Last Learning

あらすじ

ある国のスパイ養成学校で教鞭を取るアンジュと、新入生のデビー。
淡々と授業を続けるアンジュと、スパイ養成学校には似つかわしくない態度を取り続けるデビーを中心に繰り広げられるミステリー。
2人がこの学校で学ぶこととは一体。

108文字

〜第1章〜

「起立。気をつけ。礼。」

数十人の生徒が私に向かって頭を下げる。

「おはようございます。それでは本日は、前回やっていた「交信・伝達」の章の続きから始めましょう。」

冷静を装って廊下を歩き、
無機質さが好きになれない階段を上がり、
曲がり角を曲がって教室に入り、
私は偉そうにこの教壇に立っている。

少し前まで私も数十人のうちの1人で物事を教わる立場だったのに、私は今、数十人に対して物を教える立場となっている。

不思議なものだ。私としてもまだその事実が受け入れられていない時がある。

「まずは教科書の34Pを開いてください。」

皆、一様に私の言葉に従い教科書を開く。
私は人に従ってもらえるような人間なのかと時々疑問に思うことはあるが、顔にはもちろん出さない。

「人に物を伝えるときは、まずは素早く。しかし、余裕があるならばもちろん正確に伝えることが求められます。」

教室に響き渡るのは私の声だけだ。
皆ノートを取るなり、教科書を見返すなりしている。

「例えば、AならばAppleのA、BならばBusのBといった具合に、相手にとって聞き馴染みのある単語を挙げて、確実に伝えられると尚良いです。」

将来の役に立てたいのだろうか、それとも目上の者に好印象を与えたいのか。
その真意はわからないが、誰も口を開かないまま授業は進んでいく。

「せんせー!アンジュせんせー!」

……ただ1人を除いて。

「……どうしたんですか、デビーさん」

「じゃあさ、アンジュ先生のAって言ってもいいの?伝わるよね?AngeのAだもんね。」

「先ほども言った通り、「相手にとって聞き馴染みのある単語」であることが重要です。」

「じゃあデビーのDは?私と交信するってことは、私が「Devi」であることを知ってるんだもんね?」

「相手があなたの名前を知っているとは限りません。我々はコードネームで呼ばれる存在です。交信を行う際に、「デビー」と名乗ることはほぼないでしょう。」

この学校でそんなことを気にするのは、ナンセンスだが。

「そもそも、あなたのその名前だって本物ではないでしょう?」

「そっか、私たち、国のために戦うスパイだもんね。」

そう、この学校はスパイを育てるための学校だ。
学校だけでなく、街全体が国の軍部によって統括されている。

「わかっているのならば、それでいいんです。」

この学校の生徒は、年度などに関係なく順次追加されていく。
親を亡くした者・親に捨てられた者・生まれつき身寄りのない者……さまざまな出自があるが、明るく語れる過去がある者はいないといってもいいだろう。

そんな中で最近クラスに来たデビーさんは、よく言えば個性的、悪く言えば異質だ。

底抜けの明るさで、私や他の生徒に話しかけていく。生徒は愛想笑いをしてみたり、そもそも相手にしていなかったりなどで、まともにやり取りをする人はいない。

髪は毎日ばっちりセットしてあるし、スカート丈も短い。いつも背負っているバッグは羽があしらわれたおしゃれなものだ。

この学校には細かい校則がないため、特に指導をする必要はないのだが、まさかこういう生徒が現れるとは思っておらず、他の先生方も困惑の色を隠しきれていない時がある。

私は立場上、あからさまに無視することはできないが、それでも未だにどういう反応をするのが正解なのか分かっていない。

時々突拍子もないことを発言する場面はあるものの、特筆すべき程授業中の態度に問題があるわけではない。正直一番対応に困ってしまうパターンだ。

そんな彼女が再び口を開く。

「じゃあさじゃあさ、LはLOVEのL……でもいいんだよね?」

その瞬間、教室は少し困惑の色に包まれる。

「LOVE」。すなわち「愛」。
もちろん一般的で、伝わりやすい言葉である。
ただ、この学校で使うにはいささか不適切な言葉かもしれない。

「もちろん、LOVEは一般的な単語ですから。構いませんよ。」

生徒が出す困惑の色を塗り替えるように、淡々と答える。
本当は私自身も困惑している。だけど、私が困惑してしまっては余計な混乱を広げてしまうだけなのだ。

私だけでも意に介さない態度を取らないといけない。

「へえ……いいんだ……。」

デビーさんは少し怪しく、それでいてどこか含みのある笑顔を見せる。
その笑顔に私の背筋が凍る。

「わかった!わかりやすく、簡潔に!だね!」

しかし、その笑顔が見られたのは一瞬だった。
結局いつものように、誤魔化されてしまったような肩透かしを食らったような感触を覚えたのだ。

そんな彼女に少し見惚れている自分にハッとする。

「他に質問がないようならば、次へ進みます。」

この学校で「愛」という言葉はほぼ禁句に近い。
なぜなら、「人を愛さないこと」がこの学校に居続ける条件なのだから。
もちろん、「愛」というものを知らずに生きてきた子が多いので、一応の説明は受けるものの、そんな心配はほとんど無用だ。

中には両親から大量の愛を受けながら育ってきた子もいる。しかし、そんな子も敵国に両親を殺され、復讐心に駆られてこの学校にいるのだ。
「人を愛さないこと」が入学の条件と知れば、それを遵守する。

かくいう私も、「人を愛する」ことがどういうことかわかっていない。
でも、特に授業で「人を愛さないように」と教えるわけではないし、この学校にいる限り知っておく必要はないだろう。

デビーさんの発言に思考を乱されながら、私は淡々と授業を進めていき、やがて終業のベルが鳴り響く。

「それでは本日はここまで。」

「起立。気をつけ。礼。」

生徒たちの礼を背に教室を去る。
休憩時間にワイワイと会話をする者は少ない。

この街は、この学校のために存在していると言っても過言ではない。
街全体を国が管理しているのだ。学校の外にある施設も全て国が管理している。
例えば食料品を売っているスーパーマーケットや、行政機関に所属している人間も全て国の、それも軍の関係者だ。

理由は2つ。
1つ目は擬態だ。敵国からすれば、スパイの学校など潰すべき施設だ。
例えば、中枢に堂々と構えていれば狙われやすいし、いかにもといった森の奥深くに隠されていたりしてもそれは想像の範疇だ。
そこで、「普通の街」の中にある「普通の学校」を装っているのだ。学校も表向きには、ミッション系スクールという体を保っている。

