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神仙の存在について(5) -河野至道大人の尸解-

#00167 2012.4.24

 そして、明治九年の夏の頃でありました。その頃私は教部省の命を奉じ、大阪に在勤して皇道の講義をしておりましたが、長澤左仲と申す医者を紹介人として、この河野が山女(やまめ)の実二個を持って面会を求めて参りました。
 そこで面会して話を聞いてみますと、河野が山に入る前に、始終私の講義を聞いて、初めて神の厳存し給うことが解り、神がまさしく厳存し給う上は、至誠を以てこれを信じ、その道を尽くし、その法を修めれば、神にも拝謁できないものではないと決心し、それより種々の善行を志し、捨身決定して犬鳴山に籠って大行を始め、遂に素懐を達したと申して喜んでおりました。この河野が私の講義を聞いたと申すことは、本人の話で始めて承知いたしました。
 
 この後、河野は時々参り、ある時は三日二夜滞在したこともありましたが、一日の内で朝昼夕と三度、葛湯(くずゆ)をコップに一杯服する他、何も飲食をいたしませんので、極めて心安い客でありました。
 ところが河野は、「私は飲食はいたしませんが、私の腹はこのとおりでございます」と申して、その腹を出して自ら両手に力を入れて打ってみせましたが、さながら太鼓でも叩くような音がしまして、全く鞠(まり)のように張り満ちておりました。
 
 ある時はその妻の兄、木村知義を伴い参りまして、私は木村とも親しくなりました。ついては、ただ河野より直(じか)に話を聞いたばかりではありません。その後、河野至道は、かの照道寿真(しょうどうじゅしん)より修真の法を授けられた顛末(てんまつ)を自記いたし、『真誥(しんこう)』と題した書を私に送り越し、また知義も至道と往復の書及び直話を筆記し、『至道物語』と名付けて一篇となし、これもまた私に送り越しましたので、その二書は今でも私の手元に現存しております。
 
 ところが私は明治十年より家事の都合により東京に出ましたので、互いに出会いする機会がありませんでした。その後伝聞いたしたところによると、至道は東京である省の土木課に奉職し、月給わずか十三円でしたが、葛湯(くずゆ)の他には飲食をいたしませんので、一身の費用としては月に三円以内で事足りたため、毎月十円余りの貯蓄をなし、数年を積んで相応の財産を作り、再び大阪に帰ったと申すことでありました。
 
 また、この至道が東京に奉職中、追々に世に知られ、入門して至道より仙道修練の法を伝習した人も往々にあったと申すことで、同人が持っていた門人帳には七十数名の名が列記してあったと申すことであります。
 かの山岡鉄舟なども入門したかどうかは存じませんが、至道の話を聞いた一人であると聞いております。既に河合清丸居士(こじ)なども、鉄舟居士より勧められて河野を大阪に訪ねたと、その著述『無病長生法』に書いてあります。また、江州人の樹下石見守(きのしたいわみのかみ)、紀州人の湯川潔などは、全く至道の門人に違いありません。
 
 それについて一つのお話があります。樹下氏は至道の教えを受け、五穀その他普通の食物を一切避け、ただ葛湯と蕎麦粉のみ用いて十年余りも存在していた人でありますが、その間も情欲は断たなかったと見えまして、子が生まれたそうであります。
 ところがその子は頭髪が全くの赤毛で、西洋人の髪のようであったと申すことであります。ということは東洋人の髪の黒いのは主として五穀を食するためで、欧米の人の髪の赤いのは主として五穀を食しないためではないかと申したのでありました。このお話は岩倉公のお家に樹下氏と一緒にいた人から聞いた確かな事実であります。
 
 さて、至道は大阪に帰って後、西区紀伊国橋西北詰、粕谷治助方に寓して、相変わらず修練法を怠らずにやっていた様子でありましたが、明治二十年七、八月の頃、同地において死去いたしたと聞きまして、一時は甚だ不審に思いましたが、その最期の模様を詳しく聞いて、私は定めて尸解(しか)したものであろうと判りました。 #0051【尸解の神術】>>
 その訳は、至道と同年四月下旬より百日間の断食の行を始めまして、七月末までに九十七、八日間は全くその断食を続けたとのことでしたが、これまではしばしば断食しても、時々水ばかりは少し用いていたことがありましたのに、この時の断食に限り、空気を吸う他には水をも断っていたそうであります。
 
 ところがその百日に至る二、三日前、寓所の主人を呼び、「氷水を取ってくれないか」と頼みますため、主人がコップに二杯取って盆に載せて側に持って行きました。すると至道は机にもたれてうつむいていたのですが、やや顔を上げ、「私も今両三日で満行になりますが、急に行かねばならないことになりました」というので、主人は早合点をして、またいつもの通り満行前にも例の貝塚へ行くのだろうと思って、「先生、長い御行でございましたから後の御養いが大事であります」と申したところ、「ありがとう」といってまた机の上に伏したと申すことであります。
 
 そこで主人は氷水をそこへ置いて退き、他の用事をして再び行ってみたところ、一つのコップの氷水は飲み尽くし、次のコップの氷水は少し飲んで元の盆に載せ、至道は始めのように机に伏しているため、よく眠っているものと思い、声もかけずに退出いたしまして、それから何度行ってみましても同じ状(さま)で目を醒まさないようすでありますから、主人も少し不審に思い、「先生、先生」と声をかけて呼び起こしてみましたが、答えもなければ起き上がりもいたしません。そこでますます不審に思って傍らに進み、揺り起こしてみましたが一切答えがありません。
 
 にわかに大騒ぎとなって医師を迎えて診断を受けましたけれど、既に臨終となっていて、もはや治療を施す余地もないとのことなので、前に至道が主人に向かい、「急に行かねばならないことになった」と申したのは、貝塚へではなく、この世を去って幽境に往かねばならないようになったと申す意味であったのだろうと、ここに初めて知ったと申すことであります。
 これは至道が世を去った日より二十日目に当たる日、私が図らずも大阪に行き、北区中の某方において、不思議にもその至道の寓居の主人に出会って、親しく聞いた確実な話であります。そういう訳で、この至道の最後の模様が普通の人の死に方と違っていますので、定めて尸解したのであろうと思いました。

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