ありとあらゆるもの(第4回阿波しらさぎ文学賞・投稿作)

 地球、四十六億年。
 その歴史は、あまたの生と死の積重ねで出来ている。いま生きているものより、これまでに死んでいったものたちのほうが、圧倒的に数が多い。理屈のうえでは自明だけれど、ことこれを実感するとなると現世から離れなくちゃいけなくて大変だ。ちっちゃな頃から精霊で、何十年と幽明のあわいをプラプラしていたおれにとっては、この地上はあらゆる幽霊でいつも賑やかなように思うんだけど、ちゃんと命ある人々にとっては山とか川とかしかないがらんどうに見えるらしい。損なことだよ。かたちなき生は楽しいですよ。
 とかなんとか言いふらしていたら、こないだ、通りすがりの幽霊に諭された。いわく、お前とは違う人生を歩んできた人々に対してその言い草は失礼である、生まれたからだでしか生きられないヒトの立場を斟酌せよ、いろかたちある肉体にはその良さがあり、かたちなき生にはそれなりの悪さがある。
 かたちなくたってこころ的なものはあるおれなので、言われっぱなしは業腹だった。それで憑依をしてみようと思ったのだね。重力に縛られた肉体とやらを体験したうえでクソミソに言ってやろうではないか。
 さて最初はヒトに行ってみた。ところが人間というのは老若男女どいつもこいつも意外と確固たる自分があってカンもいい。おれが憑りついたことで頭痛肩こり蕁麻疹などの諸症状に見舞われて、断固として行くんだよね、お祓いに。突飛だよね病院行けよ。いや合ってるんだけどねお祓いで。別に祈祷や盛り塩がおれに効くわけじゃない。力いっぱいの拒絶の意志、あれが堪えるんだ。憎まれると参るね。それで次は犬とか猫とか。これは四本脚の動かし方が全然分からなかった。カブトムシのときは大変だったもうダメかと思った。脳が小さい。憑依したそばからおれの知性は消し飛んで、甲虫としての価値観に呑まれかけた。どうにか寸前で逃げたしたけど、あやうくカブトムシとしての第二の生が始まるところだった。あれはああいう脳だから甲虫の世界観でしか生きられないのだ。やっぱりかたちがあると肉体に縛られて損だなとおれは思った。
 ちょっと面白そうな素材を見つけたのは祖谷渓でのことだった。祖谷って土地は、おれみたいにふわふわしたのがひしめいている。空気に溶け、森羅万象の一つとして漂うことを許容する透徹した気配を、祖谷は持っている。
 さて急峻な祖谷渓の、崖をなぞるように設えられた国道十二号線を、まあくねくねと進んでみなさい。いきなしガードレールが木柵に切り替わる一画があって、なんだ急にと思って覗いてみると木柵の向こう側には飛び込み台みたいに張りだした小岩がある。一歩間違えれば崖下の祖谷川へ真っ逆さま。死と隣り合わせの壮絶なロケーションなんだけど、小岩の上には命知らずにも立ち尽くしている奴がいてこれがなんとまあ聞いて驚け小便小僧であるさあ驚け。本当にいる。見に来るといい。あほだなあと思った。落ちれば死ぬ高さですよ。誰だか知らんが人間が、一回きりのその命を賭けてまで建立したのが小便小僧。なんでなの?
 興味が湧いて観察していると意外に人気がある。観光客もおかしなもので、てめえらに尻を向けた小僧っこを物珍しそうに写真で撮るのね。見てるうちに思ったね。
 これになったら面白いんじゃないのかな?
 ポルターガイストなどなど物質が動く類の超常はありふれていて難易度低そうだし、生物に憑りつくより気楽かもしれない。そういうわけでおれは銅像の頭頂部に重なって、小僧の旋毛にむけて、おれの気分をくーっと集める。ぬぬぬのぬ、自分を細いほそーいネジのように思って、ぬんぬん捻じりこんでいくと気怠い重さがまとわりついてきて、右、左、下、の感覚が産まれる。おー手足だ手足、おれに末端部が誕生していく。腰は弓なりに片手は局部をおさまえ、もういっぽうは腰に添えてある。銅の全体におれが行き渡る。
 かくしておれは小便小僧となったのだが困ったことに私も小便小僧なのでした。まさか後から入ってくるものがあるとは予想だにしなかった私に、おれのほうも先客があるなんて思わなかったから驚いたね。せまっ苦しいところに同居は勘弁だと逃げ出そうとしたんだけど意識が絡まって動けないようですし、ここはひとつ無駄話でもしましょう。もしこのままおんなじになってしまうのなら、考え方はあわせておいたほうがいいですから。