2つ目は生徒に対する教育だ。生徒のほとんどは、出自の関係上「普通」の生活を知らない。
いざスパイとして潜入するとしても、「普通」の生活すら知らない世間知らずでは、そもそも1人立ちができない。
もちろん潜入先でうまく情報を抜き取ることは大切だが、それ以前に「普通の生活を送る一般人」を演じなければならないのだ。
そんな「普通」を演じる土台作りとしても、この街は大切な役割を担っている。

「お疲れ様です。」

職員室に用意された私の席に、手に持った一式の荷物を置いて椅子に腰掛ける。

「アンジュさん、ちょっといいかしら。」

少し怪訝な顔つきをした主任に声をかけられる。

「はい、どうされましたか?」

「さっきあなたが授業をしている教室を通りかかったのだけれど……」

「はあ。私の授業内容に何か問題が?」

「いえ、授業で取り扱っていることは完璧よ。でもね、あのデビーって子の発言が気になって……」

「……ああ、「愛」のくだりですか。」

その言葉に職員室内の空気が張り詰める。

「ええ。この学校であまりその単語を出されるのは……」

「そうですね。私も少し驚いてしまいましたし、他の生徒も困惑している様子でした。」

とはいえ、私の方ではどうしようもないのだ。
「愛」がわからないのだから。

「そうよね。あのデビーって子、当初から態度が少しおかしいみたいね。引き続き注意して見ていてあげてね。」

この場合の「注意して見ろ」というのは、言葉通りに受け取ってはならない。

「はい。受け持ちのクラスの生徒でもあるので、場合によっては面談も交えながら、様子を見ます。」

「ありがとう。心強いわ。引き続きよろしくね。」

もちろん、この場合の「心強い」も言葉通りに受け取ってはならない。

放課後、教室付近の廊下を歩いているとデビーさんに呼び止められた。

「あ!!アンジュせんせいだ!やっほー!」

フレンドリーな接し方に戸惑っているうちに距離を詰められる。

「どうしましたか?」

「ちょっとさっきの授業でわからないところがあって……職員室で教えて?」

残念ながら、職員室には大事な書類が保管されている関係上、限られた人しか入ることができない。もちろんデビーさんは対象外だ。

「残念ながら……職員室には入れないんです。ここでよければ聞きますよ。」

「そっか……じゃあさっきの暗号みたいなやつなんだけど、使う単語のリストとかないの?いちいちその場で思いついた単語を使って伝えるんじゃ、ちょっと使いづらいなって。」

「暗号……?ああ、通信に使う単語のことですね?」

なかなか鋭い指摘だ。現場からも同様の声が挙がって一度リストの作成が検討されたこともあるらしい。
ただ、敵国に流出した際に擬態されやすいという声の方が大きく作成は見送ったという経緯があるそうだ。

「敵国に流出した際の危険性を考慮してリストの作成が見送られた……と聞いたことがあります。」

「えっ、別に機密情報じゃないし知られちゃってもいいんじゃない?」

もっともな意見だ。授業中には見せない鋭さで質問をしてくれる。

「ええ、リスト自体は重要な情報ではありません。しかし、このリストを使っているということ自体が知られてしまうと都合が悪いのです。」

「……どういうこと?」

首を傾げるデビーさんに説明を続ける。

「『このリストの単語を使って通信をしてくる人物は、自国の人間だ』という思い込みが発生してしまうのです。そうなると、多少不審な点があっても味方からの通信だと誤認してしまう可能性が出てしまいます。」

「なるほど……。でもさ、『リストの単語以外を使って通信してくる人は敵だ』っていう指標ができるっていうメリットがあるんじゃないの?通信の手間が省けるメリットもあるんだよ。」

まるで既に現場での経験があるような切り返しだ。授業外だとこんなにも建設的な議論ができるのかと舌を巻く。
デビーさんの言うことは全くもって正しいように聞こえる。メリットがデメリットを上回っているように見えるのだから、導入は検討されて然るべきだと思うだろう。

「現状、『思い込みが発生する』というデメリットが発生せずに運用されているのです。正確に伝えるのはあくまで余裕のある時のみ。全員にいかなるときも徹底させるような強制力はありません。そこにデメリットを容認してまで変更を加える必要はないと思いませんか?」

