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『異境備忘録』の研究(1) -概略-

#00316 2014.9.26

 『異境備忘録』は土佐国・潮江天満宮の神官であった宮地水位先生によって著わされた幽真界の実相に関する記録ですが、文字通り備忘録で、先生が神仙界や諸多の幽境に出入りされた際の見聞の一端をメモ程度に記しておかれたものであり、記述が体系的でなく、首尾一貫性を欠き、内容も玉石混交であるのはそのためです。
 しかしながら、その記述の多くには幽顕交通された年月日、出発地点及び帰着地点、来迎の神仙の御神名や、赴かれた幽境の地理名称の詳細が記されており、先生が別に記された諸記録と相互に対照し、同類項を括り出すように観念を整理しつつ時間的な脈絡をたどっていくと、しだいに雲霧消散して秀峰を仰ぐとでもいうべき驚異の景観に接することとなります。
 幽界の極めて局限された部分的な消息を伝えた著作としては、平田篤胤先生の『仙境異聞』や参澤明先生の『幽界物語』、その他二、三のものがありますが、それらの諸記録と『異境備忘録』を対照する時、その高さと深さにおいて、別乾坤(けんこん)の根元的な新天地に接触し得る道福に恐懼する次第であります。 #0136【『仙境異聞』の研究(1) -概略-】>> #0231【『幽界物語』の研究(1) -概略-】>>
 
 水位先生が現界に生を享けられたのは嘉永年の旧暦十一月八日で、宮地家家牒には先生自ら「宮地再来(よりき)、嘉永五水壬子年十一月八日卯上刻、土佐国土佐郡潮江村上町古名縁所(字土居町西の丸と云)に生る、幼名政衛、諱(いみな)は政昭と号す、父は宮地常磐(ときわ)、母は同村熊沢弥平の二女なり」と記されていますが、ペリーが浦賀に来航したのが翌年の七月八日で、日本国内は天下を挙げて物情騒然としていた頃でした。
(水位先生は二十一歳の時に名を「堅磐(かきわ)」と改められ、二十二歳では「故ありて水位と改む」と記されていますが、この「水位」という道号は少名彦那神によって命名されたもので、「水位星」という星の名に因(ちな)んだものであることを別の手記で明らかにされています。その後、三十歳で別に「中和(ちゅうわ)」とも号せられましたが、四十九歳にして「再来」と改名されました。年譜には「明治二十三年七月、大患に罹り殆ど死す。八月、堅磐を改名して再来と改む」と記されています。)
 
 水位先生は父である常磐先生が神明に通じたことを地元の神官達に妬まれ、その讒言(ざんげん)によって神主職を追われたため、十二歳で家伝の潮江天満宮の祀職を継がれ、十三歳の正月五日には神祇管領卜部(うらべ)家の許状を得て任官し、宮地若狭(わかさのすけ)菅原政昭と名乗り、早くも堂々たる高知随一の大社に神明奉仕されました。当時の神職の級位は一等司業より八等司業まで分かれていましたが、水位先生の級位は一等司業で、この最高級位を有する祀官は全国でも指を屈する程度しか存しなかったのでした。
 また、先生は幼少より学問に対する造詣が深く、その探求する姿勢は学者肌で、神に仕える他は読書や著述に没頭されたことが伝えられていますが、厳父・常磐先生も水位先生の勉学には特に力を注がれ、十歳の頃より山内藩中の一流の学者や武人十八人に就いて文武両道を学ばれ、就学の種目は文学、漢学、習字、経書、史学、易暦書、医学、剣術、柔術、弓術、砲術等に及び、十六歳には最高藩校である致道館で学ばれました。
 
 その致道館が廃藩置県によって廃校となった際には、その数万冊の図書を常磐先生が入札購入して水位先生の勉学の資料として与えられ、宮地家には土蔵に入れた貴重道書類の他、八畳の書斎から神殿に至る廊下まで本箱がずらりと並んでいたことは、当時の目撃者が等しく語っているところであり、先生御自身も「その数幾万巻なるを知らず」と記されています。
 先生が学ばれた百科の学は、先生の学究心の赴くままに必ず専門的に究められ、『本草綱目』に関する精密な著作があるように植物学も研究され、十八歳の頃(明治二年六月)には四国の山中で鉱山を発見される等鉱物学にも精通されており、仙薬の精製に通じる知識も持たれていたようです。
 また、四十歳前後からは生物学に興味を持たれ、顕微鏡を購入して熱心に微生物の生態研究に打ち込まれる一方、書道も嗜(たしな)まれ、祝詞等は顔真卿(がんしんけい)を彷彿とさせる端整な書体で、短冊等も天衣無縫な筆致として知られています。
 
 水位先生の初めての著作は『勧懲黎明録』ですが、これは慶応三年ですので先生が十六歳の時で、その後「明治二年十八歳、正月より学室に籠居して学術を勉学し、寝食を忘るゝに至る。六月『太古史叢談』を著す」と日誌に記されています。
 そして、その翌年には『霊魂論』、さらにその翌年には『天武天皇正統記』、『大学正記』、『鬼神新論附録』、『神母正記』、『筆山奇談』、『玄徳経』、『幽霊叢談』、『大祓詞解』、『校訂体道通鑑増補定篇』、それ以降も『神仙霊符法』、『天狗叢談』、『導引法』、『使魂法訣』、『神仙妙術訣』、『神仙霊含記』、『医道叢談』というように、専門的な著述を続々と作述されており、その健筆振りは日本古学の泰斗・平田篤胤先生を彷彿とさせます。 #0254【『幽界物語』の研究(24) -平田篤胤大人のこと-】>>
(水位先生の門人帖には約三千人の名が記されていましたが、明治初期における第一流の神道学者であった矢野玄道(はるみち)先生も水位先生に師事され、矢野先生の名著『訂正大学』は水位先生が二十六歳の時の原著によって大成したもので、また易聖と称される高島嘉右衛門翁(高島易断の創始者)も実は水位先生の門人で、神仙道を学んだ一人であったことが伝えられています。)
 