 小便小僧になりたかったんですよ。ずっと、なりたかった。小便小僧とは何か! 発祥はベルギー、戦争中のことです。ある子供が点火した爆弾の導火線をお小水で消して、被害を食い止めました。その英雄的行為を讃え、少年を模して造られたのが小便小僧なのです。何か疑問に思いませんか思いません思わないですかそうですか、ならはっきり言いますけれど、何も用を足しているその瞬間を銅像にしなくてもいいのでは。そうでしょう。穏当に立像をこさえて台座にこれこれこうと書けばいいのです。それをわざわざ決定的放尿の瞬間を形に残した。これはなぜか。彫刻のモチーフにしばしば頑健な裸体が用いられるからだとかそういうのは私もとうに考えました。しかしコロッとした体型の小便小僧は決して美化されてはいません。芸術の線は消しです。そこで私は一つの結論に辿りつきました。冗談です。悪ふざけの産物です。この真理に気づいた私は感動しました。小便小僧は世界中に存在しています。それ全部悪ふざけなんです。
 私もふざけたかった。無為無用のふざけた存在として、ただそこにあるだけで愛されたかった。私のようなのはただ立っているだけだと別に褒められたりしません。立ってるなあとすら思われません。邪魔な時などに、邪魔だと、言われるだけです。このような形態となり、無用に漂う術は身につけましたが、日増しに承認欲求は高まります。私はただ立っているだけで褒められたかった、ふざけた存在になりたかった。絶望の淵で辿りついた祖谷で、私はこの小便小僧と出会ったのです。変な場所に立っているというだけで物凄く面白い、この小便小僧に。
 この小僧は由緒ある小僧です。土地の子供や若者が度胸試しのため、崖際から立小便をしたという歴史に起因して建てられました。けれど、その由緒を越えて今、この小僧は一個の純粋なおふざけとしてそこに立っているように私には思えました。それで私は小便小僧になったということは分かったんだけどおれはそれほどの意気込みがないのでこれには焦った。そして私のそうした苦しみは、執着してしまっているという心情それ自体が何かこう苦しみとして作用した結果ではないでしょうかと思いつつも賢明にも言わなかったことは適切ですが思うと私に伝わるんですよ今は、執着ですかそうそう執着。存在自体が素敵だなと思われたいんだよね、それは無理ですよ、この小便小僧だってそりゃ面白いけど賞味期限は短いと思うな、二十四時間眺めつづけて常に新鮮なものでもないでしょう、一過性の面白、まして一過性の肉体に執着したって良いことないですよ、肉体がなければ承認なんて気にもならない、居ながらにして居ないのは楽しいもんで、かたちなき生を楽しもうよという胡乱な説、儂には到底、聞き捨てならん。
 儂は柔らかな曲線を描く小便小僧の肉体に、そっとおのれを重ねた。やあ上品に揃えた両の脚、どことなく気品ある弓なりの腰、在りし日の儂とは似ても似つかない。小便小僧を照らす月の光も、あの頃より陰った気がする。だが引き起こされる感傷は変わりはしないよ。小便小僧が、儂の記憶を繋ぎとめている。今やこころすら亡きともがらたちと、並んで小便をした日々。死んでも惜しくは無いと思っていた。だから命知らずの度胸試しをした。あるじを再び盛り立てるまでは決して死なないものと我が身を過信もしていた。発奮と諦念のはざまで引き裂かれそうな儂をこの世に留めた、かけがえのない友とあるじ。吹けば飛ぶ霞のような今の儂は、ともすれば恩義をも忘れそうになる。そんなとき儂はこの小僧とそっくり重なって、小便をする夢想に耽る。そうして思い出を繋ぎとめるのだ。―――私よ私、生きとし生けるものは必ず小便をする。小便しない生命はない。すなわちここに立つ小便小僧は生きる事そのものを全身で表現しているのだ、小岩に立ち命を賭すことで生を噛み締めた人々の歴史がこの小便小僧なのだ、何もしてないことなど断じてない、それどころか何もしていない生などない! ―――そして、おれよおれ、からだあっての小便ぞ! 肉体に思い出は宿る。こころは消えるが、仕草と場所はいつでも何かを思い出させる。それを糧として過ごす者があることゆめゆめ忘れるな。蓄積を踏みにじるな、祖谷の徳島のいや他のありとあらゆる小便を踏みにじるな!
 おれのなかを嵐のように過ぎ去ったその意識は私の中でも旋毛風のように渦巻きました。それを私は平家の落人ではないかと思いました。安徳天皇と平国盛らが逃げ延び、復権を夢見ながら生を終えたのがここ祖谷の地であると、そんな言い伝えを私は聞いたことがあったので、そういうことなら二人ともこの断崖で度胸試しをしたかもしれんなあとおれは思った。時間のあいま途切れ途切れに浮かぶ、流れのはやい川面の葉のようなおれは、個人レベルの小さな生を知らない。あまりにも小さな感慨に、このときおれは初めて触れた。おれが知っている大きな流れは私にはピンとこないけれど、なにか励まそうとしくれたのだということが分かって嬉しかった。祖谷に積重ねられた小さな歴史を、小便小僧が繋ぎ止めているんだなと私は思い、かたちがあるものにしか定着しない感傷をおれは知った。その感傷はまあ否定はしなくて良さそうなもので、ありとあらゆるかたちの一つ一つにそうした感傷があるのだろうかと俺は思った。

 そうだよ!