「そっか……。よく考えれば『思い込みが発生する』デメリットって、どんなメリットを足し合わせても補えないくらいに大きなものだもんね。」

私が言おうとしたことを先に言われてしまい、二の句が継げなかった。

「……普段からこうやって話してくれればいいのに、って思った?」

「え……?」

その通りなのだが、立場上そうだとははっきりと言えない質問を投げかけられる。

「あ、いえ、教室で見せる顔とはだいぶ違う一面を持っているのだなと。少し驚いていただけです。」

「大丈夫、はっきり言ってくれていいんだよ。」

「……まあ、授業中にこんな建設的な話ができると、他の生徒のためにもなると思ったのは事実です。」

最大限ごまかしながら伝えてみる。

「そう……だね。でも授業中より、こうやってリラックスした状態の方が頭が回るんだ、私。だから授業中は変な質問しちゃっても許してね。」

「ええ、それは構いませんが……。」

「あ、もうこんな時間だ。私もう行かなきゃ!さようなら!」

「さ、さようなら……。」

嵐のように去っていくデビーさんをただ見送ることしかできなかった。

「あっ……。」

時間といえば私も行かなければいけない時間だ。見えなくなるデビーさんの背中を見つめている場合ではない。

荷物をまとめて、備品倉庫に赴く。
主任の待つ備品倉庫へ。

「失礼します。」

「ああ、アンジュさん。お疲れ様です。」

「お待たせしてしまい申し訳ありません。」

「いいえ、待ち合わせの時間には間に合っていますし、私も他の業務を潰していたところだったので大丈夫ですよ。」

何だかいたたまれない気持ちになってしまう。

「……すみません、他業務でお忙しい中こんなことまで。」

「構いません。これもこの国のためですしね。それに、あなたは失うにはあまりにも惜しい人材だった。そういうことでしょう。」

「そうでしょうか……自分では何とも。」

「それはそうですよ。自分の価値など、自分では測り得ないものです。きっと次は大丈夫ですよ。」

次……まだ私にはチャンスがある。本来なかったはずのチャンスが。

「ありがとうございます。」

測り得ないといえば、他人の本心もそうだろう。そう考えながら口に出すのは辞めた。

「そろそろ時間でしょうか。では、始めましょう。」

「よろしくお願いします。」

私たちの秘密の時間が始まる。
夜が更けて、誰もが寝静まる時間に私たちはやっと備品倉庫を後にした。

〜第2章〜

あの「愛」の発言から、数日後。

「先生!アンジュせんせー!」

底抜けに明るい声に呼び止められて、足を止める。

「……どうしたんですか、デビーさん」

「あのさ、卒業試験のこと聞いてもいい?」

予想だにしない言葉を聞いて、思わず動揺が顔に出てしまう。

「ど、どうして……?デビーさんはまだ入学したばかりでしょう?然るべき時に連絡があります。まだ気にしなくてもいいですよ。」

「そう?でも私、早くひとり立ちしたくて……。どんなことが必要なのか今のうちから知っておきたいんだよね。」

「……卒業に必要なのは総合的な力です。卒業試験の内容を知ったところでどうにもなりませんよ。自分の不得意を見極めてマルチに活躍できる人材となることが望まれます。」

「そうなんだー。じゃあさ、先生の時はどうだった?」

瞬間、返答に迷う。

「……卒業試験のことは口外してはいけないことになっています。公平性を保つために。」

「そりゃそうか。じゃ、いいや。ばいばーい。」

デビーさんはそう言いながら帰っていく。
卒業試験のことは、誰にも話せない決まりとなっている。これは本当だ。

……これは。

いずれにせよ、この学校に来たばかりのデビーさんには卒業試験のことを知るのは早すぎる。これで良かったはずだ。

「卒業……ね」

ぽつり呟いてみた。

「待って、デビーさん。」

「え、何?やっぱ教えてくれる?」

「いいえ、そういうわけでは……少し、あなたと話がしたいんです。」

卒業と聞いて、少し感傷的な気分になったのだろうか。
デビーさんに話を聞いてみたくなった。

「……いいよ。私も先生のこと、ちょっと気になってたんだ。」

「場所を移しましょうか。」

そして私たちは、人がいなくなった教室に入って腰をかける。
デビーさんは自分の席に。私は、その隣の席に。
久方ぶりの感触と景色だった。

「……懐かしいの?」

心臓を握られたような気持ちになった。

「どうして……そう思ったの?」

「何だかそんな顔をしてたから。先生だって学生だった時代があるもんね。」

思考を読まれたのかと思って焦ってしまったが、少し考えれば至る考えだ。
特段何かを握られたわけでもないのに。

「ええ……生徒の目線で見る教室は久々だったのでつい。」

「生徒だった頃の先生って、どんな感じだったんだろう。気になっちゃうな。」

いつもより近くで見るデビーさんの顔は端正で整っていた。

綺麗な黒い髪。
長い睫毛。
高い鼻筋。

この美貌を活かせれば、どんな潜入先でもターゲットを虜にして作戦を成功させてくれるだろう。
これは言葉通りの意味で「心強い」。

「至って普通の生徒でしたよ。そんなに変わったことはありません。」

「本当?きっと優秀な生徒だったと思うんだけどな。」

「いいえ……むしろ不出来な生徒だったかもしれません。」

「でも先生になって私たちに色々教えてくれるんだもん。今の先生はきっと、この国のためになっているよ。」

軽口を叩くいつもの態度からは考えられないほど的確に、私がかけてほしい言葉をかけてくれる。

「……ありがとうございます。でも私の話はこれくらいにして、デビーさんのことを聞かせてほしいんです。」

「えっ、私の話?それこそ何にもないよ?」

「デビーさんのその明るさの秘訣を知りたいんです。」

半分は私の責務を果たすため、半分は私の知的好奇心を満たすため。

「秘訣……ってほどのことはないんだけど。」

「では、あなたの普段の考え方などでも構いません。」

「考え方か……。私ね、物心がつく前には両親がいなかったんだ。周りにいるのも信頼できない大人ばっかり。」

この学校の在籍者にとっては珍しくない出自だ。

「でさ、どんどん心は荒んでいくわけ。楽しいことなんてないし、明日どうなっちゃうかもわからないし。」

大変でしたね、とは言わない。
私も似たような出自だが、人に話したとして、そんな言葉をかけてほしいとは思わない。
事実を淡々と話しているだけなのだから、ただ頷いて聞いていてほしいと思う。

「そんなときにさ、この学校に入学しないかって声がかかったの。学校なんて噂でしか聞いたことなかったから、すぐ飛びついちゃった。お金がいっぱいかかると思ってたのに、お金もいらないから来てくれさえすればいいって言われて。ついに私にも運が回ってきたのかと思ったよね。」

この学校の運営資金は国の防衛費から賄われている。生徒からお金を払ってもらう必要などないのだ。
その代わり、学校としてはとにかく将来のこの国を支える担い手がほしい、ということだ。

「実際に入学してみたら、スパイ養成学校だっていうじゃん。もう引き返せないってわかってさ。もうここまできたら人生楽しんでやらないと損じゃんってことで、明るく振る舞うようにしたの。これだけ生徒の数がいれば、同じような考えの人が1人くらいいると思ったんだけど……」

彼女の読みは大外れというわけだ。

「先生……私、他の先生にもよく思われてないでしょ?」

言葉に詰まってしまった。

「……あなたのような生徒は過去いなかったみたいですね。教師としての接し方が分からないとおっしゃっている先生方は何人か。」

最大限言葉を濁しながら、デビーさんにぼんやりした事実を伝える。

「先生は優しいんだね。」

別に優しいわけではない。
ここで変に嘘をついてデビーさんの信頼を失ってしまえば、私はデビーさんの教育という自分の責務を果たせない。
だからといって、ありのままの真実を言ってしまって、そのことが他の先生に伝わってしまえば私の立場が危うい。

