オペレッタ寂寥軒
オペレッタ寂寥軒
元来が人の忠告を全く聞かない性質の吉村君は、ついに行ってしまった。会社近くのラーメン屋『寂寥軒』で昼食をとることにしたのだ。みんな止めた。泣く奴すらいた。だが吉村君の決意は固かった。妙に固かった何故か固かった。上司は仕事をすべて片付けてからにしろと諦めた調子で吉村君に言い渡した。満を持して引継ぎを完了した数日後の正午、吉村君は財布とスマホだけ持って『寂寥軒』へ向かった。実は吉村君は寂寥軒を見たことが無かった。ここ中央区日本橋というビジネス街にあって、ランチタイムに客の影ひとつないラーメン屋が存在する―――そんな噂を聞き及び、いっちょ行ってみっかと思い立っただけなのだ。事前の敵情視察といったみみっちいことをする吉村君ではなかった。
確かに食い物屋の名前ではないなというのは吉村君も思った。寂寥。腹を満たすという快感に逆行した物悲しい屋号だ。生殺与奪を前提とした営みに対する批評的態度を表した屋号であろうか。徐々に警戒心を強めながら路地を折れた途端、メチャクチャでかい真赤な看板に太いゴシック体の白抜きで「うまい 寂寥軒 うまい」と記された一軒家と出くわしたので吉村君はキレそうになった。そんなゴ機嫌な寂寥軒があるかと思った。近づいてみると真赤な暖簾にはニコニコ笑った豚が描かれており、寂寥にあるまじき豚骨ラーメン屋じゃねえかと吉村君は怒髪天に達した。店主のおどけぶりによっては暴力も辞さない決意を胸にガラス戸を引き開けると、店のどん詰まりの暗がりに二人の老人が座っていた。くわえ煙草で新聞などめくっていれば幻滅できたものを、二人とも背筋を九十度に保って爛々とした視線を出入口に注いでいた。彼らの瞳に重油のようなギラつきを認めた吉村君は、臨戦態勢をとった。腰を落とし胸の前で拳を構える。迂闊に振舞うと殺されると直感した。老人たちは全く同じ動きで、うっそりと立ち上がった。右の老人のエプロンには左の老人の顔写真が、左の老人のエプロンには右の老人の顔写真がプリントしてあった。老人は朗々と声を合わせた。
「そはなんぴとぞ」
えっ客だが。吉村君は警戒する。どういうコンセプトの店なのか。
しかして元来が好奇心の旺盛な吉村くんは、劇的なカマをかけた。
「過ぎ往く者である」
ラジオから流れていた人生相談がぶつりと途切れ、幼児のハミングが流れはじめた。老人の一人が滑るように厨房へとうつる。いま一人は片頬で笑うと、壁面を指差した。
「過ぎ往く者よ。その欲するは何か!」
ラーメンだが。吉村君は老人の示すままに、壁を見た。桃色の短冊にはそれぞれ手書きでメニューが記され、すぐ下のフックにバリエーション豊かな刀剣類が吊るされている。吉村君は『味噌バターコーン』と書かれた短冊の真下にあったレイピアを掴んだ。しなやかな刃を一振りすれば、鋭い音で空気がうなる。フロアの老人はエプロンのポケットから一本の青い薔薇を取り出すと、その花びらに口付けして胸に飾った。そうして手に取ったるは雑誌ラックに無造作に引っかけられた棒切れ、しかして鞘から引き抜けば白銀の剣身がたちまちに現れる。握りにあしらわれたる複雑精妙な蔦飾り、その中央に君臨するように配された眩いイエロー・アパタイト。
「我が剣の名はサリエル。月の天使にして神の命令そのもの」
フェンシング仕込みと思われる老人の踏みこみに併せて、吉村君も切先を突きだした。二つの刀身は間合いを図りながら、やがて互いをぶつけあう苛烈な攻防に雪崩れこむ。苦闘に喘ぎながらも吉村君は目の端で捉えた。
