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桜と雨、そんなものだろうかという思い

付き合う人がいないとき、花見は雨の日に傘を差して行く。雨だと人が極端に少ないから落ち着くのだ。この場合落ち着くというのは、桜と自分が親密になれる気がするという意味だ。桜と自分だけ。雨で濡れた桜は下を向いてくれるから背の低い私に顔を向けてくれているようにも思える

今公園では積極的に花を植える運動をしているようだ。チューリップや水仙、そういえばアネモネもあった。今読んでいる「コインロッカー・ベイビーズ」で登場する女の子の名で、イメージは明るい赤。思わずスマホで写真を撮った。スマホで聴く坂本龍一の「Rain」と「Bibo no Aozora」も自分に寄り添って耳元で囁いてくれている。雨と音楽、そして花。満開の桜も華やかで素晴らしいが、散り始めで雨の日の桜はびっしりと咲いているわけではなく、所々に余白がある。樹の枝その空間に無言の灰色の空が見える。

余白のことを考えると、ふと有田焼の柿右衛門の陶磁器を思い出す。自分では持っていないが、鳳凰や龍などの文様や絵柄を陶磁器全体に描く西洋と違って、柿右衛門には描かれた絵図に余白を作る。全体で主張するのではなく、鑑賞する者に想像の余地をあたえてくれる。なので少しホッとする。しかも余白の白さが西洋の真っ白さと違い、生成り地よりももっと透明感のある、米のとぎ汁のような白なのだ。まだ買ったことがなく、有田のショップや美術館などに並んだものを眺めることしかできないが、じっと見つめていると、その米のとぎ汁の白さが人の喜びも悲しみも寂しさもそこに収束されていくような懐の深さと余裕を感じる。

小説でもそうだけど、敢えて書いてない、もしくは書かなかったこころのようなものを感じるときがある。行間を読むという感覚は文章に書かれた文字から少し距離を置いて、むしろ本や画面から目を離すことでボンヤリと浮かんでくる。何度も再読を重ねると書き手が意図しなかったものが浮かんでくることもある。読んですぐに分かるものではない、時間差でくる。この時間差が余白なのかもしれない。小説でもエッセーでも、書かないことで伝わるものがる。タイムラグで伝わってくるものがある。でもひょっとしたら恥ずかしくて書けないだけなのかもしれないけれど。

昨日、図書館で見つけた芥川龍之介の幻想的な作品ばかりを集めた本があって、筆者は忘れたがあとがきに「芥川は遅筆だった」と書いてあった。私は正直な人だったのではないかと思う。芥川の作品「戯作三昧」でも滝沢馬琴は遅筆だったとあるが、いつだったか芥川の文章を書き写したときのことを思い出すと少しゾッとする。芥川の洞察力や知性うんぬんよりも何よりも、この人の文章自体が持つ力が凄まじいのだ。文章にかける圧力が物凄い。あんな文章、スラスラと書かれたら読者としてもたまったものではない。遅筆と知ってホッとした。

余白を許さないということはタイムラグ、すなわち時間差を許さないということだろう。今の時代に芥川が生きていたら時代に殺されていたのではないか。「そんなものだろうか」と言い残して。

そんなことを考えることができるのも、人もまばらな雨の日の、余白を残した桜のせいかもしれない。こんな時間は一人でないと持てない。誰かといては難しい。でも、私のことを怖がるだけでなく”懐かしい”と言ってくれる人は、一緒にこんな時間を過ごすことができるのではないかと思うこともある。私と似た部分がその人の心のどこかに生きているからだろう。人は自分を殺したつもりでも完全に殺すことはできない。その自分は何年も何年も生き続けている。だからこそたとえ私が周りから怖いと言われていても、どこかに懐かしさを感じてくれている。

その人は雨の日の桜が嫌いじゃありませんように、
その人は余白を許してくれる人でありますように。
私も、その人が怖かった。その人の言葉が怖かった。言葉に透けて分かってくる事実が怖かった。でもこんな怖さは初めてではないと思った。だからその人を支えているものを怖がりながらも信じていた。
私に、一日も早く、隠れた好奇心と勇気と冒険と挑戦が再び戻ってきますように。


#雑記 #日記 #桜 #雨







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