甘い罠
背中を汗が伝う。感触は冷ややかで実にむず痒い。それでも僕は必死に野菜を刻んでいた。
「ねぇ」
呼びかけは無視した。相手にしてはいけない。
「もう……つれないわね。そんな所にいないで早くこっちに来なさいよ」
艶めかしい声が後ろから僕を誘う。とても甘美な響きなのだが、食事を作らなくてはならない。彼女はどうか知らないが、僕は空腹なのだ。
「まじめに食事なんか作らなくったっていいのよ、別に。私は気にしないわ。だからこっちに来て……寂しいの」
普段はそっけないくせに、夜の彼女はいやに積極的で色っぽい。振り向いて彼女の肢体を眺めたい衝動を必死にこらえ、鍋に野菜を流しいれる。
「……何よ、私と遊ぶのは嫌? 冷たいのね。こんな格好の私をほっといて、まだ続ける気なんだ」
背後の光景、六畳間の隅のベッドにあられもない姿で寝そべっている彼女の姿を想像すると、とても切ない感情が胸に広がったが、生唾を飲み込んでこらえる。
「もうすぐ終わるんだから、ちょっと待っていてくれよ」
「我慢強い男は好きよ。でも従順な男の方がもっと好きなの、わ、た、し」
気が付いた時はもう遅かった。そろりと背後にやってきた彼女が、その足が僕のふくらはぎをそろりとなぞる。くすぐったく思えるほどの微弱な快楽が全身に甘い痺れを伝えた。
「ねぇ、もういいでしょ。早く私に触れてよ。胸が寂しいの、あなたの手で触って欲しいの、あなただってそうしたいんでしょ?」
柔らかな感触と温もりが、何度も何度も押し付けられる。駄目だ。誘いに乗ってはいけない。負ければいつだって疲れ果てるまで付き合わされるのだ。
「駄目……だって」
「寂しい……いいでしょ? 触って、感じてよ。私の体温」
「僕は食事を……」
不意に、全くの不意に彼女が下半身に抱きついてきた。コンロにかけたままの鍋がぐつぐつと煮えたぎっている。僕は限界を悟った。
「……触って」
僕は火を消し、振り返り様に彼女を抱きしめながらベッドへと倒れこんだ。胸に顔をうずめ、甘美な感触を全霊で味わう。「や……ん」頭にかかる吐息、僕は顔をうずめたまま彼女の首筋に触れる。――そして、おもむろに僕は装置を外した。
「ニャウゥゥゥ」
声が一瞬にして鳴き声に変わる。僕は愛すべき彼女……ジャムの胸の毛並みを撫で回しながら、友人に電話をかけた。
「もしもし、相沢? お前の発明したこの猫語翻訳発音機『ニャウリンガル』な。ふざけるな! あれから毎晩毎晩付き合わされて大変なんだぞ! なに? ……それは確かにジャムはご機嫌だけど、そういう問題じゃないんだよ! ……モニター期間はあとどれくらいあるんだ? 二十日? 僕を殺す気か! おかげでもう三日もろくに寝てない……」
彼女はそんなやりとりなどどこ吹く風で僕の愛撫に甘い泣き声を繰り返すのであった。
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