厨房の老人が動いたのだ。
味噌バターコーンを作り始めるのかと思いきや、よくよく見れば厨房の大半を陣取る形でグランドピアノが置いてあり、なんでだよと思いながら鍔迫り合いを繰り広げる吉村君をよそに、老人は力強くピアノを弾き始めた。おそらくメロディが最高潮の盛り上がりに達したところで、勝手口をガチャリと開けて入ってきたのがタキシードを着た老人。ぞろぞろ入った新顔は計十二名、横一列に並ぶとアルトとテノールに分かれての二部合唱が始まった。
♪
『〈命令第五番をうけて〉天壌無窮セネッセンス』
作詞曲 寂寥軒店主
歌唱 老人
自動的天命に疑義! こめかみに人差指で受信
麦秋王は人殺し
黒豚卿のかばねの残滓
永遠未熟に凝った卵
神授の肉も朧に無残
泉 泉 おまちどうさま死の泉
啜! いのちのスープのホルマリン漬
啜! あなたのかかとの柔らかきこと
ああ天壌無窮セネッセンス 終らない あなたとわたし 終わらない
啜ること無限なり・永遠なり 噛み砕くこと迫真なり・永遠なり
おなかいっぱい
♪
剣戟!
火花散るような切り結びのなか、吉村君と老人は舌鋒をも競わせる。
「そんなにラーメン作りたくないってことかよ!」
「運命の機械として生きたことはあるかね! 云われるがまま、望まれたものを作るだけ! 剥奪されていく哲学、掌を擦りぬける誇り!」
「客には望む権利がある!」
「左様! 願望の衝突、それだけのことさ! 決着を付けよう!」
「それだけのことなものか―――美味しいって言われたことないのかよ!」
僅かだが老人は身を震わせた。そのぶんだけ剣先に生じた迷い。吉村君は間隙を見逃さなかった。攻撃を見切ってかわすと、吉村君は裂帛の気合でもって、老人の胸を飾る青い薔薇めがけてレイピアを突きたてた。老人の両手が力なく垂れ落ち、脂っぽい床に剣がからからと転げた。血を吸った薔薇が黒ずむ。老人は絞り出すように声を上げた。
「しかたがねえ……味噌バコ一丁……!」
運命に絡めとられた人間の、最期の言葉だった。
吉村君は慟哭した。
「―――どうして闘わなきゃいけないんだ!」
厨房の老人が―――麺を茹で始めた。
そういうわけで味噌バターコーンラーメンが運ばれてきた。
チャルメラぐらいの味だった。
「千三百円です」
値段も薄っすら高かった。
吉村君はウェブのレビューでクソミソにけなした。〈了〉
【11/10 追記】
寂寥軒の味玉
寂寥軒から頻繁に味玉サービス券が届くので、橋口は困惑していた。それは橋口宛に、会社のポストに届くのである。誰かが、寂寥軒の何かに、会社の住所を登録している。しかも橋口の名義で登録している。
佐伯か吉村だ。仕事を辞めてった佐伯と仕事を舐めくさった吉村。俺が彼らに何をした。発注しすぎたホチキスのことを揶揄したのがいけなかったのか佐伯。名刺入れにディズニーでプーさんと撮ったチェキを入れていたことについて咎めたがソレか、ソレが気に食わなかったか吉村。
サービス券は、蜜蝋で厳重に閉ざされた封書でもって届く。券と一緒に必ず、浜辺で産卵するウミガメの写真が同梱されており、橋口はその意図を測りかねた。橋口は寂寥軒を恐れていた。意味が分からないからだ。
数えたところ、橋口の机の引き出しにはサービス券が30枚溜まっていた。まじまじ眺めてみるとサービス券の右下に小さな文字で「味玉サービス券を30枚集めた方には年賀状600枚をプレゼントします」と書かれていた。どうしてなの? 橋口は恐慌をきたした。時期を問わず年賀状を送ってくるの? なんなの?
