掛け算順序〈迷信〉 その奥義と解消

 掛け算順序〈迷信〉とは、掛け算の順序を固定し強制する指導から生まれた思い込みや勘違いによる非論理的な言動の総称ですが、様々な段階や形態のものがあり、その有り様は一概には言えません。
 掛け算の順序を固定し強制する指導とは、小学校の算数の授業で行われたりもするので、まあ、ご存知の方も多いでしょうが、例えば、兎が3匹いれば耳は全部で何本?という文章題で解答欄に書く式は
・2×3 なら適切
・3×2 なら不適切
ということになっておりまして、もし生徒が3×2と式を書けばバツに(または赤ではなく青色で丸をつけたり、式に波線を引いたり)して、3×2はよろしくないから2×3と式を書くようにと、つまり、〈兎一匹あたりの耳の数〉×〈兎の数〉の順序に式を「適切に、正しく」書かせる指導です。このように、文章題などから具体的な状況「〈1つ分〉が〈いくつ〉あるか」を読み取らせて、掛け算の式は、

〈1つ分〉×〈いくつ〉

の順序で書くように指導し、試験の答案も、「〈1つ分〉×〈いくつ〉」の順序でなければ、文句なしの正解にはしない。そうやって、掛け算の順序を固定し強制する指導を、私はそのまんま、掛け算順序固定強制指導と呼んでいます。
 驚くべきことに、この掛け算順序固定強制指導は、なんと、九九や数値計算の演習と、並行して実践されるのが常道らしいので、そうなりますと、そこで生徒はニサンガロクはサンニハロクといわゆる交換法則に習熟しながら、その傍らで、文章題では固定順序で式を書くことを強制されることになります。そんなおかしな指導ですから、かつての小学生たちが、それをあえて好意的に肯定しようとしてなのかどうなのか、以下のようなおかしな説明をするようになったとしても、それ自体はおかしな話ではないでしょう。

「ただ、機械的に、単なる数値と数値とを掛けるだけなら交換法則が成り立ち、掛け算の順序はどうでもいいが、具体的な状況や単位のつく数量を式に表す場合はそうはいかない。掛け算の本当の意味である、「1つ分の数がいくつあるか」ということを考えていれば、それは、〈1つ分〉×〈いくつ〉の順序に従って式を書くことになる。逆の順序「〈いくつ〉× 〈1つ分〉」の式では、掛け算の意味が表せていない。文章をきちんと読まずに、あるいは読めずに、出鱈目に出てきた数を掛け合わせただけであるとしか思えないし、もちろん、公教育の場では、そうだ(不適切で不正解)とみなされるしかない」

 これは、過去に見聞した掛け算順序固定強制指導を擁護する言論を、思い出のなかから抜粋して整理して、私の言葉で、まとめてみたものです。
 これに、「算数と数学は違うから」だとか、「算数ではなく国語の問題であるから」だとか、「低学力の児童を救う」だとか、「掛け算で順序を気にしないと、順序が変わると答えが変わる割り算でつまずく」だとか、さらに不可解な理由がつけ加わることもよくあることです。


 なかには「掛け算順序固定強制指導には反対だ。しかし、式の意味を考え、状況を適切に式に表すよう心がけることは重要」と主張なさる方がいて、お話を伺っていると、「とはいえ、日本語で"2かける3"と言えば"2に3をかける"を表すから、"2が3つある"状況を表す式としては、2×3の方が"より適切"であるとは言える」と思わぬところで実に奇妙な日本語論のお披露目に出喰わしたこともありました。
 "2かける3"を、"2を3にかける"と読むと、それは日本語として、いったい、どこがおかしいのでしょうか。
 "3つある2"なんて言ったりすると、世界はたちまち転覆して"より不適切"な逆さま状態に突入してしまうのでしょうか。
 そんなことより、"2かける3"は、テニヲハを使わずに数式2×3をそのままいわば直訳しているような読み方ですが、もし"2に3をかける"であるのが極めて自然であるのなら、なぜ2×3を我々日本語人は、"2にかける3"と読まないのでしょう?


