仕事ができる環境

 15年前にパワハラで発症したうつ病が再発し、いままたうつ病再発で休職中の身です。

 家の掃除をしていたら、約10年前に調子が比較的良かった頃のメモ帳が出てきました。上司や同僚の支えもあってのことでしたが、当時は依然として記憶力が悪かったことから、仕事上、住民から相談を受けたこと、上司からの指示とその締め切り、それに対してなすべきこと・ぼくの見解や上司との協議事項を全部メモにして残していました。それを見つけたのですが、読んでいるうちに当時をありありと思い出しました。

 上司が手をつけられていなかった仕事を片付け、環境担当として、道で轢かれた動物の処理、不法投棄ごみへの対応から狂犬病注射のための獣医師との話し合い、CO2削減計画策定やレジ袋有料化の検討、合併浄化槽の補助金受付と支給決定、それらすべてにともなう条例案作成など、平職員がぼく一人しかいない状態で、我ながらよくやってたなぁと、思い出しました。

 と同時に、ぼくにとって仕事の何が苦痛でなにが楽しみなのか、考えを馳せました。一役所職員としての仕事の楽しみは、やはり、住民が困っていることに僕なりに親身に対応し、それを解決したときに住民が見せてくれる安堵の表情であり、「君がいてくれて良かった。」というメッセージでした。そのための給料をもらっているといえばそれまでですが、その喜びは金銭とは別次元のものです。そのためなら、少々の肉体労働や住民からの苦情や叱責には頭を垂れていられましたし、その覚悟を持って仕事をしてきました。

 と同時に、なにが苦痛かといえば、やはり仕事そのものより、職場の人間関係でした。ただ、あの頃は職場でのサポートがしっかりしていて、上司も同僚もしっかり助け合って仕事ができていたので、その問題はいままでの職業生活のなかで一番低い環境でした。

 そしていま、自分が能力を十二分に発揮できる環境を今一度考えます。
 上司や同僚、後輩、その他のみなが、反対意見を言いつつも互いにフラットな関係で意見を言い合えそれらが仕事に反映される環境、他人をバカにしないこと、人の揚げ足をとったり不必要に叱責しないこと。そして、それぞれが持てる能力を発揮できること。こんな環境にいるときに、ぼくはきちんと仕事ができるんだと、改めて思いました。

 よくよく考えると、こんなことは大の大人であれば当然心がけてしかるべきことです。しかし残念かな、ぼくの職場にかぎらず、いまの社会を見渡すと、他人の能力を潰し合い、そのなかからはい上がってくるのをよしとする世相が見て取れます。優秀な人たちが自死したり、人によっては嫌気がさして転職してしまうのを僕らは目にしています。人手不足だなんだというのであれば、なぜ一人一人の能力を伸ばさないのか。職場いじめや不必要な叱責や揚げ足取りに、ぼくは全く生産的なものを見いだすことができません。

 もちろん、ぼくのような人間ばかりではないでしょう。ぼくに対するのとは反対の、パワハラを受け、いわゆる「体育会系」な環境でハングリー精神を蓄えてはい上がってくる人がいるのもたしかでしょう。しかし、やはりぼくの目からみると、現実問題として、それらが人的資源を潰しているようにしかみえません。

 仕事や労働にまつわる喜びを増進させ、それによる苦痛を最小限に抑える方法を、一人一人が、社会全体が考えるべきではないか。そう思えたひと時でした。

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