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世界の片隅の地下の片隅で

終わりの見えない自粛が続いている。

本の虫はこういう時、暇をしないからいいと思う。

家にいれば本が読める、それを心の支えに、落ち着いて過ごせている。

読みかけの本、読もうと思って積んだままだった本、何度も読み直したい本。

桜は諦めて、本の森にこもる。

春籠りも悪くない。花粉症だし。

違う国、違う世界にだって行けるから、やっぱり本は偉大だ。


今は出歩かないほうがいい、それは知っている。

こういう時に、困ったことに新しい本が読みたくて落ち着かなくなる。

本の虫、ダメじゃん、と思う。全然ダメじゃん。

本屋は混んでいるだろうか、開いているだろうか…。

喘息で通院の帰り道、吸入器をぶら下げたまま地下街の紀伊国屋を覗いてみる。

呼吸音を確認してもらった後だから、すっかり気が大きくなっていた。

幸い人はあまりいない。

そもそも地下街全体が閑散としている。

覗くのは20分までと決めて、読みたい本を探す。


おっ、A子さんの恋人(近藤聡乃)、新刊が出ている。

ああ、こういう時は穂村弘で笑いたいなぁ。

ん? 阿佐ヶ谷姉妹、エッセイ本を出したのか…。

手が伸びるのは心をほどいてくれそうな本ばかり。

それもかつての日常を感じさせてくれるような。

誤魔化し続けてきたけど、不安がないわけじゃないと再確認する。


不意に、「ミタカくんと私」(銀色夏生)が読みたくなる。

すでに絶版となったようで、つくづく悔やまれる一冊だ。

この小説は中学に上がったばかりの頃、図書館で出会った。

当時十代の私から見ても、瑞々しい感性とはこのことかと思えた。

“瑞々しい”というより、水そのものの気配に似た静かな穏やかさがある。

台風の前に冷凍食品を買い込んで準備万端、家にこもるというエピソードが妙に印象深い。

その影響で私も嵐の前はそうするようにしている。

そうすると、不謹慎だが妙に楽しくなるのだ。

それは私が台風の本当の怖さを知らない、幸せ者だからなのだろう。

銀色さんの本は、エッセイを含め日々の小さな幸せを再確認できるものが多い。

物語性を求める人には物足りないのかもしれない。

けれど私は写真や言葉を通して感じる、彼女のナイーブで柔らかな感性が好きだ。


糸井重里さんは東日本の震災直後、原発事故の影響から思い切り息が吸えないとき、悲しいと思ったそうだ。

その気持ちが今ならよくわかる。

嵐の真っただ中で、大きく息を吸うことも、咳ひとつするのも、冷凍食品を買い込むのも憚られる。


夜の帰り道、誰もいない小路でマスクを外し、夜の湿った空気を吸い込む。

喘息の咳が少し出る。

でも、その瞬間をとても幸せだと感じる。


まだ大丈夫。