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生き下手

「世渡り上手」「口下手」「褒め上手」など、
うまい・へた を括る言葉は多く存在する。

今回私は「生き下手(いきべた)」という言葉をその中に追加したいということと、またそう思った経緯について書いていきたいと思う。

まず第一に、
私が紛れもない「生き下手」であることについて。
上手・下手に区分するには、何を基準に、誰と比較して下手であるのかをはっきりさせなければいけない。
職場関係、友人等々、「辛くなさそうな人間」は羨ましくみえると同時に「生き上手」に見える。そうなると必然的に私はその人たちより「生き下手」なのだ、と感じる。至ってシンプル。
様々な人間と自分の差を測った結果、仕事を楽しそうにしている人は生き上手なのだという結論に辿り着いた。

楽しそうか、というより、余裕があるかどうかなのかもしれない。
余裕を持つためには、効率の良さ・切り替えの早さ・でっかい器という三種の神器が必要だ。
それを兼ね備えていたら、プライベートでも大抵のことは上手くこなせるのだろう。

あ〜なんで先にお風呂に入らなかったんだろう〜もう動けない〜
などという、甘ったれ発言をすることもないんだろうし、

前の車の運転が危なくて気に食わないからせめて追い越すとき顔見てやろう
などという、何の意味も為さない睨みをここぞとばかりにきめることもない


(たぶん)


そんなどうでもいいことに自分の時間を1秒たりとも使いたくないし筋肉も1ミリも動かしたくない。

でも生き下手はそんなことをしてしまう。

やることはさっさとやって、
いらんことはやるな!ということ。
あ、当たり前すぎる、、


こんなのは本当に序の口で、
もっと個人的なところまで掘り下げれば深刻な問題はたくさん出てくる。

「大事な人間に対して物事をはっきり言えない」
これは我ながら致命的な気がしている。
たぶん幼少期から親に本音が言えなかったのが大きい。愛情は感じながらも、雰囲気やタイミング、反感などいろんなことを気にしていた。

そのまま何十年と経ち、
計画性、ルーズさ、金銭感覚、損得勘定など、育つ時に身についたものがなかなか抜けないがために、大人になって他人との差に気づくこともあった。親のコピーみたいな脳になっていると気づいた。

生き下手という負のループを脱するには、
自分の固執した考え方よりもっと良い考え方があるかもしれない、もっと良い方に変えれないか、という野心が必要だと思う。
また、他人の悪いところではなく良いところに目をつけて取り入れること。

いつも田舎から都会に出るような気分で居れたら、どれだけ吸収できるか。

生き下手継続に何のメリットもなし。
さっさと変わりたい。たぶん歳を重ねるごとに難しくなるので早めに。

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