要は打算的なのだ。
結果としてデビーさんにとって優しい言葉が出力されているだけで、この言葉が生まれるまでの過程は人に見せられないほど自己中心的なのだ。

「……ちょっと待ってください。他の先生「にも」って言いましたか?」

「うん。だって、アンジュ先生も私のことそんなに得意じゃないでしょ?」

人の顔色を伺いながら生きてきたからだろうか。自分に向けられている感情に敏感なのだろう。

「私は……」

「隠さなくていいよ。慣れてるから。」

この年の子供が言うにはあまりにも重すぎる言葉だ。

「私も……接し方が分からなかったんです。底抜けの明るさを受け止める器がなくて。」

ポツリポツリと言葉を紡ぐ。この言葉が正解かは分からない。
隠さなくてもいいと言われても、自分の言葉に嘘がないかどうかすら分からないのだ。

「でも、先生は歩み寄ってくれたよね。」

「え?」

「今日、こうやって話そうって言ってくれたのはアンジュ先生の方からだよね。」

「そ、それは……。」

「それって、私に対する優しさからきた行動なんじゃないかなって思うよ。」

義務感と知的好奇心に駆られたこの感情を優しさと呼んでいいのだろうか。
戸惑う私にデビーさんはグイッと顔を近づける。

「先生、ありがとう。」

吸い込まれそうな瞳に、心臓が早鐘を打つ。

「どういたし……まして。」

そう言うのが精一杯だった。むしろ言葉を捻り出せた自分を褒めてあげたい。

「ねえ、アンジュ先生、ひとつだけお願いがあるんだけど。」

「何ですか?」

「私のこと、デビーって呼んでくれないかな?他の先生から「さん」付けで呼ばれるのはいいんだけどさ、ここまで話したアンジュ先生に「さん」付けで呼ばれるのはちょっと……淋しいかなって」

「そ、それはちょっと……他の人の目もありますから。」

「じゃあ時々こうやって2人で話そうよ。その時は、「さん」付けで呼ばないで。」

「……わかりました。2人で話してる時だけですよ。」

「やった!約束だよ。」

打算的な私は、責務を果たすために了承した。
本当の私は、どうして了承したのだろう。

「もうこんな時間ですね。気をつけて帰ってください。」

「わ、本当だ!じゃあね、アンジュ先生!」

「ええ、さようなら。」

別れの挨拶は済ませているのに、彼女は動かない。何かを待っているように、私を見つめたまま。

「……デビー。」

「うん!また明日!」

きっと彼女たちも数年もすれば居なくなってしまう。
その間にまた新しい子は際限なくこの学校に入学してくるだろう。

この国には、この学校に入学する資格を持っている子があまりにも多すぎる。
きっと人材に困ることはないだろう。

そうやって1人、また1人と巣立っていく姿を見届けるのは、何と淋しいことだろう。
私を残して、皆巣立ってしまう。

私だけを残して。

「……行こう。」

少し憂いを帯びた声が出た。どうしてそんな声が出たのかは……自分が一番よく分かっている。

デビーと話した教室を後にして、夕陽が差し込む備品倉庫に赴く。

「失礼します。」

「アンジュさん、遅かったわね。どうしたの?」

倉庫で待ってくれていた主任は、私が遅刻したことに驚いたような、しっかりきてくれたことに対して少し安堵したような顔で私を迎えてくれた。

「すみません、生徒指導が入ってしまいまして。」

物はいいようだ。やっていることはその通りなのだから。

「熱心ね。誰か問題のある人でも?」

「いえ、問題ってほどでは。デビーさんに呼び止められて、少し話を。」

途端に主任の表情が曇る。

「デビーさん……でしたか。どんなお話を?」

ここで嘘をつく理由はない。

「卒業試験について聞かれました。早く卒業してこの国の役に立ちたいと……そう言っていました。」

「それで、どう答えたんです?」

「卒業試験については教えられない決まりだと伝えました。」

「他に何か話しましたか?」

「普段の授業中の態度について少々。あとは授業の理解度を少し試しました。私の授業がわかりやすいかどうか、自信がない部分もあったので。」

ここで「他に何も話していない」は通用しないだろう。
主任との待ち合わせに遅刻している身なのだから。

「……そうですか。前にも言ったと思いますが、注意深く見ていてあげてくださいね。」

「ええ……そのつもりです。」

主任にまでこう言われているのだ。
彼女を近くで見続けることには、ちゃんとした理由がある。
子供のような言い訳を頭の中で繰り返す。

「さあ、それでは始めましょうか。」

「その前に、主任。ひとつ聞いてもいいですか。」

「どうしましたか?」

「主任から見て、私ってどう映ってますか?」

「……すごく優秀で、才能のある生徒でした。」

どこまでも打診的な私は、主任からの評価が聞けたことに安心した。
たとえそれが過去の栄光だとしても。

「それが聞けて安心しました。ありがとうございます。」

差し込む光が、夕陽から月光に変わっていく。
私が備品倉庫を出たのは、その月光が朝日に変わる頃だった。

〜第3章〜

ある日、学校に行くと職員室はちょっとした騒ぎになっていた。

「おはようございます、どうしたんですか?」

「あ、アンジュさん。それが、職員室で保管されていた卒業試験要項が一部なくなっていて……」

「え!?大変じゃないですか!」

「でもね、外部からの侵入があったら必ず警報が鳴るでしょう?仮に外部からの侵入者だったとしても、まだほとんど空欄の状態のものだったみたいだから、上はそこまで重要視していないみたい。」

「なんだ、よかった……。じゃあ特に私たちの方で動かなければならないことはないんですね。」

「ええ、ただ……。」

職員室の皆が、申し訳なさそうにこちらを見つめてくる。

「外部犯の可能性が低いと言うことは、内部の人間による犯行の可能性が高いってことなのね。それで……。」

ああ、なるほど。
皆の目がこちらに向けられている理由が何となく分かってしまった。

「疑わしい生徒がいる……と。そういうことですよね。わかりました。」

「悪いわね。」

「いいえ、問題児には頭を悩まされますよね。」

身が裂かれるような思い。胸が張り裂けそうな思い。

「授業の邪魔にならなければ何をしていただいても構いませんよ。なくなった書類が早く見つかるか、疑いが晴れることを祈っています。」

きっと疑いが晴れるまでは監視がつくのだろう。
その情報を悪用しようとする瞬間が来れば、即確保といった段取りか。

「私たちもよ、アンジュ。」

「では、授業がありますのでこれで。」

そして私はいつも通り授業をこなす。
もちろんこのことは生徒に気取られてはいけない。
いつもよりも尚更冷静を装うことに注力しながら日々を過ごしていく。

「先生!アンジュ先生!」

「……デビーさん。」

私を呼び止めた声とは裏腹に、少し小さな声で私に伝えてくる。

「またお話ししたいな。教室で。」

「……いいですよ。」

つられてこちらも小声で返す。
別にやましいことをしているわけではないのだが、お互い何となく周囲に知られたくないと思っているのだろう。

この日までに私たちは何度か逢瀬を重ねていた。
逢瀬を重ねるというほど大袈裟な物ではないのだが、他の誰にも言わない2人だけの密会であるのだから、きっと間違ってはいないと思う。

