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堀部安兵衛とイタリアの数奇な縁(えにし) #1

第1回 堀部安兵衛の最後とイタリア

 赤穂浪士随一の剣豪と言われた堀部安兵衛とイタリアに不思議な縁があることはあまり知られていません。
 堀部安兵衛 武庸は寛文10(1670)年に新発田で中山安兵衛として生を受けました。母親は産後、程なくして亡くなったと言われ、父親は、新発田藩士で剣の達人だった中山弥次右衛門。安兵衛は父親に幼い頃から剣術をたたき込まれて育ちましたが、弥次右衛門は安兵衛が13歳の時に浪人となり、その後に他界。私が住職を務める長徳寺に葬られました。

 19歳となった安兵衛は、剣の腕で身を立てるために江戸に旅立つ事を決意し、父親の墓所である長徳寺を訪ねます。墓前で手を合わせ、大切に育てていた松を境内に植えて旅立ったそうです。この「安兵衛手植えの松」は近年まで寺の境内で勇壮な枝ぶりを誇っていましたが、平成9(1997)年に老衰で枯れてしまいました。現在は2代目の松がすくすくと成長しています。
 江戸で剣術道場の師範代となった安兵衛は「高田馬場の決闘」で名を挙げ、赤穂藩・堀部家の養子となり、元禄15(1702)年12月14日に四十七人の忠臣の一人として、吉良邸に討ち入りました。

 吉良上野介を討ち取った四十七士は4ケ所の大名屋敷に別れてお預かりの身となります。この大名屋敷というのが伊予松山・松平藩邸、熊本・細川藩邸、長府・毛利藩邸、岡崎・水野藩邸です。イタリア通の方ならご存知のとおり、伊予松山藩の屋敷跡が今の駐日イタリア大使館です。安兵衛は伊予松山藩邸に預けられていました。

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 幕府から切腹を命じられた四十七士は、それぞれが預けられていた屋敷で武士として名誉ある最後を迎えました。安兵衛が命を終えたイタリア大使館には、なんと大使が四十七士を讃える石碑を建てたと言われ、新発田で堀部安兵衛 武庸の義勇を語り継ぐ「武庸会」は安兵衛終焉の地を訪ねたいと長く切望していましたが、その地はイタリア大使館。何度も訪問の許可を願い出ましたが、簡単には行きませんでした。(づづく)

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