 算数は、主に小学生を対象にした、数理を学び考えるための初歩の数学です。
 算数を算数として考えたい人々にとって、迷信の蔓延は滑稽であり、迷惑です。


 先にあげた不可解な理屈、その内容は辻褄があわず場当たり的で、非論理的で、よく分からないところが多々ありますが、とにかく「1つ分×いくつという順序に並べるんだろう?その逆に並べていいだなんてそんなことあり得ない」という結論への確信には、満ち溢れています。
 そんな理屈たち(迷信)は、算数(初歩の数学)の何をどう勘違いしているのでしょう。算数としては、どう考えるのがよいのか、毎度お馴染みの...と言いたくなりますが、まあ、あらためて考えてみましょう。
 考えてみるのは、私です。
 私は、学者でもなく、教育関係者でもありません。いきなり、明日から、中学校に生徒として放り込まれたら、数学で満点を取る自信は全くありません。また、若くもありません。
 ですから、読者は、やや年を経た小学生レベルの人間が、勝手に自分で考え、ところどころでTwitterで見聞きしたことを思い出し、綴った文章がいま目の前にあるのだとおぼしめして、愛をもって、眉に唾をつけて、厳しく批判的に本文を読む必要があります。

 算数には、いろいろな考え方、学び方、教え方がありますが、まず、1、2、3、...と数(自然数)を考え、足し算や引き算を考え、やがて、掛け算を考えるのが、よく踏襲されるおなじみの階梯でしょう。
 それでは、頭を文字通り空っぽにして、自然数の足し算だけを理解しているという認識の状態を夢想して、そこから掛け算を考えてみましょう。
 同じ数を繰り返し足す。それを同数累加と言いますが、例えば

2+2+2

は、2を繰り返し3回足している、言い方を変えると、3回繰り返し2を足しているとみることが出来ます。
 前者の言い方で「2を繰り返し3回足すことを2×3とする」と決めるなら、足し算から掛け算の式を定義出来そうです。
 また、後者の言い方で「3回繰り返し2を足すことを3×2とする」と決めるなら、それでも、足し算から掛け算の式を定義することは出来そうですね。
どちらも

2+2+2

を同数は2、累加回数は3と解釈し、そして、掛け算の式を定義しました。
「2を繰り返し3回足す」をもとにするか、「3回繰り返し2を足す」をもとにするか、という違いにより、
2×3
3×2
という違いが生まれましたが、どちらでもいい、どちらも同じことしか言っていません。
どちらがよいか、決め手になるものは、何もない。どちらでもいい(任意)ですが、「どちらかでしかあり得ない」と決めてしまうことだけは、出来ません。
まあ、
「2を繰り返し3回足すことを2×3とする」
「3回繰り返し2を足すことを3×2とする」
と言い回しを変えて、順序の違う式をつくりましたが、これは要するに、同数累加という状況をみて、累加回数を後に書けば
同数×累加回数
と書けるし、累加回数を前に書けば
累加回数×同数
と書けるということです。どちらに書くかは、どちらでもいい。しかし、「どちらかでしかあり得ない」と決めてしまうことだけは、出来ない相談だという結論に変わりはありません。
さて

2+2+2

が「3回累加」だと言えるのはなぜでしょうか。
「3」という数字は2+2+2の式に明記されてはいない。
まあ、2をイチ、ニ、サンと数えれば、2は「3」つあると分かるわけですが、それは

2+2+2

の2を1にして

1+1+1

と1を繰り返し足しているのと同じではないでしょうか。
そう考えれば、2+2+2の累加回数を即答できるとは、2+2+2をみてすぐに1+1+1を思いつくのと、さも似たり、であります。
2+2+2をみてすぐに1+1+1を思いつくなら、2+2+2は「1+1+1が2つある」状態だとみることは容易です。
つまり

