なにも知らない人です
なにも知らない人です。
社会の片隅で生きています。
なにも知らないなりに日々考えていることを投稿します。
投稿した内容について、間違っていることが多々あると存じますので否定し、矯正してください。
AIではなく、しがない人間を成長させてはいただけないでしょうか。
この度noteを始めたのは、生きている中で何気なく感じたことについて、他に生きる人々の意見を頂戴したいと考えたからです。
綴る内容は稚拙なものです。
文章力や思考力に保険をかけているようで申し訳ないですが、
簡潔にまとまっていない文章からも察しが付く通り、保険をかけるほど中身が出来上がっておらず、恥を承知で稚拙なところをご覧いただくことが目的です。
初めに念を押しておきたいことは、目の前に居るのは専門家どころか、ただ知識が足りないのに意見を持ってしまった悲しき生き物です。
檻の外から眺めた時、知識というのは大切なものなのだと、我が身振り返るきっかけにしていただいても構いませんし、時に構っていただいたり、知識の餌やりをしていただいたりして頂けますと世界の片隅で跳ねて喜びます。
どうでしょう、慈善活動家になりませんか。
用法といたしましては、なにも知らない人の場合、各事象についてどのように捉えているかの一サンプルとして扱っていただいて差し支えありません。
また、投稿された分野について疎いと感じている方は、記事に対する反応を見て、断片的にでも知識を吸収していただけたら幸いです。
投稿した内容について少しでも引っ掛かりを覚えた方は、否定してください。その反応を見て、私自身は考えを矯正すると共に、あなたは否定するため言語化出来た自身を誇ってください。
以上、用法を記しましたが、結局のところ私のわがままに付き合っていただきたいという願いです。
見返りを出せる程生活に潤いがないため、このような場を提供することでしか、意味をなさない存在です。
さて、そのこのような場を何故設ける必要があったか、です。
社会で生きていると湧き出る感情や意見、疑問等は多々存在します。
それらは友人に明け透けに話すような内容ではないながらも、すべてを裏付けてから大々的に公表するようなことでもない、程度の中途半端なゆえ、交わることなく押し留められた囀りです。
生活が一変した方も多くいらっしゃるだろうというこの頃、春になったせいか、口から溢れそうになった言葉を抑えることが難しくなって参りました。
そんな時、ふと感じたのです。
正しい知識もなく口にする恐怖を。
大層意見を持っていても、自分なりに考えただけの薄っぺらいものが堆積していました。
無知の知の理解です。
哲学については疎いながらも、歩み寄る瞬間でした。
ある日、ソクラテスの弟子が信託所にて、アテネ一の知者は誰だと問うたところ、ソクラテスであるとお告げがありました。
ソクラテスはこのお告げの意味を理解すべく、聡いとされる者のもとへと訪ね歩いたところ、総じて何も知らないのに知っていると思い込んでいる、ということに気付き、一番の知者は自分であると認識したそうです。
ソクラテスとは暫く距離を置くかもしれません。
しかし、俯瞰した意見ではないため無知の知に対しての深度は比べ物になりませんが、愚者でもつま先を浸らせるくらいには哲学的思考への導線は引かれているのだと感じます。
さて、このように意味のないことを長々と書くところ、既に私の人としての程度を計ることが出来た頃でしょう。
街中を歩いているとき、皆が皆、思考している生き物だと思うと不思議な気持ちになりませんか。
飽く迄も自分の世界というものは自分の思考範囲の中にしかなく、薄っぺらい考えを作るのにも、複数のプロセスが必要です。
(あくまでもについて、悪魔でも、と頭が勝手に変換する時期ありませんでしたか。私にもありました。仲良くなれそうですね。)
腹立たしい言葉を投げかけられたとき、思いつく感情は似通っているのかもしれませんが、反応は様々です。
押しとどめる者もいれば、買い言葉を投げかけるもの。顔に出るものにも、奥歯噛みしめるものから薄ら笑いを浮かべるものまで何パターンあるのでしょうか。
そうしたとき、はじめて人は皆、自分以上のキャパシティをもって生きているのだと実感するのです。
当たり前のことです。
会話をするにも相手のことを考える必要があるのですから、この時点で相手は思考しているのだと理解しています。
しかし、矛盾していることは分かっているのですが、それでも自分以上に広がった世界が相手に、それどころか何十億人に備わっているとなると、本当なのかと疑いたくなりませんか。