しかし、打診的な私ではない私がこの時間を誰かに邪魔されてはいけないと言っているのだ。
必ずこの時間は確保せねばならない。
私にも分からない感情が、私を突き動かすのだ。

「じゃあ、また放課後にね。」

「ええ。」

小さくて短い会話が、私の日常に彩りを加える。
なぜだか分からないが、デビーとの約束がある日は、仕事が捗るのだ。

そして放課後を知らせるチャイムが鳴り、デビーとの秘密の時間が迫る。

隠しきれない感情を振り撒きながら廊下を歩く。
まるでお城の舞踏会に招かれたような気持ちで階段を上がる。
そして角を曲がると

「きゃっ!……あれ、アンジュ先生?」

「デビー……さん?」

待ち合わせの時間にはまだ早かったはずだ。

「まだ何か用事が残っているのですか?」

「ううん、私はちょっと早めに来れそうだったから早めにきただけ。先生は?」

「同じです。仕事が早めに片付いたので、教室で待っていようと……。」

「……あはっ」

「……ふふっ」

「何だか私たち気が合うね。じゃあ今日は少し長めに先生と話ができるんだね。」

「そういうことですね。」

こんなに自然に笑みが溢れたのはいつぶりだろう。
お互いの気遣いと奇跡が作り出したほんの数十分は、私の頬を緩ませる。

「最近、学校生活はどうですか?」

「やっぱり、私浮いてるかなとは思う……。今更この性格を直そうとは思えないし。」

「無理に直さなくていいのではないですか?デビーは、デビーのままで。」

「本当に?アンジュ先生とはこうやって話せているけど、他の先生たちにとっては……」

明るく振る舞っていても、他人からの評価が気になってしまうのは仕方ないのだろう。
それは、私ですら一緒なのだから。

「そんなことはないですよ。」

「それに、他の先生の目つきが何だか鋭いような気がするんだよね。」

デビーの鋭い観察眼に震え上がる。

「……それこそ気のせいです。どうしてそう思うんですか?」

「どうして……って言われても困っちゃうな。何か皆ピリピリしてるっていうか……。何かずっと見られてる感じもするんだよね。」

スパイとしての察知能力は合格点だ。
何せ今監視についているのは現役の我が国のスパイなのだから。任務の合間に、国内で待機している者が監視にあたっているのだと思われる。

「最近しっかり寝られていますか?」

さりげなく、他愛無い話題に切り替える。余計なことを監視に聞かれるわけにはいかない。
いや、2人とも無罪なのだから余計なことを喋る心配などしなくていいのだ。
私はこの会話で、何が起こると思っていたのだろう。

「最近?そういえばちょっと寝不足かも。眠れない時があってさ。」

「気が張り詰めているんでしょうか?ゆっくり休んだ方が良いですね。今日はもう帰りますか?」

監視が続く限りは、あまり頻繁に会わない方がいいかもしれない。
意図せず疑われるようなことを話してしまうかもしれない。
そうなれば私たちは……。

「ううん、帰らない。先生ともう少し話したい。」

「そうですか……。では何の話をしましょうか?話したいことがあるんですか?」

「卒業試験のことなんだけどさ……」

今ここでその話題はまずい。まさかデビーが……。

「卒業試験の話はいくら頼まれても話せません。」

デビーの会話を遮る。

「え……うん、それは分かってるよ。大丈夫、これ以上何かを聞き出そうっていう話じゃないよ。」

本来ならば卒業試験を話題に挙げることすら避けたいのだが。

「そこが分かっているのならば。で、卒業試験がどうしたんですか?」

不自然に会話を切り上げる選択肢は切り捨てて、なるべく自然に会話を続けつつ、他の話題にしよう。

「この間は卒業試験を早く受けたいって言ったんだけどさ……、今はちょっと怖いっていうか。」

「何だ、そんなことですか。前にも言いましたが、デビーさんはまだここに来たばかりなんです。卒業試験のことなんてまだ考えなくてもいいんです。」

「じゃあさ、先生。私の疑問聞いてくれる?」

その瞬間、デビーの両手が私の手を包み込んだ。

「な、なんですか、どうしたんですか、デビー。」

動揺で鼓動が早くなる。まるでデビーにまで伝わってしまうのではないかと思うほど大きく動く心臓に気を取られていたが、よく見るとデビーの様子がおかしい。

握った手は力強く、顔は下を向いたままだ。

「しばらくこうしてていい……?」

「……震えているんですか?」

「うん、ちょっとね。」

デビーの震えと、私の鼓動が落ち着いた頃、デビーがようやく口を開いた。

「卒業試験ってさ、失敗したらどうなるの?」

再び心臓が大きく跳ねる。
心臓が大きく跳ねたことも、卒業試験に失敗した末路もデビーには言えない。

「失敗したら、元の生活に元通り?それともこの街の住民として生きていくの?」

答えはどちらもNOだ。不合格は死を意味する。
「あなたには才能がありませんでした、では普通の生活に戻ってください」とは言えない。
なぜなら、この国の軍の秘密を知ってしまっているのだから。
かといって再試験の場を設置することもない。チャンスはたった一度きりなのだ。

「答えなくていいよ。答えてって言ったら、先生困っちゃうんでしょ。」

卒業試験は、所謂実地試験だ。
実際に任務に赴き、ターゲットから必要な情報を引き出し、ターゲットを始末する。
これが実践できれば卒業だ。

もちろん、この学校でどれだけ訓練を積んでも、卒業試験で失敗してしまうケースは珍しくない。
それほどまでにこの世界は厳しいのだ。

「……先生、ごめんね。ありがとう。」

デビーの手はゆっくりと解かれる。

「いえ……。」

デビーが見せた脆弱な一面に、まだ動揺を隠せずにいた。

「先生の手、すごく暖かかったよ。今までのどんな大人よりも。」

「……ありがとうございます。」

私がまだ人間らしさを失っていない証拠だろうか。

「今日は帰るね。」

「ええ、気をつけて。デビー。」

帰り支度をするデビーの背中を見つめる。
まだ不安が残っているその背中を、私はただ見つめることしかできなかった。

目にしたデビーの弱さが離れない。
耳にしたデビーの不安が離れない。
手にしたデビーの温もりが離れない。

今デビーは、漠然とした死の恐怖に怯えているのだ。
答えなくてもいいと言われ、その言葉に甘えて何も口にすることができなかった。

デビーには幸せになってほしいのだ。
この先も生きていてほしい。
できるならばこんな血生臭い世界は抜け出して、平穏な暮らしを送ってほしい。

私がここに残るから、デビーに自由をあげて。
私ならどうなってもいい。
デビーがこの先笑って生きていけるなら。
まだ間に合うのでしょう?
お願い、幸せになって。

本当は全てを包み隠さず話して、逃げ出して欲しかった。
私はどうしてしまったのだろう。
どうしてデビーにこんなことを思ってしまうのだろう。
立派なスパイに育て上げて、この国に貢献することが私の使命なのに。