2+2+2

は、みたまんま、同数2の累加回数3(=1+1+1)(2が3つある)とみることも出来ますし、ちょっと見方を変えて、同数1+1+1(=3)の累加回数2(3が2つある)とみることも、可能は可能なわけです。
 このように考えれば、同数累加は、同数は累加として、また、累加は同数として、柔軟に、解釈することが可能になります。
 兎三匹なら、2本の耳(同数2)が3匹分ある(累加回数3)とも解釈できますし、全兎に耳はある(同数1+1+1=3)、それが右耳と左耳の2本分(累加回数2)とも解釈はできます。
 皿5枚にそれぞれみかんが4個ずつのっていれば、みかん4個(同数4)が5枚分ある(累加回数5) とも解釈できますし、皿の全てにみかんをのせる(同数1+1+1+1+1=5)、それを4回繰り返す(累加回数4)とも解釈はできます。
 ちょっと頓智を効かせ過ぎじゃないかと思われるかもしれませんが、普通にみれば、兎3匹の耳を合計するのに2は同数に3は累加回数に思われる、その2と3を、ちょいと見方を変えてみれば、3が同数に2が累加回数にみえてくる、この解釈が柔軟に出来る、つまり、同数は累加に累加は同数に、柔軟に解釈出来る、それは、同数累加とは、実は、そういうものなのだということではないでしょうか。

 ここまでの理屈をまとめると、掛け算の式を足し算(同数累加)で「同数×累加回数」または「累加回数×同数」と定義可能であり、そして、どちらで定義しても
「2が3つあるとは、それは同時に、3が2つあることだ。なぜなら、2とは何かが2つあることで、また、何かが3つあればそれは3だからだ」
ということになります。


 まあ、仮に、最初に「同数×累加回数」で定義したなら、交換法則が登場するまでは、あくまで「同数×累加回数」の順序で書かせる(何が同数で何が累加かの解釈は、各生徒の解釈に任せる、もしくは、フツーはどう解釈されるかを想定して、その解釈を規範とみなすことになるでしょう)という定義主義的なと申しましょうか、定義の鬼的な、そんな方針も思い浮かばないでもありませんが、そんな方針を取る指導者の話は、あまり聞いたことがありません。算数(初歩の数学)においては、最初に定義してそこから展開していくというよりは、様々な例をみせながら考えていく、という傾向が、よくも悪くもあるわけで、文章題もやれば九九もやるわけです。児童が、九九に慣れ(ニサンはサンニだな)、図や絵による説明を聞きながら、頭の中に
●●●
●●●
のようなアレイ図なんか決して念頭におかないものだと考えること...つまり、定義的に「同数×累加回数」と考える以外の思考を働かせないで、とにかく文章題で具体的な状況なら「同数×累加回数」が自明、自然、規範だとみなすだろう、みなすべきだというのは、非常に、不自然な、考え方観、児童観、人間観です。
 九九でニニンガシ、ニサンガロク、...ニクジュウハチを
2+2+2+2+2+2+2+2+2
と考えてもいい(2、4、6、8、...と2ずつ増えていく)でしょうが、例えば、2=1+1が増えていくイメージで
1+1 ニイチガニ
2+2 ニニンガシ
3+3 ニサンガロク
4+4 ニシガハチ
5+5 ニゴジュウ
6+6 ニロクジュウニ
7+7 ニシチジュウシ
8+8 ニハチジュウロク
9+9 ニクジュウハチ
と考えたとしても、まあ、考えてみろと紹介するにはちょっと微妙な、向き不向きのある考え方な気もしますが、考えてみている者に、考えるなと抑圧する理由も特にないでしょう。

 いろいろ申し上げましたが、ご注意願いたいのは、本論は、掛け算順序固定強制指導で算数(初歩の数学)をよく学び得るかを、さして若くもない人間が検討しているようなわけでして、ここまで申し上げたような理屈を、児童が教室で、述べ奉り、我こそは、この固定強制された掛け算順序の鎖から、解き放たれる資格がある知者だと教師に陳情する必要など、全くないのは、言うまでもありません。


