掛け算順序のある社会を生きる

我々が「我々」と言ったり「住んでいる」と言ったりしながら住んでいるこの日本語の世界には、小学校というものがあり、算数が教えられていて、そこでは、掛け算の順序についてのこだわりが、伝承されている。
私も1980年から1986年までは小学生だったので何となく覚えているが、「日本の小学生向け教科書、学習参考書に例示されている式は「1つぶんの数×いくつ分」の順序にほぼ統一されている」
そして「1つぶんの数×いくつ分の順序で書かれている式のみを正解とする」つまり、その順序で掛け算の式を答案に書かないと、たとえ答えは正解であっても、式は不正解とされる。今でもそのような「採点方針が散見され」るらしい。
と、日本版ウキペディアの「かけ算の順序問題」にも書かれている、よく知られた問題がある。
算数の時間に問題が出るのは当たり前のようだが、問題の考え方に問題があるのは問題だ。問題の問い方や答え方の指導に問題がある場合、問題に正解していれば問題がないとは言えず、むしろ問題について問題のある状況でその問題に何の問題もなく正解している方が問題なのではないかという問題が起こる。

「3枚の皿があって、どの皿にも、1枚あたり2個のりんごが乗っている。りんごは全部でいくつあるか」

この問いを例に、私の灰色の脳細胞(中学以降の数学はほぼ忘れているので小学生なみ)で、考えてみよう。
上記の問いに、2×3=6という答えは、いつでも必ず適切であるが、その一方で、3×2=6という答はどこまでいっても不適切でしかない、と言い切れるような数理が、もしもこの世にあるのならば、何の問題もない。
また、上記の問いに対して、もしも、 2×3=6だけが2×3=6のごとくに真であり、3×2=6などは3×2=32のごとくに偽であるのならば、なおさら、何の問題もない。
しかし、そのような数理はなく、2×3=6と答えても3×2=6と答えても、適切であるし、真でもある。
つまり、「2×3=6と答える場合だけが適切であり、真である。そう考え得る数理もある」と言うのは、迷信である。

どのように考えてそう結論するのか。

これから、私の頭がどのように考えてそう結論するのかを、書いてみようと思うが、繰り返すが、残念ながら、いまの私には、中学生程度の数学的知識でさえも、持ち合わせが、全然、無い。かつても、あったのかどうだったか、怪しいものである。
知識が無い。これを無知という。
無知な人間が書く考えであるから、そこに誤りはないか、読者は、批判的に読む必要がある。
また、誤りがあっても無くても、この考えは、この考えの主と同じように小学生程度の数学的知識しかない人間の頭であっても同じように思いつくことは出来るだろうから、もう既に過去に何度も考えられていて、もしかしたらそれなりにひろく知られている論理であるかも知れないことに、面倒くさいけれども我慢して、読者は、注意を払う必要があるだろう。

「3枚の皿があって、どの皿にも、1枚あたり2個のりんごが乗っている。りんごは全部でいくつあるか」

論理1

この問いの状況を図に現すと

〇〇〇
〇〇〇
皿皿皿

となる。
もちろん〇はりんごで、皿は皿である。
仮にこの状況を「1つぶんの数×いくつ分」と捉えるのが適切であるとしよう。
以下のようにまず皿を三枚並べ

皿皿皿

ここに



皿皿皿

と、2個のりんごを乗せ、さらに

〇〇
〇〇
皿皿皿

と、2個のりんごを乗せ、しまいには

〇〇〇
〇〇〇
皿皿皿

と、2個のりんごを乗せ終わった。
このように乗せていけば、1皿に2個は「1つぶんの数」であり、それが「いくつ分」かというと、皿の数だけで、3枚。つまり

2×3=6

と考えることが出来る。

時を戻そう(ぺこぱ)

また、皿だけが三枚並んでいる。

皿皿皿

問いを読むと「3枚の皿があって、どの皿にも、1枚あたり2個のりんごが乗っている」と書いてある。
どの皿にも同じ数だけ乗っている。
偏りがあってはならない。
そうでないと掛け算にはならないだろう。
このように「同じ数だけ乗せる」ことに意識を集中してみる。

皿皿皿
アイウ

このように自分の皿をじっと見ているア、イ、ウの三人の餓鬼を思い浮かべてもいいだろう。そのような視線を感じながら、いきなり



皿皿皿
アイウ

と、アの皿に2個も置くことは避けなければならない。その状態で電話がかかってきたら、対応している間にアは、イとウに惨殺されている恐れがある。
なので3枚の皿(「皿皿皿」)にまず

〇〇〇
皿皿皿

と、いっせいに3個置く必要がある。さらに

〇〇〇
〇〇〇
皿皿皿

と、置いて、おしまい。
このように乗せれば、
1回で3個、それを2回繰り返すので、「1つぶんの数×いくつ分」は、3×2である。
したがって、

3×2=6

は、「仮に「1つぶんの数×いくつ分」と捉えるのが適切」であったとしても、適切である。

この論理からいけば
「3台の鳩時計が並んでいる。もうすぐ2時になるが、2時になると、どの時計からも、1台あたり2回鳩が飛び出す。鳩時計は同じ製品なので鳩の飛び出し方は、同じタイミングである。2時になった。鳩は全部で何回飛び出すだろうか」
という問題も、3台の鳩時計を眺めながら、2時になった、鳩が一斉に飛び出した(1回目:3×1)、しばらくしてまた飛び出した(2回目:3×2)、だから