一時期、自分の目の届く範囲だけ、ルールとしては、テレビの中など時間を実感できる部分のみが動いていて、目の届かない範囲はテキストのみで処理されているのではないかと考えていました。
世界五分前仮説を疑った時期もありますし、みな神に操られている人形なのだと考えていることもありました。
このnoteを認めているあたり薄々感じていると思いますが、なにも知らなくて、根拠も調べない愚か者の私は、SF大好きっ子でもあるため、正直なところもう手遅れなのかもしれません。
無限に空虚を発信する機械です。
すみません、人ですらありません。
しかし、今でも否定できないのではないかと脳裏に仕舞っています。
同様に、小さいころ布団に包まった時、死に対して今以上に恐怖を覚えたことはあるでしょうか。
私は、皆がこの道を通っているだろうと確信しているため、意見が欲しいです。
完全に魂が消失するとはどのようなことなのでしょうか。
宗教観にも通ずるところがあります。
元来、人の心の拠り所として傍にあった宗教では、中々はっきり消滅すると意見するところは少ないように感じます。天国と地獄に輪廻転生など形は様々ですが、死への恐怖を和らげているところがあるように見受けられます。
そんな私も当然の如く、魂の重さの話は大好きです。
人が死ぬと消失する魂は21グラム。
実際のところ、当時の実験方法に疑問を呈する声や、発汗による作用だ、という意見が常識的となっていますが、実験を行い、議論になる程度には重要な内容なのだと感じます。
本当に魂に重さがあったとして、消失したものがどうなったのか、ということが前述した議題なのですが、消失は消滅を意味するのでしょうか。
それともどこかへ行く、または還っているのでしょうか。
かくいう私は魂は死後消滅するものだと考えています。
時間も感じ取れないため思考もできない、文字通りの無の空間。
しかし、そのようなもの面白くないし、ロマンもない。
だから、消滅はしないでほしいとも考えます。
昨年、可愛がりすぎて溶けるのではないか、というほど大切だったイヌ科の兄弟がこの世を去りました。
回りくどい表現をしたのには理由があり、飼い犬というと飼うという表現に違和感があり、愛犬というのもまだ人との差を感じてしまいます。
動物と共生している人は特に機敏になる内容かと思いますが、どうしても物と扱われる社会で、動物病院でお世話になる看護師さんも、愛玩動物看護師に名前を変えたこの頃です。
さて、話を戻します。
小学六年生のころ祖父が他界したときは、一年に数回会うほどであったため、泣きはしたものの度々夜が更けると立ち直っていたように感じます。
薄情に感じるかもしれませんが、亡くなる直前に話した内容も、握手した手の冷たさも忘れることはありませんし、ずっとそばにいたはずのものが失われることが初めてだったので困惑しています。
時間が過ぎるのが遅くて堪りません。
もう数年、数十年見かけてないような心持ちですが、一年経っていないようです。残酷ですよね。
それから、まだそばに居てくれているかな、と思うようになりました。
勝手な話ですが、虹の橋で再会するという話は信じていません。
信じていないというより、信じたくありません。
未だ近くに居てくれて、身が朽ち果てたとき、また一緒に遊べたらと思います。
結局のところ何が言いたかったのか、気分で物事を進める人間であるため、結論は用意していなかったのですが、物は考えようだ、という一点だったと思います。
話したいだけ話して結果は後付けいたします。
途方もないお金を持ち合わせていても、死ぬ間際振り返った時に一つでも後悔が浮かんで後味が悪くなった人と、ギリギリの人生を生きて、尚生まれてよかったと嚙み締められる人は、結果としてどちらが生を全うできたのか、極端な話ですが。
初回ですから人となりを分かっていただくために、取り繕わず、話題に一貫性もなく好き放題に綴らせていただきました。
綴って、記して、書いて、認めて、また綴るに戻ってまいりました。
使い分けを理解していないため、この内いくつ誤用しているのかと考えると、大きくなりましたがまた眠れない日々になりそうです。
なにも知らない知識も持たない人が、この内容についてどう思っているのだろう、という話題がありましたら提供いただけますと幸いです。
相談事等ある人は、なにも知らない人に言葉をぶつけると、少しは軽くなるかもしれません。
以上です。
文章を見返していないので誤字脱字、致命的な欠陥がございましたらこっそりと教えてください。
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