働く、或いは社会に出るということと、チー牛と呼ばれることの関係性について
こんなタイトルをつけておいて、実際に働き出すのは早くても九月半ばになるわけだが……。
しかし、面接の準備をしていて気がついた事がある。そもそも友人に「まず、仕事を始めるならその髪型からなんとかしなくちゃね……」と控えめに言われて初めて『そうか、もう今までのように自由なスタイルという訳にはいかないのか』と思い知った。ニート期間中は、病み垢にほぼ入り浸っていたということもあり、女性と過ごす期間も長かったのでロングウルフヘアに金髪みたいな所謂『チー牛』に見えない格好をしてきた。してきたとはいってもそれは自発的ではなく、僕自身はかなりセンスがないので改造されてきたに等しい(メンヘラの女の子というのは見た目に人一倍厳しいのだ)「それダサいよ」「チー牛みたいだよ」のような事を言われる度に「これでいい?」とら確認をとって都度直してきただけだ。ただ、あまりにもそういう小手先のおしゃれにこなれてしまったものだから『髪は真っ黒、目と耳は見えるようにする』という社会人的には当然のルールを守ることで、散々馬鹿にされていた頃の『チー牛』スタイルに戻ることが恐ろしくはある。
ただ、そこで気がついたのは逆説的に世の男性は垢抜けていないのではなく、垢抜けることが許されないのでは?と思ったのだ。インターネットのおしゃれな女性たちがいう『男性の垢抜け』という概念は、殆どホスト的というか『社会人の男性』ルールからは逸脱したスタイルであることが多い。つまり、逆に彼女たちも『まともに働いている男性のルール』を知らないから『チー牛』だなんだと好き勝手なことを言えるのだろう。(メンヘラはそもそも働いていなかったり、特殊な界隈に所属していることが多い)
普通に考えて企業勤めのサラリーマンを想像すると、お洒落な大学生みたいに髪をマッシュにして緩くパーマをかけるようなエアリー感を出すなんてまず通用しない(勿論、探せば自由な職場はあるだろうが)し、アクセサリーだってつけていい訳がない。次第に受け入れられつつはあるが、まだまだメンズメイクも許されないし、清潔感(素材の力)だけで戦うのも限界はある。
つまり、世間が要請する『まともな成人男性』の姿とは『ダサい』ものなのだ。それがネット上ではああだこうだと非難されているというのは、それだけネットが世間の常識から外れた意見の集積ということに他ならない気がする。世のダサい男性とは自ら進んでダサくなっているのではなく、ルールの中ではおしゃれになることが出来ないから仕方なくダサいままで生きているのだ。
そんなことを今回、友人と面接にあたっての事前準備をしている時に気がついた。それと同時に、ちゃんと社会の一員として働いている人間たちの『ダサい』姿は、表面上のおしゃれで着飾っているよりはよっぽど『イケてる』んだなと思った。だって、彼らは幾らダサいと言われようとも家庭や仕事によって自分以外のものを立派に守っている訳だから(おしゃれでかつそういう人もいるだろうが、まあ少数派だろう)
僕もこれから、小さなことに惑わされずにそういう真にイケてる存在たちの仲間に入らなくてはいけない。
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