いまは9月半ば。年賀状から最も遠い時期である。会社に600枚の年賀状が届いたらクビになるのではないかと橋口は思った。娘は小学校に上がったばかりだ。
このサービス券は全部、係長にあげよう。
あの人優しいからな。
橋口は思い立って係長に声をかける。すると係長は
「悪いけどね、もう俺『味玉』貰っちゃったんだよ」
といってデスクの引き出しを開けた。
玉が入っていた。透いた緑色で、大きさは拳ふたつを重ねた程。占い師の水晶玉のような印象だ。係長は玉を撫でまわすと、目鼻口をきゅっと顔の中央に寄せた渋面をつくる。
橋口も球を触ってみた。
「――――酸っぱ!」
声が出た。すっぱかった。レモンを齧ったような酸味が、なぜか舌の根のあたりから染みだしてきたのである。『味』だ。まごうことのない『味』。玉を触ったら、なぜか味がした。
「お前も貰えばいいじゃない。早く交換しないと年賀状が来るぞ」
係長は味玉を撫でまわし続けた。
橋口は泣きそうになった。ひょっとしてみんなのデスクに『味玉』が入っていて、みんな仕事の合間に『味』をやっているのではないか? この会社は寂寥軒に支配されてはいないか? おれはこんな会社、辞めたほうがいいのではないか?
しかし橋口は、いまも同じ会社に勤めている。娘が小学校に上がったばかりだからだ。30枚のサービス券が溜まってから暫くしてのクリスマス、寂寥軒から600枚の年賀状が届いた。教えてないのに自宅に届いた。エアメールだった。ハワイから。何をバカンスしていやがる。
寂寥軒のチャーシュー
なにか丸いものが、紐でぐるぐる巻きにされている。荒縄のような質感の紐で。紐の隙間は、微塵もない。一見、紐の塊。煮られるでもなく焼かれるでもなく、葱畑に安置されている、紐の塊。
塊には、豚と鶏とが寄り添っている。微睡んでいる。微笑ましく安らかな時間。澄み渡る青空。さわさわと風に揺れる葱坊主。人為的な音のない空間。
三角頭巾をかぶった人間が、葱を掻き分けて、やってくる。人間は紐の塊の背後でタクトを振りかざすと、荘厳な低音で呟く。
「チャ」
紐の塊が、すうっと、浮き上る。まっすぐに天上へと昇っていく。真白い光明が一筋、空の上から斜めに差す。紐の塊を照らす。豚と鶏は穏やかに眠っている。その無垢な睫毛。
三角頭巾をかぶった人間が今一人、葱を掻き分けて、やってくる。人間は最初に来た人間と向かい合うと腰の前で手を重ねて、歯と歯の隙間から息を漏らす。
「シュ」
それを合図に老人が十二人、葱坊主の狭間からすっくすっくと立ちあがる。彼らは残る「ー」と「ー」を担う。地上あらゆる生物の可聴域にはない音すなわちーとー。チャとシュを繋ぐ梯子が外れ、いちどきに空を揺るがせた。そのとき天使は驚いて落ちるのだ。そら、翼の生えた子供が、ふんわりと落下してくる。胸にてどくどくと脈打つ、剥き出しの肉片。紐の塊が昇天し、子供は代わりに堕天する。入れ替えは井戸の滑車のように。子が落ち切ったらば心臓をもぎとって、ぐるぐるにまた荒い紐で巻く。渡した分だけ貰い受ける。
さらば寂寥軒
「なあ吉村、寂寥軒ってマズかったよな」
「マズいっつうか普通でしたね。全体に水っぽかったっす」
「実は寂寥軒さ、ホントはラーメン屋じゃなかったらしいんだよ」
「マジすか係長。え、ホントは何屋だったんですか」
「銀行らしいよ」
~了~
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