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1年半ぶりにYouTubeに戻ってきたら浦島太郎感覚だった話。

「世界は目まぐるしく変化している」―これは私が最近になって心から思うことの一つだ。2018年になってからは特にそう思う。日常の体感速度が恐ろしいほど速くなっている気がする。このままいくと20代も30代も同様に感じるのではないかと考えると、少し恐ろしく感じてしまう。

序文から今までの「どうも、ニグです。よろしゅうお願いします。」がないと困惑している方はずっと私のnoteを見てくださっている人であろう。この場で改めて感謝を。ありがとうございます。

しかし、今回はこうやって書いてみたかった。課題やレポートの形式に慣れすぎてしまって普段の書き方を忘れてしまっただなんて口が裂けても言えない。ましてやこうやって書くことでいい感じの文章になるのではないかとは口が裂けても言えない。

思想の癌

私はゲーム実況者だ。普段はYouTubeで動画投稿をしている。ありがたいことに6年たった今でも動画を見続けてくださる人がいる。

他の人から見たら成功者や人気者と思われるかもしれないが、今でも私の心のどこかではとある考えが存在する。

「ゲーム実況至上主義」だ。

ゲーム実況は投稿者が持てる限りを出し尽くし、完成された一本を投稿しなければならないという思想だ。

この癌のような考えは、今でも私の体を蝕み続けている。

ゲーム実況は片手間で出来るようなものではなく、常にネタやトレンドを追いかけ続けなければいけない。このような職人気質を強いる思想は危険極まりないものだが、活動当初は本気でそう思っていた。

特に許せなかったのが、YouTuberの急な方向転換だ。

美容系やほのぼの系等、ゲームとは全く関係のないジャンルで活躍していたはずなのに、いつのまにかゲーム実況を行っている。

普段の再生数が低下しているからなのか、それともゲーム好きの層を新たに取り込もうとする戦略なのか。それは今になってもわからない。

しかし、当時は自分が信仰しているゲーム実況という聖域を土足で踏み荒らすなという気持ちしかわかなかった。勝手に来ないでと思っていた。ゲーム好きを公言している人ならまだ許せたのだが、急な方向転換を行っていると考えられたYouTuberは軽蔑していた。

心のどこかで、排他的な考えがあったのかもしれない。もしくは自分が見つけた秘境を他の人に見せたくなかったからなのかもしれない。

やっと見つけた居場所を奪われたくなかった自分にとっては、そのように考えなければ耐えることが出来なかったんだと感じる。

変わっていなかったのは、自分の方だった。

私は受験勉強のために1年半ほど活動を休止していた。人生を決める受験とYouTubeとでは、天秤に比べるまでもなかった。

そして受験が終わり戻ってくると、YouTubeの世界は変わっていた。

今までの経験や戦略が全く通用しない。自分の価値観が古いと感じてしまう。そしてそれを認めたくない謎のプライド。

ここ数カ月はこのような考え方との葛藤だった。このnoteを書きながら考えると、子供みたいな思考回路だったとほほえましくなるものだ。

自分は今でも「ゲーム実況は仕事にできない」と考えている。YouTubeというものに依存している以上、仕事にした場合にはいつ収入がなくなるのかがわからないからである。

「俺これだけ稼いだぞすごいだろ」とはならないし、なれない。YouTubeで手に入れたお金はあくまでも「収益」であり、視聴者の時間を奪って手に入れたものであると考えているからだ。

しかし、今のご時世ではそのような考えも古いのではないかと考えさせられる。毎日投稿は当然、一本ごとの再生数が低くても、動画数を稼ぐことによって人気を得るのが主流になりつつある。

ここで自分の揺らぐ信念を貫いて逆張りをし続けても、成功し続ける可能性は小さい。

変わっていなかったのは、自分の方だった。世界は既に変わってしまっていた。あの頃のYouTubeはもうなくなっていた。

一年半の勉強生活から戻ってきた私にとっては、まるで浦島太郎のような気分だった。

凝り固まった思想こそ、自身を蝕む癌である。

よく、「最近の若い者は...」とつぶやく中年が話題になっていたが、現在の社会の時流に自身の思考をアップデートできない人間は取り残されていくのは自明の理である。

自身の経験と成功体験によって塗り固められてきた、柔軟性のない凝り固まった思想は、逆に自分を蝕む癌と化す。そして知らず知らずのうちに自身を蝕み、気づかないうちに破滅していくのだ。

今まではそのような大人を心の隅で小馬鹿にしていたが、よくよく考えると自分もその仲間入りを果たしていると気づいた。

確かに、自分の信念を貫くことは大切である。しかし、その信念が揺らいでいるにも関わらず、それにしがみつこうとするのは愚の骨頂である。

「あの人はゲーム実況をバカにしている」を思う自分自身こそ、「最近の若い者は...」とつぶやく中年と同じだったのだ。

自身の経験だけに従ってはいけない。職人気質で成功する時代はもう終わったのだ。

信念を忘れず、流動性を忘れず。

信念を完全に捨ててはいけない。しかし、固執することもいけない。どれも破滅の道を進むことになる。

大切なのは、「流動性を忘れない」ということだ。

自身の経験だけに固執せず、新しい考えを自分に取り込み、信念をアップデートし続ける。急に180°変えろというわけではない。毎日細かいアップデートを行い、微調整を繰り返していくのだ。

ここまで考えてやっと私は思想の癌から解放された。むしろ呪縛と言った方がよかったのではないか。

凝り固まった思想は自分でもなかなか気づきにくい。自分の中ではそれが当然と思っているからだ。

自分の凝り固まった思想に気づき、疑い、流動性を取り戻してアップデートする。

これこそが、今のYouTubeに求められているものではないか。そして、今までの自分に足りなかったことではないのか。

ゲームは人を変える。

「ゲームは人を変える。」良い方向であれ悪い方向であれ、この言葉は的確にゲームの可能性を表している。絶妙なゲームバランス。緻密に練りこまれたストーリー。映画を疑うようなグラフィックとサウンド。ひとたびゲームを突ければ、世界中の人と戦うこともできる。自分が子供の頃にやっていたゲームとは違い、現代のゲームは量も質も増大している。

かという私もゲームの沼に落ちていった人間の一人である。「マリオカートDS」から始まった私のゲーム人生は、いつの間にか主要のハードをそろえるくらいのレベルになってしまっていた。ゲームにのめりこみすぎてしまい、学校の成績が落ちて親に怒られたこともあった。

しかし、後悔はしていない。なぜなら、ゲームのおかげで今の自分があるといっても過言ではないからだ。

今はこうやってゲーム実況者として活躍しているが、その中でもゲームによって私は目まぐるしく変わってきた。その一つ一つに対して私は否定しない。全て私自身が経験した「私」なのだから。

ゲームは人を変える。この言葉が私にとって良い方向であることを祈る。


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