わからない。この感情が。
抱いたことのない感情の渦に飲み込まれ、自分が自分でなくなってしまうような感覚に陥る。

死にたくないと願った過去の私を否定するように。
生き長らえたと分かった時に安堵した私を否定するように。

私は今他人のために、自分でもわからない感情に突き動かされながら、緩やかに死を受け入れたのだ。

気がつけば廊下で1人、頬を濡らしていた。

「……行こう。」

少し憂いを帯びた声が出た。どうしてそんな声が出たのかは……もうよく分からない。

「失礼します。」

「アンジュさん、また生徒指導で……どうしましたか?」

倉庫で待ってくれていた主任は、私の顔を見て驚きの表情を見せる。

「え?」

「いえ、あなた……泣いているの?」

頬の涙の跡がうっすら残っていたらしい。

「あっ、いえ、これは……何でもありません。」

「……今日は軽めにしておきましょう。休息も必要です。」

「ありがとうございます。」

いつもより早く倉庫を出て、家路に着く。
家のベッドに横たわり、目を閉じた。
意識を手放すことができたのは、瞼を照らす光が大きくなって、鳥のさえずりが聞こえ始めた頃だった。

〜第4章〜

昨夜のデビーとの話から、一夜が明けた。
結局ほとんど眠ることができないまま学校に来た。

しかし不思議と眠さは残っていない。頭の中を駆け巡る情報が多すぎて、脳が眠ることを欲していないのだ。

デビーと話をすれば解決するだろうか。彼女の傍は、心地よい。
最初に声をかけて以来、ずっとデビーから私を誘ってくれていたが、今日は私から声をかけてみよう。

そう意を決して気合を入れ直し、職員室の扉を開ける。

「おはようございま……」

『緊急伝令。緊急伝令。校内に侵入者あり。校内に侵入者あり。校内の生徒の安全を確保してください』

けたたましいサイレンと共に信じられない言葉が校内全体に降り注ぐ。

「え……?」

この学校に侵入者……?
緊急伝令は、ご丁寧に繰り返し私たちに危機を知らせてくれている。

「わ、私、クラスを見てきます!」

「待ってアンジュさん!あなた……」

主任の静止する声を振り切って職員室を飛び出す。
誰が?どうして?この学校を狙って?
生徒は無事だろうか。まだ登校してない?
デビーは?
あの子はきっと、この学校にいてはいけない。
こんなところで死んではいけない。
どうか、どうか……。

いつもは冷静を装って歩く廊下を走り抜ける。
いつもは無機質さが好きになれない階段を駆け上がる。
いつもはデビーがひょっこり現れる曲がり角を曲がったところで、何かにぶつかった。

「いった……!せ、先生!?」

デビーだ。私同様走ってきたので、2人とも勢いよく後ろに倒れ込んでしまった。

「デ……デビー!大丈夫!?怪我はない!?他の皆は!?」

「わ、私は大丈夫!それよりも……皆が教室で……」

遅かった……。デビーを置いて、慌てて教室に入る。
しかし、そこに見知った顔はなかった。

いや、見知らぬ顔もない。

教室は、空っぽ。
まるで緊急伝令が嘘だったかのように。
良かった、誰もいない。いや、なぜ?
デビーがいう皆とは

「……え?」

わずかだが銃声がした。
後ろから銃弾が発射され、私の足を掠めていったようだ。
振り向くと武装した男が3人立っている。

どうして。
そこにはデビーがいたはず。
まさかデビーは。
この男達に。

「あの子をどこにやったのよ!!!」

足に巻き付けたホルダーから、護身用として携帯していた銃を構える。

お互いが銃を突きつけ合う状態。

「あの子を……デビーをどうしたの!」

「……」

男たちは質問に答えず、ただ無言で私と向き合うだけ。
異質なのは、お互いが銃口を向け合っていることくらいだ。

相手のうちの1人がわずかに銃口を下げたのを見逃さなかった。
どうやら私の脚を撃ち抜いて無力化しようとしている。

その瞬間を狙って引き金を引ければ良かった。
しかし、私の指先は動かない。
そんな私の躊躇いを相手も見逃さなかった。

3つの銃口から放たれた弾丸は、再び私の脚を掠める。

ストッキングは破れ、脚からは血が出ている。
それでも私はへたり込むわけにはいかなかった。

「デビーは……どこにいったの……」

生きているのならば、あの子だけはこの学校から逃してあげたい。
記録上は死んだことになってもいい。こんな学校のことなど忘れ、新しい人生を謳歌してほしい。

「生きてたら返事をして、デビー!!!」

「先生!!!」

ああ、よかった。デビーは生きている。

この瞬間、男達は驚いた表情をしていた。
殺したはずの者が生きていれば驚きもするだろう。
今度こそこの隙を見逃さない。

引き金にかかる人差し指に力を入れようとした時だった。

「ここは私だけでいいわ。他の階を探してちょうだい。」

見たことのある顔から、聞いたことのない声が発せられた。
その声に呼応するように3人の男たちは、散り散りになっていく。

力を入れようとした人差し指は硬直する。

「……あれ、デビー。どういうこと?」

「先生……」

どうしたの?
どうしてあの男達はデビーのいうことを聞くの?
何かあったの?事情を教えて?

喉までそんな言葉が出ているのに。

「だめじゃん、デビー以外の心配なんかしちゃあ」

恐ろしくも屈託のない笑顔で独占欲を見せつけてくるその姿勢に、喉元の言葉は全て消えた。

「……あ、えっ、その。あれ、ごめんなさい、その……」

「なあに、先生。何がわからないの?」

「その、あなたは……誰……?」

「やだ、先生、忘れちゃったの?デビーだよ、デ・ビ・イ!」

呆然と立ち尽くすことしかできない私に、デビーは畳み掛ける。

「あ、そうだ。先生じゃなくて、アンジュちゃんって呼んでもいいかな。」

どうして?

