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こころの病と人生−「希望」について

 今日、パートナーから電話がかかってきました。あることがきっかけで、過去20年来の統合失調症が発症しかけてパニックになっているとのこと。あいにく外に出ていて、彼女の家から40kmほどのところにいたのですぐ行くことはできませんでしたが、ラインでの悲痛な声を聞くだけで、つらい思いが伝わってきました。今はとにかく、きっかけとなったことからとにかく離れようということを伝え、今まで幾度も乗り越えてきたから今度も大丈夫だよと話しました。

 僕自身、精神科医の元に2週間に一度、診察に行きます。彼女と付き合い始めて3年数か月が経ちますが、その間、幾度となく彼女は入院し、見舞いには数え切れないほど行ってきました。
 その病院の待合室の風景、また入院患者のみなさんの表情に、それぞれがたどってきた人生が見えてくる思いがします。自宅に帰りたくても家族から見放された状態の患者さん、入退院を繰り返しそれを自分の運命と受け入れている方たち、入院して元気になって仕事を始め軽度の症状が出た時点で予防的に入院してくる人たち、いろんな方たちがいます。

 残念ながら、この社会はこころの病の人に対して非情です。厄介者扱いされ、役立たずといわれ、病院に閉じ込められている人も少なくありません。目に見えない病だけに、詐病扱いされたりすることすらある現状に、正直、やるせなさを感じます。

 僕自身が病んでいる人間なので、症状が出たときは自分のことで精一杯になります。ただ、一つ心がけていることがあります。それは、つらい思いをしている人たちと寄り添おうということです。こころの病の方たちにとって、薬はもちろんのことですが、人の理解というのがものすごい支えになります。そのことを知るが故に、同病の方たちを理解し寄り添いたいと思います。

 希望という言葉は、「希な望み」と読めます。病棟を見渡し、また自らのこころを観じるとき、望みが希に思えるときがあります。そういうときこそ、希な望み、希望を持ちたい。そう思った今日の夕べでした。

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