今思うとADHDだったのか、という話

 物忘れ、とかそういうレベルではないのだ。何か忘れてるな、と思うことすらなく、忘れていることすら忘れて、忘れていることを忘れていることを忘れている……ので、つまり白紙なのである。
そういうことが毎日のように起きる幼少期だった。



 ADHDをご存知だろうか。「注意欠如多動症」という発達障害の一種だ。不注意、多動性(興味関心が移り変わりやすい)、衝動性(思いつきで行動する)の3つが主な特徴として挙げられる。
 その中にも「衝動性・多動性優勢型」と「不注意優勢型」があるが、私は圧倒的に不注意優勢型だ。

 あなたのクラスにもいなかっただろうか。いつもぼうっとして先生に注意されている子や、先生の指示を全く聞いていないような子。
 私はまさにそれだった。


 二十数年生きてきて、私は自分をやっと客観的に見られるようになってきた…気がする。今でも多少生活においてミスはあるが、予防もできるようになった。
 けれどいまだに過去の自分を見返すと、頭を抱えたくなることがある。自分のことなので、どうしてそうなってしまうのかも理解できるからさらに恥ずかしい。
 だが、この「どうして」を他人に感覚で理解してもらおうと思っても、なかなか難しい。なので吐き出しついでに書こうと思う。ADHDから見た日常、みたいなもの。



 まず日常生活において1番、今でも困っているのが「物忘れ」だ。いや、物忘れとかそういうレベルではなく、一瞬にして消えてしまうのだ。イラストを描いていたりする人は「レイヤー削除」と言うと感覚的にわかるかもしれない。しかも、戻るボタンが無い状態でのレイヤー削除。

 結論を言うと、もう終わりである。

 幼少期、小学生の頃は自分が物忘れをしているということすら理解できなかった。
どういうことかというと、忘れたことも忘れているのである。思い出した瞬間「忘れないようにしなきゃ!」と考え、数分後には忘れて、数時間後に思い出して、「忘れないようにしなきゃ!」と思い直す。そして何かの期限ギリギリや物が必要な瞬間になって思い出して、絶望する。


 ADHDの特徴のひとつに「不注意」があるというのは最初に言ったとおりだが、まさにそれである。

 宿題、出さなきゃいけない手紙、伝えなきゃいけない連絡事項、次の授業の持ち物、忘れちゃいけない道具、親との約束……忘れたものは数知れない。
忘れたことで怒られたことも数知れないし、軽く絶望もしたし、なんで忘れるんだろうなあ…とは思っていた。
ただ私のある意味幸運だったのは、自分を責めるタイプではなかったというところだろうか。忘れちゃったな…まあ、死なないしな…みたいな感じで考えていた。なのでかなり学年が上がるまで忘れ物は直らなかった。周りには迷惑をかけた気がする。申し訳ない。

 今でも結構な頻度である。毎日何かしらある。
 忘れちゃダメだ、忘れちゃダメだ…と碇シンジくらいの勢いで考えているのだが、目の前に猫が横切ると忘れる。とか。
 これは誇張とかではなく、本当なのだ。猫が横切ってかわいいな…と思ったあと前を向いた瞬間、さっきまで何を考えていたのかまっっっっったく思い出せないのだ。めちゃくちゃ困る。
というか、さっきまで何を考えていたんだっけと思えるだけマシと言える。猫が横切ってかわいいな、と思ったあと前を向いて、すぐ別の思考にチェンジし、忘れちゃダメだと唱えていたことすら覚えていない方が多い。すごく困る。今は何か忘れてはいけないことが自分の元に舞い込んできた時点でメモをとって、メモを添えたアラームをかけて、と何重にもすることでなんとかなっているが、たまにそれすら忘れる。その時はもう諦めるしかない。



