『本朝神仙記伝』の研究(1) -饒速日命-
#00383 2015.11.8
(清風道人云、この『本朝神仙記伝』は、宮地水位先生の仙去後に神仙道の道統と学系を紹統された方全霊寿真・宮地厳夫先生が、多忙な公務の余暇を利用しながら三十年以上の歳月をかけて編纂された書で、神仙の道を成就したと認められる邦人・二百数十人の生涯について解説されたものですが、その第一話として饒速日命(にぎはやひのみこと)の伝を抄出したいと思います。 #0164【神仙の存在について(2) -『本朝神仙記伝』のあらまし-】>> #0379【水位先生の門流(1) -道統第二代・方全先生-】>> )
饒速日命は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の皇子(みこ)なり。御母は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の御女(みむすめ)・栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)にして、皇孫(すめみま)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)、同母の御兄に坐します。
皇孫・瓊々杵尊、天上(あまつくに)に於(おい)て天位に即(つか)せ給ひ、日向国(ひむかのくに)なる高千穂峰に天降り、天下に君臨し給ひし後、饒速日尊もまた皇祖天神の勅命(みことのり)に依り、天磐船(あめのいわぶね)に乗りて河内国なる河上の哮岳(いかろがだけ)に天降り、また大倭国(やまとのくに)なる鳥見(とみ)の白山(しらやま)に遷り住み給ふ。
この時饒速日尊、天磐船に乗りて大虚空(おおぞら)翔り行きつゝ、この郷(さと)を廻(めぐ)り睨(み)て天降り坐しゝに依りて、「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と云へる国名は起こりしとかや。
かくてその天降り給ふ始め、皇祖天神より饒速日命に天璽十種(あまつみしるしとくさ)の瑞宝(みづだから)を授け、鎮魂(みたましずめ)の法を伝へ給ふ。その十種の瑞宝は、即ち沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(まかるかえしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちがえしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)の十種なり。
また、この十種の瑞宝を用ひて鎮魂を行はむ法は、苦しみ痛む所あらばこの十種の瑞宝を合せて「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)」と言ひて、布瑠部(ふるべ)、由良由良止(ゆらゆらと)、布瑠部、かくなさば死(まか)れる人も返りて生きなむものぞと教へ給ひけるとぞ。これ即ち鎮魂の法なり。
こゝに於て饒速日命、この国に降り給ひし後、常にこの法を修め、即ち離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮め、所謂(いわゆる)長生久視の道を得て永くこの地に留まり給ひ、長髄彦(ながすねひこ)等を服従(まつろ)はしめて大倭国を治め、遂に長髄彦が妹、御炊屋姫(みかしぎやひめ)を娶(めと)りて可美真手命(うましまでのみこと)を生ましめ給ふ。
然(しか)るに日向国に天降らせ給へる皇孫・瓊々杵尊は、その皇子・火々出見尊(ほほでみのみこと)、その皇子・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、その皇子・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)即ち神武天皇まで凡そ御四代を歴(へ)させ給ひ、帝都(みやこ)を日向国に定めて天下を統御し給ひしが、神武天皇の御代に至りて中洲(なかつくに)を平定し給ひ、大いに皇謨(こうぼ)を拡充し給ふ。
こゝに神武天皇御東征の皇軍(みいくさ)、大倭国に迫りし時、長髄彦、人を遣はして天皇に申し奉らしめけるは、「天神(あまつかみ)の御子、天磐船に乗りて天降り給ひ、我が方に御座(おわ)します。御号(みな)を櫛玉饒速日命と申す。この命、我が妹・御炊屋姫を娶りて兒息(みこ)・可美真手命あり。我はこの饒速日命を君とし仕へ奉る。思ふに天神の御子、両種(ふたはしら)在るべきの謂(いわ)れ無し、いかにぞ更に天神の御子と称(なの)り来りて我が国を奪はむとはし給へるぞ」と申さしめければ、天皇これに答へて、「天神の御子また多くあり。汝(いまし)が君とする所、実(まこと)に天神の御子ならむには、必ず表物(しるしもの)あるべし。もしあらばそれを示(みせ)よ」と云はしめ給ふ。
長髄彦、直ちに饒速日命の天羽々矢(あめのははや)一隻(ひとつ)と歩靭(かちゆぎ)とを取りて天皇に示せ奉る。天皇、これを御覧(みそな)はして「これは真(まこと)の物なり」と宣(のたま)はせ給ひ、天皇もまた御親(みみずか)ら佩(は)かせ給える天羽々矢一隻と歩靭出して長髄彦に示せ給ひしに、長髄彦、その天表(あまつしるし)の物を見奉りて益々踧踖(おじかしこま)りしかども、勢ひ今更に止まることを得ずて猶(なお)心を改めざりけり。
