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『仙境異聞』の研究(17) -山人の飛行法-

#00152 2012.1.27

平田先生「師に伴われて行く時は大空を行くのか、地を歩くこともあるのか。」
寅吉「地を歩くこともありますが、遠くへ行く時は大空を翔けて行きます。」
平田先生「大空を行く時は足で歩むのか。または矢のようにスウッと行くのか。絵にあるように雲に乗って行くのか。その時の心地はどうだ。」
寅吉「大空に昇った時は、雲か何かはわかりませんが、綿を踏むような心地がするものの上を、矢よりも速く、風に吹き送られるように行くため、私たちはただ耳がグンと鳴るように感じるだけです。上空を通る者もあり、また下空を通る者もあります。たとえば魚が水中に遊んで、上にも泳ぎ、底にも中にも、上下になって泳ぐようなものです。」
平田先生「大空に飛び上がる時には高山の峰か、または高い樹の梢(こずえ)などに昇るのか。」
寅吉「それは必要ありません。何をすることなく飛び上がります。」
平田先生「大空は寒い所を通るのか、暑い所を通るのか。」
寅吉「まず大地を昇ると、だんだんと寒くなりますが、最も寒い所を通り抜けた後はとても暑くなります。多くの場合は寒い所と暑い所の間を通るために、腰より下は水に入ったように寒く、腰より上は焼けるように暑いです。
また、そこをさらに昇って暑い所ばかりを通ることも多いので、髪は縮れてしまいます。また、寒い所ばかりを通ることもあります。遥か上に昇ると、雨が降ったり風が吹くこともなく、天気はとても穏やかです。」
平田先生「飛び上がる時に何か道具を用いるのか。」
寅吉「何も用いることはありません。私は未熟なためか自由自在にはできませんが、師にどのような術があるのか、師に従って進退を共にすれば空行も自由で、たとえば雁や鴨など、一羽が飛び上がれば群れの鳥がその後に従って飛び上がるように、師についていればどこまでも行くことができます。」
平田先生「大空からこの地球を見た様子はどうか。」
寅吉「少し飛び上がって見ると、海川や野山、人が往来する様子まで見えて、とても広く丸く見えますが、しだいに高く上って見ると、海川や野山の様子も見えなくなり、むらむらと薄青く網目を引き伸ばしたように見えます。さらに上って行くとしだいに小さくなって、星のあるあたりまで上って国土(地球)を見ると、光って月よりもかなり大きく見えます。」
平田先生「星のある所まで行ったのなら、月の様子も見たのか。」
寅吉「月の様子は近付くほどしだいに大きくなり、寒気が身を刺すように厳しくて、近くには寄り難く思われますが、二町ほどの所まで近付いてみると、思いもよらず暖かいのです。光って見える所は地球の海のようで、泥が混じっているように見えました。俗に兎が餅を搗(つ)いていると云われる所には二つか三つ穴が開いていました。しかしかなり離れて見たので正しくはわかりません。」
平田先生「月の光っている所は地球の海のようであることは西洋人が考えた説にもあって、私もそのように思うのだが、兎が餅を搗いているように見える所に穴が開いているということは理解に苦しむ。その場所は地球の山岳のようであるといわれているが、どうなのか。」
寅吉「あなたの説は書物に書かれてあることをいわれているのですが、それは間違いです。私は書物は知りませんが、近くで見て申し上げているのです。近寄って見ると確かに穴が二つか三つあって、その穴から月の後ろにある星が見えたのです。だから穴があることは疑いありません。」
平田先生「星はどのような物であるかということを見てわかったか。」
寅吉「星は地球から見ると細かい光が多く並んでいるように見えますが、大空に昇って見るといつも明るいため、地球上から見るほど光っては見えません。しかししだいに大きく見えて、四方上下に何百里あるともわからず、遠く離れてとてもたくさんありますが、地球もその中に混じって見分けがつきません。
 星がどのような物かを見たいと師にいったところ、では見せてやろうと、地球から見てとくに大きく見える星を目指して連れ上がってくれたのですが、近くに寄るほどボウッとした気のように見える所を通り抜けたことがあります。通り抜けて遠くまで行って振り返って見ると、元のように星だったのです。そのことによって、星は気が凝り固まった物ではないかと思われます。また、俗に天の川と云われているものは、ただ白くおぼろげに見えて、少し水気があるため、中にとても小さな星が無数にあるように見えるのです。」
平田先生「太陽はどのような質のものであるか見て知っているか。」
寅吉「太陽は近くに寄ろうとしても、焼けてしまいそうで近寄ることができません。しかし望遠鏡で見るより遥かによく見える所まで昇って見たのですが、燃え盛る炎の中を雷のように飛び交う閃光によってよく見えないため、どのような質の物かはわかりませんでした。
 しかし、何か一つの物から炎が燃え出ているように見えました。試しに手火を灯してみたところ、太陽の近くではさらに光がなく、その炎は見る見る内に吸い寄せられるように、たちまち上っていきました。」
 