 うちがこのあたりに住んでいた頃は道なんか無くて茂みの陰で用を足したもので草木で斜面が隠されていて滑り落ちたりしたやつもいたがわいはそんなヘマはせず誰よりも遠くへ小便を飛ばすことが出来るのが自慢だなんてアイツらは馬鹿だねほんとねなんて話していたけどあたし本当は連れションって少し羨ましかったなあ一緒に並んで用を足す荒っぽいあの付き合いに混ぜては貰えなかったが身分など越えてわたくしは付き合いたかったものだった。
 小便小僧の旋毛が開いたのだった。徳島すべての連れ小便が、巡り来る命の営みの記憶がなだれこんだ。思い出が押し寄せるにつれ、質量なんかこころにもおれにもないはずなのに、苦しいような高鳴るような感覚がおれに募った。胸のつかえってこういうことなのか。小便小僧がこれだけの歴史を背負っていて、居ながらに何もしていない訳でないなら、なら私はいよいよどうすればいいのですか。いやおれはなんかさ、どんなことも無理矢理に意味を見つけられるんじゃないかと思うよ、だってただの立小便のせいで、おれはこんなにいま苦しい。だからおれは私が最初から居るだけで良かったんだと思うよ、あらゆるものが居るだけでもういいんだと思うよ。私がおれの胸の内で静かな納得を抱き溶け合いかけたそのとき、おずおずと発せられた意志があった。
 あのすいません、僕はできれば居るだけとかじゃなく動いてみたいです。
 小便小僧張本人であった。数限りないこころが通り過ぎたことで触発された新しい命なのか、或いは憑依した第四のこころであったか出自は不明だが、それは紛れもなく小便小僧の確固たる人格であったため統合しかけていたのに私はびっくりしたおれと分離し益体もなく人格っていうか像格ではないかなあ本当に益体もないですねうん全くないですあの僕の話聞いてください、僕はずっと絶望の淵にいました。産まれた意味も、背後に何があるのかも分からないまま、闇雲に眼前の山野を眺め、あられもない臀部を写真に撮られる日々です。長い来し方、うすうす自分が何者であるのかは気取りましたが、小便をしかけている子供の銅像などという意味不明なものであるうえに、聞けばベルギーのそれよりも格が落ちるというではありませんか。ベルギーとはどこですか大きいんですか小さいんですか。僕は祖谷渓谷しか知りません。僕は広い世界を見てみたい、世界の小便小僧を見てみたい。この手この足で動いてみたいのです。いや困るな先程もっともらしい結論を出したのに当人にひっくり返されるのはとか思っているとぐらり体重が移動する。ガタガタとおれのからだが詰まりは小便小僧が揺れはじめ、疼きが脚から背中をとおって肩に伝わるや足の裏が地面を離れた、ぴょん。
 おれはわたしは小便小僧は、小さく飛んだ。
 崖下へと飛んだ。
 それが初めて僕が見た他の景色でした。身体を叩く霧の粒子は心地よく、どこまでも広がる夜の空と星が見えました。地表へ引っ張られることで感じる重みすら新鮮でした。落ちていくのは一瞬だと思いましたがどうしたことか次々と、あるはずのない思い出が駆け巡って時間は永遠にも感じられました。それは快活に小便をする子供たちだったり、寄り添うようにしかし力強く連れ立って小便をする直垂の人々だったり、崖の際で大笑いする屈強そうな若者だったり、悪戯っぽい笑顔でカメラを構える人だったり、たぶん僕のことを作った人だったり、見に来た人たちの顔だったりしました。僕にもきちんと思い出があったんだなということが何かとても嬉しくて、本当は僕はずっとあそこにいたって良かったんじゃないかなと思ったり、でも空を飛ぶのはとてもとても気持ちいいから身動きできて良かったなあと思ったり、星の光がしゅうっと伸びて森の草木の瑞々しさ、夜の甘い香り、心地よい見るものの全て、風、楽しいことも欲しいものもたくさんあるなあと思いながら地面に到達した小便小僧は砕け、わたしはわいはうちはおれは儂はおいらはわたくしは暫しそのかけらを眺め、そして散った。

 そういう顛末で、実は今、祖谷渓に小便小僧は存在しない。いやあるのだが、あれはおれであり私である。壊したようなもんなので責任を感じまして。小僧の欠片を搔き集め、どうにかこうにか繋ぎ合わせて化けているのです。よってよく見ればヒビまみれ。あまり近づかないように。

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