然れども饒速日命は天下は本(もと)より皇祖天神の皇孫尊に与へ給ひし所なるをよく知り給へるのみならず、長髄彦の稟性(うまれつき)、大義を説き、名分を諭すもその効無きを認め、遂に長髄彦を誅戮(ちゅうりく)し、その兵衆を率ひて帰順し奉られぬ。
天皇は本より饒速日命は天より降れる神なることを知食(しろしめ)し給ひしに、果たして忠孝を立てられしかば、即ち誉めて寵(いつくし)み給ひしとぞ。この饒速日命は即ち物部氏の祖神(おやがみ)なり。中洲平らぐの後、その子・可美真手命に皇祖天神より授かり給ひし天璽十種の瑞宝を授け、鎮魂の法をも伝へて永く天皇に仕へ奉らしめ、自らはこの世を去りて遂にその終る所を知らずなりしとかや。
厳夫云、本伝は『日本書紀』、『古事記』、『古語拾遺』、『旧事本紀』を始め諸書を参集してこゝに挙げたり。冒頭より皇孫尊降臨のことを云へるまでは多く記紀二典を採り、「饒速日命もまた皇祖天神の勅令に依り、天磐船に乗りて河内国なる河上の哮岳に天降り云々」と云へるより、十種の瑞宝を授かり鎮魂の法の伝へをも受けられたること等を云へるは専(もっぱ)ら『旧事本紀』の「天孫本紀」と「天神本紀」とを参考してこれを載せ、「離遊の運魂を招きて云々」と云へるは全く『令義解』に採り、皇孫尊より神武天皇までの御代数はこれまた記紀二典に依りて書き、神武天皇の御東征の時、天表の天羽々矢また歩靭を御覧(みそなわ)し且つ示し給へることより饒速日命の長髄彦を誅して帰順し給へること等は専ら『神武天皇紀』に依りて記し、また饒速日命の御炊屋姫を娶りて可美真手命を生ましめ給へることは『旧事本紀』をも参考して記せり。
かくて饒速日命を以てこの『神仙記伝』の巻首に挙げたるは、本伝に載せたる如く、この命は皇孫・瓊々杵尊の御兄に御座しまして、皇孫尊の天下に君臨し給ひし後、更に天降り給ひしかど、かの皇祖天神より授かり給へる鎮魂の法を修めて長生し給ひ、皇孫尊の御皇統は第四代を歴(へ)させられて、神武天皇の御世に至らせ給ふまでも生存(いきながら)へて御座しましは、所謂(いわゆる)神仙に非ずして何ぞ。且つその終る所の詳(つまび)らかならざるも、また神仙たるを証するに足るべし。
然るに「天孫本紀」に「饒速日命、既に神損去(かみさり)坐して、天(あめ)に復(かえ)り上らざる時、高皇産霊尊、哀しみ泣き給ひて、即ち速飄命(はやちのみこと)に命(おお)せて、その屍体(かばね)を天上(あまつくに)に上(のぼ)さむとして、七日七夜間遊び哀しみ泣きて、天上に斂(おさ)め竟(おえ)ぬ」と云へること見えたれど、これは『神代巻』に載せられたる、天稚彦(あめのわかひこ)が死したる時、その父及び妻子等が天より降り来りて、その棺を持って天上に上り去りたる事蹟を混(まが)ひ記したること、疑ひ無ければこれを採らず。
また同書には、饒速日命は神武天皇御東征の前に世を去り給ひて、既に可美真手命の代と成りて居りしものゝ如く記して、長髄彦を誅して帰順ありし事蹟も皆可美真手命のせられしことの如く記したれど、これは『日本書紀』、『古事記』、『古語拾遺』を始め、その他正しき書には孰(いず)れも饒速日命の成し給ひし挙げざるは無くして、これに合ざればこれまた採らず。
思ふに饒速日命は神武天皇中洲を御平定の後、猶(なお)暫く顕世(うつしよ)に留まり給ひて、可美真手命に十種の瑞宝及びこれを用ひて鎮魂を行ふ法を授け給ひ、それより徐々(おもむろ)に去り給へるものなるべし。
因みに云、皇孫尊の降臨の時、天位(あまつひつぎ)の天璽(あまつしるし)として皇祖天神の授け給ひしは神鏡(みかがみ)、神剣(みつるぎ)、神璽(みたま)の三種(みくさ)にして、この三種の器に含め給へる意味の深長なることは今更に云ふを待たざる所なるが、饒速日命に授け給ひしは十種なれども、要するに前の三種を細かに別けて授け給ひしに外ならず。
それはまず沖津鏡、辺津鏡は二種ともに鏡に外ならず、生玉、死返玉、足玉、道返玉の四種は皆玉に帰すべきものなり。八握剣、蛇比礼、蜂比礼、品物之比礼も、また剣の一種に帰す。然れば鏡を二種に別ち、玉と剣とは各々四種に別ちて十種と為し給ひしものなり。
而(しか)してこの三種と十種とは即ち鎮魂の秘旨を含め給へるものなり。長生の道を修むるの要妙たるものなり。道家の修真秘訣と相一致するものなり。然れどもその説長ければこゝに尽くし難し。それは猶次々の因みある所に述ぶべし。
(清風道人云、饒速日命は地界において二千数百歳の寿を保たれたことになりますが、現代の普通人に比べて登場人物が甚だ長寿であることを根拠として、日本の古伝承を偽伝であると断定するのは早計です。 #0177【「天孫降臨」の年代】>>>
また、宮地水位先生の『異境備忘録』に、陽魂の凝結と増大、魂徳(霊徳)の発揚、霊胎(玄胎)長養を期するため、剣・鏡・玉に自らの生霊を鎮祭する神法道術の存することが記されています。 #0353【『異境備忘録』の研究(38) -天狗界の養生法-】>> )
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