むかしの結核、いまのこころの病

 病というものには、その症状によって患者に対する差別が付きまとうものがあります。2001年に小泉政権によって政治解決をみたハンセン病はその最たるものでした。人の身体を拘束することは犯罪者に対してでさえ裁判所の令状がなくてはできませんが、ことハンセン病患者に関する限り、通報を受ければ直ちに患者宅に警察官や保健所やらが急行し、着の身着のままで療養所という「監獄」に連行され、一生でることができないという扱いを受けました。本名も捨てさせられ、断種手術まで受けさせられたとのこと。人権のじの字もない状態でした。

 療養所内には火葬施設や納骨施設まで存在していました。処刑された死刑囚でさえ、遺体は家族の元に返されていた(いまも)ことを考えると、死してなお、犯罪者以下の扱いを受けていたこと、またそれが戦後長く放置されていたことを思うと、怒りをこらえることができません。

 しかし、病を持つ人への差別は、果たして過去のものになったのでしょうか。うつ病とてんかんを発症し、自閉スペクトラム症と診断されたぼくから見ると、いまなお存在するものとして強く差別の眼差しを感じます。

 戦前や終戦当時、結核で亡くなる人は、最大で年間17万人前後いたと言われています。患者は老若男女問わず存在していたと思われますが、ぼくから見てとくに心痛むのは、当時思春期にあった人たち、また20代の若者だった人たちです。彼らの中には戦後、病を克服し世に出て活躍していった人たちも多数いたわけですが、そうした方たちの手記や若い頃の自らの体験を読むと、本当に心が痛みます。

 同年代の若者たちは、当時の世相に煽られて天皇陛下の御為に日本男児としてその身命を捧げよう!といって軍隊に志願して行きました。白木の箱に骨になって返ってくる同輩たち、そんな彼らを周りの大人たちは賞賛していたわけですが、返す刃で病に苦しむ若者たちには蔑みであったり、「穀潰し」という眼差しを向けていた人も少なからずいたといいます。それは、耐え難いものだったのは想像に難くありません。

 いま、それに対応する病というのは、ぼくにとってはこころの病のように思われます。そのむかし肺結核になったことが発覚すれば、その時点で解雇され縁談はなかったことにされ、周囲の人間関係から分離されたといいます。いまのこころの病の人に対する世の中一般の考え方も、社会保障費を食い潰し生産性を損なう無為徒食・穀潰しだというのが、本音の部分と思われます。その意味で、人々の意識は当時と大して変わっていないのではないかと思えてしまいます。

 ハンセン病も肺結核も、そしていまのこころの病の人への考え方も、すべては人権問題です。僕らの社会では、えてして人権問題は「思いやりのこころを持つこと」として捉えられますが、思いやりのこころが人権だとすれば、人権は内面の施し・恩寵・哀れみのこころに簡単に置き換わります。病についていえば、社会的に立場の弱い病人が他の人に病を移さないことに責任のウェイトが置かれてしまいます。そのことは、「穀潰し」的存在を社会から排除することを許し、結局、ハンセン病にたいしてとったかつての対応から脱却できないことになります。

 人権は、もっともっと強固なものとして守られなくてはいけないものです。やまいを持つ人への眼差しに、その社会が持つ人権というものへの一つの尺度があるのではないか。そう思えます。

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