 誰かが何かを書いた時、素直にそこに「何が書かれているか」をみて採点するのではなく、さらに踏み越えて、「どの程度の知能を持ち、どんな心理的な特徴を持つ人物が、どのように、何を考えて、それを書いたのか」を詮索し、その可能性を吟味し始めると、たちまち、あの愉しく恐ろしい迷宮に私たちは足を踏み入れることになります。
 現実の様々な人間が蠢く世界は、そのような迷宮そのものでしょう。
 しかし、現実は事実でもあります。どんなに愉しく走り回っても、壁を突き抜けて外に飛び出すことは、出来ません。どんなに悲しくても、空が覆いかぶさってきて、比喩的にではなく物理的に、人体を押し潰し粉骨砕身することもありません。
 目の前にある答案「3人は、みんな仲良く、2つずつ饅頭を食べました。全部でいくつ饅頭を食べたでしょう」に、2×3と書いてあるのも、3×2と書いてあるのも、どちらも同じことを書いています。どちらかを適切だと考えなければならないと思っているあなたは迷宮のなかにいます。
 そんな迷宮を探索し、出口に向かう栄光の軌跡は、心理学、民俗学、文化人類学、歴史学、社会学、言語学、哲学、教育学、様々な学問の領域において、今こうしている間にも、積み重ねられていて、私たちを刺激し、目を開かせてくれます。
 そこで重要なことは、まずは、「分からない」ということです。その途方もない分からなさの前に、確実に分かっていることを並べて、出来るだけ間違いのないように、また、間違えてもどこで間違えたか分かるようにして考えていかなければ、何も分からないままでしょう。
 そして「確実に分かっていること」は常に検証される必要があり、また理にかなった検証によって正しいとされた結論は、各人の偏見や固定観念を省みるに足る「正しさ」として、公平に扱うべきでしょう。そして、その途方もない分からなさの前には、まだ「確実に分かっている」とまでは言えないが、仮説としてこうだと思われることは提示し、そしてそれに、十分な、批判・検証を加えることも重要です。
 かつて大学で教職課程で習ったことや指導書を横目にみながら、授業でみんなで、りんごが2つ乗った皿が3枚ある絵をみて、2が3つあるね、と言い、教科書に2×3、「1つ分×いくつ」と書いてあるのも、みてきました。そして、文章題には「4人います。シールを8枚ずつみんなに配りました。全部でシールは何枚あるでしょう?」とあります。
この問題の解答として4×8とは、いったい全体どういうつもりなのかとあなたが思う時、あなたは、心理的な罠といいますか、思い込みといいますか、偏見といいますか、そういうもののなかにいないでしょうか。


 私たちは、わけがわからず、正解があるのかもわからない世界で、手探りで、わずかに、明らかにこれはこうだと言い得ることを、これはこうだなと言って確かめて、進むしかありません。
 迷信の霧がたちこめる迷宮のなかを手探りで進む子供たち(にとっても大人たち)にとっても、自分以外の人間の行動、そのなかにはテスト解答への採点も含まれるわけですが、それは、何が合っていて、何が合っていないのかを考えるための重要な手がかりです。
 算数(初歩の数学)は、人間の目を事実に向かって開き、そこで認めたことを記し、それを踏まえて考えることを助けます。


 今ではあまり耳にすることもありませんが、真善美という言葉があります。
 数理としての正しさは、真善美の「真」にあたるでしょう。
 公教育はどのようにあるのが人々にとって善いことかは、真善美の「善」にあたるでしょう。
 完璧な真善美が実現することはなく、人間に出来ることは、常にその途上にあり、しかし、最善(正確には、最"真善美"、でしょうか?)を尽くすことだというのが西洋哲学における知見の一つであると聞いたことがあります。
 いま答案用紙の4×8に青い丸をつけ、後で生徒に話をして、8×4に書き直させようとしている一人の人間は、もともとは、いったい何をしようとしていたのでしょうか。