 月に穴があって後方に星が見えることは水位先生も『異境備忘録』に記されていますが、そもそも月は、最も清陽なる性をそなえた太陽から重濁な質が分離して地球となり、さらに半清半濁の地球中の重濁な質が分体したものとされており、また地球のように天沼矛(あめのぬほこ)によって修理固成されたという伝承がないことからも、地球に比べて凝結力の弱い未完成の星なのかもしれません。 #0034【地球の修理固成】>> #0036【神代第一期補遺(2)】>> #0069【神代第二期のはじまり -月の分体-】>>
 また、水位先生が現界(顕界)から他の異次元世界(幽界)に行かれる場合、その中間の空中を通過される時の体験を所々に記されていますが、下記の『異境備忘録』の一節は寅吉の話と考え合わせても興味深いものがあります。
 
「川丹(せんたん)先生に伴われて日界に近づくに、暖冷の処を幾重となく過ぎ行く程に、火気身を焼くが如き所あり。この所を過ぎること暫くにして、日界を下に見るなり。それより下るに四、五月頃の気ある所あり。(中略)また、ある日伴われて月界に近づくに、暖気なる処を過ぎれば、また寒気甚(はなは)だしき所あり。」
 
 以前にも述べたように、山人界は天孫降臨の後、神武天皇の御代になって創設された日本固有の幽界で、当時の霊威の人物が多く編入され、人間界に最も近い条件を備えた界とされています。
 その説に従うならば、太古の日本人である山人たちは、何らかの方法で重力を無にし、引力から抜け出したということになりますが、ムー大陸の研究で有名なジェームズ・チャーチワード氏がインドに滞在中、隠者リシーから次のような話を聞いたことが伝えられています。
 
「人間はいわゆる重力を超える力を持っている。人間が地球の磁気力を超えた振動を生み出し、その影響を無にすることができる。人間を地上に引き付けているのはこの磁気力だけなのだ。磁気力が無に帰せば、人間の身体は実体となり、実体そのものには何の重さも無いから、彼は自分の身体を浮かび上がらせ、空中を飛ぶことができる。彼は地上を歩くと同様に水上を飛び歩くこともできよう。あの巨大な天体たち、太陽や星たちは宇宙間に何の重さも持っていない。
 キリストの奇跡は、地球に最初の偉大なる文明を築き上げた我々の先祖が、ずっと以前に知り、実行していた科学をそのまま使っただけなのだ。この古代の宇宙力は、必ずもう一度人間が再発見すべきだ。それなくしては、人間は完全な存在になり得ない。」
 
 古代中国の仙人たちが霊符を用いて飛行したことも仙道に伝えられており、南米の古伝にも「ずっと昔は、誰でも空を飛び、すべてが軽く、大石も動かせた。ずっと昔は、歌を唄い杯を叩いて空を飛んだ」とあるように、この種の古伝承は世界各地に存在しています。

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