見出し画像

教育の三点分散

大半のサービス提供には形がなく、やりとりの把握が可視化されにくい側面がございますのでいささかグレーゾーンがございます。このグレーゾーンは立場により捉え方が異なります。例えば、教師側ですと形がない物なので「サービス残業」の温床となりやすく、また、形がないが故に「仕事数が実質増えたとしても量的感覚となり仕事依頼主である申込者はそこまで相手の負担を考えなくて済む」ことが出来ます。生徒側の保護者様の視点ですと「形がないので信頼に任せるしかない」「教育の効果がない場合、指導がキチンとしていないのではと疑心暗鬼になる」などがございます。両者には両者の言い分がございますのは致し方がない事です。では、この現状を作り出している原因は何なのかと申しますと、対価の物質的証明が非常に難しいということです。さらに教育に関しては提供者と受益者との関係だけではなく、もう一本の線が追加され受益者の関係者が関与してきます。金銭支払い者である保護者様が主役になることができず、直接確認を取ることが難しい状況も齟齬の一因となっています。大半のサービスは提供者と受益者間の利益の授受でございますので、直接的に影響を及ぼしておりサービスを受けたと認識できることができます。

金銭支払い者が主役になることのできない教育状況はヒトにとって不安の増発を生み出してしまいます。さらに、教育に関しては提供者と受益者が成人と未成年との関係になりますので、儒教の考えからも年配者である提供者が「上」になりがちです。受益者もその事を日本文化の一部と理解しておりますので逆らうことがままならない環境です。

このチグハグした状況が不可避な教育現場を平すことは非常に困難です。直接的な関係性、提供者と受益者ではなく、「提供者一受益者一一一一一金銭支払い者」のような金銭支払い者が蚊帳の外(一一の多さ)に陥ってしまっている状況では、提供者に対して要望を伝えることは至極自然なことです。関係性が希薄であれば対価として見合っているのかの確認をする、その確認が不徹底であればさらに要望を入れる。この流れが繰り返されます。提供者側も一生懸命、生産性のある仕事をしているにも関わらず給料が支払われない状況でも「受益者に貢献したい」という思いだけで行動して下さっております。資本主義で金銭の対価を受け取ることが当たり前の受益者は特に頑張らなくてもいいと思います。例えば、金銭を払って髪を切ってもらう側が提供者に対して価値のある物を提供する必要がないことからも一目瞭然です。

さて、資本主義のシステムを採用している状況(日本)にも関わらず、教育現場が何やら革命的な構造で成り立っていることが分かると思います。資本主義では「提供者一受益者」が基本ですが、「提供者一受益者一一一一金銭支払い者」となっております。この構造ですと単純に提供者は2倍の労働を強いられてしまいます。教育現場がいかに厳しい状況に陥っているかがわかると思います。


ここから先は

718字

¥ 200

バナナを購入したいと思います。メロンも食べてみたいです。