 私たちは、歩くとき、必ず、右足を踏み出すか左足を踏み出すかして歩き出します。だからといって「歩くとは、右足を出して、その後に、左足を出すことです」と説明しながら実際に歩いてみせ、その後に「さあ、歩こう」と歩かせて、誰かが左足を踏み出したら「それでは、歩いたとは言えないよ」と言い出したらどうなるでしょう。やがて噂が生まれるかもしれません。「歩いて、とか、歩けと言葉で言われたら右足から踏み出さないと、歩いたことにはならないよ。ただ単に歩くだけなら、右足からでもても左足からでも同じだけど」「体育じゃなくて、国語の問題だよね」
 それは迷信です。
 ガッコウのセンセの言うことがゼッタイに正しいなんて思わない方がいいということは非常に優れた世間知です。数学者も教育学者も日本政府の重鎮も国家公務員も一般庶民も、誰もが、頼りにもなれば使い物にもならず、有要であり無能です。
真善美という言葉について、私がどこかで聞いた曖昧な知識によって考えるなら、完璧な真善美が実現することはなく、しかし、人間は、常にその途上にあって、迷いながら、最善を尽くすことはできるはずです。
 それは、自分のなかの理性の声を無視して、惰性と忖度の複雑な皮算用を、自分でも大してよいとも思っていない場所で、ただ足踏みするように繰り返すこととは、違うはずです。
 郷原は徳の賊です。非道であれば、天子様であろうが、而してこれを犯す(逆らってでも諫める)べきでしょう。恒がなければ人は巫医をなすことも難しい。かと言って迷信は、恒になり得ません。北辰の其の所に居て衆星のこれに共うがごとき普遍性でも何でもない迷信は迷信でしかなく、過ちはこれを過ちといい、過ちを改めざることもこれを過ちといいます。学んで思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆い。徳は孤ならず、必ず隣ありと頼んで、遠方より来たる朋と亦た楽しからずやと、有限の人生のなかで学んで生きるのに、掛け算順序を、一つの例として教科書で標準的に例示することを超えて、固定し強制して指導することが果たして必要でしょうか。


 掛け算順序固定強制指導においては、同数累加(でも、1つ分がいくつでも、かけられる数がかける数だけあるでも、名数を倍するでもいいですが)を考えるのは具体的、本質的、初期認識的で、交換法則を考えるのは抽象的、操作的、経験認識的だという前提があるようなのも、果たして、両者は、それほど無連絡に隔絶しているものなのだろうかと気になります。
 例えば、日本語人なら、●を数えて数を習う場合に

をイチと
●●
をイチ、ニと
●●●
をイチ、ニ、サンと数えるでしょう。
ですから●●●をみれば、
「えーと、イチ、ニ、サンだから三つだな」
と認め、また、しばらくして、●●●をみれば
「サンだ」
と認めるわけです。
 ●●●をみて一つずつ数えながら「イチ、ニ、サン」と認める。
 ●●●をみていきなり「サン」だと認める。
 前者の認識は、1+1+1っぽくて、1がいくつあるのかな...3つあるなという感じ(1が3つある)、後者は、そのまま、いきなり3があるという感じ(3が1つある)なのかなと私は考えたりもするのですが、皆さんはどう思いますか。
 私には、この私の考えが、合っているものなのかどうなのか分かりませんが、もしそのように考え得る余地があるのなら、私たちは、自然数に慣れていく過程において、まずは、同数1をもとにした累加として数を感じ、ある時に
●●●●●●
をみて、そのまま「6がある」と分かる。それならその時に、交換法則を、身近に日常的に具体的に体感的に、ごく早い段階で察することができ得るのではないか、とは言えないでしょうか?
 「言えないでしょうか?」と言われましても、という感じかも分かりませんが、同数累加と交換法則は、掛け算順序固定強制指導擁護論において、しばしばしょっちゅう自明視されているほどには、異質なもの同士というものでもないのではないか、そのように考える材料として、私見を申し上げました。


