HANA'S MELANCHOLY『風-the Wind-』4/17夜(A班プレビュー)
二度の公演中止を経て上演された今作。コロナ禍の前から興味深く捉えていたのだけど、このタイミングで観られたことが私にはプラスに働いている気がする。この動乱の世の間隙を縫って躍進できるのは、余程肝の据わった男か何処までも女らしい女のどちらかであるという確信を得たのは、この2年間あってのことだから。
【舞台装置】
客席に入ってが始まるまでを過ごす場所としての劇場空間もまた、演出の仕事という、考えてみれば当たり前だけど、イマーシブとか遊園地のアトラクションにも通じることに気づいた。血の池のような赤い床がすこし、ベッドにかかっているのも意味深。
【俳優】
主役のいしがめあすかさん。実際いそうな18歳の少女がマグダラのマリア的な女にメタモルフォーゼしていく様を見ていて、女は恋をせずとも変わるのよ、と声高に言いたくなった。この女の物語において、気になったのは男たちの在り方で。彼氏の来し方とか、性的サービスより実はハードかもしれない狂気じみた戯言を言い出す客とか、あとは妓生太郎@鬼滅てきな雑木林さんも。多分私には想像も及ばない何かを持っているのかな。女子ズの感覚にはすぐアクセスできるからかも。この話、彫師が男か女かで雰囲気ががらりと変わるのかも。
【物語】
今回は台本貸し出しをしてもらえるので乗っかってみたら1ページ目から、なんというか、ドンピシャ。女性であること/身体性に振り切った物語。
母親の作った服を着る娘、性風俗と刺青とFGMとstigmaとか言われる何か、リストカットと列車事故に空爆、胎内記憶に母体回帰願望。それに対して出産は英語でlabor ともいうこと。
いわゆるカタギの女でも、身体に対するstigmaは多い。刺青で見せた彼氏のリアクションなんて下手すればピアス開ける・髪切るくらいで発生する。
※10年くらい前
①散髪を羊の毛刈りくらいにしか思っていなかった(これは今もそうか)
②捨てられる大量の髪を見た
↓
「これ切って売れば儲かるんじゃ…」
とやらかしそうになった話をしたところ、結構な方面から宥められ怒られのリアクションをされたのでよーくわかる。だがしかしそれは私の身体だ。私の身体は私のものなんだから、刺青しようと体売ろうと(しないけど)それを決めるのは私だ!と叫びたいけど。そんな気も起きなくなる程度に、祝福されて生まれる命という事実にあらがえなくなったのが今の私か。
そんな事実と身体性を脱ぎ捨ててみたいと願うことは、どこかで止めなければ生きられない。私が高校生の頃、斎藤由佳理が演じたジゼルの2幕に憧れても届かないことに苦悩して(無理ゲー!)そこからなんとか離れられて今ここだから、なおさらそう思う。自分の価値は自分で決める、けど自分の物差しが本当にオリジナルなのかはいつだって疑う余地がある。
それからもう一つ。劇中で「なんでも非接触の世の中で、キスだけはその時間にその人とだけしかできない」って台詞があったけれど、観劇もそういうもので。その時間にその人としかできないことが積み重なることでしか身体性は作られないのだろうって気持ちは持っていたいな。
……ハナズ作品は春めざから観てるけど、なぜこの人たちは私が思ってても、吐き出し方がわからないまま胃の中にこびりついているようなことを全部言葉にして開陳してしまえるのか、といつも思う。
まあそれは恋する男を得られないとき A)愁嘆場をやる B)恋敵を消す
くらいの違いであって、どちらも魅力的な女であることには変わりないんだろうけどね。
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