一時実施された。ただ、実際には、真相を解明することなく、六者協議合意が早々に水泡に帰した。

 その時の申告は、六者による国際交渉を延々と続けた結果、アメリカによる北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除やエネルギー支援の代償として、漸く為されたのだった。しかし、今回はそうした代償は無い。今のところ、事務レベル協議の開始発表だけだった。

「本部には送りました。査察官達とも共有できるようになっています」

 現地査察団付きの総務担当者がフィッツパトリックに伝えた。この日、各現場に散らばった査察チームはまだ現地本部兼宿舎に戻ってきていない。

「我々事務局の人間で申告書の放射線科学研究所のパートをちょっとチェックしてみたんですが、一応、一通り記載されていますよ。足すとかなりの量になります。と言っても、それで全部正直に申告されているとは到底言えませんけれどね…」

「ほー…どの位なんだね?」

 オーストラリア訛りのきつい英語でフィッツパトリックが尋ねた。

「検算までしていませんが、ざっと90キロ程になるかと…」
「驚くには当たらないが、やはり一筋縄ではいかないな…軽水炉と濃縮ウランの方は?」
「軽水炉の申告はあるにはありますが、試験的な稼働しかしていないとでも言いたげな内容ですし、平和的利用を逸脱するような高濃縮ウランの製造の申告は無いようです」
「そうか…」

 巷間噂される量の数十キロレベルと異なり、黒鉛原子炉と実験用軽水炉、放射線研究所の稼働月数等から推測すれば最低でも百数十キロ、最大で300キロ台のプルトニウムを北朝鮮は既に製造・抽出した可能性があるとIAEAは疑っていた。

 つまり黒鉛炉で製造したプルトニウムに関してだけでも過少申告の可能性が極めて高かった。加えて高濃縮ウランの申告は無いという。最終的には米朝交渉次第とはいえ、IAEAに期待されるものは大きかった。
 
「ここまで来ただけでも前進であることは間違いないが、先は長いか…」

 フィッツパトリックは改めて気を引き締めた。

***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎

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20XX年のゴッチャ その112


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