「だってさ、先生じゃないんでしょ、アンジュちゃん。」

心臓の鼓動が一度大きく鳴る。
それを合図に、いつもの倍以上はありそうなリズムで鼓動は動き続ける。

何か絞り出せ。沈黙だけはまずい。

「何を……言ってるんですか」

「私知ってるんだよ。アンジュちゃんが、放課後にこっそり訓練しているの。」

「……それがどうしたんですか。私たちだって有事の際には現場に駆り出されます。そのために訓練は欠かせません。」

大丈夫。まだ何もバレてはいない。

「ふぅん……あくまでシラをきるんだね。じゃあこの紙見てよ。」

出してきたのは、今年の卒業試験要項の一部だった。

「あなただったんですね。信じたくはありませんが。」

「まあまあ聞いてよ。重要なのはね、この裏。去年の試験結果のページ」

心臓がさっきよりもさらに大きく跳ね上がる。

「待って、デビーさん、そこには」

「合格者87名、不合格33名。不合格生徒のうち、以下の者を本校の臨時講師として任命。」

「あ……」

「ここに書かれている名前は」

「やめて……」

「AppleのA、NorthのN、GoodのG、EastのE。」

「っ……!」

「ANGE(アンジュ)。あなたの名前だよね。」

私は去年、卒業試験で任務に失敗してしまった。必要な情報は引き出せたのだが、最後にターゲットを殺し損ねてしまったのだ。
どうしてそうなってしまったのかはわからない。
能力的にはどの能力も平均値以上。私を含め誰もが私の合格を疑っていなかった。

だが、私は最後の最後で躊躇ってしまった。無情にも冷徹にもなれず、引き金を引くことができなかった。

本来ならば私は他の32人同様殺される運命にあった。
しかし、軍の上層部は私の能力を尚も欲しがった。ターゲットにとどめをさせない以上、任務に赴くことはできないが、後進の育成には役立つだろうという考えらしい。

そこで私は、この学校で教鞭を取りつつ、生徒がいなくなった放課後に補修という形の訓練を続けていたのだ。

上層部の方針で後進の育成に留まることはできず、特別に再試験を開催してもらえることになっていたので、それに向けて。
教師の業務をこなしながらの補修となるので、次の試験は何年後になるか分からないと言われた。ただ、私は失敗した身で生き永らえたのだ。

故に卒業試験要項がなくなった際、「疑わしい生徒」として私が疑われたのだ。
卒業を最も渇望する生徒が、卒業試験要項を盗み見ようとしたのではないかと。

「私ね、思うんだけどさ。」

デビーが口を開く。

「放課後にいっぱいいっぱい訓練しても、きっと次の卒業試験も落ちてたよ。」

「な……んで……」

「アンジュちゃんって、身体能力も知能も人並み以上にあると思うの。だってさっきもそうだったでしょ?大の男3人に対して、臆することなく対処する能力があるんだよ。」

「……」

その能力を評価されて今私は生かされている。

「でもきっと相手の命を奪おうとする行為に、躊躇いを感じてしまうの。だからさっき、銃口がわずかに下に逸れた瞬間を見極めてたにもかかわらず、アンジュちゃんは引き金を引けなかった」

そこまで見られていたのか……。

「それってさ、技能の問題じゃなくてさ、心の問題なんだよ。」

「心……?」

「そ、心。アンジュちゃんは人の命を奪う技量がないわけじゃない。覚悟がないんだよ。」

覚悟。人を殺す覚悟。

「思い出してみてよ、卒業試験の時のこと。アンジュちゃん、きっと「この人には幸せになってほしい」「私と違って愛してくれる人がいる」って考えちゃったんじゃない?」

「思い……出せないわ……。」

「じゃあ、こうすれば思い出せるかな。」

そう言うとデビーは教卓を挟んだ私の向こう側に立った。
黒板に背を向け教卓の方を向く私。
黒板を見るように教卓に肘をついて私の顔を覗き込むデビー。

「銃弾、入れ直してさ。私を撃ってみてよ。」


「うっ……!」

デビーには幸せになって欲しい。
私と違ってきっと愛してくれる人が現れる。

さっきデビーが私に投げかけた言葉が、そのまま頭の中で反響している。

銃弾を入れるところまではいいのだ。訓練通りに動くのだ。
引き金にかかった私の指だけが一向に動かない。

「撃てないよね、やっぱり。銃弾を入れ替えれば心もリセットされるかなってちょっと思ったんだけど、そんなわけないか。」

引き金を引くことはおろか、銃口を突きつけることすらできない。
そういう意味では、さっきの男たちと対峙したときよりも状況は悪化している。

「アンジュちゃんはさ。きっとこの学校に入る資格も本来なかったんだよ。」

「それは……どうして?」

「こういうのってさ、人から言ってもらうのは無粋なんだけど」

大きなため息と少しの恥じらいを交えながら、デビーは優しく教えてくれた。

「人を愛しちゃうんだよ、アンジュちゃんは。」

「愛……?私が?」

だって、この学校の入学資格は

「愛さないことが、この学校の入学条件なのにね」

人を愛することの意味がわからなかった。だから、私はこの学校に入って、この国のために、自分の能力を最大限活かせると思っていた。

「アンジュちゃんがね、銃口を向けた人に対して感じるその感情を、一般的には「愛」って呼ぶんだよ。」

「これが……?」

「そうだよ。それが愛。それを踏まえて、私に銃口を向けてみて。」

デビーが私の手を優しく取って、銃口を向けさせる。

「今、アンジュちゃんが少し指を動かせば、私死んじゃうよね。」

手が震えているのが自分でもよくわかる。

「アンジュちゃん。今、何考えてる?」

何を考えているか……?
今デビーとは敵対関係であり、排除すべき対象だ。
私がやるべきことは、この指を動かして、デビーを消すこと。

それしかありえないはずなのに。

「声に出して言ってみてよ。」

私は絶対にあなたを許さない。
この国の平和を脅かすものは、誰であろうと許さない。
さようなら、デビー。

そう言えれば良かった。

「デビー……死なないで。」

私は彼女を

「ありがとう、アンジュちゃん。私も。」

愛してしまった。

そう自覚した瞬間、私は鮮血に包まれた。
そのまま教卓に突っ伏す形で倒れ込む。

「ごめんね、アンジュちゃん。」

デビーに撃たれたんだ。
この出血量ではもう助からないのだろう。
頭がボーッとしてくるのがわかる。
きっともう長くはないだろう。

ああ、結局卒業できなかったな。
人も殺せないまま、死ぬことになるんだ。
いっそのこと、不合格になった時にみんなと一緒に死ねれば良かった。
結局少し寿命が伸びただけ。