3×2=6

と答えてもいいし、以下図の「時」は鳩時計、「〇」は飛び出した鳩だとして、ア、イ、ウの位置にカメラを置いて

〇〇〇
〇〇〇
時時時
アイウ

後からゆっくり、まず、アのカメラに撮られた動画を再生して、ああ、この鳩時計からは鳩が2回飛び出しているな、と思ってから、続いてイのカメラに、さらにウのカメラに、と見ていって、おもむろに

2×3=6

と答えても別に構わないだろう。
したがって、3×2=6でも、2×3=6でも、答えとして不適切だということはない。
もちろん3×2=6も2×3=6も真である。

論理2

2が3あるのは2×3だ、「1つぶんの数×いくつ分」ってそれだろ?、といって「それ、わかる~」という感覚はわからないでもない。
何か迷うことがあったら「何がいくつあるのか」考えてみて「何が×いくつ」と式にしてみたらいい、という話であれば、まあそうかもと思わないものでもない。

その程度のわかり味を、「1つぶんの数がいくつかある」状態をみて、逆の順序で「いくつ分×1つぶんの数」と式を書く行為に対しても、同じように、味わうことは出来るだろうか。

もしも、あくまで「1つぶんの数×いくつ分」の順序で考えるのが適切であるならば、「3枚」とは「1枚が3つ」であり、「1枚×3つ」と考えても、不適切ではないだろう。
さらに「3つ」とは「1つが3」と考えることができる。つまり「1つ×3」である。
したがって

3枚=1枚×3
3個=1個×3
3人=1人×3
3円=1円×3
・・・

と全てのn[単位]は

n[単位]=1[単位]×n

と考えてもおかしくはない。
そうなってくると、なぜ、3枚、3個、3人、3円...などと、まるで

n×1[単位]

であるかのような表記を、なぜ我々は甘んじて受け入れ、あまつさえ継承して後世に引き継いで微塵も恥じるところがないのだろうか。
枚3、個3、人3、円3、・・・と、[単位]nと、書くのでは、どのような理由からいけないといえるのだろうか。
六大学とか三大祭とか七福神という表現も「1つぶんの数×いくつ分」に反した不自然な表現に思えてくる。ことあるごとに、大学六、大祭三、福神七、と言い続けて、この不自然な表現を改めて積極的に変えて行こうという声が常に激しく叫ばれてはいないのは一体、いや、体一どういうわけだろう。
また、十円玉は、1枚あたり一円玉10枚の価値があるのだから、30円は、もちろん、10×3である。9999は、いうまでもなく、1000×9+100×9+10×9+1×9である。
したがって、キュウセンキュウヒャクキュウジュウキュウなどという言い回しも不自然に思えてくる。このような言い方は避け、これからは、センガキュウヒャクガキュウジュウガキュウイチガキュウと言うべきなのかもしれない。
以上の理屈に違和感を感じる感性には「1つぶんの数がいくつかある」状態をみて「いくつ分×1つぶんの数」の順序で式を書く行為を、自然だと感じる数理的な感覚が潜んでいる。
その感覚が「3枚の皿に2個ずつ...」と聞いて、即座に、3×2を思い浮かべ、自然に「いくつ分×1つぶんの数」の順序で式を書くのだ。
まあ「潜んでいる」なんて、悪いことをして潜伏しているみたいだが、要は「普通にあるよ」というこった。

論理3

もう一度、皿とりんごに戻ろう。

〇〇〇
〇〇〇
皿皿皿

1枚の皿と、2個のりんごが、対応している。
皿1枚があれば、すかさず、2個のりんごが乗せられ、2個のりんごがあれば、その下には必ず1枚の皿が敷かれるようにみえる。
この対応からみると「皿1枚あたりりんごが2個」というのは「皿→りんご」の換算率であるとみえてはこないだろうか。
皿3枚に「皿→りんご」の換算率である「皿1枚あたりりんごが2個」をかけて

3[枚]×2[個/枚]=6[個]

と考えれば、小学算数において、特に不適切ということはない気がする。
何しろ小学の教科書には

直径×円周率=円周

の順序で掛け算の式が書いてあるのだから。
だから、時速2kmで3時間走れば、「1時間あたり移動距離は2km」という「時間→距離」の換算率を使って

3[時間]×2[km/時]=6[km]