 次に、今でもよくあるし、小学生の頃困っていたのは「人の話が聞けない」ことだろうか。

 たとえば、数学の時間先生がこれからやる手順を1から10まで説明してくれているとしよう。計算をして、その結果をグラフに表すとか、とにかくなんでも良い。私はそれに注目し、初めは話を聞いている。
しかしその数分後、手順説明が3あたりに差し掛かった時点で、私は先生のシャツの皺などに気が向いている。こう動くと皺がこうつくのか…とか考えている。
手順が6あたりになって、先生の発言に少し耳を戻し始める。だが7に行くか行かないかで今度は教室前方の時計の秒針に目がいって、特に何も考えずそれを眺めている。
結果、説明が終わって「それではみなさん、やってみましょう」で意識が戻り、結果私が覚えているのは手順1〜3と6の一部分だけ、ということだ。何も分からない。

 分からないのに、友達が優しかったおかげで友達に教えてもらえたり、盗み見たりして作業は難なく進めていた。こういうその場やりすごし術で自覚が遅れた部分もある気がする。

 そして困るのが、これまた自覚がないことである。自分が話を聞いていないらしい…というのすら自覚がなかった。自分としては聞いているつもりなのだ。
いや聞いてないから分かってないんじゃん、と思うだろう。だがそうではない。「聞いていない時の記憶がない」のである。だって先生の方に視線を向けて、先生が話し始めるのを聞いて、……説明が終わっていた。だが理解できていない。難しいなあ、困ったなあ。 こんな具合だった。
 つまり話を聞いていない3〜6、8〜10の記憶がないのだ。1〜3、6の一部分が説明時間の全てだと思っている。時間が飛んでいることにも気付いていない。全て聞いた上で理解できていないのだと思っているのだ。

 三者面談でよく「(私)さんは授業中よくぼうっとしていますね。あまり集中できていないのかな? 先生の話をよく聞くようにしましょう」と言われていた。中学2年生前期くらいまで言われていたと思う。
もちろん私は自覚がなかったので、「先生の方を向いている時の私を、先生はぼうっとしてると勘違いしているのかな?困ったな…」とすら思っていた。自覚がなかったのでそんなことを言われてもハ?としかならないのだ。



 他にも部屋が大袈裟でなく足の踏み場がなかったり、いざ片付けを始めると置いてあった本を読んでしまって結局進まなかったり…みたいな典型的なADHDの症状はあったが、とても困った、そして今なお困って怯えているのは上の2点だろう。


 ではどうやって自覚を持ったのか?というと、これは全く参考にならない。ある日突然、だ。

 中学2年生後期の数学の授業のとき。これははっきり覚えている。図形の証明、少人数での授業中だった。先生の説明を聞いて、合同証明を解きましょうと時間が与えられていた時。頭でブチッ、というような音が聞こえた。本当に聞こえたのだ。何かが繋がったのか切れたのかは分からない。とにかくブチッ、という音が聞こえて、何?と思ったその瞬間、私は今自分が「何も考えずぼうっとしていたことに気付いた」のである。
 「は!?」と言いたいのを必死に抑えた記憶がある。突然思考がクリアになって、「私、今何も考えずに黒板の掲示物見てたんだけど」と混乱した。そしてその後すぐ、これが小学校から今まで先生に必ず言われ続けていた「ぼうっとしている」の正体なのだと気付いた。本当にぼうっとしていた…と気付いて、自分が1番びっくりした。

 その後からは割と楽になった。自覚を持つと対策ができる。メモを取ることが増えたし、ぼうっとしてもすぐ自覚して意識を引き戻せる回数が増えていった。



 今も困ることは多いし自分でもやっちまったな…となる出来事は多いが、なんとか生きている。
そしてこういう子がどうして忘れっぽいのか、ぼうっとしてしまうのか、よくわかる。私は少なくともこういう感じだった、というのを吐き出したくて書いた。親御さんや周りの人には、何もかも支えてあげてとは言わないが、本人をあまり叱らないでやってほしいとは思う。

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