しかも、生き永らえたその期間で得たのは、私がスパイとして不適合者だったという事実。
そもそも人を愛してしまう体質を持ち合わせてしまっていたのだ。

向こうで皆に会えたら何て謝ろうかな。
ただの出来損ないである私を笑って出迎えてくれるかな。

そもそも、特別扱いされた挙句、皆よりも長生きをしてしまった罪を抱えて、私は皆と一緒のところに行けるのだろうか。

この感情が愛だなんて、どうしてそんなことを私に教えたの。

愛なんて知らずに死にたかった。
自分がそんな感情に蝕まれていることなんて、もっと知りたくなかった。
どうしてそんなことを教えたの。
どうして。
どうして。
ねえ、どうして。

「い……きて……」

さっきの「私も」って何?
いっぱい聞きたいことがあるのに。
絞り出すのはどうしてもデビーに対する心配だけ。

「ちゃんと言っておかないとね。アンジュちゃん。」

何を?もう聞き返す気力もない。

「大好きだよ。」

頭が真っ白になった。

誰かを愛することは罪だと思っていた。
自分が人を愛することはもちろん、人に愛されることもあってはならないことだと思っていた。
でも今、私ははっきりと愛を向けられている。

デビーも私を愛してくれた。
私がデビーに抱いた感情を、デビーが私に抱いてくれている。

もうすぐ私は悲しく命を落とすというのに、どうしてこんなにも満ち足りた気持ちになっているのだろう。

「あ……とう。う……しい。」

そうだったんだ。分かったよ。
この感情が

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「バイバイ、アンジュちゃん。」

私たちの大きな目的は、敵国の軍事力の低下。
例えば、そもそもの軍人の数を減らすこと・軍の司令塔を亡き者にすることでその目的は叶えられる。

今回の作戦では、もちろんそれも目的として含まれているが、一番の目的は未来に羽ばたく若い芽を摘み取ることだ。

特に最近、総合力に長けた者が入隊し、このままではこの国の脅威となりうるだろうという情報が入ってきた。

私に割り当てられたのは、今回の作戦の要。敵国のスパイ養成学校に潜入して、無力化を図ること。

身寄りのない子供を演じ、無事学校に潜入した。
底抜けに明るい人格を演じれば、孤児になったショックで人格が破綻してしまった可哀想な生徒として扱われるかと思ったのだけれど……少し失敗したみたいだ。

「アンジュちゃん、私ね。人を殺したの初めてなんだよ。」

もう何も言ってくれないアンジュちゃんに語りかけてみる。

アンジュちゃんは、最初はどこか隙のない女教師という印象だった。
でも隙のない女こそ、どこか1つ綻びがあれば、そこを弱みにズルズルと情報を引き出せると踏んだのだ。

そこで放課後の特訓のことを知った。
教師が有事の際に行うものとしては、初歩も初歩すぎる内容。

隙を見て資料を見てみると、何と女教師はただの生徒ではないか。

最終試験のことを聞いてみたら、驚くほど素直に脈が速くなった。
最終試験の失敗に対してあそこまで動揺するということは、それはよほど恐ろしい結果が待っているということだろう。
そして、恐らく自分の秘密に触れられてしまったが故の動揺。
あの書類に書かれている内容は真実だったと、アンジュちゃんの血液が教えてくれた。

隙を見せないその態度は、自身が本物の教師でないことを悟られないための鎧だろう。
この鎧を脱がせれば、きっと有利に働く。
そう思った時に、私の方に異常が生じた。

「隙のないアンジュちゃんが、先生のふりして頑張ってるだけなんだって思った瞬間に、何だか心がザワザワしたの。」

恐らく、アンジュちゃんの不完全さに惹かれてしまったのだろう。
生徒に自分の秘密を知られないように、必死に虚勢を張る姿。
この教室の中で、それを知るのは私1人であろうこと。

「私だけがアンジュちゃんの秘密を知っていて。でもアンジュちゃんは私にも虚勢を張るんだよ。すごく愛おしい気持ちになったんだ。」

だからと言って、作戦は止まらない。作戦決行の日は待ってくれない。
この気持ちを抱えたまま、任務をこなさないといけない。

そうなれば必然、アンジュちゃんを殺さなければならない。

特に、卒業試験に失敗しても特別扱いで生かされてしまうほど秀でた能力を持つアンジュちゃんは、敵からすれば真っ先に始末しなければいけない存在だ。

その時、私はアンジュちゃんに「生きてほしい」とは願わなかった。
その代わり、「最期を看取りたい」と願ったのだ。

だから同行した隊員にも無理を言ってしまった。
人を殺すときにいつも表情なんか浮かべないくせに、珍しく驚いた顔をしていた。

「愛ってね、いろんな形があるんだよ。面白いね。」

今回の任務を通して、私たちはお互いに愛を知った。

「もう行かなきゃ。最後に気休めだけど、これあげるね。」

あたりに散らばった、まだ乾いていないアンジュちゃんの血を指に取る。

「AppleのA、NorthのN、GoodのG、EastのE……。」

1文字ずつ丁寧に、もう声も届かないアンジュちゃんに言い聞かせるように、口に出しながら赤い文字を紡ぐ。

「そして最後にLOVEのL。」

出来上がった文字はANGEL。

「アンジュちゃん、誰も殺さないまま最後に愛を知ったから、きっと他の不合格者の皆と同じところに行けるよ。天使になってそこから私のこと見守っててね。」

自分にも言い聞かせるような気休めを口にしながら、アンジュちゃんに別れを告げる。

「きっと私はそっちには行けないから。愛を知ってしまったことで、私は地獄に落ちるの。」

私の名前はDEVI(デビー)。
愛を知ったことで、恐ろしいDEVILになってしまった。
きっと死んだ後にアンジュちゃんと同じところには行けないのだろう。

「最後くらい、真面目な生徒やってみようか。」

アンジュちゃんと別れる時の言葉はこれしか思いつかなかった。

「起立。気をつけ。礼。」

さようなら。

-Fin.-

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