『仙境異聞』の研究(7) -人間の祈りの実相-
#00142 2011.12.3
平田先生:ある時、門人で貧困な者たちが二、三人集まって、互いにため息をつきながら苦労話をしていたところ、寅吉がそれを聞いていて、次のように語った。
寅吉「人間というものは自分のことだけをすればすむと思っていましたが、自分の思うようにならず、長生きもできず、借金があるの、貸金があるのといって苦労します。山人は長生きで自由自在であり、借金や貸金などという苦労はありませんが、世間の世話で忙しく、諸国を探して飛び歩き、無為に過ごすことも少なくて苦労します。つまり何になっても苦労から逃れることはできません。」
平田先生:その内の一人がまた次のように尋ねた。
門人「山人は中国の仙人と同じように安閑無為で神通自在であるはずなのに、なぜそのように苦労をするのか。」
寅吉「山人というものは神通自在で山々に住むことは中国の仙人と同じですが、安閑無為ではありません。その訳は、まず神の御上より申します。
師の話によると、全て神というものは、既に神と崇(あが)められたならば、世のため人のためとなることは、何事においても恵み賜わなければならないため、人間も千日祈って験(しるし)がない場合は万日祈って験あり、万日祈って験がない場合は生涯祈るというように祈願すれば、たとえ邪(よこしま)な願いでもいったんは験をお与えになります。まして正道なる祈願は、よく信心を徹すれば叶わないことはありません。
しかし人間の願うことは、道理に適っていると思っても神の方より見れば多くは邪な願いであるために、後に知らず知らずの内に罰を受けることとなります。また道理から外れていると知りつつ願うことは、ついには天道より永久の罰を降されることになります。
さて、山々で神がおわしにならない山はなく、また山人のいらっしゃらない山もありませんが、その山によって秋葉山、岩間山などのように、この世においても山人の存在を知って天狗と称して崇める場合だけでなく、山人の存在を知らず、ただその山に鎮座する神に祈っても、その山に住む山人が祈願を遂げさせることがあります。我が師の本山は浅間山ですが、世の人は師の名を知らないために、祈願がある時はただ浅間神社に祈っています。しかしその願いを師が聞き受けて、神に祈って遂げさせるようなものです。
象頭山に祈願する人は多く、山人や天狗もとくに多いのですが、それでも手が回らないため、諸国の山々より山人・天狗が代わる代わる行って山周りをします。それでもなお手が回らない時、また人間の祈願は様々であるために、その山々で祈願を遂げさせることが難しいことも多くあります。そのような時には他山の山人たちに、この祈願を遂げさせるためにはどのようにすれば良いかと尋ねるのですが、我が師にせよ誰にせよ、まず聞き受けて、自分に不可能なことは他の山人に付託して、困難なことは先に先に送るため、元の出所がわからなくなることもあります。
このような訳で、山人界がとても忙しいことはいうまでもありません。人間の祈願一つについて、数百里を数度空行往来することもあります。常にどこからどのような付託があるかわかりませんので、世にあることは何によらず知り弁(わきま)えておき、用事がある時を待っています。物事を広く知っているほど付託が多いのですが、自然に位は高くなります。
我が師は四千歳に近い人で、知っていることが多いために、数多くの山人の中でも多用で忙しいのです。常に苦行をしていますが、それはますます霊妙自在を得て人間のために役立とうとするからです。つまり山人というものは人間より苦労が多く、人間は楽なものであると常に羨ましく思っているのです。」
この記述は幽顕両界をつなぐ祈りの神秘の実相に触れており、努めて留意を要するものでしょう。幽顕分界以降、この両界は相通しないことが原則として定められましたが、ただ人間の発する祈りの意思表示のみは必ず幽界にも通達し、しかも山人たちが忙しく活動していることからも、人間の祈りというものが公私大小となく等閑(なおざり)にされることなく処理されていることがわかります。 #0135【地球上の幽顕の組織定まる】>>
人間の肉体は顕界に属しながらも魂(生命)は幽界に属していることは前述しましたが、「祈り」の徳はその魂徳によって出ずるものですので、人間の想念が幽中を貫いて山人界に届くことは不思議なことではありません。 #0039【魂と心の関係(1)】>> #0040【魂と心の関係(2)】>>
千日祈って験がない場合は万日祈って験あり、万日祈って験がない場合は生涯祈るというように祈願すれば験が与えられるというのは、その祈願の内容や個人の魂徳の優劣によるものと思われますが、人間が「万物の霊長」といわれるゆえんはこの「祈り」にあり、中でも祈りの霊力(精神力)を最高度に発揮する者が「人類の霊長」ということになります。