 先に真善美のお話を申し上げましたが、真はともかく、善は揉めるという印象をお持ちの方も多いでしょう。
 算数が初歩の数学だとして、何を初歩として、いかに教えるべきか、社会においてどのようにそれを想定する「べき」かという問題は、教育の問題でもあり、政治の問題でもあります。
 よく言われるように、政治は力であり、力は、言語によって動かされる人間によって、そんな人間がつくった何らかの仕組みによって、生み出され、そしてまた個々の人間を動かします。
 数学は、仕組みや構造や世界そのものを、事実を踏まえて明確に具体的につかまえ、描き出し、また別の角度から眺めてみることもできる、強力な言語です。
 そして、数学は、おそるべきことに、「事実を踏まえて」いるわけなので、人為の産物ではなく、自然科学に属しています。
 その数学の初歩を、日本では算数と呼び、日本語の読み書きと共に、教えています。
 数学は自然科学の言語ですが、日本語は自然言語であり、しかし、学校で教える国語(日本語)は、自然科学というよりは、人文科学、俗に「文系」と言われる学問だという印象が一般的でしょう。(「文系」や「理系」という区分もまたかなり迷信的な思い込みを世間に流布していますけれども、)つまりザ・「理系」の数学にも、ザ・「文系」の国語にも、「自然」という言葉が使われていて、おや?という感じがあるかも分かりませんが、大雑把に言えば、日本語は近代化に必要な概念を、漢語をもとにして翻訳し輸入してきたという歴史があり、「自然」には前近代に通用していた概念とは違った意味も含まれています。
 自然科学も自然言語も、そこで使われている「自然」は、近代において翻訳のために再解釈された「自然」です。
 現代日本語人の漢語能力は、残念ながら、もはや新たに新概念を翻訳、輸入、創造、普及する力は弱まり、印刷字体のとめ、はね、くっついているいないにこだわる多忙な学習指導者に、そんな「国語」力の必要性を発想する余力はありません。
 言葉は思索を支え、概念をつくり、感覚を培い、人々に呼びかけ、詩になり、歌になり、お話になり、世界をつくり、歴史をつくり、未来をつくります。
 それは論理でもあるし、美でもあるでしょう。
 美は、芸術を考えるのがいいようなので、そういうふうにして考えていますが、芸術には、笑いもあるし、面白さや不思議さの魅力もあります。私の好みから言えば、マンガも落語も歌謡曲も怪談も、芸術に入ってきます。美はそのようなもの(世界に対して面白く思い、魅力を感じたり、不思議に思ったり、畏れたりする)でもあると考えた方がいいでしょう、以下本論では、そのように考えます。
 幼児と共に生き、その新しい人が言葉を獲得する様をご覧になった方ならお分かりかも分かりませんが、幼児が、いろんなものを触り、まじまじと眺め、口に入れたりしながら、言葉を喋るようになっていく上で、論理も美も不可分です。
現代日本社会の教育行政は、「論理国語」と「文学国語」という奇妙な科目区分を設けて、そして、「論理国語」では、評論文や実用的な文書(契約書、法律の文章、取扱説明書)を教材にするらしい。
 「論理国語」と「文学国語」という国語があり、論理的に考えるとは、論理的っぽい文章を読むことだという迷信が支配する時代に、私たちはいます。
 しかし、自然言語を学ぶ...と言いますか、それを生きていく上で、論理も美も、不可分です。
 私たちは、生きていく上で、いろんなお話を聞き、考え、つくります。会話というものが、そういうものですし、何かを考える時に、身辺にある様々なお話、小説、物語は重要で、それは、事実の認識にも、仮説の検討にも、見解の創出にも重要で、欠かすことは出来ません。
 そして、そこでは、正確に公平に他人に話し又聞くことも重要ですが、主体的な好みの問題も重要です。何しろ自分の人生ですから。
 発語に際してその解釈において、また文学を読みそれをみとめるのに、そこに論理がないわけがないし、また、杓子定規に文章を一義的に読むことだけが、論理なわけでもない。
 「論理国語」「文学国語」という言葉は滑稽です。
 しかし、「そういうものだろう」と受け入れてしまえば、迷信に歯止めは掛からず、やがて迷信でも何でもなくなります。
 掛け算の意味はまず同数累加(1つ分がいくつ、...etc)として理解するべきでそれは文章題において掛け算順序を意識することで表すべきだ、誰もが「そういうものだろう」と受け入れて一斉に同じ行動を取るのが「平等」でしょうか。
それもまた迷信ではないでしょうか。