 さらに、水位先生の現界における学術の素養が進むに連れ、神仙界においてもその位階が進み、神仙界の玄台山の書館に出入りを許されて深秘の道書類の閲読を得る便宜が与えられ、また高貴な神仙より直接指導を受けられたことも『異境備忘録』に記されていますが、先生の学的生涯はその特異な霊的環境のため極めて高次元で、文字通り奇想天外より来るものが多く、人間的な精励刻苦の上に築かれた学識の上に、さらに天来の思想を添加されたもので、普通の世の常の学者とは自ずから別次元の立場に恵まれていたのでした。
 かくして天来の玄理・秘儀をもたらされた水位先生の著述は膨大な量に上り、先生の御帰天後は数ヶ所に分割して保存され、その一部は宮地文庫として高知図書館に保管されていましたが、惜しいかな戦火によって全て炎上し、分家に所蔵してあったものも全て祝融の神によって召されることとなったのでした。
 
 しかしながら、奇跡的にその学統は、水位先生所伝の五岳真形図や三皇内文を始めとする重秘の諸真形図や霊符類、貴重な道書神宝類や深秘の伝法記録等と共に、水位先生と同郷であり、明治の神道界の重鎮であった元宮中賞典・宮地厳夫先生が継承され、厳夫先生が写本された『異境備忘録』の後書には、「この異境備忘録は神秘的体験の秘められた記録でありまして、素(もと)より普通の著述といった意味合いのもとに書かれたものではなく、文字通り一つの備忘録でありますが、その神秘的体験の内容は古来のこの種の記録に照し最も根源的な、しかも新しい分野に触れられた極めて異彩あるものとして、又深い厳粛な修道上の内的世界を脱白に遺記されたものとして、体験道たる神仙道の研究上重要なる一資料たるを失わないものと確信致しております」と記されています。
 
「幽冥界の事を記するに当たりては、何れの界に入りても、帰るがいなや近年は筆記すれども、大事なるは書き洩らせる事あり。その大事のことも書きたるやうに思へども、後日見れば大事件は如何(いか)なる事か書き落として、文句の続かぬも多かるを、心付きては書き入れもせんと思ふに、これさへたゞ思ふのみにて、或(あるい)は心地悪しくなり頭痛などして書き入るゝことも又うるさくなり、明日こそ書き入れも致さめと思ひつゝ、その日になれば亦(また)前日の如く。かくして一日二日延び行く随(まま)に夢の如くなりもてゆきて、終(つい)に忘れ果つるなり。
 又、その忘るゝことを知りては、幽冥界より帰りたる時に早く大事なる事も書きつけて漏れ落ちたる処はなきかと数十遍も繰り返して読み見るに、文句も聞こゆるを、翌朝取り出して見れば、文句も散乱して木に竹接(つ)ぎたる如く、我が筆記せし物ながら合点のゆかぬ様になりて、再び書せんにも大に労の行くやうに思ひ、怠惰の心俄(にわ)かに起こりて、如何にしても大事をば書き止める事難し。こは幽冥中に許さぬ理(ことわり)のあるなるべし。」
「現世にて神等(かみたち)に伺ひ奉りたき事どもありて、その事を心中に思ひ幽界に入りて見れば、その伺ふ事をも打ち忘れ、又この界に帰りては忽(たちま)ち思ひ出るものなり。
 さればこの度は忘れじとて紙に書き付けてかの界に入る時は、その書き付けを懐中にしながら忘れ、或は又その書き付けに不図(ふと)心付きて尋ぬるに、その時ばかりはよく覚え居(お)れど、帰りて見れば夢の如くに恍惚として証(あかし)なきが如くして忘れ、或は現世に訳し難きもかの界に入りては自然に解する事も多くあり。人間(じんかん)に洩らし難き事件に限り必ず忘るゝなり。又、人間に洩らしても咎めなき事も日を経る間に忘るゝなり。」
「国々の名山・高山の幽界は、毎々(つねづね)見て別に記し置ける書ありしに、その中には人間に洩らされぬ秘事も多くありて、その書を人に見する毎に熱病を七日ばかり発する事はいつも違はず。故に去る明治十六年一月一日に焼き捨てたり。されど多くは暗知したる事もあり、人に語らんとする時は、夢見たるやうに思ひて順序の立たぬ事あり。その人去りて後には明白に思ひ出すことは常にあるなり。」
 
 さて、水位先生の御遺稿をもとに幽界の実相について考究したいと思いますが、上記の『異境備忘録』の記述にある通り、幽冥界の実消息を一般公開することについては霊的制限が加えられる場合があり、また重秘の漏洩には冥罰が下されることもありますので、天機を窺いながら畏(かしこ)みつつ筆を進めて参りたいと存じます。

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