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『幽界物語』の研究(16) -幸安の使命-

#00246 2013.8.6

参澤先生「お前はこの人界においても何か禁戒のようなことがあるのか。五辛酒肉は食べるのか。」
幸安「五辛酒肉も食べますが、断物は獣肉食と灸治です。師仙君が申されるには、私が人界に参る時は人界の法令を堅く守り、仙境のことも親しい類の他は、不信仰の凡人にみだりに語り申さない旨を教えられました。」
参澤先生「お前が諸人のために為すべき所行で、第一はどのようなことを致すのか。」
幸安「私は人間として生まれましたが、元より仙境に縁があり、師弟の契りがあることは手の内にあると師仙君が申されたので、左右の手のひらを見せた時に、中指と薬指を囲むように筋があり、中指は師仙君、薬指は弟子であると承りました。
 私は第一に神界や幽界の事実を篤志(とくし)の人に伝えて現界に広め、諸人を諭して導くようにし、幽顕両界が栄えることを願います。次には諸人の病難を救うため、少名彦那神の御伝によって手の血色を見て病性を知る術、並びに相当の薬法を教えることですが、初めは誰も存知ないため、医者・本多東端正兼(ほんだとうたんまさかね)より医業を生業(なりわい)と致すべきとして門人となり、それより日々病者も参り、それによって家内とも生活しております。
 しかし近頃ものを知らない凡俗が私のことを聞き誤り、魔愚賓(まぐひん)に連れて行かれ、たぶらかされた類と同様に心得、杜撰(ずさん)な虚説を言いふらす者もあって、私のことを銭金を貪る邪魔巧みのように定める者もあるだろうと心配しております。そのため貧窮ではありますが、金銭の謝料を受けないようにすることもあります。
 また、私を出家者のように思う人もありますが、今は僧ではなく、仏法は嫌いです。頭は坊主ですが、世間並みの衣服を着、帯刀して外出します。」
 
 島田幸安が寺に奉公していたのは、当時は仏寺が一般的な教育機関だったためと、仙童寅吉と同様に仏教の実態を知らしめるためのカムハカリだったものと思われます。
 これは今の人々も同様で、何らかのことを学ぶために仕組まれていることもあり、それを学び終えた後には必ず道は開けて来ますので、自らの運命を嘆くことなく務めを果たすように努力すべきでしょう。
 
参澤先生「お前は死ぬことを恐れないのか。」
幸安「私は幽顕両界を見通し、魂の行方にも少しも迷いが無いため、世間の凡人のように死を恐れることはありません。人間が死を恐れ、死を忌むのは訳のあることです。」
参澤先生「それにしては普通の人と同じように見え、仙術を得た様子もないが、どうか。」
幸安「遺体は残る人への形見として魂のみが幽界へ入ると伝え置きましたが、実は私はこのまま幽界へ入り留まるのです。いわゆる不老不死の身です。」
参澤先生「近頃、幽界に往来する人も折々あることだが、皆貧賤の人で尊貴な人がいないのはどういうことか。お前のように神幽のことを世に広めようとの仙官の使者ならば、特に君上高位の方々であってこそ、その道も速やかに広まるべき道理であるが、お前のような庶人を以てするのはなぜなのか。」
幸安「この教えに縁の無い不信の凡人を幽顕の案内に使うことはありません。まして妻妾臣僕を抱え、政道を預かり、君父に従い仕官する人などは、容赦もあるようです。
 さて、貴方のような人に逢って私のことを世に伝えてくれるなどは、実に人界に出た大幸もこの上ないことで、これもまた訳のあることと思います。私は無学不才でものを書くことができず、物語の弁舌も不得手ですが、お答え申し上げたことをお認(したた)め下さること、宜しくお取りはかりの程くれぐれもお願い申し上げます。このことは神界からも訳あってのことです。」
 
 島田幸安も高山寅吉と同様に、世の人々を啓導するために現界へ遣わされた、顕幽にまたがる両棲生活を送る謫仙(たくせん)であったことが分かりますが、幽理を悟り、自らの使命を果たすという信念を持っていれば心に迷いなど無く、また死を恐れるなどもないことは現界の人も同様で、さらに人前で奇術などをこれ見よがしに行うことなく、ごく普通の人のように見えて陰徳を積む者こそ本物の「仙」といえるでしょう。
 
参澤先生「お前の身にも前世があるのか。」
幸安「私は人間(じんかん)に生まれてから一昨年までは何も存じませんでしたが、師の清浄利仙君より承ったところでは、私は元唐土の生まれで神仙の道を好み、青真小童君(せいしんしょうどうくん)と申す薬師神を信じて西域の薬山に登り、異人の官まで進みました。
 そして、かの青真小童君少名彦那大神より勅命があり、今世間では幽深の大道が甚だしく衰えており、汝を以てその道を現界に伝えさせようと思うが、未だ行功が足りないためそのことには使い難い。今一度人間に生まれ、徳行を施した後に来るのだとして、そのように計られたのですが、ほどなく唐土の乾隆帝(けんりゅうてい)の時に人間に生まれて、名を寒敬夫と申しました。
 しかし、未だ道が行われるべき時が至らないため空しく過ごしていたのですが、ようやく東方の大日本には幽界神仙の古道を労(いたず)き、玄理を現し世人を導く聖者なども出て、その教えの行われるべき微(しるし)も見えましたので、やがてこの国に島田幸安として再生しました。そして時至って清玉(せいぎょく)異人と成り、今はこのように幽境に往来しています。篤志の人に逢って道を伝えれば、しだいに世は栄え行くであろうと承っております。」
 
 地上における帰幽霊の出自進退集散に関する幽中の神政は、大国主神及び眷属の国津神(いわゆる産土神)によって執り行われ、その消息は幽事中でも最大の幽事に属するもので、人間界へは決して漏らしてはならないとされています。 #0135【地球上の幽顕の組織定まる】>>
 しかしながら、先師たちによって伝えられた貴重な情報により、これらの秘事の一端を知識することに成功し、天意を自覚された奉道の士は、来(きた)るべき幽真生活を見据えて、「敬神」「愛国」「尊皇」という信念をもって現界生活を送るべきであり、それが本来の霊格高き日本人の姿といえるでしょう。
 
 なお、この『幽界物語』を手写した人の一人で、矢野玄道大人(うし)や大国隆正大人に師事した国学者・三輪田元綱大人は、最後に次の文を書き加えられています。
「島田幸安、三千人を助け給ひし陰徳によりてその位階昇進して、肉身(うつしみ)ながら仙界に入りて、今は八幡宮に仕へて居ると前橋神女に聞けり。」
(「前橋神女」とは、明治初期に前橋に居住し、ある種の幽界に通じていた少女・富田鎧(がい、後に「春」と改名)のことです。)

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