と式を書いても文句はないだろう。
しかし

直径×円周率=円周

という順序で問題はないのだろうか。
円周率は

円周率=円周÷直径

である。
つまり、円周率とは、直径が1のときの円周(3.14・・・)で、円周率は「1直径あたりの円周」なのだ。

「1直径あたり円周が3.14・・・である円が、2直径分ありました。その円の円周はいくつでしょう」

式は「1つぶんの数×いくつ分」の順序で書くべきだ。ということは

直径×円周率=円周

ではなく

円周率×直径=円周

でなければ「式は不正解」ではないのだろうか。

以上のような論理から、私の頭は「算数の問題に、いくつ分×1つぶんの数と答えることだけが適切であり、真である。そう考え得る数理もある」と言うのは迷信であると考えている。

〇 〇 皿 〇 〇 皿 〇 〇 皿 

掛け算の順序についてのこだわりは、これからも伝承され続けていくのだろうか。
数理は、真善美の「真」に関わる。
自分たちが住んでいる世界に小学校をつくり、半ば強制的に小学生を集め、小学校教師を募って、そこで何をどのように教えるべきかは、真善美の「善」に関わる。
我々が住んでいるこの日本語の世界において、「掛け算の順序についてのこだわりが、ひろく、長く、公教育で教えられている」ことを、我々は知っている。
その世界に、これから生きていこうという、我々の新しい仲間に、その、「ひろく、長く」教えられてきた考えを、教えなくていいものだろうか、と問いかけられたら何と答えるべきだろう。
2×3=3×2=6は真であり、真であることは、全人類が馬鹿になって、数を数えられなくなったとしても、変わらない。しかし、それ程までに、自ずと明らかな自明性が、それだけが、文章を読んで、式を書くまでの思考の、全てを支配しているわけではない。
「算数の問題を解く」ということを受け入れる善意がなければ、「算数の問題を解く」ことはできない。そして、その善意をたのみにして、もしも、教師が、真を真として偽を偽として多くの人にわかりやすく数理を教えるためにこの教え方「掛け算の順序」は必要だと、教師自身が強く主張する場合には、さらに教師自身が、それは決して善意に背かないと考えるのならば、「掛け算の順序へのこだわり」をこの世から無くすことはできない。
ここから先は「たとえ人類が死滅しても真」であるような話ではなく、したがって、無知のままで、思考を展開することは出来ない。

だから話はここで終わる。

余談・・・自分が小学生時代のことを考えると、そこで習った算数は、よく目を凝らせば、掛け算順序を順守してはいたが、先生の雑談に出てきた・・・んだっけ?なにしろ、むかしの話ですからね・・・遠山啓や森毅は、安野光雅と共に、今でも算数や数学というと思い出す懐かしい名前であり、その縁が遠因で、中学生の頃に読んでみた『数学大明神』が面白く、そのおかげを以って、その後、日本語世界のいわゆるポストモダニズム言論をそれほど〈読まずに〉過ごせたという意味で、彼らには大恩がある。遠山啓や森毅は、いまでは、掛け算順序の理論的指導者としての悪名の方も名高いようだが、死後も論者の論理はその論旨を検討し批判される栄誉に浴しているのだろうか。論者は死んだ。論理は「検討し批判される」ことで生きる。その程度のことが生前当たり前のように無限や永久を真偽の俎上で操作し、その操作は如何なる理解の上になされるか如何に社会に共有されるべきかを検討した善意ある文明人に理解できないはずはない。
間違えて、やり直して、出来るようになったりわかるようになったりした経験があった方がイイのでしょうが、そして学校ってのは、まさにそういうことをするところなのでしょうが、なかなか、ネ。
そういえば、私が小学生時代の担任の先生はみな女性で、小学生時代は今日のように児童書の表紙にライトな美少女美少年愛が躍動する時代ではなく、茶色くしょっぱい昭和の世間だったが、先生たちは、みんな、田舎の世間を明るく生きる文明人だった。後に、隣りのクラスに超パワーをハラスな担任がいたような話も聞いたが、むかついた小学生たちにある日突然授業を一斉にボイコットされて、いろいろあって、どこかへ行ったらしい。よかったよかった。
あとは、学校では、英語も教えるが、英語で考えるようにはなって日本語がわからなくなる程、そこまで学習者が変貌することは、誰にも望まれてはいないし、そんなことが起こるとは、誰も考えていない気もするが、どこかでそれは避けたいことだという暗黙の了解があるのかなと思ったりもする。数学教育も、数学になってしまうのは避けたい事態なのかも知れない。数学になってしまうって何だよ。
むかし美術の専門家が、美術館に行って美術専門家でもないのに美術品を観ている人を観ると、専門家でもないのに何の意味があるんだろうと思う、てなことを言っていたのを聞いたことがあるが、数学者もそういうことを思うのかね。君たちは数学者にならないだろう。何で数学を学ぶの?と小学校で数学者が話をしたら、どうなるだろう。余談は尽きない。

2020.11.21 公開。
2020.11.22 余談箇所を修正。
2020.11.25「この問いを例に、私の灰色の脳細胞(中学以降の数学はほぼ忘れているので小学生なみ)で、考えてみよう。」の一文を追加。また「書いてみようと思うが、*残念ながら、」*に"繰り返すが、"を追加。

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