 マンガも、また日本語人に身近な、特に歴史的にかつて子供の身近にあった、言語のようなもの(表現様式)ですが、敗戦直後、政体転換の間隙を縫うようにして登場した手塚治虫が描いたマンガ作品が、奇跡のように一部の子供たちにはみえ、その光芒が日本のマンガ史に大きな影響力を持ち、様々な伝説をつくったことはご存知の通りです。マンガは害悪であり有害であり、摘発と告発の対象でしたが、やがて必要悪となり、今では国策的な文化「戦略」の重要な「コンテンツ」です。芸術として評価して、ではありません。売れたからです。
 そして手塚治虫は、晩年においても、子供に対して、作品を描くことを、少なくとも自分に無縁のこととは絶対に考えませんでした。
 今日、日本のマンガは、一面では、幼少の美少女肢体への愛好癖の発露形態として、大勢に認知され、そのような印象を持たれています。これは、日本マンガ史において、子供の存在が力であり、その支持が矜持でもあったことから考えると、実に、大いなる皮肉です。しかし、キャラに含まれる憧憬と生命力が持つ、論理的な帰結にみえないこともありません。
 萌絵と呼ばれるものも多種多様ですが、そのなかに、芸術として、美少女画愛に根ざしたものがあるのは、否定しようがないし、否定する必要もないでしょう。
 様々な議論があり得るでしょうが、売れて、愛される「コンテンツ」っていうものは、「こういうものだろう」「こういうのがいいんだろう」という思惑が、先行すればするほどつまらない、不愉快だということ、また、そんな思惑に微動だにしない普遍性とは、いったい何なのか、ということは、重要な論点です。
 もちろん、一面的な愚かさという徳も捨てがたいものですが、どこかで「まだ何かやれることがあるんじゃないか」と考えることをやめるわけにはいかないでしょう。
 「そういうものだろう」というたかを括った見くびり、侮り、傲慢を受け入れることは、実に馬鹿馬鹿しく腹立たしい、そういうものです。


 掛け算順序固定強制指導の結果、文句なしの正解ではないとされた採点例である写真を、「そういうものだろう」と受け入れるためには、真を見失い、善を忘れ、何とも言えない滑稽さを無視しないことには不可能です。人間の理性が「そういうものだろう」と受け入れることを強く拒んでいるのです。
 今日も、日本語の世界では、たくさんの小学校教員の方々が、掛け算順序固定強制指導なんて奇妙な指導はせずに、ごく普通に、算数を掛け算を教えている、そんな例は、決して、少なくないそうです。
 それは、そうでしょう。
 掛け算順序〈迷信〉に、順序を固定し強制される道理など、ありはしないのです。
 ですけれども、それは、当たり前のようで、やはり、当たり前ではないのも事実でしょう。
 やがて、人口が減少していく日本語の世界が、これからどうなっていくのか、私たちの言語は、それを含めて、語り得るはずです。


参考アカウント(Twitter)

掛け算順序および算数教育における非論理的な指導の批判、「式の意味」批判
@sekibunnteisuu
@genkuroki
掛け算順序の歴史、その前史(西洋算術書、中国の算術書、和算)、おかしな算数教育の学問的背景
@temmusu_n
@metameta007
@OokuboTact
掛け算順序問題の同数累加解釈
@shoyugi
@golgo_sardine
日本語による数理の表現と論理
@LimgTW
掛け算順序指導の様々な実例やデータ
@takehikom
現場の声
@84yame1000
@musorami


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