しかし、「人間の願うことは、道理に適っていると思っても神の方より見れば多くは邪な願いであるために、後に知らず知らずの内に罰を受けることとなります」とあり、このルールが適用されるということは、没収刑の上さらに何倍かの追徴金が課せられるようなもので、自分は正しい祈りだと思っていても、天地自然の摂理から見れば邪なものが多いということは戒心すべきでしょう。
「たとえ邪な願いでも、いったんは験をお与えになります」ということに多少違和感を覚えるかもしれませんが、これはつまり「邪な願い」に対して効験を与えるのは「邪神」であるということで、「禍神(まがかみ)に相率(あいまじこ)らる」というのもこのことをいっています。 #0044【祈りのメカニズム(4)】>> #0045【祈りのメカニズム(5)】>>
山人のことを古学の専門用語で地仙と称しますが、人間出身者が多く、つまりわたしたちの遥か遠い祖先ですので、子孫の願いを叶えるために苦労することも厭(いと)わないと共に、徳を積んだ山人は自然に位が高くなり、さらに上位の位階に進むという事実を考える時、まさに天地自然の絶妙なる秩序がうかがわれます。
さて、どんな人間でも一旦祈念を発することによって幽界のそれぞれの機関がこのように現実に活動を開始し、一事について要路の山人たちが数百里を数度往来して祈願を叶えることもあるという事実を端的に凝思する時、この「祈る」という霊的行為は責任ある一大事で、それだけの覚悟や責任を十分に自覚し、決して行き当たりばったりにデタラメな祈願を発すべきでないことは明らかです。
平田先生:誰の紹介もなく私も知らない人が突然やって来て、私に会いたいというので出てみると、寅吉にどうしても会いたいということだった。その頃は、みだりに人に会わせていなかったが、止むを得ず寅吉に会わせた。
その人は医者で、俗っぽい綺麗ごとを述べた後に、寅吉にまず自分の寿命のことを尋ねた。それはいってはならない掟がありますと寅吉が答えると、私には大願があるのだが、それが成就するかどうかを聞きたいといった。寅吉がそれはどのような願いですかと尋ねたところ、その人は次のようにいった。
私は金銀を多く持ちたいなどという卑しい心は一点もない。ただ大きな門戸を構え、身の上も出世し、財宝も思うままに集まって、それを思う存分使い、人にも施して、寿命も長く、病難もないようにと、常に弁才天や聖天などを信仰して、日々の祭りを怠ることもない。どうだ、この大願は成就するだろうか。」
平田先生:寅吉が少し占うような素振りをして、「ご信心次第で叶うでしょう」といったところ、その医者はとても喜んで帰った。後で私が「あの医者の願望はとても大きいが、本当に叶うのか」と尋ねたところ、寅吉は笑いながらこう云った。
寅吉「あのような占いの答えを、骨を折って考えようとは思いません。あまり深く考えず、適当に申したのです。あの医者が云うには、欲心は少しもなく清らかだということですが、財宝を十分に得て十分に使い、人に施すほどでありたいといいます。私はこれほどまでの欲心はないと思いますが、あの医者はそうとは知りません。その欲心から弁天や聖天などを祭っているといいますが、信仰が厚ければ効験もあるはずですが、遂には神罰に遭うということを知りません。
俗人が大願、大願と云いますが、大抵はこれぐらいのことですので、神々もそれこそお困りになられているでしょう。実の大願というならば、あの人は医者ですから、何か神界に良い療法があるはずです。私は医者ですので、どんな難病でも私の手にかかれば癒えないことはない、というように療法を知って天下の病苦ある人を救い、その法を広く世に伝えて多くの医者にも知らせ、世に医術をもって功を立て、死んだ後も人の病苦を救う神と成さしめ給え、という願いは叶うでしょうかなどと問われれば、骨を折って占い考え、私が知っている療法や薬方のことを語りもしたのですが、あれでは苦笑してしまいます。」
平田先生:この医者のことを後から聞いたのだが、既に多くの財宝を集めて持っている人だが、それでも満足できず、独り飽きずに種々の手段で金を集めているそうである。
上記の医者の願望は、「人間の願うことは、道理に適っていると思っても、神の方より見れば多くは邪な願いである」ことの典型でしょう。
全く欲心の無い人はいませんので、常に「過ち犯すことの有らむをば見直し聞き直し給え」という心を持ち、もし考え違いをしていたことに気付いたならば、それを丁重に報告することが重要です。また、祈願が成就した時の「お礼参り」が必要なことはいうまでもありません。
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