見出し画像

【短編】『私の内に潜むもの』(前編)

私の内に潜むもの(前編)


※この作品内には、一部性的な表現や暴力的な描写が含まれます。


 私は一人薄暗い部屋の中で、外から吹き込む冷たい風がカーテンを一定間隔で揺らしている情景を眺めていた。何もすることがなく、ただひたすら時間だけが過ぎていった。奥の部屋ではつい今朝方近くのスナックバーから帰ってきたばかりの母親が、二日酔いを理由に寝込んでしまっていた。家中灯がついておらず、曇りの日のぼやけた光だけが団地の一室を形作っていた。リビングからはシンクにたまった食器類に水滴が落ちる音が絶え間なく響き渡り、無気力な家庭そのものを物語っていた。

 どこからか姿を消したスマホの通知音が鳴った。私は辺りを見回していつものようにベッドと壁の隙間に手を伸ばし、人差し指と中指を使って器用に埃まみれのスマホを掬い上げた。男からのメッセージだった。

「今夜一杯どうかな?」

いいよと返信してから、時間と場所を聞くとすぐに返信があった。

「22時に神泉駅で」

「わかった」

と返信してから、私は再びスマホをベッドの奥に投げつけた。

 私はその日、少しばかり精神状態がおかしかった。なんでも予定日をとうに一週間も過ぎているのに生理が来る気配すらないのだ。そんな状況でまたホテルに連れて行かれるのだろうかと自分の身体に対する慈悲の念を覚えた。しばらくの間何もすることがなく、スマホをとって動画を見ていると卑猥な広告が連続で流れた。そしてふと頭に不安がよぎった。ちょうどここ最近、何人もの男と行為を繰り返していたため、もしかすると妊娠した可能性があると思ったのだ。一度考え始めると、急に気持ち落ち着かなくなってしまいネットで「生理がこない」と打ち込んで妊娠の可能性を調べ始めた。徐々に不安は増していき、ついには気が動転して、仕方なく母親を起こしてすべてを話すに至った。

「あんたどんな男と遊んだの。ゴムはつけてなかったの?」

「ピルは飲んでないけどゴムはつけてもらってたわ」

「じゃあ遊んでたってことね。もし妊娠してたらどうするの?」
と、なんの予兆もなく突然発せられたその質問に私はなんと答えようか迷った。

「わかんない。相手が誰だかわからないし」

「なんだって?あんた何人としたの?」

「覚えてない。」

母親はふてくされた様子の私を見て途方に暮れていた。

「つまりあんたは男の性欲処理道具として利用されたってことでしょ。自分が惨めだと思わないの?」

私は母親の言っていることが正しいと思った反面、母親に指摘されること自体に虫唾が走りつい反抗的な態度をとってしまった。

「母さんに言われたくないわ。私にお父さんがいないのも元はと言えば、母さんが男にわけを話さずに勝手に私を生んだからでしょ?」

「うるさい。あんたといると本当に嫌気が差す。まるで自分を鏡で見ているようだわ」

と母親は私から目を逸らしてまごついてしまった。

「あんたも私に似てダメな人間に育ってしまったのね。こんなんじゃ産まなきゃよかったわ。」

と言って部屋の方へと去っていった。私は自分の部屋に戻って布団にくるまると、先ほど母親が言っていた言葉を思い出し、それを否定できない自分にやりきれない感情がこみ上げてきた。妊娠したとするならば自分の責任であることは間違いなかったのだ。

 早急に検査薬をもらいに近くのドラッグストアへと駆け込んだ。検査薬を手に取り会計へと進んだ。心配そうに自分を見つめる店員さんの顔を見て少し胸が痛んだ。検査薬を買って帰宅してからすぐに箱からキットを取り出した。母親が家を出たのを確認してトイレへと走った。症状からして妊娠していてもおかしくはなかったものの、最後の望みで線が出ないことを願った。緊張のせいか、焦って検査キットを地面に落としてしまった。便器の中でないことに安堵した。ゆっくりと陰部の方に近づけ10秒ほど採尿した。尿を出し切って水を流してから手を洗わずにリビングのテーブルにキットを置いて座り込んだ。30秒ほどしても判定窓には何も現れなかった。もしや妊娠は思い込みだったかと思った矢先、ゆっくりと一本の赤い線が薄っすらと浮かび上がるのを確認した。そのまま全身放心状態で椅子にもたれかかり天井を見上げた。一滴の涙すら出なかった。

 しばらく日にちをあけて、母親とともに産婦人科を訪れた。中は若い女性でごった返しており、皆難しい顔をしていた。この中で私と同じ状況に立たされている女性は何人いるのかとふと他人への情けを感じた。ようやく自分の診察の順番が回ってきた。診察室へ入ると、中年の女性医師がリクライニングチェアーに深く腰掛けており、私と母親は隣の診察椅子に座った。医師の指示に従って尿検査をし、触診と内診へと進んだ。医師は手慣れた手つきで私の陰部の中を確認し、表情を変えることなく、終わりましたと一言呟いた。最後に超音波検査を行いすぐに結果を診断された。

「すでにおわかりかと思いますが、妊娠しています。胎児の発育も特に問題はありません」

私はなぜか医師の口調に流されて一安心してしまった。

「しばらくの間、家で安静にするようにしてください」

と医師は言って診察は終わった。私は帰り道、赤ちゃんの父親である男が誰なのか出来る限り記憶を遡ったが、結局のところ思い出せなかった。今朝連絡してきた男はつい5間前にバーで知り合った男だったため確率はゼロだった。急用ができたと男に一報入れスマホを閉じた。

 私は数日の間、嘔吐を繰り返した。鏡に映る自分のやつれた顔を見ると、いまだ身体が何者かに犯され続けている感覚に陥った。身体が限界を迎えつつあった時、ふと母親の言った言葉を思い出した。

「つまりあんたは男の性欲処理道具として利用されたってことでしょ。自分が惨めだと思わないの?」

すでに母親に対する反抗心を抱くことすら面倒に感じるほどに精神に異常をきたしていた。

「なぜ私がこんな目に合わなきゃいけないの?なぜ私なの?悪いのは私なの?」

と自問自答を繰り返していると、徐々にその矛先は自分でも母親でもなく、自分を犯した男に向かっていった。それと同時に「許せない」という一つの感情が芽生えてきた。私はお腹の中にいる赤ちゃんの父親を見つけて何がなんでも全責任を負わせようと心に決めた。すぐにベッドをあさってはスマホを手に取り、男との連絡履歴を確認した。着床日から逆算して受精推定時期に行為をした男を調べ上げた。その数、5人であった。私はひとまず一番身近な元バイト先の若い店長にメッセージを送った。

「ねえ、久しぶりに会いたいの」


最後まで読んでいただきありがとうございます!

▶︎続きの【中編】はこちらから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?