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『幽界物語』の研究(48) -徳川家康公のこと-

#00278 2014.2.13

参澤先生より書簡で利仙君に問「東照神君(とうしょうしんくん)家康公はどこの幽境におられるのでしょうか。また、東照大神君の左右に配する日光大神君及び日吉大神君は、幽界にては実は何と申す神でしょうか。」
利仙君より答「東照君家康主(ぬし)は日光山の幽宮に居住され、神仙と成っている。東照宮のことは極密の義であるが、幽界では中央に東照大神君家康命、左右は日光大神君信長命、日吉大神君秀吉命である。」

 徳川家康公は本能寺の変で織田信長公が討たれた後、豊臣秀吉公と対立関係にありましたが、臣従した後は豊臣政権の下で最大の領地を得て五大老の筆頭となりました。そして、秀吉公没後の慶長五年、関ヶ原の戦いで対抗勢力に勝利し、その覇権を決定付けて日本全国を支配する体制を確立し、その後二百六十四年間に亘る徳川(江戸)時代の礎を築いた日本史上における大人物ですが、その家康公が神仙となって日光山の幽境に居住され、日光大神君信長命(織田信長公)と日吉大神君秀吉命(豊臣秀吉公)が東照大神君家康命に奉仕されているということは大変興味深いことです。
 
 日光東照宮に家康公が祀られることになったのは、遺言に「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば日光山に小さな堂を建てて勧請して祀ること。そのようにすれば八州の鎮守となろう」とあったことが理由ですが、「八州の鎮守」とは、「日本国の守護神」という意味で、誠に愛国心の強い方であったことが分かります。
(日光東照宮は本殿前に設けられた陽明門とその前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られており、またその線を真南に行けば江戸に着くとされ、さらに主要な建物を線で結ぶと北斗七星の配置と同様に設計されているといわれています。)
 
 ちなみに、家康公は今川氏の人質として臨済寺に預けられていた幼少の頃から、皇室の祖神である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主祭神とする浅間神社を厚く崇敬し、十四歳の元服式を浅間神社で行われ、関ヶ原での戦勝後は駿河国の一宮・富士山本宮浅間神社の社殿を造営し、慶長十四年には富士山頂を浅間大社の境内であると認め、その後の歴代将軍も深く敬神されたことが伝えられています。
 また、あまり知られていませんが、実は家康公は日本古学の開闢に大功のあった方で、そのことについて平田篤胤先生が次のように記されています。
 
「この学風を古学と云ひ、学ぶ道を古道と申す故は、古へ儒仏の道、未だ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意(こころ)と古への言(ことば)とを以て、天地の初めよりの事実を素直に説き考へ、その事実の上に真(まこと)の道の具(そなわ)ってある事を明らむる学問である故に古道学と申すでござる。
 そもそもこの学風の由って来るその始めは、東照大神君、その糸口を開かせられ、公子尾張の源敬(げんけい)公、その御遺意を紹(つが)せられ、さて水戸中納言光圀卿、大きに興起あらせられたことでござる。この君の世に殊(すぐ)れて御坐(おわしま)せることは世の人のよく存じ居ることで、即ち世に水戸の黄門様と申すはこの御方のことでござる。
(中略)
 そもそも中古に、儒仏の道が渡り来てより以来(このかた)、世人の心、その風に推し移って古道の趣は粗略(おろそか)に成り行きまして、次第に猥(みだら)はしく、世を経るに従って古への道は絶えたる如く、足利将軍の天下の政事(まつりごと)を執り申されましたる頃は、誠に乱世の至極でありましたところが、織田信長公、豊臣秀吉公、次々出させられて大きに悪幣(わるぐせ)をきため直されまして、天下の人略その威勢には服しましたなれども、猶(なお)人心は穏やかになりませぬところに、畏(かしこ)くも東照大神君、御武徳を以て天下を治めさせられ、その御仁澤至らぬ隈(くま)なく、人々忠孝の道を心得、尊内卑外の旨をも弁(わきま)へて、次々古へに復(かえ)り行くべき中にも、世を治めさせらるるには古道を学ぶべきこと専一なる儀を思召(おぼしめ)され、天下に命(おお)せて古書を御求め遊ばされ、緊要の書どもをば悉(ことごと)く書集を命ぜられ、京都にも江戸にも駿府にも差し置かされたでござる。
 これらの御事は、その頃の御記録どもを拝見致せば明らかなることで、その多く集めさせられた古書どもをば、尾張の源敬公に御附嘱なされ、敬公これに依って、『神祇実典』、『類聚日本紀』など申す書を選ばせられ、有用の御書ども御選びありたる御事は、これより世に広まり、この学問仕へ奉る人々、追々出ましたる中に、身は下ながら荷田宿禰羽倉東満翁、賀茂縣主岡部真淵翁、平阿曾美本居宣長翁、この三人の大人(うし)たち次々に励み学ばれ、その門流も多く、今かように真盛(みさかり)と相成り、我が輩(ともがら)に至るまで、大平の御徳化を蒙って、心寛(ゆたか)に古へ学び仕へ奉ることと成りたるは、専(もは)ら東照大神君の御恩頼(みたまのふゆ)によることと、有り難しとも尊しとも称へ申すべき詞(ことば)もないでござる。」
 
 公子尾張の源敬公とは家康公の九男・徳川義直公のことですが、義直公の最大の特徴は尊皇思想にあり、その名の通り物事において筋目を重んじた人物で、現代の名古屋を中心とする東海地方の発展の基礎を築かれた日本有数の名君であったと伝えられています。
 水戸光圀卿は尊皇の心厚く、楠木正成公を忠臣として称え、『大日本史』の編纂を開始されるなど、その後の尊皇論や天皇制に大きな影響を与えた方ですが、宮地水位先生の『異境備忘録』に帰幽後は神仙界に入られたことが記されています。

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